『藍より出でて―君が教えてくれたこと』の続編ですが、単独の作品としてもお楽しみいただけます。
日本からモントリオールへは直行便がない。手配したチケットは、成田からシカゴのオヘア空港を経由するものだ。もちろんビジネスクラスなどを利用できる身分ではない。だが、日本人にしては長い手足を機内の狭いシートに折りたたんでの、乗り継ぎを含めて合計十七時間に及ぶ移動も、守安健斗(もりやすけんと)にとってはまったく苦にならなかった。おそらく、帰りの便は真逆の感想を抱くことになるのだろうが。
クリスマスの華やかな飾りつけがそこここにきらめくピエール・エリオット・トルドー国際空港に到着すると、電源を入れたばかりの携帯電話に「到着ロビー出たところで待ってる」と短いメッセージが入った。イミグレーションを無事通過し、ターンテーブルから自分のスーツケースを降ろすと、健斗は慣れないフランス語表記に従って足早に出口へと向かった。
自動ドアを抜けて視界が開けた瞬間、その人の姿を見つけた。
すらりと細いシルエット。一見、白人系と見誤るほど色白の肌。少しくすんだ色味のさらさらの髪。涼しげな目元と柔らかく結ばれた唇。舘野楓(たてのかえで)の以前と変わらない静かな美貌が、健斗と目が合った瞬間、ぱっと輝くような笑顔に変わる。
「守安」
「楓さん」
こちらの大学に留学するため八月末に楓が日本を離れてから、四カ月ぶりの再会だ。健斗は子供のように駆け出したい気持ちをぐっとこらえて、スーツケースを転がしながらそちらへ近づく。
「待ちました?」
「いや。ほぼ定刻通りの到着だったろ」
自分より十センチ近く低い楓の顔を覗き下ろす。右目の下の泣きぼくろが懐かしい。その両頬がほんのり上気しているように思えるのは、気のせいだろうか。
思わず、場所もわきまえずに抱き寄せてしまいそうになって、健斗ははっと自分を押しとどめる。背後を多くの旅行者がスーツケースを転がしながら通り過ぎていく。
だが楓はすっと一歩前に出て、ためらう健斗の手を取った。襟と袖にボアのついたムートン調のコートを着ていてさえほっそりと見えるその上半身を、厚手のセーターを着た健斗の身体に添わせ、肩先にこつんと額を押し当ててくる。
「ふふ。本物の守安だ」
「楓さん。ここ、人たくさんいますよ」
つい辺りを見回してしまうが、楓はその姿勢のまま、可笑しそうな笑いを漏らした。
「ここはリベラルの国カナダの、『生きる喜び』がモットーの都市モントリオールだぞ。ゲイのカップルなんて珍しくもないよ」
確かに、広い通路の端に寄り添って立つ男二人に奇異な目を向けてくる通行人はいないようだが。
「久しぶりなんだから、黙ってくっつかせろ」
「楓さん…?」
いつもクールな楓が人前でこんな風に甘えてくるなんて。
健斗は自分にもたれてくる華奢な肩にそっと手を回した。楓は素直に健斗に身体を預け、シャツの襟元に鼻先を擦りつけてくる。
その髪をそっと撫で、指を絡ませた。夢じゃないんだ、と胸が熱くなる。こんな夢を見ては、目を覚まして悔しい思いをしたことが幾度あっただろう。
「楓さん。俺だってずっと会いたかったんですから、いきなりこんなことされたら我慢できなくなるじゃないですか」
「何を我慢するんだ」
笑みを含んだ目で健斗を見上げてくる。確信犯の質問。
「ずるいなあ」
とはいえ、他ならぬ健斗自身がこの笑顔に翻弄されることを望み続けていたのだから、逆らえるわけがない。
形のいい細面の輪郭をなぞるように掌を滑らせる。小さく尖った顎に手を添えて、唇の下の窪みを親指でなぞる。
「守安…」
健斗の視線を間近で受け止める楓の目に、さざなみのような揺らめきが走った。
そのとき。
えへん、うほん、と、わざとらしい咳払いが背後から聞こえてきた。
「おーい、カイ。ソープ・オペラの途中に入るCMみたいな真似をしたくないんだが、運転手の存在をお忘れじゃないかい」
快活で歯切れのいい英語が聞こえてくる。楓が顔をしかめた。
「ドライバー?」
驚いた健斗が振り向くと、健斗よりもさらに背の高い白人が立っていた。
ハニーブロンドの短い髪に、トパーズ色の目。目尻に皺の寄る人懐こい笑顔。広い肩幅に、がっしりした二の腕。どんなデザインのデニムだろうがモデルのように着こなせそうな長い脚。アメリカンフットボールチームのキャプテンでチアリーダーの彼女がいるイケメン高校生がそのまま二十代後半になったようなハンサムだ。
健斗と目が合うと、人懐こい笑顔になる。
「やあ。君が噂の、カイのガーディアン・ニンジャか」
「…は?」
すかさず差し出された手を反射的に握り返しながら、健斗はすっかり面食らっていた。
カイ、というのは楓のことだろうが、守護天使ならぬ守護忍者というのは一体なんだ。新手のスラングだろうか。頭の中で日本語と英語が目まぐるしく入れ替わる。
「ああ、すっかり忘れてたよ」
楓は渋い顔で応じると、二人の間に入った。
「これはジョエル・バーンスタイン。何度か話したと思うけど、今のアパートを一緒に借りてシェアしてるんだ。ジョエル、見てのとおり彼が俺のケント・モリヤスだ」
楓の英語を聞くのも久しぶりだ。だが健斗の耳は、そのネイティブ並みの流麗な発音を味わうよりも、自分の名前の前に小さく挟み込まれた「俺の」という一人称所有格に鋭く反応してしまう。
「ケント。カイから散々話を聞いてたから、会えて嬉しいよ。俺のことはジョエルって呼んでくれ」
健斗も、ジョエルのことは楓から聞いていた。
楓と同じくマギル大学の院生だが、英文学専攻の楓と違い、彼は東アジア研究をしているという。実家はニューヨークの裕福な家庭らしいが、ユダヤ系らしく堅実な経済観念の持ち主で、家賃を節約するためにルームメイトを探していたところ、ちょうど住む場所を探していた楓と知り合ったのだと聞いている。
「こちらこそ、ジョエル。今回君に会えるとは思ってなかったから、嬉しいサプライズだ」
「ワオ。カイといいケントといい、本当に英語が素晴らしく流暢だな。日本人は英会話が苦手だという説は見直さなきゃいかんな」
心の底から感嘆したような表情でそんなことを言ってくれるので、健斗は逆に恥ずかしくなってしまう。だが、欧米人らしいこんな大げさなリアクションにも、楓の方はすっかり慣れっこのようだ。
「言ったろ。彼は現役の英語教師なんだ。それも特別優秀な」
楓が自慢げに言うので、健斗はまた内心うろたえる。英語で言われると、こんな褒め言葉も日本語よりは照れくさくないのだが、それでも。
「ふーん。いずれにせよ、非常に発音しやすい名前で助かるよ」
ジョエルがそう言って愉快そうに笑う。健斗が要領を得ない顔でいると、楓が説明をしてくれた。
「英語が母語の奴らは『カエデ』ってまともに発音できないんだよ」
いかにもそれが彼らの落ち度でもあるかのように、不機嫌そうに。
「なるほど」
楓の葉はカナダの国旗にデザインされているくらいなのに、と健斗はなんだか可笑しくなる。
「何度呼んでも厳しく修正されるんだ。だから面倒くさくなって皆『カイ』って呼ぶことにしたんだよ」
