〈第一章〉
夜の渦
車のライトを消すと、視界を塗りつぶすような高密度の夜の空気に包まれた。文目(あやめ)も分かぬ闇、とはこういうのを言うのだろう。これと比べると、自分の住んでいる東京の街には夜なんて存在しないも同然だ、と思いながら、田辺篤志(たなべあつし)は車を降りて空を見上げた。
季節的に南十字は観測できないが、天頂近くに輝く夏の大三角を横切って、天の川が吸いこまれそうな深い光を放っている。これほど綺麗に見えるとは思わなかった。
石垣市の中心部から車で三十分ほど行った林道の周囲には灯りひとつない。手に持ったLEDライトを点灯させると、田辺のトレッキングシューズとその周囲の地面が、ぽかりと丸く浮かび上がった。大した光量ではないのだが、その人工の光が場違いなほど明るく感じられる。
足元はちゃんとした舗装路で、ハブなどが出る心配はなさそうだ。地図によれば、もう少し先の右側に展望台があるはずだ。田辺は一旦ライトを消して、緩やかな坂道をゆっくりと辿って行った。
都会とは闇の濃さが違う。空気は透明な気体などではなく、墨色のどろりとした液体ではないかと思わせるほどだ。これで星明かりもなかったら、闇の圧力に押されて、やわな精神は窒息するかもしれない。
上空を見上げて深呼吸をしたそのときだった。何の前触れもなく、まるで島を包む静寂の底から浮かび上がってくるように、澄んだ歌声が響いてきた。
――なかどーぉみつぃから
一瞬、田辺は総毛立った。満天の星の下、突然流れてきた歌声はあまりにも非現実的で、まるで光の境目を踏み超えて異界に紛れ込んだかのような錯覚を起こしたのだ。
――ななけぇらかよーおけ
若い男性の声だ。高く、凛とした張りのある声。それに、沖縄の三味線である三線(さんしん)のしっとりとした音が寄り添う。
星空を背景に、展望台の東屋の輪郭がぼんやりと見えている。歌声の主はあそこにいるのだろう。
――なかーすずぃかぬしゃま そうだんぬぅなーらーん
ライトを一番弱く点灯させ、田辺は舗装路から続くスロープの脇の階段を足早に登って行った。
海を正面に見る東屋のベンチに座って三線を弾いていた人影が、田辺の気配に振り向いた。そのまま、姿勢が凍りつく。歌がぴたりと止まった。
「ああ、失礼」
驚かすつもりはなかったのだ。
田辺は、相手の目に直接光を向けないように注意しながらライトを明るくした。Tシャツを着たほっそりとした上半身がぽかりと映し出される。
はっと息を呑んだ。
滲んだ光の環の端にほの白く浮かぶ顔は、息苦しいくらいの闇さえ少し後退したかと思うほどに、繊細で佳麗だった。
三線を構えたまま、大きな目を一層大きく見開いているその男性は――可憐な顔立ちだが、男性であるのは間違いない――光と闇の境目に佇み、どことなくこの世のものではないかのような雰囲気をまとっていた。声から想像していたよりもさらに若い。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。田辺より一回りくらい下かもしれない。だが、瞬きもせずにこちらを見つめる表情は、あどけない顔立ちよりもずっと大人びて見える。
「…すみません、まさか人が来るとは思っていなくて」
先ほどの歌声よりも、話し声はやや低い。
「いえ、こちらこそ驚かせてしまいましたね」
頭を下げると、青年は小さくかぶりを振った。そして、構えていた三線をベンチの上にことりと置くと、小さく息を吐いた。
田辺はその脇を通り抜け、東屋の端から身を乗り出して、ライトを消した。思った通り、少し高台になっているここからはすごい星空が見える。海に向かって開けた東の空のやや低いところには、みなみのうお座の一等星、フォーマルハウトが輝いている。ペガススの大四辺形の中にも多くの星が見える。月はまだ昇っていないので、余計な光に邪魔をされず、星の色の違いまで見て取れた。
