※『藍より出でて』の脇道エピソードです。
「え、舘野君、学校辞めちゃうの」
台所のカウンターを隔てたダイニングテーブルで楽譜を見ていた晴香が顔を上げる。
「そう。今年度一杯で退職して、海外留学に向けて準備するんだそうだ」
三好晃一は、流しでジャガイモの皮をむきながら、憮然として答えた。
群青祭での即席教員バンドに楓を引き入れるところまでは、作戦通りだった。最初は不服そうな様子を隠そうともしなかった楓が、練習を重ねるうちに、吹っ切れたような清々しい歌い方になっていくのを見て、しめしめ、と思っていたのだ。
本番のステージでのパフォーマンスには、色々なバンドを見てきた三好でさえ、正直舌を巻いた。技術に焦点を当てれば、楓より歌の上手いボーカリストはそれほど珍しくないだろう。だが、聴く側が思わず引き込まれてしまうような魅力的な歌い方は、プロの歌手でもそう簡単にできるものではない。これは何が何でも自分のバンドに口説き落としてやろうと思っていたのだが。
「じゃあ、秋の学園祭が最初で最後になっちゃったの?残念だなあ、舘野君のボーカル、見たかった」
「俺の演奏じゃなくて、あいつの歌の方なのね…」
「だって、舘野君可愛いんだもの」
何度か一緒に食事をしたりして、楓のことをすっかり気に入った晴香は、群青祭にも来たがっていたのだが、あいにく遠方に住む友人がこちらに遊びに来る日程と重なってしまっていたのだ。
「まあ実際、ロングヘアのかつら被らせたら、ちょいと反則だろうってくらい可愛かったけどな。あれは思春期の男子高生徒には刺激が強すぎたかもしれん」
もっとも、楓としては客席の中高生を悩殺するつもりなど毛頭なかったのだろうが。約一名、OBの大学生を除いて。
ボウルに卵を割りほぐしながら思い出してにやにやしているところを、晴香に見咎められた。
「あ、コウってば、何かやらしーこと考えてる」
「考えてませんよ」
「あの美貌に目がくらんで、道を踏み誤ったりしないようにね」
リビングの棚に楽譜を片づけながら、いかにもわざとらしくこちらを睨む。それに向かって、三好は人の悪い笑顔を作った。
「大丈夫、俺面食いじゃないから。ね」
「はいはい、わかってますよーだ」
実際には、晴香はほっそりとした純日本風の美人だ。色白の卵形の顔に、一重の目が優しげな印象で、和服を着たら雛人形のようになるだろう。もっとも本人は、もっとステージ映えする派手な顔に生まれたかった、などと言っているが。
「例外は晴香さんだけですよ」
「言っとくけど、私はイケメン好きですからね」
「そりゃ、言わずもがな」
こんなことばかり言い合っているから、結婚して七年も経つのにいまだに新婚気分が抜けない、などと友達の冷やかしの対象になる。
台所から香ばしい匂いが漂ってくるのに合わせて、晴香はテーブルの支度を始める。三好の調理の進み具合を確認しながら、鼻歌を歌いつつ、テーブルクロスをかけたり、皿やグラスの用意などをしている。
「じゃあ結局、ボーカル探しは振り出しに戻っちゃったのね」
「そうなんだよなあ。ま、そっちは気長に探すさ」
バンドは活動休止中だが、中途半端に助っ人を呼ぶのではなく、本腰を入れてじっくりメンバーを探そう、ということになっている。個人的には、もうすっかり楓をボーカルに据えるつもりでいたので、まだ頭の切り替えができないのだが。
「よし、スパニッシュオムレツできたぞ。晴香、冷蔵庫にサラダが入っているから出してくれ」
「はあい」
三好はカウンターの上にオムレツの皿を置き、オーブンで温めておいたガーリックトーストを取り出す。晴香が冷蔵庫を開けて、シーフードサラダをテーブルに運んだ。
「わあい、今日も美味しそう」
晴香が歓声を挙げる。もともと料理は嫌いではない三好だが、晴香を喜ばせたくて腕を磨いた。
晴香は二十代前半で子宮を患った。薬物療法で症状を抑え、摘出は免れたのだが、妊娠・出産には大きなリスクが伴う。三好はそれを承知の上で結婚したわけだし、晴香本人も、どうしても子供が欲しいというわけではなかった。むしろ、従兄妹同士である二人にとっては、子供を作るという選択肢を絶たれた方がいっそ気楽だったという面すらある。