「当たり前だ。『ケイーディー』なんて呼ばれるのはぞっとしない」
「郷に入らば郷に従え、だよ。君たちの国でだって英語の名前を『カタカナ』で発音するんだろう」
「だから『カイ』で妥協してるんだ。イギリスにいたときもやっぱりそう呼ばれてたしな」
「じゃあ、俺も『カイ』って呼ぼうかな」
二人の遠慮のないやりとりが何だか急に羨ましく思えて、健斗はそんな風に割り込んだ。だが、楓は意外そうな顔でこちらを見ると、急に日本語に戻って、小声で呟いた。
「…お前は、だめ」
「え。どうして」
問い返すと、なぜか楓はむっとした表情で顔を赤らめる。
「一人くらい、俺の名前をちゃんと呼んでくれる奴がいてもいいだろ」
照れをごまかしているのか、口を尖らせて横を向く。今すぐその唇を塞いでしまおうかと思う。
だが、そんなやり取りもジョエルのきっぱりとした英語に遮られた。
「さて、我々はいつまでこの色気のないロビーで立ち話をしていればいいのかな」
「あ、悪い悪い」
ジョエルに促され、楓は健斗のスーツケースに手を伸ばした。
「荷物、持つよ」
「え、いやいいですよ」
「ジョエルの車を停めた駐車場は屋外だから、いきなり氷点下五度だ。コート着ておいたほうがいいぞ」
そう言われて、健斗は慌てて手にしていたダウンを羽織った。手荷物のボストンバッグを肩に掛け、スーツケースを引っ張ってくれる楓の後に続く。
二人で一緒に過ごす初めてのクリスマス休暇が始まる。
楓は国際免許は持っているが、さすがに車までは所有していない。だから、空港と家の間を自分の車で送迎してくれるというジョエルの申し出は確かにありがたかったのだが。
「君たちを家まで送り届けたら、俺はそのままニューヨークに向けて出発するから、遠慮なく二人きりでスウィートでロマンティックなクリスマスを満喫してくれよ」
駐車場に停めてあったSUVのハッチバックを開けながら、ジョエルは健斗に片目をつむってみせている。その尻を蹴り上げてやりたい衝動を、楓は理性で押し込めた。
「え、車でニューヨークまで?」
既に積み込まれているジョエルの荷物の隙間にどうにか自分のスーツケースを押し込みながら、健斗が驚いたように言う。
「せいぜい六時間くらいだからね」
ジョエルはしれっと言ってのける。こっちの人間は、そのくらいの長時間ドライブはものともしない。
「すみません。長距離運転の前に回り道をさせてしまって」
健斗が恐縮すると、気にするな、というようにひらひらと手を振る。
「カイは絶望的な方向音痴だからね。大学構内で迷子になるのはともかく、空港にボーイフレンドを迎えに行ったきり行方不明になったら困るだろう。警察だってホリデーシーズンで忙しい」
「うるさい。お前こそ、俺の彼氏の顔がどうしても見たいからって、わざわざクリスマス休暇を遅らせたくせに」
後部座席に健斗と一緒に乗り込みながら、恩着せがましいルームメイトに釘を刺す。
「そりゃあ、ニンジャの末裔のご尊顔を拝するなんて一生に一度あるかどうかのチャンスだからな」
車を発進させながら、ジョエルが話を蒸し返す。
「だから…そのニンジャって何のこと」
楓の右側に座った健斗が、運転席に向けて斜めに身を乗り出す。楓は内心で舌打ちをした。モントリオールのダウンタウン、マギル大から歩いて十分もかからない楓とジョエルが住むアパートの部屋まで、三十分はかかる。その間、彼をこの話題から遠ざけておくのは不可能だろう。
「カイの恋人は日本の忍術の使い手だっていう噂が一時期流行ったんだよ」
「はあ?」
健斗が目を白黒させている。当然だ。楓だって、そんな莫迦な冗談をまさか信じる奴がいるとは思わなかったのだ。
「いや、冗談じゃなくケント、君はカイに言い寄ってくる連中を撃退する忍術のひとつやふたつ覚えておいて損はないと思うぞ」
「ジョエル!」
黙れ、という合図の代わりに、スノーブーツを履いた足で運転席のシートの背中を蹴飛ばす。ジョエルはくすくすと笑って、そのまま意味ありげに黙り込んだ。
「ジョエル。失礼してちょっと日本語に戻らせてもらうね」
健斗は律儀にそんなことを断ると、くるりと楓の方を向いて声を落とした。
「楓さん、どういうことですか。そんなでたらめを広めて脅さなきゃいけないほど口説かれまくってるんですか」
「そんなわけないだろ、あいつが大げさに言ってるんだ」
「でも噂になってるって」
「軽い冗談のつもりで言ったら話が勝手に盛り上がっただけだって」
北米の大学には珍しくないことだが、マギル大にもセクシャル・マイノリティの学生団体がある。一九七〇年代から活動しているというのだから年季が入っている。さすがに興味が湧いて、楓も一度顔を出してみたのだ。
「LGBTへの偏見や人権侵害を失くすために活動してる真面目な団体なんだよ」
楓自身は、こちらでは自分がゲイであることを隠す必要はないと思っていたが、積極的に同類との交流を深めるつもりもなかった。ところが一度顔を出しただけで、その団体の主要スタッフの一人の男子学生に妙に気に入られてしまったのだ。
「なんか図々しい奴でさ…デートに誘ってくるんだよ」
それを聞いた健斗の眉が吊り上った。楓は慌てて付け加える。
「もちろん、日本に恋人がいる、って断ったよ。それなのにやたらとしつこく声をかけてくるからさ、俺のボーイフレンドはサムライの子孫だから俺が浮気なんかしたら切腹しかねない、って冗談言ったら真に受けちまって」
その話が伝言ゲーム式にどんどん曲解され、尾ひれがつき、いつの間にやら「カイの恋人はニンジャ・マスターらしいぜ」などという話が広まってしまったのだ。世界に名だたる一流大学で研究にいそしむインテリたちがそんな法螺話を真に受けるあたり、楓は図らずも、依然として欧米にはびこる間違った日本のイメージの根の深さを痛感せざるをえなかった。
もちろん、ジョエルなどはそれが完全なフィクションだとわかっていて、わざと面白がって煽っているのだ。休暇が明けたら、健斗と顔を合わせたことをさぞ周りに自慢して回るに違いない。
「それで、その人はもう付きまとったりしてないんでしょうね」
健斗はここまでの説明に吹き出しもしないどころか、眉間に心配そうな皺を寄せている。
「無責任な噂の元凶になった罪悪感があるんだろうな、今じゃキャンパスで俺を見かけると慌てて逃げ出す始末だよ」
苦々しい口調で言うと、健斗はふうっとひとつ溜息をついた。
「ホントにもう…楓さん、そういうことちゃんと知らせてくださいよ」
「こんなくだらない話をか?そんなの、お前の時間の無駄になるだけだろ」
楓の教え子だった頃の健斗は、勉強が抜群にできるだけでなく、こういった子供っぽい噂話などからも一歩距離を置くような大人びたところのある高校生だった。その後、教師の職を辞して留学した楓の後を継ぐように母校の英語教師となった健斗だが、その人間性は生徒にも同僚の教師にも信頼されているに違いなかった。