ポケットからスマートフォンの端末を取り出した。長時間露光モードにして手すりを支えに腕を固定し、シャッターを切る。
「うん、意外といけるな」
データを確認しながら、傍に人がいるのを忘れて、思わずつぶやいた。
「星を観にいらしたんですか」
声をかけられて、はっと我に返る。
「あ。あの、せっかくの静かなお時間を邪魔してしまって申し訳ありません」
言いながら振り向く。青年は、傍らに三線を置いて座ったまま、田辺の方を見上げていた。光が弱すぎて表情はうかがえない。いきなり登場したこの余所者は一体何だ、と、腹を立てているかもしれない。
「その…よかったら、歌はそのまま続けていただけませんか」
「え」
「とても、綺麗な声だったので。どうぞ私にはおかまいなく」
先ほどの澄んだ歌声を思い出す。穏やかな海のようにゆったりとした節回しと、星空に吸い込まれていくような透明な声音。おそらくこの島の民謡だろう。どこかで聴いたこともある気がするが、田辺はあいにく音楽には詳しくなかった。
だが、青年はやおら三線の棹のところを掴むと、ベンチから立ち上がった。淡い星明かりの中に細身のシルエットが浮かび上がる。背は田辺の目の高さほどか。だが、田辺自身が百八十三センチあるので、相手が特別小柄というわけではない。
「いえ、人にお聴かせできるようなものではないので」
口調はあくまでも穏やかだったが、戸を立て切るような有無を言わさぬ響きがあった。そのまま律儀に一礼すると、ひらりと身を翻す。そして、「ごゆっくりどうぞ」と言い置いて、暗いスロープを迷いのない足取りで降りて行ってしまった。
田辺はしばらく呆気にとられて、青年が消えて行った闇の方を見つめていたが、小さく頭をかくと、気を取り直してもう一度海の上の空を振り仰いだ。
南の島の空に輝く星は瞬きが少ない。だが、頭の中に響く旋律が、輝石のような無数の光をそっと震わせるような気がした。
石垣島を訪れるのは二度目だった。前回はリゾートホテルの取材で、広いメゾネット形式の部屋に一人で泊まって空しい気持ちになったが、今回は市街地の真ん中、港からも程近い場所にあるビジネスホテルに宿を取った。
ラタンの椅子とテーブルで南国らしい雰囲気を演出したラウンジで遅い朝食を摂った後、田辺はコーヒーを飲みながら昨日撮影したデータを整理しようとして、スマートフォンのバッテリー残量がほとんどないことに気付いた。
どうしたのだろう。深夜の撮影を終えてホテルに戻った後、寝る前にアダプタに繋いで充電をしたはずなのだが。
部屋に戻り、枕元のコンセントに差したままになっているケーブルに、再度端末を繋いでみる。だが、充電中を示すランプが点灯しない。画面を確認しても、充電している様子はない。コンセントを差し替えてみても同じだった。
「まいったな」
今回は、この端末が使えないとまったく仕事にならないのだ。すがる思いで携帯電話のショップを仕事用のモバイルノートパソコンで検索すると、幸い石垣支店がホテルのすぐ近くであることが判明した。
開店を待って、そのショップに駆け込んだ。
「いらっしゃいませ」
沖縄の店はどこも、東京の基準からすると冷房が効きすぎている。いや、もしかしたら温度設定の問題ではなく、いつもどこからか甘い香りが漂ってくるような、亜熱帯そのものという感じの大気と、人工的に作られた室内空間との落差が大きすぎるのかもしれない。田辺は、店内のひんやりとした空気に首をすくめながら、眼鏡をかけた女性店員に訊ねた。
「すみません、どうも充電がおかしいんです。見ていただけますか」
「はい、こちらでお伺いします」
窓口に案内されると、今度は男性のスタッフがにこやかに応対してくれる。
「端末を拝見してもよろしいですか?」
「あ」