だが、二人の血縁関係も晴香の病歴についてもよく知らない人々は、結婚の次は当然のように出産を話題にするようになる。悪気のないそういった発言は、少しずつ、だが確実に晴香の心を傷つけていった。彼女は一時、軽い摂食障害になるまで自分を追い詰めてしまったのだ。
だから、目の前で美味しそうに食事をする晴香を見ると、三好は心から幸せに思うのだ。「コウの料理と歌がなかったら、私はずっと立ち直れなかったかもしれない」と、晴香は時折口にする。
「しまった、今日はちょっと火加減失敗したなー。焼き色が強すぎた」
「そんなことないよ、香ばしくて美味しい」
焦げるまではいかないが、少々濃いめの焼き色がついてしまったのが不満だ。やはり、卵料理のときに余計な考え事は禁物だ。
「寂しくなるね」
グラスをテーブルに置いて、晴香が唐突にそんなことを言う。
「何が」
「舘野君がいなくなっちゃうの」
群青祭の後、強引にバンドに引き入れようとして、断られたときのことをふと思い出す。あれは不意打ちだった。いきなり学校を辞めて海外に行くと言われて、寂しいというより、なんだか鼻先で扉を閉められたような腹立たしい気分にさせられた。
「まあな、なんで急に海外留学なんて言い出したかなあ」
「今まで、そんな話はしたことなかったの」
「うん、まるっきり」
「何か、吹っ切りたいことでもあるのかな」
「そう思うだろ?」
三好もそんな気配を感じて、何かあったのか、とその場で問い詰めたのだが、曖昧な笑顔ではぐらかされてしまった。だが、もう来年は三十になるし、と言い添えた口調がいかにも取って付けたようで、つい声を荒らげてしまった。
(あまり人を莫迦にすんなよ。友達として真剣に心配してるんだ)
楓は、滅多に見せないうろたえたような顔でこちらを見た。その表情を見て、三好は反射的に、頭に浮かんだことを口にしてしまった。
(守安か)
その名前が楓にとって劇薬だということはとっくに気付いていた。薬品を落としたリトマス試験紙よりも顕著に、その顔色がさっと変わる。
(三好さんは、どうして何かというと守安を引き合いに出すんですか)
お前がそんな真っ赤な顔をして、むきになって否定するからじゃないか、と、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのだった。
そういえばあいつはどうしているだろう、と、群青祭で会ったきりの健斗のことを思い出す。
「まあでも、後任はほぼ決まりだろうから、そういう意味では気楽なんだけどな」
「え、もう次の先生決まってるの?」
手にしたフォークをテーブルに戻して、晴香が興味津々といった様子で身を乗り出す。
「ん、そろそろ内定が出ると思うけど、春に教育実習で来た卒業生が、ちょっといないくらい優秀な奴だったからな。舘野の教え子なんだ」
教え子なんて言ったら罰が当たりそうだ、とつぶやいた楓の横顔を思い出す。
「へえー、どんな人?」
「吹奏楽部でもあったんだけど、文句のつけようのない優等生でなー。素直で真面目で、思いやりがあって、わがままなところが少しもなくて」
晴香はにこにこしながら相槌を打つ。学校の話や生徒たちの話を三好がすると、いつも楽しそうに聞いているのだ。
「あの守安が舘野の後任なら、うちの生徒は恵まれてるな」
三好の覚えている限り、藍玉時代の健斗は、一言でいえば「わきまえた生徒」だった。物わかりがよくて、一を聞いて十を知るタイプで、周りが自分に期待している役割を先取りして果たしていくようなところがあった。
自分から積極的に意見を言うわけではなかったが、公平で論理的なものの見方をするので、周囲からも明らかに一目置かれていた。些細な口げんかから吹奏楽部の運営方針に関する意見の相違まで、何か対立があるたびに、皆が健斗の見解を聞きたがった。
「こいつが国立大学の法学部に進学したんだけど、舘野を慕ってどうしても英語教師になりたい、って、卒業後に別の大学の英文学部に編入したんだ」
「いいねえ、恩師に憧れて同じ道を目指すなんて」
「でも、そういう形で自己主張をするような奴じゃなかったから、ちょっと驚いた」