健斗が決して真面目一辺倒の堅物ではないことくらい、楓もよくわかっている。それでも、強く高潔な人柄に惹かれれば惹かれるほど、人間としての格のようなものが自分とあまりに違うことに、楓はどうしても引け目を感じてしまう。
自分がこの年下の恋人のまっすぐな愛情を受け止めるに値するのかどうか、もう三十一にもなるというのに楓はいまだに自信がない。何のために彼と過ごす時間を犠牲にしてまで留学したのだろう、と情けなくなる。
「楓さん。それ本気で言ってるんですか」
健斗の声にかすかな苛立ちが滲んでいる。ああ、やっぱりくだらない話で気を悪くさせてしまった、と楓の気持ちが沈む。
「本気だよ。俺だって、お前をこんな莫迦らしい話のネタにするつもりはなかったんだ」
素直に、悪かった、と謝るべきだったのかもしれない。だが咎めるような健斗の視線に、心が反射的にこわばってしまう。
健斗は何か反論をしかけて、その言葉をぐっと飲み込んだ。
そのまま楓から目を逸らして運転席の方を向くと、打って変わって明るい笑顔になる。
「ごめんね、ジョエル。あのさ、俺のカエデはそんなに人気者なの?」
健斗の英語はネイティブスピーカーよりもゆっくりで、発音もアクセントも丁寧だ。一歩ずつ着実に歩を進めていくようなこの喋り方が、楓はとても好きだった。ともすれば話している内容そっちのけで、その声に聞き惚れてしまうくらいに。
この声で「カエデ」と口にされるだけで、自分の名前を好きになれる。楓に備わったものの中で、安心して健斗に愛でてもらえる数少ないものかもしれない、とさえ思う。
「まあね。心配かい、ケント?」
後部座席の日本語でのやり取りを気にする風でもなく鼻歌でクリスマスソングを歌っていたジョエルが、バックミラーごしにいたずらっぽい目をこちらに向けてくる。
「そりゃ、離れてると色々と不安になるよ」
健斗がちらりとこちらを見る。どこか恨めしそうな視線。
楓は急いでそっぽを向いた。離れていることで不安だったのは楓も同じだ。だが、留学すると決めたのは楓の方だ。自分の我儘のせいで健斗にあんな顔をさせたのだと思うと、罪悪感に胸が痛む。
健斗は滑舌のくっきりした話し方で、ジョエルと会話を続けている。
「だからさ、日本から来たニンジャはすごい嫉妬深い奴だった、って言いふらしといてよ」
「まかせとけ。地球の反対側にいても相手を呪い殺すことのできる秘術の遣い手だとでも言っといてやるさ」
「おい、ジョエル」
東アジア文化の研究者ともあろう者が、そんないい加減なことでいいのか。
そう突っ込もうとしたときだ。膝の上に置いた楓の右手に、健斗の左手が重ねられた。
長い指がすっと楓の手の甲を撫で、指先を絡めてくる。
まるで甘えるみたいに。
「半分は本当だから、いいんだ」
ささやきは再び日本語に戻っていた。
男に言い寄られた、なんて話を楓が健斗に一切しなかったのは、何も後ろめたいことを隠しているわけではなく、自分に余計な心配をかけまいとしているからだということは健斗にもわかっていた。
日本にいるときからそうだった。楓が風邪を引いてデートをキャンセルされたときも、理由を言わないので危うく喧嘩になりかけた。心配した健斗が家に訪ねてきたりしたらうつしてしまうかもしれないから、何も言わなかったのだと後から聞いて、安心するとともに呆れたものだ。
だが健斗は、楓のことならばどんな小さなことでも知っておきたかった。彼にまつわることで、健斗にとってくだらないことなんて何一つない。子供っぽい所有欲だと自分でも呆れながらも、健斗はそう思ってしまう自分を止められない。
こうして離れていれば尚更だ。会えないでいる間に、楓はジョエルや他の仲間たちとどんな時間を過ごしているのだろう。あの柔らかな笑顔や鋭い知性や機転の効いた受け答えは、こちらでも多くの人を魅了しているに違いない。その中には、六歳も年下の自分などよりもよほど、彼にふさわしい相手がいるかもしれない。
自分の想像に嫉妬するほど不毛なことはないとわかっているのだが、楓が何も言ってくれないと、健斗はたやすく不安に飲み込まれていく。
「ケント、自分の家だと思ってくつろいでくれていいよ。カイ、郵便物と戸締まりよろしく。じゃあ二人とも、よいクリスマスを」
ほんの三十分ほどのドライブだけでも、ジョエルが第一印象の通り気持ちのいい奴だということがよくわかった。それでも、アパートの前でジョエルと別れるときにはつい、これで楓と二人きりになれる、とほっとしてしまう健斗だった。
「本当にどうもありがとう、ジョエル。君もご家族と楽しいクリスマスを」
心からの感謝をこめてジョエルの手をしっかりと握り返す健斗の隣で、楓は短い挨拶とともに手を振った。
「ハッピー・ハヌカ」
ジョエルの屈託のない笑顔を乗せて、フォレスターはニューヨークへと走り去る。
「ハヌカ、って?」
雪の残る歩道からアパートの入口へとスーツケースを転がしながら、健斗は耳慣れない挨拶について訊いてみる。
「ああ、ユダヤ教の行事で、クリスマスと同じような時期にあるらしい。こっちではユダヤ系の人には『メリー・クリスマス』の代わりにそんな風に声を掛ける習慣があるんだ」
幸い、アパート内には小型のエレベーターがあった。重いスーツケースを転がし入れる健斗のために、楓がそんな説明をしながらドアを開けて待っていてくれる。
「あ、そうか。クリスマスって本来は宗教行事なんですもんね。そうですよね、こっちは多文化社会なんだから色んな宗教の人がいるし…しまったなあ、『ハッピー・ホリデイズ』って言うべきだった」
文法や用例は日本にいてもいくらでも勉強できるが、そういう文化的な習慣はなかなか身に着かない。
「それが当たり前さ。こっちだって、宗教的な背景なんて気にせずに『よいクリスマスを』って普通に言うしさ。ジョエルもそんなに厳格なユダヤ教徒ってわけじゃないし、まったく気にしてないよ」
楓はそう言って笑う。確かにその通りなのかもしれないが、自分の至らなさが不甲斐ない。
それに加えて、彼らの共有する世界観に自分だけが入れないでいるような疎外感を感じてしまうのは、さすがにひがみ過ぎか。
「まあ、でも…いいか」
「ん?」
「楓さんが笑ってくれたから」
些細なことかもしれない。でも、さっき車の中で少しぎこちないやりとりがあっただけに、こんな風に日本にいたときと変わりない楓の笑顔が見られて嬉しかった。
「なんだ、それ」
きょとんとする楓の顔を覗き込んで、健斗も微笑む。
肩に手を置いて顔を近付けた。楓の長い睫毛が瞬きで上下するのが感じられるくらい、近く。
がたん、とエレベーターが止まって、ドアが不器用そうにごとごとと開いた。
「あ」
急いで身体を離したのだが、エレベーターホールに立っていた若い黒人の女性が、くりっと大きな目を見開いてこっちを見ている。
楓は何事もなかったかのように、片手でエレベーターの扉を抑えている。荷物を引っ張りながら健斗はホールに足を踏み出した。すれ違いざま、エレベーターを待っていたその女性に曖昧に会釈をしながら。見れば、ダウンを手にしてはいるものの、この寒いのに薄手のニットにジーンズという出で立ちだ。メリハリのあるプロポーションがはっきりとわかる。