声を聞いた瞬間に気付いた。顔を上げて、カウンター越しの顔をまじまじと見る。地味な柄のかりゆしウェアを着ているので少し印象が違うが、間違いなく昨夜の顔だ。
目が合うと、向こうもすぐに気付いたようだ。暗闇の中から突然現れた田辺に驚いたときと同じように、大きな目をさらに丸くする。だが、そのまま何も言わずに視線を落とし、田辺がカウンターの上に置いた端末を手に取った。
胸元の名札を見ると「高森」とある。
「お客様、この端末は…」
「そうです。この冬に発売になる新モデルです」
高森店員が、目を上げてこちらを見た。少し癖のある髪は襟足をすっきりと短くしているが、目はくっきりと二重で大きく、顎が細く、女の子のような顔立ちだ。ふっくらとした桜色の唇をかすかに尖らせて、戸惑ったような表情を浮かべている。
思わず、その顔に見とれてしまいそうになる。落ち着け、相手は男だぞ、と田辺は自分に言い聞かせると、小さく咳払いをして説明を始めた。
「この新機種、ハイスペックなカメラ性能を前面に押し出した販促をするみたいですね。特に夜景を撮る機能にこだわりがあるとかで。それで、発売時のキャンペーンとして、実際にこの端末で撮影した夜景や星空の写真を添えた旅のエッセイをウェブサイトにアップするという企画が立てられたんです。私は、その写真と文章を担当している者です」
シャツの胸ポケットからカードケースを取り出して、名刺を高森に手渡した。「ライター/フォトグラファー 田辺篤志」とある。
「ああ、そういえば、企画について本社から連絡が入っていました」
合点がいったように頷く。南国の強い日差しが窓から注ぐオフィススペースで眺めると、その美しい顔立ちも、昨夜とは随分と印象が違って見える。こうして店員としての応対を見ると、当初思ったよりも幾分年上のようだ。
「ケーブルを繋いでも充電されないようなんです」
高森は、田辺が取り出した充電用アダプタを真剣な表情で検分している。それを慣れた手つきで端末に繋ぎ、画面を確認しながら首を傾げる。取り外して、端末側の接続端子を確認する。今度は奥の方から別のケーブルを持ってきて、端末に繋ぐ。
「こちら、この端末と同時発売になる新しい急速充電用のACアダプタなのですが、これの不具合かもしれません。通常充電用なら問題ないようです」
そう言って、充電中のアイコンが表示されている画面を田辺の方に向けて見せた。
「そうかー。困ったな、ACアダプタ、これしか持ってこなかったんだよな。私用の携帯はスマートフォンですらないから、端子が合わないし」
予備のアダプタを用意してもらうことまでは気が回らなかった。失敗した。
「大変申し訳ないのですが、別売の通常充電用アダプタケーブルは、只今在庫を切らしておりまして。お取り寄せもできますが」
「いやあ、アダプタだけ買ってもねえ」
大した出費ではないし、経費として依頼元に請求すればいいのだろうが、今後確実に無駄になるものを荷物に加えることに躊躇する。そもそも、取り寄せていては今日の仕事には間に合わない。
「少々お時間はかかりますが、取り急ぎ、今こちらで充電していかれてはいかがですか。もちろん料金はいただきません」
「ああ、それは助かります。フル充電すれば、ひとまず夜まで不自由しないと思いますし」
「ぜひそうなさってください。弊社の製品でご迷惑をおかけして申し訳ありません」
高森が丁寧に頭を下げる。田辺はふと思いついて聞いてみた。
「充電が終わるまで、店の隅で仕事をして待っていてもいいですか」
「もちろん。二時間余りかかると思いますが、ネットもお使いいただけます」
「じゃあその間に一件仕事を片付けるか」
高森は席を立つと、田辺を店内の待合スペースの椅子へと案内する。
「ごゆっくりどうぞ」