無理を言って我を通すようなところは、ついぞ見たことがない。吹奏楽部時代、一つ上の学年の部長に、間違ってもあいつを次の部長に指名するなよ、早死にするから、と耳打ちしたことがある。半ば冗談だったが、部長は真面目な顔で、わかってます、とうなずいたものだ。
私立大学に編入したと聞いて驚く三好に、健斗は、深くも考えずに進路を決めてしまったけど、大学に行ってから自分のやりたいことは別にあるのだと気付いた、と、照れたように笑った。周囲の期待に応えるのが当然だったからこそ、成績優秀な生徒ならば誰もが目指す大学と学部を、自然と受験したのだろう。だが三好には、最終的に他人からの評価よりも自分の好きなものを優先させた健斗の方が、高校時代よりもはるかに頼もしく感じられた。
「それが、舘野君の影響だったのか。よほどいい先生なんだね」
「うん…それがあいつ、自分はそんな器じゃない、将来有望な若者に悪影響を与えたんじゃないか、なんて、うじうじしたこと言うんだよなあ」
「でもそれ、ちょっとわかる」
「え」
思わず、頬杖をつく晴香の顔をまじまじと見てしまう。
「優秀だったんでしょ、その守安君。そんな人が自分に憧れて進路を変えた、なんて聞かされたら、プレッシャー大きいよ。まして、いざ相手が自分と同じ立場になったら、その憧れが失望に変わるんじゃないか、なんて不安になりそう」
「なるほど」
その発想はなかった。
「私だったら、どうやったら優秀な教え子君に愛想を尽かされる前にカッコよく立ち去ることができるか、なんて考えちゃいそうだなあ」
晴香はそう言ってから、ちょっとばつが悪そうに三好を見た。
「なんてね。舘野君は素敵な人だし、私と違ってそんな心配する必要ないよね」
「いや…いかにもあいつの考えそうなことだけど」
ふと、別のことにも思い至る。
そもそも藍玉は名門校で、教育レベルも高いので、教師を新卒採用することはあまりない。楓のように帰国子女というわかりやすい強みがあれば別だが、普通は他校での実績を採用条件にする。今回のように急にポストが空いたりした場合だけは例外だが。
「…あの莫迦」
健斗のために身を引くなどということを考えたのだろうか。身を引かなくてはいけないと思うきっかけがあったのだろうか。
「いや、そうと決まったわけじゃないでしょ。ただの、私の勝手な想像だよ」
慌てたように言う晴香に、三好は思わず微笑んだ。晴香と楓は、どこか似ているところがある。というより、自分にはこんな風に、何事かを一人で抱え込んで思い詰める、という資質がない。
三好はグラスを置いた。その手を伸ばして、向かいに座った晴香の頬を指でそっと撫でる。
「どしたの」
「晴香はいつも、俺が気付かないものの見方を教えてくれるな、と思って」
「コウみたいに、いつも物事の明るい方を見て考えられないってだけ」
「うん。でも、俺が向日性の教師でいられるのは、晴香のおかげでもあるんだよ」
「日の当たる場所を教えてもらって、ほっとすることだってあるのよ」
自分が迷わずに済むのは、晴香がそう言ってくれるからだ、と三好は思う。
もちろん、皆が晴香のように捉えてくれるわけではないことは十分に承知している。こんな三好に愛想を尽かして去っていた人は、かつての恋人やバンドのメンバーなど、過去に何人もいる。
立ち去る人は、どうあがいたって結局自分のところに留まってはくれない。だが三好は、たとえ去っていくとしても、自分にとって大切な相手には、そのことを伝えておきたいと思う。そして、たとえその後のその人の人生の選択に自分は関われなくとも、どうか幸せになってほしいと願わずにはいられない。
「黙って逃げ切りを見逃してやるほど、俺はお人好しじゃないぞ」
つい、独り言が漏れた。
「何それ」
きょとんとする晴香に、なんでもない、と首を振る。
「今度、守安とゆっくり飲むかな」
「うん、そのうち、うちにも連れておいでよ」
「そうだな、舘野とはタイプが全然違うけど、これまたイケメンだから晴香さんのお眼鏡にも適うだろ」
「それは楽しみ」
にっこりと笑い合って、二人は食事を再開した。
了