「ボンソワ、アデル」
続いて降りてきた楓は、優雅な発音のフランス語で女性に声をかける。
ここモントリオールのあるケベック州は、カナダの他の地域と違い、公用語はフランス語だ。住人のほとんどは英語とのバイリンガルというし、楓の通うマギル大は基本的に英語で教育を行うが、空港の表示から街中の看板に至るまで、ここまで目にした言語はほぼフランス語に統一されていた。楓も、大学の外ではフランス語を使うことが多いらしい。
「ボンソワ、カイ」
アデルはにっこり笑って、続けてフランス語で何か楓に話しかける。楓はそれに快活に応じている。会話の途中で健斗の方を指し示すと、アデルは頷いて何か言って笑った。それから、ちょっとはにかんだような笑顔で声をかけてくる。
「アロー。素敵な休暇を過ごしてね」
フランス語訛りの英語で短く言って、エレベーターに乗り込む。
「どうもありがとう」
小さく手を振る彼女の前で、扉が閉まった。
「楓さん…ごめんね、俺余計なことして」
先に立って歩く楓の背中に、健斗は急いで謝る。
「余計なこと、って」
「いやその。エレベーターでくっついてたところ、彼女に見られちゃったから」
「だから、こっちではそんなこと気にしなくていいって」
「本当にいいんですか」
日本での楓は、元教え子の健斗と恋人同士になったことを、ごく親しい友人にしか明かしていなかった。健斗も、中高一貫の男子校で英語教師を務めているという立場上、かつてその同じ学校で同じく英語教師だった楓と付き合っていることはさすがにおおっぴらにはできない。
もともとノンケだった健斗にはあまりぴんとこないのだが、楓などは自分がゲイであることを周りに知られないようにするため、あれこれ気を配っていたようだ。だが、こちらでの楓の振る舞いは随分とオープンだ。
「俺がゲイだってことはアデルも知ってる。日本に恋人がいる、ってことも。お前のことカッコいいって褒めてたぞ」
廊下の端のドアの前でポケットから鍵を出しながら、楓がそんなことを言う。
「そうか…よかった」
「イケメンだって褒められたことがか」
楓の口ぶりにからかうような調子が戻ってくる。
「もう、違いますよ!」
わかってるくせに。
だが、扉の前で楓は健斗の方を振り返ると、真顔に戻った。
「俺はちょっと嬉しかったけどな」
「え」
「お前のことカッコいいって思ってるのは俺だけじゃないんだな、って。そんなのとっくにわかってたけど、こういう形で再認識するのも悪くないな」
かすかに揺れる睫の奥からまっすぐに健斗を見上げてくる。こんな表情を見せられるたびに健斗の心がどれだけ激しく揺さぶられるか、楓自身はまるで自覚していないようだ。その無防備さが一層、健斗の独占欲を煽る。
もし自分の知り合いに楓が褒められたら、と健斗は想像する。嬉しくないはずがないが、それと同じくらい心配になってしまいそうだ。楓を一際魅力的に見せるこんな顔や言葉は、自分だけのものにしておきたい。楓を誰にも取られたくない。その愁いを帯びた横顔が人を惹きつけずにはおかなくとも、彼の視線は最終的には自分に向けられているのだと思いたい。
そんな、楓と比べていかにも狭量なことを考えている自分に気付いて、健斗はまた落ち込みそうになる。
「ま、それより長旅で疲れたろ。中に入ってゆっくりしてくれ」
そんな健斗の気持ちをすくい上げるように明るい声で言うと、楓は玄関ドアを開けて、暖かい室内に健斗を招き入れた。
このアパートは建物は古いが、内装は綺麗にリフォームされている。ジョエルはインテリアに凝る方で、壁紙の色などに細かく文句をつけながらも、この部屋が気に入っている様子だ。一方楓は正直、住まいとしての機能さえ確保できれば見た目にはあまりこだわりはない。だが今回ばかりは、ひとつだけこうしようと決めていたことがあった。
「わあ…」
セントラルヒーティングが完備されている部屋は、真冬でも玄関ドアをくぐった瞬間から暖かい。その空気に健斗はほどけるような息をつくと、室内を見回して歓声を上げてくれた。
玄関からすぐの共用のリビングに、小ぶりだが綺麗に飾り付けられたクリスマスツリーがある。シルバー、ゴールド、ホワイトで色調を揃えたオーナメントは、楓自身がクリスマスマーケットで選んできたものだ。他にも、棚の上に置物やカードを並べ、窓枠には柊などのアレンジメントを吊るし、玄関の鏡の前の小卓にもキャンドルを飾るなどして、部屋はクリスマス一色になっている。
「すごいですね」
厚手のダウンを脱ぎながら、華やかな演出に目を瞠っている健斗を見て、楓の心も浮き立つ。
せっかく遠い日本から来るのだから、モントリオール市内に滞在するだけではなく一泊くらいの小旅行もしてみたいのではないかと思ったのだが、健斗はできればずっと楓の部屋で過ごしたいと言ってきた。
「もちろん、楓さんの迷惑でなければ」
「迷惑なことはないけど、もったいないだろ。ナイアガラの滝とか見に行かなくていいのか」
「短い日程で遠出する方がもったいないです。俺、観光しに行くわけじゃないですから」
じゃあ何をしに来るんだ、などとわざわざ確認するほどは楓も野暮ではない。
そんなやりとりを経て、楓は密かに決意したのである。ここにいる間、せめて健斗にはクリスマス気分を満喫してもらおうと。
モントリオールはカナダ第二の大都会だが、歴史のある古い街で、特に古き良き時代のヨーロッパを思わせる雰囲気で知られる。石造りの建物やゴシック様式の大聖堂が並ぶ風景は、少年期をイギリスで過ごした楓にも居心地がよい。
もっとも、今の時期は日中の最高気温も氷点下に留まる寒さのため、屋外を散策するのも容易ではない。川も湖も凍りつく。その分、まるでそんな厳しい冬を耐えるご褒美であるかのように、人々は瀟洒な街並みを一際美しく飾ってクリスマスを祝うのだ。聖夜の訪れを待つ雪と氷の街の幻想的な光景に、楓は魅了された。
この家で過ごす健斗にもその雰囲気を味わってもらいたい。その一心で、楓はジョエルにも手伝ってもらいながら、室内を精一杯クリスマスらしく飾り付けたのだ。
「そこのドアが俺の部屋。あまり広くないから、荷物はこっちのリビングに置いておいた方がいいかな」
そう言いながらリビングを抜けて自分の寝室のドアを開けた途端に、楓の足先が何かを蹴とばした。
「あーあ」
拾い上げて、思わず失望の声を上げてしまう。ベッドルームの戸口の上に飾っておいた、セイヨウヤドリギをあしらった小さなリースだった。細かい葉の間に可憐な白い実を付けたこの植物は「ミスルトウ」と呼ばれていて、クリスマスの飾りとして人気がある。
「どうしたんですか」
スーツケースをリビングに置いた健斗が、楓の背後から寝室に向かってくる。楓は、手にしたミスルトウを隠すように振り向いた。
「何でもない。それより守安、夕飯の前にシャワー浴びてさっぱりしたいだろ?バスルームゆっくり使ってくれていいから」