昨日最後に聞いた言葉と同じだが、今日はあくまでも営業用の態度を崩さない。歌っていなくてもいい声だな、と、田辺はモバイルノートを開きながら改めて思った。
今回の仕事の制作会社経由で携帯電話会社の本社の担当者に連絡を取り、高森に電話を代わってもらって不具合の詳細を確認する。やはり部品の初期不良の可能性が高いようだった。
「申し訳ありません…今から新しいものを手配しますと、到着まで四、五日かかってしまうと思うのですが」
担当者は恐縮している。だが、最初に確認をしなかった自分も悪い。
「それだと、あまり意味がないですねえ。いずれにせよ来週水曜日までの滞在ですし」
確保できた取材期間は一週間。その間に、なんとしても晴れた夜空の写真だけは撮影しなければならない。九月なので、台風などが発生したら終わりという綱渡りのスケジュールだ。だが、今晩もどうやら昨日の場所で星空の撮影ができそうだと、天気予報を確認しながら田辺は計算し、交換部品の手配は断った。
「お待たせしました」
高森が充電済みの携帯端末を持ってきてくれた。ちょうど、手がけていた原稿の執筆も一段落する頃合いだ。時計を見るともう正午を回っている。
「ありがとう、助かりました。高森さん、お昼はこれからですか」
「え…はい」
「よかったらご一緒しませんか。お礼にごちそうします」
「お礼だなんて、とんでもない」
お客様対応のそつのない笑顔で返される。それを崩してみたくなった。
「じゃあ、昨夜のお詫びということで」
営業スマイルが消えた。大きな目を戸惑ったように二、三回瞬かせる。長い睫毛だ。
「ごちそうしていただくわけにはいきませんが、近くに安くて美味しい店がありますので、ご案内しましょうか」
先ほどまでの型にはめたような愛想のよさではなく、どこか面白がっているような目つきだ。
「うん、是非お願いします。では、高森さんのお昼休みまでここで待ってます」
高森が連れて行ってくれたのは、表通りから一本入ったところにある小さな食堂だった。定食を頼むと、すごいボリュームで仰天した。丼のご飯に、皿に山盛りのちゃんぷるーに、小鉢ふたつに、小さな沖縄そばまでついてくる。味はいいのだが、とても完食はできそうにない。高森はというと、同じ量をぺろりと平らげそうな勢いだ。
「いやあ、若いなあ」
田辺は苦笑する。
「もうそんな若くないです。十代の頃はもっと食べてました」
高森は涼しい顔だ。
「でも、今だって二十代前半でしょ」
「二十四です」
ちょうど十歳年下か、と思いながら、若さに少しだけ羨望を覚える。これだけ食べてこの体型か。食べた分はどこへ行くのだろう。歌になってしまうのだろうか。
「昨日は本当に申し訳なかった」
箸を置いて、改めて頭を下げると、高森は慌てたように手を振った。
「そんな、こちらこそ失礼しました。あの後、お仕事に支障はありませんでしたか」
若いのに丁寧な言葉づかいは、必ずしも営業用というわけでもなさそうだ。
「支障は…少しだけあったかな」
いたずら心が首をもたげる。心配そうな顔でこちらを見た高森に、にっこりと笑いかけた。
「この星空を観ながら、さっきの歌をもっと聴けたらどんなに素晴らしいだろうと想像してしまって、なかなか集中できなかった」
「…都会の人は、お世辞が上手いんですね」
丼を手に、高森は涼しい顔を崩さない。田辺は改めて真剣な表情を作ると、軽く身を乗り出した。
「お世辞じゃない。聴いた瞬間に鳥肌が立った。満天の星の下でもう一度じっくり聴きたい、と思いましたよ」
高森は、軽く首を傾げて探るような目でじっと田辺の顔を見ていたが、やがて、かすかにはにかんだような、柔らかな笑顔を見せた。
花の蕾がほころぶのを見ているようだ。
「そう言っていただけてすごく嬉しいんですけど、ちょっと今は人に聴かせられない理由があって」
「どんな理由か訊いてもいいですか?」