後ろ手にドアの脇の本棚を探って、本の隙間にリースを隠す。そのまま健斗をバスルームまで案内した。
「日本の風呂みたいに沸かせないけど、一応バスタブもある。あ、タオルはこの辺の好きに使って。石鹸とかシャンプーとかも、俺のでよければ」
わざとらしいほどてきぱきと指示を出しながら、ふと見上げると、健斗が自分のセーターを引っ張って匂いを嗅いでいる。楓と目が合うと、遠慮するかのように半歩後ろに身を引いた。
「…どした?」
「いやあの。ごめんなさい、俺、臭います?移動で結局丸一日風呂に入れなかったし、こっちは寒いって聞いてたから厚着してきちゃって、逆に普段より汗かいたかな」
おろおろとそんなことを言うので、楓はぽかんとしてしまった。それから、自分がいきなりバスルームなどに案内したせいだとようやく気付く。
「いや、待て違うんだ。その、そういう意味じゃなくて。守安は全然臭くないよ」
先ほど空港で鼻先を押し付けたペールグリーンのローゲージのセーターからは、石鹸のような清潔な香りがふんわりと漂ってきたくらいだ。
「じゃあ…どういう意味ですか」
「え」
「俺、自分の都合のいいように解釈しますよ」
健斗の手が伸びてくる。肩にその手が触れたと思うと、楓の華奢な身体は、セーターに包まれたがっしりとした胸に抱き込まれてしまった。
ざっくりとした毛糸の編み目の奥から健斗自身のあたたかな体温が伝わってくる。急にどぎまぎしてしまって、楓の耳の縁がじんわりと熱くなる。
「楓さん」
深く柔らかい健斗の声の語尾が揺れて、楓の鼓膜を震わせる。
「風呂場使わせてもらうね。ちゃんと身体綺麗に洗うから、そしたら…」
背中に回された腕にぐっと力が込められる。
「守安」
そうだった。健斗はいつだって、こんな風に楓に触れてくるのだ。
楓より背も幅も一回り大きいが、健斗の抱擁はあくまでも優しい。力で楓を圧倒するのではなく、ただじっと包み込むようにして、その腕の中で楓の熱を育てていく。
楓自身がその熱を抑えきれなくなって、より強く、より深く、健斗を求めるようになるまで。
肌を直接触れ合わせたときの記憶が、楓の身体に一気に甦る。一拍ごとに大きくなる鼓動が、渇望の感覚を指先まで送り込む。
今すぐここで裸になって抱き合いたい。夢にまで見ていた健斗の存在を一番確かな方法で実感したい。
そんな欲求に抗って、楓はそろりと顔を上げた。すぐ脇にある健斗の耳を鼻先でつつくようにして、ささやきかける。
「シャワー浴びたら、夕飯が先。腹減ってるだろ」
そして、なだめるように耳の付け根にキスを落とした。それはむしろ自分自身を制するかのように。
「…わかった」
健斗は小さく溜息をつくと、楓を抱き寄せていた腕を緩める。
健斗の温もりが遠ざかっていく。一瞬、眩暈のような寂しさを覚えたが、楓はぐっと踏みとどまった。
焦ることはないのだ。
もちろん、焦らすつもりもなかった。
「夕飯の準備しておくから」
そう言い置いて楓はバスルームを後にし、キッチンに向かう。
店はもう基本的にどこも休みになってしまっているので、クリスマスディナーは自力で調達しないといけない。イブの今夜は、パスタとスモークサーモンでワインなど開けてもいいと思っていた。明日の二十五日の夜は、この前アデルに頼み込んで教えてもらった、猫でも作れそうなほど簡単なローストチキンのレシピを試してみよう。
ざっと下ごしらえを済ませると、バスルームの扉の前で聞き耳を立てる。水音がして、健斗はバスタブに湯を張っているところのようだ。もう少し時間がありそうだ。健斗がシャワーを浴びている間にやっておいてしまいたいことが、夕飯の支度以外にもうひとつあった。
足早に寝室へと戻る。本棚に隠しておいたミスルトウのリースを手に乗せ、戸口を見上げてしばし思案する。
こちらの家は天井が高い。この部屋の扉も、高さは二メートル以上ある。手が届かないわけではないが、手元がちゃんと見えないので覚束ない。中途半端なやり方では、また失敗して落としてしまうかもしれない。
高いところの飾り付けはほとんどジョエルに頼んだのだが、このリースを飾るのは楓が自分でやった。こんなものを用意していることを知られたら、絶対にジョエルにからかわれると思ったのだ。幼稚な思い込みは百も承知だ。だから、できれば健斗にも知られたくなかった。
リースを検分すると、留めていたテープがはがれている。これだけではリースの重さを支えきれなかったようだ。本格的に釘を打つわけにはいかないが、画鋲が使えるか試してみよう。基本的に石造りの建物だが、構造部分ではない壁の一部は木造になっている。
部屋の脇のデスクの引き出しから画鋲の箱を取り出し、キャスター付きの椅子を引いてくる。椅子を戸口の下に据えるが、ゆらゆらと動いて心もとない。だが、ダイニングテーブルのがっしりした椅子を持ってきたら余計な物音を立てそうだ。
健斗に気付かれないうちに、ミスルトウをここに飾り付け終えてしまいたかった。
自分がここまで自制心の効かない人間だとは思わなかった。慣れないバスルームでおっかなびっくりシャワーの湯温調節をしながら、健斗は忌々しい気持ちで自分の身体を洗う。
既に、節操のない下半身が欲望を訴え始めている。さっき抱きしめたとき、楓に気付かれてしまっただろうか。
困ったことに、シャワーを浴びても興奮は一向に醒めてくれない。落ち着こうとすればするほど、ずっと触れていなかった生身の楓を久しぶりに腕の中に抱え込んだ感触が甦る。その感覚が、繊細な工芸品のような楓の身体の記憶を次から次へと手繰り寄せていく。
借りたシャンプーと同じ香りのする、絹糸のようにさらさらの髪とか。
貝殻をかたどったソープディッシュよりも優美な曲線を描く耳とか。
手の中で転がす石鹸の表面のように滑らかな肌とか。
シャワーヘッドから降り注ぐ湯よりも熱く濡れた…
「いい加減にしろ、俺」
ぱん、と両手で頬を叩く。
こんなところでおかしな妄想をしている場合ではない。そもそも、バスルームを出れば妄想ではなくて現実の楓がそこにいるのだ。
借りたバスタオルで身体を拭きながら、健斗は溜息をつく。覚醒してしまった欲求は簡単には収まりそうもない。
新しい下着を着け、若干苦労しながらジーンズを履く。
「もうこれは…仕方ないか」
セーターの裾では隠せないだろうな、と思いながら鏡を覗いたときだった。
「わあっ」
扉の外から、楓の悲鳴と、がたん、という大きな物音が聞こえた。
「楓さん!?」
慌てて、上半身は裸のままでバスルームを飛び出す。
「守安っ」
焦ったような楓の声がする。その声の方を振り向いた健斗は、目にした光景に一瞬血の気が引いた。
リビングから寝室に向かう敷居の床の上に、楓が倒れている。
「楓さん!」
血相を変えて駆け寄ろうとした健斗だが、傍らにひっくり返っているキャスター椅子に行く手を阻まれる。
一体何が起きたのか。とにかく楓は無事だろうか。
「大丈夫ですか?」
助け起こそうとすると、尻餅をついた姿勢から、楓は自力で立ち上がった。
「うん、なんともない」
そう言いながら顔を歪めて腰をさすっている。
「腰打ちました?他に怪我は?」
「大したことない。椅子から降りるときにバランスを崩しただけだから」
「椅子から降りる、って…何やってたんですか?高いところの作業だったら、俺が代わりにやりますよ」
「やらなくていい」
楓がぱっと顔を跳ね上げた。慌てたようなその口調を不思議に思っていると、顔を赤くして目を逸らす。
「もう、済んだから」
ちらりと上を見上げたその視線を追うと、寝室の戸口の上に、愛らしい小さなリースがかかっていた。
背伸びをして見てみると、柔らかな緑色の先の丸い細い葉をつけた枝の間に、白い丸い実が鈴のように並んでいる。
「わー可愛いな。これを飾ってたんですか」
定番の柊と比べて、ぐっと優しく上品な印象だ。楓らしいセンスだな、と感心する。
「なんていう植物なんですか?日本ではあまり見たことないなあ」
振り向くと、なぜか楓は先ほどよりさらに顔を赤くしている。
「ミスルトウ」
「え」
「ミスルトウ、っていう植物。ヤドリギなんだよ。幸運のお守りなんだって」
耳までうっすらと紅色に染まった顔でそんな説明をすると、急にその額を健斗の裸の胸に押し当ててきた。
「ちょ、ちょっと楓さん」
「守安…」
楓のささやきが健斗の肌を撫でていく。ようやく治まってきていた鼓動が、再び乱されていく。
「どうしたんですか…なんか変ですよ」
「あのさ。絶対、笑うなよ」
「笑いませんよ」
わけがわからないまま、約束をさせられる。
「このミスルトウってさ、こっちではよく高いところに飾るんだ」
「はあ」
「なんでかっていうと、その下に立った二人はキスをしていい、っていうことになってるからなんだ」
「キス?」
「守安」
意を決したように、楓が顔を上げた。きゅっと唇を結んで、目尻をほんのりと朱に染めて。
「キスしていい?」
「…えと。楓さん、俺はね」
そんな一大決心をしたかのような顔で許可を得なくても、わざわざそんな飾り付けなど用意しなくても、健斗はいつだって楓にキスをしたいと思っているのだが。むしろさっきからそれを必死にこらえているくらいなのだが。
だが、説明しようとした矢先、健斗の首の後ろに楓の両腕が回された。くい、と引かれて心臓が跳ね上がる。
「…楓さん」
その頬に掌を当てると、楓が長い睫を静かに伏せる。
花びらのような唇を親指の先でひと撫でして、そこに自分の唇を重ねた。
「ん」
しっとりと柔らかくて、ほんの少しひんやりとする楓の唇を夢中で味わう。
バーガンディレッドの肌触りのいいタートルネックセーターを着た背中に指先を這わせると、首に回された両腕にきゅう、と力が込められた。
「楓さん。口、開けて」
「もり、やす……ん…」
くちゅ、と音を立てて舌を触れ合わせ、こぼれてくる吐息まで吸い取る。
「んふぅ…ん…」
楓の、鼻にかかった甘い声を聞いているだけで、健斗は身体の芯から溶けていきそうになる。
セーターの裾を引っ張って、その下に指先を潜り込ませた。
「んんっ」
ぴくん、と楓の背中が緊張する。そんな反応のよさが、ますます健斗を煽っていく。
「触るよ」
脱がすのではなく、服の下に手を入れて肌の上を直に滑らせていく。
「守安っ…」
火照ったような楓の肌に掌の温度が馴染んでいくのを待ってから、ゆるゆると動かしていく。
どこをどんな風に触られるのが好きだっただろうか。そんなことを考えるまでもなく、健斗の手は楓の身体の隅々を覚えていた。
背骨を指で丹念に上まで辿って、今度は肩甲骨の窪みを指先でなぞる。健斗の腕の中で楓の身体が細かく震える。
指先を押しつけるようにするとうっすらと肋骨が浮く。そこから、焦らすようにわざとゆっくりと撫で上げていく。
「っあ」
探り当てた胸の蕾は、既に服の下で密かに花を開かせていた。ぷつんと硬くなっているそこを指先で押し潰すように転がすと、楓の膝ががくんと折れる。
「あっ…は…ぁ……」
「楓さん」
崩れ落ちそうになる楓の身体を支えるように抱え上げる。その顎に指をかけて、再び、今度はさっきよりも強引に唇を奪った。
心臓がどくどくと脈打ち、たぎるような血を健斗の全身に送り出す。その熱を注ぎ込むように何度も何度もキスを繰り返した後、ようやく楓を解放した。
「守安…?」
とろんとした目でこちらを見上げてくる楓の顔を見たら、もうたまらなかった。
これ以上一刻も待ちたくない。
直接楓の顔が見たい。手を伸ばせばいつでも触れられる距離に楓を感じたい。その気持ちをずっと抱えながらカナダまでやってきたのだ。
楓の顔を両手で挟んで、その目をもう一度覗き込む。この気持ちは楓も同じなのだと確かめたくて。
「楓さん。夕飯、後回しにしよう」
訴えるように、健斗は自分の腰を楓の方にぐいと押し付けた。ジーンズの下で、そこはもうとっくに硬く隆起している。
「あ…」
「ね。楓さん。ベッド使わせて」
楓の顔が健斗の手の中で、こくん、と縦に振られた。
部屋に備え付けてあったベッドは、日本の安いホテルなんかの基準でいえば十分にダブルと言って通用するサイズだ。その上に、二人もつれ合うように倒れ込む。
楓は、自分の上に重なった健斗の裸の上半身に指を這わせた。二の腕の締まった筋肉の感触を味わうように手を滑らせていく。この腕に抱かれたいと、ずっと焦がれていた。夢ではないことを何度でも確かめたくて、掌を往復させる。
「楓さん…脱がすよ」
「うん」
健斗に促されるままに背を浮かせる。
タートルネックのセーターと下に着ていたカットソーを、一度にたくし上げられ、首から抜き取られた。一瞬、楓の肌に淡く鳥肌が立つ。
「え。楓さん」
健斗が目を瞠る。その指が伸びて、楓が首から垂らした細いシルバーの鎖を辿っていく。
「これって…?」
その鎖に通したリングが、鎖骨の下で揺れている。
「うん。お前のスクールリング」
楓がかつて教師をしていた健斗の母校の、藍の葉をかたどった校章がデザインされたリングだ。留学するために学校を辞めた楓に、健斗は自分の卒業年度が刻印されたそれをプレゼントしてくれたのだ。
楓が日本に戻ったら、ちゃんとしたのを買うという約束で。
あの約束はまだ有効だろうか。
「こんな風に付けてくれてたの」
「そう。なくさないようにいつも首から下げてる。『マイ・プレシャス』だから」
「ただのスクールリングなのに」
「俺には魔法の指輪より大事なんだ」
「俺は魔法の指輪が欲しい。楓さんに言い寄る奴らに地球の反対側から呪いをかけられるような」
「おっかないな」
リング越しに、健斗の甘いキスが胸元に落ちた。そのまま鎖を追いかけるように、唇が首元を辿っていく。くすぐったさの奥から、こんな風に触れてくる健斗のことを誰よりも大事にしたい、という想いが込み上げてくる。
「守安」
「なんですか」
「遅くなったけど、これのお返し」
ごろりと寝返りを打って、サイドテーブルの上に置いておいた小箱を手に取った。ベッドの上に正座するように座り込んだ健斗の手にそれを渡す。
「…楓さん、ずるいよ。俺は何も用意してないのに」