「師匠に叱られたんです。歌の心が全然わかってない、人様に聴かせる歌じゃないって」
師匠、という古風な言葉を、何の違和感もなくさらりと口にする。民謡や伝統芸能というのはそういう世界なのだろう。
「うーん、厳しいんだね。綺麗な声だったのに」
思わず腕組みをして唸った。
「自分の技量を誇るために歌うのじゃない、と言われました」
高森は、置いてきた言葉を取りに戻るみたいに、ぽつりと言った。
「そういうものなのか」
「そんなつもりはなかったんですが、僕はどこかで、上手く歌ってやろうという変な力が入っていたみたいです」
「それが、叱られるようなことなのか。上手く歌おうとするのは当然のような気がするけど」
不思議に思って問い返すと、高森は小さく首を振った。
「民謡は、長年多くの人に歌い継がれてきたものです。歌自体にすごく力がある。だから、自分を歌で表現する、なんて思い上がりなんです。歌そのものの力を伝える度量が、僕にはまだない」
その言葉に、田辺はどきりとした。
自分は、表現するということに、こんなにも真摯に向き合ったことがあるだろうか。写真を撮って文章を書くことを生業としていながら、何かを伝える資格が自分にあるかどうかなどと悩んだことがあっただろうか。
この若さで、表現者としての自我よりも大きなものを真剣に受け止めようと克己している人が目の前にいる。
田辺は視線を上げた。高森の大きな瞳が、まっすぐにこちらを見ている。こういう目をする人に、簡単に嘘はつけないと思う。
「俺は正直、音楽はよくわからない。でも、昨日は初めて聴いたあの歌をもっと聴いていたいと思った。心を動かされたし、あの旋律を頭に思い浮かべて、いい写真が撮れそうな気がした」
それは嘘ではない。昨夜は、撮影をしながらずっと、耳にした短い旋律を胸の内で繰り返していた。
「それは、歌の力じゃないのかな」
高森は何も言わず、田辺の言葉を検証するような表情で、ゆっくりと瞬きをしただけだった。
折りたたむとポケットに入るほど小さな三脚の脚を延ばして、東屋の隣の開けた草地にしっかりと立てる。その上に、携帯端末を固定する。午前中に店で充電をした後、仕事の写真を撮影する以外はほとんど電源を切っていたので、バッテリー残量は十分だ。
今回の企画はプロのテクニックを使わなくても美しい写真が気軽に撮影できることを示すのが目的なので、あまり大げさな装備を用意するわけにもいかないのだが、簡便な三脚くらいならいいだろう。長時間露光での撮影は、手持ちではどうしてもブレが出る。街の夜景ならそこそこ綺麗に写せるが、星空となると三脚は必須だ。
角度を調節して、天頂近くの夏の大三角の方に向ける。さすがに天の川まではクリアには写らないだろうが、明るい星ならば、これでかなり綺麗に撮影できるはずだ。
田辺は携帯の方で一通り写真を撮影し、出来を確認すると、今度は本格的な三脚も立てて、仕事道具の冷却CCDカメラをセットした。今回の取材とは別に、この見事な星空を自分のカメラでも撮影したかったのだ。こちらのカメラは北の空に向けてセットした。シャッターを開きっぱなしにして、北極星を中心に回転する星の光の軌跡を撮影するつもりだった。
長い夜になるが、こういう撮影には慣れている。近くにトイレがないのでコーヒーは我慢しなければならないが、それでも眠気は訪れそうになかった。満天の星空を見上げているだけで、時が経つのを忘れる。
行きの飛行機の中で読み始めたエッセイ集に、『星の王子様』への言及があったのを、ふと思い出した。その文庫本は傍らに置いたザックの中に入っているが、この暗闇の中で読書は無理だ。それに今は、文字を読むような気になれなかった。
草地に寝転んでただじっと夜空を見上げる。次第に自分の身体の重さを感じなくなって、暗い空間にふわりと浮かび上がっていくような感覚が訪れる。