リボンのかかった箱を手にした健斗が戸惑ったような声を上げる。
クリスマスプレゼントはいらない、と健斗には言ってあった。会いに来てくれるだけで充分だった。どんな高価な品よりも、二人で一緒に過ごせる時間が、楓にとっては何にも勝る宝物だったから。
それでも、誰もがクリスマスの贈り物の調達に奔走する十二月のモントリオールの街を歩いていたら、楓も自分にとって大切な人のために何かを贈りたくなってしまったのだ。
健斗を促して、リボンを外して箱を開けさせた。
「あ…」
中に収まっていたのは、石などは何もついていないシルバーのリングだった。シンプルなフォルムで、中央に小さなメープルリーフがデザインされている。
「魔法の指輪でなくてごめんな。見たらお前のこと思い出して」
高級なブランド品などではなくショッピングモールで衝動買いしたものなので、目を丸くしている健斗に少し申し訳なくて、そんな言い訳をする。
「嬉しいです」
健斗はそうつぶやくと、箱からリングを取り出した。自分の左手の薬指に試してから、するりと抜いて中指にはめ直す。
「あれ…サイズ、このリングに合わせて買ったんだけどな」
薬指には大きすぎたようで、楓は軽く焦る。交換しようにも、買った店はとっくにクリスマス休暇に入ってしまっただろう。
「あ、やっぱり。中指にぴったりです。俺のそのスクールリング、中指用だったんで」
「え。そうだったのか…失敗した」
うなだれる楓の襟足の髪を、指輪をはめた健斗の指が梳き上げていく。
「もしかして、薬指用に買ってくれたんですか」
しまった。口が滑った。
楓はこっそりと唇を噛む。
留学を決めたのは健斗と想いを通じ合わせる前のことだったが、自分の都合で彼を日本に置き去りにしてしまったことには変わりない。だから楓は、健斗を少しでも束縛するような言葉は口にすまい、と決めていた。
それでも内心では、健斗の心が離れていってしまったらどうしようと不安で仕方がない。「ミスルトウの下でキスを交わした恋人同士は永遠に結ばれる」なんていう、おとぎ話めいた言い伝えまで信じたくなるくらいに。
こんな女々しい自分を健斗に知られるのは嫌だった。彼のことを信じていないのだと思われてしまうのも怖かった。
顔を上げ、おどけた笑顔を作る。
「どの指でもいいんだ。どうせ、普段からお前に着けててもらうわけにいかないもんな」
うるさく言われない私立校とはいえ、教師がこんなものをしていたらさすがに見咎められるだろう。
「普段は携帯かキーリングに付けておこうかな。でも傷がつくと嫌だな」
健斗は真剣な面持ちで、中指にはめたリングを眺めている。
「そんな大層なものじゃないよ」
「でも。大事にしたい。俺の、楓だから」
健斗はそう言いながら、愛おしむように、カナダのシンボルでもある特徴的な葉のデザインを撫でた。
その言い方に、年甲斐もなく楓はどきりとする。
目が合うと、理知的な光を湛えた健斗の目が、いたずらっぽく瞬いた。
メープルリーフのリングをはめた手が伸びてきて、楓の耳の下から顎のラインを確かめるようになぞっていく。
「俺だけの…」
そのまま、頭を広い胸の中に抱え込まれた。
「…楓」
耳元に健斗のささやきが吹き込まれる。そのあたたかな響きは、瞬く間に楓の全身をさざ波のように潤していく。
突き動かされるように、楓は健斗の背中に両腕を回して、思い切り抱きしめた。
「健斗」
初めての呼びかけにも、健斗はすんなりと返事をする。
「うん」
まるでそれを待っていたかのように。
「お前のだよ…全部」
四カ月。ずっと我慢し続けていた何かが、堰を切ったように楓の胸から溢れ出してくる。
「健斗。俺も、俺だけのお前が欲しい」
こんなに激しい感情が自分の中に流れていたなんて、知らなかった。
「こんなの我儘だってわかってる。でも、お前には俺だけ見ててほしい。離れてても。戻っても。ずっと、俺だけ」
その願いは、一度口にしたら最後、永遠に叶えられないような気がして、今までずっと言葉にせずに押し込めてきた。
「楓」
だが、健斗のまなざしはそんな頑なな思い込みさえも溶かしていく。
「言われなくてももうずっと、俺には楓しかいないのに」
「健斗」
「ごめんね。俺にとっては当たり前すぎて、そんなことわざわざ言うまでもないと思ってた。でもそれって、楓のことを不安にさせてたのかな」
「莫迦…謝るなよ」
自分のこんな弱さまで、健斗のせいにしたくない。
「俺も自信がなかったから。楓を俺だけのものにしたくて、誰にも渡したくなくて、でもそんなこと言ったら嫌われるんじゃないかって怖くて」
「そんなの、俺も同じだよ」
自信なんてかけらもない。最初から健斗は楓には眩しすぎる存在だった。裏表のない誰にでも信頼される性格で、愛情深くて、まっすぐで揺るぎなくて。本来自分などには手の届かない存在なのだと、楓はいつもそう自分に言い聞かせ続けてきた。いつか彼が自分の方を見向きもしなくなる日が来ても、それに耐えられるように。
でも逆に、そんな無用な心配をしてた頃もあったね、と健斗と笑い合える日が、いつか来るかもしれない。
少なくとも、そういう日を楽しみに前を向くことならできる。
「健斗。俺、お前のこと好きになってよかった」
泣き笑いのような顔に、健斗のキスが降ってくる。
もう、ミスルトウの言い伝えなんて必要ない。
「さっき打ったところ、見せて」
有無を言わさずジーンズとショーツをずり下げると、楓が慌てたような声を上げた。
「わ、やめ」
逃げようとするその腰を押さえつけて、あらわになった楓の尻を確かめると、左側に打ち身の跡を見つけた。ひどく腫れたりはしていないが、赤黒く変色した箇所は、色白なので余計に目立つ。
「あーあ。この痣、しばらく残るかも」
「誰もこんなとこ見ないだろ」
「冗談でも、見せたらダメだからね」
健斗の身体を、支配欲が駆け上がっていく。前かがみになって、痛々しい痣の上にちゅ、とキスをした。
「ひぁっ」
びくん、と楓の背が跳ねる。
「今の、感じた?」
「莫迦、健斗…っん」
きゅっと締まった小振りな尻を、わざといやらしく撫で回す。両手の指を目一杯開いて掴むと、適度な弾力を楽しむように、少しだけ強く指先を食い込ませる。
「っ…」
楓が吐息を噛み殺すのがわかった。ベッドの上についた肘と膝が細かくわななく。
たわめられた背骨を点描で辿るように、キスを落としていく。
楓の背中全体を自分の上半身で覆うようにしながら、手を楓の身体の前に回した。問いかけるように指を滑らせると、既に硬い芯が育っているのが感じとれる。
「あ!」
指先で弾くと、楓の喉の奥から短い悲鳴が上がった。
「え…健斗?」
健斗は楓を抱え直して、ぐい、と上体を引き起こした。ベッドの上に投げ出した自分の膝の間に座らせ、その背中を抱え込む。
「脚、もっと開いて」
「あ、何すんだ…」
嫌がる楓をあやすように、耳の後ろに唇を這わせ、優しく吸った。あぁ、というあえかな声と共に、楓の身体から力が抜けていく。
背後から両手を当てがって脚を大きく開かせ、その膝の下から自分の脚を割り込ませて股を閉じられないようにする。