成層圏へ。地球の重力圏の外へ。火星を過ぎ、木星を過ぎ、土星の輪を眺め、心細いほど小さく弱くなっていく太陽の光を振り返りながら、太陽系外へ。地球から一番近い恒星、アルファ・ケンタウリまで四光年。だが、想像力は光の速度を軽々と超える。
子供の頃は天文少年だった。望遠鏡で星空を眺め、プラネタリウムに通い、天体物理学の本を図書館で借りて読んだ。宇宙の途方もないスケールにただただ魅了された。距離が果てしないほど、時間が永遠に近いほど、そこに夢を見る余地を感じていた。
自分はどうして、そちらの道に進まなかったのだろう。
ふと、今日の昼間の高森の言葉を思い出して、我が身を省みる。
文章を書いたり写真を撮ったりするのも好きだったが、それで身を立てようなどと、子供の頃には考えたこともなかった。むしろ、一生懸命勉強すれば宇宙飛行士になれると、中学生の頃は本気で考えていた。
大学に入ると、知り合いがいた科学情報誌の編集部でアルバイトを始め、就職活動もせずにそのままそこに居座った。自然科学の知識が豊富な上に、写真撮影もできるライターとして重宝がられ、徐々に人脈も広がって、三十を機にフリーになった。
仕事はジャンルを問わず、日程が許す限りほとんど断ったことがない。オファーがあるだけありがたいと思っている。だが、これがどうしても自分のやりたかった仕事なのかどうかなどと、これまで真剣に考えたことはなかった。
人工的な音が何一つしない夜の底で、ふと車の音が聴こえたような気がして、田辺は我に返った。
林道は昼でも交通量が少ないが、知る人ぞ知る星空観測スポットでもあるようだ。あるいは、深夜のデートで訪れたカップルかもしれない。撮影中だと断ってきた方がいいだろうか。野暮な真似はしたくないが、カメラの視界に入られたり、近くで照明を灯されたりすると困る。私有地ではないからこちらの都合ばかりを押し付けるのは気が引けるが、撮影の日程も限られているし、なるべく協力してもらえればありがたい。
勢いをつけて身を起こした瞬間、ぱらり、と、三線の弦が鳴る音がした。
田辺ははっとした。
昨日の東屋のところから音が聴こえてくる。だが、何かの民話のように、振り向いた瞬間にその音が掻き消えてしまうような気がして、田辺はその姿勢のまま動けずにいる。
調弦らしき音が何度か響いた後、一際くっきりとした音で弦が旋律を奏で始める。少ししてそれを追いかけるように、聞き覚えのある歌声が響いてきた。
――さあとぅばらまとぅ ばんとぅやよ すーり
二の腕がざあっと粟立つ。
――やらびからぬ あすびとーら
少し細く硬質だが透明感のある声が、星空に向かって高く響いていく。
――つぃんだら つぃんだらよー
歌詞はひとつも理解できない。だが、美しい歌だと思った。切々とした歌声には、ひどく哀しい想いが込められているような気がした。
これはきっと、誰かを呼んでいる歌だ。ここにはいない誰かへ呼びかける声だ。
耳を傾けながら、田辺は再び背中から草の上に寝転んで、視界を星の光で満たす。ひょっとしてこれは夢だろうか、と思いながら。
歌声は地面を掃くように低くなったかと思うと、空を駆け上がるように高く響き、鐘の残響のように細かく震える。音が空間で細かい粒子となって、草の上に横たわった田辺の身体の上に降ってくる。肌をくまなく覆い、細胞の隙間から体内へと侵入し、内臓を共鳴させる。
顔の上の冷たい感触に驚いて、掌で頬を撫でた。そのとき初めて、田辺は自分が涙を流していることに気付いた。歌詞もわからない歌を聴いて泣くなんて初めてのことだ。涙は柔らかな味がした。
目の前の夜空に向けてまっすぐに手を伸ばす。暗闇の中にアンテナを立てるように、指先までぴんと張って、空を渡る声を捕まえようとする。歌声はその指の間をすり抜けるようにして、静かにやんだ。
視界の隅を星がひとつ、音も立てずに流れていった。
オリオンビールを東京で飲んで美味いと思ったためしがない。だが、沖縄で飲むと同じ味とは思えないほど身体に沁みるのはなぜだろう。
「高森、って沖縄の苗字じゃないよね」
徹夜の撮影の翌日は、午後から雨になった。海岸での撮影を早々に諦めた田辺は、閉店間際の携帯電話ショップに立ち寄って、半ば強引に高森を食事に誘い出した。
「はい。僕は新潟生まれらしいんですよね」
今日の店は、八重山民謡の生演奏が聴けるという居酒屋だった。普段、取材以外ではこのような観光客の多い店には足を向けない田辺だが、せっかくの高森の提案を却下したくなかったし、何より、民謡について少し話を聞いてみたかった。
だが飲み始めると、改めて昨夜のことを話題にするのがどうも照れくさくなってしまい、結局話は全然違う方向へと行ってしまうのだ。高森も、昨日の夜のことについては一言も口にしなかった。
「なんだ、その『らしい』って」
妙な言い回しを聞き咎めると、高森はあっという間にジョッキを飲み干して笑った。
「二歳くらいで引越したんで、記憶はないんです。というか、高校に入るまではずっと引越しの繰り返しで、どこに住んでいたか全部は思い出せないくらいなんですよ」
「へええ、ご両親のお仕事の関係で?」
返答までに、静かな間が一拍あった。
「僕は長いこと父と二人暮らしだったんですが、父はなんというか…ちょっと放浪癖があって。長く一箇所に留まりたがらない人だったんです」
まるで自分の素行の悪さを言い訳するように言った後、どうでもよさそうな口調で付け加えた。
「作家なんですけどね」
「まさか、高森稔?」
すかさず反応した田辺に、驚いた顔を向ける。
「田辺さん、ご存知ですか」
「うん、若い頃からのファンだよ。自分の書くものが影響を受けているな、と思うこともよくある」
小説も書くが、旅行記やエッセイの方が有名だ。離島や僻地など人里離れた場所ばかりを訪れていて、野鳥に関する知識などは専門家も一目置くほどだ。
「そういえば、沖縄を舞台にした本もあったね。確か、何か賞を取っていた」
「僕が高校生になるときに石垣島に越してきて、そのとき書いたものだと思います」
父親の業績を自慢する風でもなく、淡々と言うと、運ばれてきた生ビールのジョッキを再びぐいっと煽った。見かけによらず、食べっぷりも飲みっぷりもなかなか豪快だ。
「高森さんは、それからずっとこっちなの」
「年上の人に苗字にさん付けで呼ばれると、なんだか落ち着かないなあ。とおる、でいいですよ」
「どんな字?」
「透明のトウです」
ああ、その字はすごく合っている、と、田辺は昨夜の歌声を思った。作家のお父さんが選んだ字だろうか。
「…高校のとき、もうこれ以上引越しはしたくない、って父に言ったんです」
高森は、ブレスを入れるように息をついてから、話を戻す。
「まあ、その年齢にもなると進学の問題もあるよね」
田辺が言うと、高森は少しだけ後ろめたそうな顔になって、ぽつりと言い放った。
「それもありますけど、僕は放浪するより、根を張りたかったんです」
あんな、星空を駆けるような歌声の持ち主にしては意外なことを言うと思って、田辺はその顔をまじまじと見てしまった。線の細い、一瞬女性と見紛うような顔立ちだが、優しげな風貌に反した芯の強さを、会話のそこここに伺わせる。
田辺の視線に気付いて、高森は小さく笑みを返した。
「そんな風に反抗したのは初めてでした。でも、父は怒りもせずに、僕の住むところを確保してくれて、『俺も子離れしなきゃ』なんて言って、自分はまた放浪を始めました」
「え…じゃあ、それからずっと一人で?」
道理で、若いのにしっかりしているはずだ。