「やめ、健斗っ」
「そんな可愛い声出されたら、やめられない」
肩ごしに覗き込むようにして、震えながら勃ち上がりかけているものを左手で握った。
「ん、はあっ」
反応を確かめるように、まずはゆっくりと上下させる。
「や…な、にを……ぁっ、ん」
逃れようと身体を動かすと、むしろ強く握られてかえって逆効果だとわかったのか、楓はやがて観念したように健斗の愛撫を受け入れていく。
浅くのけ反らせた頭を健斗の肩に預け、目を閉じる。そんな従順な仕草が、むしろひどく煽情的に映る。
屹立を握り込むと、中指にはめたままの指輪が敏感な部分に押し当てられた。その指輪をぐりぐりとこすりつけるようにすると、楓の腰が跳ねる。
「ひ、ああっ」
「ふふ。これ、気持ちいいんだ」
「い、ぃ……んん、よく…ない」
目を閉じたまま、楓が懸命に首を横に振る。スクールリングが楓の胸元で弾むように揺れている。
「俺の指…ちゃんと、覚えておいてね」
根元から先端まで、握った手を指輪ごと何度も往復させる。目印を付けるように。
楓の身体の隅々の、どんな小さな膨らみにも凹みにも、ひとつひとつに自分の刻印を残していきたい。
「んっ…」
健斗にもたれていた楓の背がびくんと浮いて反り返る。すかさず右手をその胸元に回し、突起を指先で探った。
「ぁ……それ…」
小さいがはっきりとしたしこりを指の腹で転がすと、健斗の左手の中のものも、ぴくんと痙攣する。
指先をこすり合わせるようにして、硬く尖った乳首にさらに刺激を加える。同時に、性器の下、開かせた脚の間の密やかな谷間にも指をゆるゆると往復させる。
「やあぁっ、けん、と…あ、そんな、とこっ…」
乱れる楓の声は、もっと、と誘っているようにしか聞こえない。
「一緒にいじられるの、好き?」
「んぁ、だめっ、あ、ああぁ」
胸の先と同じように、指先で亀頭の先端をくりくりといじると、やがてそこにとろりと濡れた感触が加わっていく。
「もう、こんなになってる」
「莫迦っ、誰の…せい…」
「あなたのせいだよ」
まるで湯上りのように上気しているうなじに顔を埋め、首にかけられた鎖を鼻先でつついた。
「楓が、あんまり色っぽいから…俺だって今日はもうとっくにこんなだよ」
言いながら、さっきから楓と身体を密着させるのに邪魔になるほど存在を主張している自分のものを、改めて楓の背中に押し当てた。
「あ…」
初めて気付いたかのように、楓が目を見開く。
「なん、だよ。お前、自分がこんな状態で…何を、人のこと、焦らしまくってんだよ」
乱れた呼吸の合間にそんなことを言われて、健斗は楓の肩の上に顔を伏せた。
「だって。そんなすぐに終わらせちゃったら…もったいない」
吐息と一緒に本音を吐き出す。
不意に、楓がくすくすと笑いだした。
「あ、ひどいな。笑うんだ」
拗ねた声で抗議して、ついでに形のいい耳殻を甘噛みする。楓の笑い声が大きくなった。
「違うって」
「何が」
「せっかく一緒にいるんだから、我慢する方がもったいないだろ」
そう言うと、健斗の腕の中で身体をねじって、顔を覗き込んでくる。
「楓…?」
「俺は、今目の前にいるお前のこと、我慢したくない」
顎の先に楓の唇が触れた。
「我慢なんて…お互い、し飽きたろ」
熱っぽい言葉を紡ぎ出した舌が、健斗の唇をちろりと舐めていく。
「早く、お前を丸ごと、俺の中で…確かめたい」
楓の声が甘く揺れる。
健斗は、改めて楓の背中を両腕で包み込んだ。心臓が痛いほど強く脈打っている。抱きしめる腕にちょっと強く力を込めると、そのまま鼓動が楓に伝わっていくような気がする。
「楓」
「ん」
「ある?」
言いながら、尻の奥の窄まりに指を添わせた。びくん、と肩を震わせた楓は、すぐには問いかけの意味がわからなかったようだ。
「その、俺の…スーツケースの中なんだけど…取って来るまで待てる?」
仕方なくそう言い直すと、ようやく何のことか思い当たったのか、またくすくすと笑う。
「待てるかよ」
楓は先ほどプレゼントの箱を置いていたサイドボードの引き出しを開けた。そこからゴムとローションを取り出す。
「準備がいいね」
一度も使った形跡のないボトルの中身を掌に出しながら、健斗もつい笑みをこぼしてしまう。
「当たり前だろ。何日前から仕込んでたと思ってるんだ」
「ヤドリギのリースを飾るのと、どっちが先だった?」
「ミスルトウの話は、もういいよ」
楓はなぜかくすぐったそうに笑うと、会話を終わらせる句読点のように短く健斗にキスをした。
その身体をうつ伏せにして、掌で温めたローションを脚の間に丹念に塗り込める。
「あ、っ…」
滑りのよくなったところに、指をそろりと挿し入れた。楓の筋肉のこわばりが緩むのを待って、中をゆっくりとかき混ぜていく。
「んんっ……ふ、あっ…」
前後する健斗の指の動きに合わせて、楓の腰が悩ましく揺れる。指をさらに増やして何度か往復させた後、敏感な箇所を強くこすると、楓が枕に顔を押し当てて悲鳴を押し殺した。
「んくぅっ…は、う……っ」
突き上げた腰も、それを支える内腿も、小刻みに震えている。
「健斗……」
「うん」
何かの合図のように背中にキスを落とす。
指を抜いたところに、健斗は自分自身を突き入れた。
「あ、ああああっ」
一気に奥まで貫く。
じっくりと味わう余裕はなかった。この瞬間をぎりぎりまで耐えていたかのように、健斗を受け入れた直後、楓の中がきつく収縮した。
「う、あっ……楓っ…」
思わずうわずった声を上げてしまう。
「健斗…ああっ、けん、とっ…」
楓の内側が固く締まって、健斗を絞るように喰い締める。二人を隔てる、どれほどわずかな距離も許さないかのように。
「くっ…」
気が付いたら、嗚咽をこらえるような声とともに、自分の欲望を弾けさせていた。
さすがに、こんなに早く達してしまったのは初めてだ。しばし呆然とした後、楓を気遣う間もなかったことに気付いてはっとする。
「ごめん」
「あ…触る…な」
楓が気怠げな声を発する。前を探った健斗の手に、ぬるつくものがねっとりと絡み付いた。
明らかに、楓のそれも精を散らした後だった。
驚いて楓の顔を覗き込む。健斗と目が合うと、楓は目尻から頬にかけて真っ赤に染めながら、いかにもばつが悪そうにつぶやいた。
「ああもう…嘘だろ…」
シーツの上にうつ伏せになって大きく息をつく楓の隣に、健斗もどさりと倒れ込む。すかさず、楓がその肩に顔を埋めてくる。
「早すぎだな、俺」
「俺だって最短記録ですよ」
互いの身体に腕を絡ませながら、二人は同時に笑い出していた。
体温も鼓動もすべてが溶け合って、自分と相手の境目が曖昧になっていく。自分の、あなたの、という所有格が意味を成さなくなっていく。
ミスルトウのリースが見守る下で、二人きりのクリスマス休暇は、ようやく始まったばかりだった。
了
最後までお読みいただきありがとうございました!
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