「ずっと一人暮らしですけど、ご近所さんが親戚みたいな感じです。専門学校は那覇に行きましたけど、卒業してこっちに戻ってきました。僕は石垣島をふるさとだと思ってます。この島を離れたくないんです」
一旦途切れた会話の隙間に、三線の生音が流れ込んできた。
「あ、この曲」
田辺はそう言うと、店の奥のステージの方を向いた。最初の夜に、高森が途中でやめてしまった曲だ。旋律に特徴があるので、一度で覚えてしまった。
「『とぅばらーま』という歌です。僕の、一番好きな歌」
おおらかな、それでいて胸を締め付けられるような節回しだ。
「歌詞がわからないんだ。どういう意味なの?」
「いろんな歌詞を載せて歌うんですけど、今歌っているのがまずは定番かな」
女性歌手の伸びやかな声に耳を傾けながら、高森が手短に説明をする。
「昔、石垣島に美しいと評判の娘がいて、男たちが一目その顔を見たいと毎夜通い詰めるんですが、彼女は姿を現さない。何度も通ったけれど結局一度も姿を見ることはかなわなかった、と、明け方の帰り道に嘆く男の歌です」
「まるで竹取物語だね」
「古風でしょ」
「うん、でも普遍的だ」
有史以来、どれほどの叶わぬ恋が歌に歌われてきたことか。
「古今東西、誰もが同じように恋に破れて、同じように泣いている。それを歌にしてる」
「田辺さんも、泣いたことがありますか」
テーブルに頬杖をついて、高森がじっとこちらを見る。その淡い笑みが、最初に展望台で会ったあの夜のように、どこか謎めいて見える。こちらを見ているのに、同時に宇宙のはるか遠くを見晴るかすような視線。整いすぎたほどの顔に浮かべた表情は、妖艶、とさえ表現したくなる。
にわかに、心臓が速いテンポでリズムを刻み始めた。それを落ち着かせようと、田辺はゆっくりとジョッキからビールを飲む。
「覚えてないな。いずれにせよ、それを歌にするような才能はなかった」
ジョッキ越しに、高森がことり、と首を傾げるのが見えた。
あの歌声を、もう一度聴きたい。
その思いは、自覚した途端に我慢できなくなる喉の渇きのように、田辺の身の内を激しく灼(や)いた。
翌日は、朝からひどく蒸し暑かった。どんよりと分厚い雲が地表の湿った空気に蓋をしているようで、身動きするのも鬱陶しく感じられる。時折、重たい風がどうっと吹いて、空気を生暖かく掻き混ぜていく。
田辺は、再び携帯の充電をしてもらいに午前中にショップを訪れたが、わずか数分の道のりでもびっしょりと汗をかいてしまった。エアコンの効いた店内に入って、急いで汗を拭く。
「いらっしゃいませ」
高森がにこやかに出迎えてくれた。充電を依頼して、先日案内されたのと同じ席につき、ノートパソコンを開く。
滞在中、ちょっとした空き時間があるごとに、ホテルの部屋やロビー、カフェのテラス席など、あらゆるところで執筆作業を進めていたが、不思議なことにこの携帯電話ショップの隅で書くのが一番はかどる気がした。
「田辺さん、どうぞ」
高森が、紙コップに入れたお茶を持ってきてくれる。冷やしたジャスミンティーだ。沖縄では「さんぴん茶」と呼ばれ、最もポピュラーなソフトドリンクだ。このように店で接客中に振る舞われることも多い。
「ありがとう。店の隅を占拠してネット接続させてもらって、お茶までごちそうになってしまうなんて図々しいにもほどがあるな」
「何言ってるんですか。そもそもうちの会社のお仕事をしていただいてるのに」
「いや、申し訳ないけど、実は今書いている原稿は全然別の案件なんだ」
「そうなんですか」
高森が興味津々といった顔で画面を覗き込んでくる。
「先月取材した、北海道のエコツーリズムの話でね。環境保護と観光とをどう両立させるか、現場の人の苦労と工夫を知床で取材させてもらったんだ」
「北海道の話を、石垣島で書いてるんですか?」
呆れたような口調だ。田辺は涼しい顔で「そう」と答えた。
「現地で書くと、どうも上滑りな文章になっちゃうんだ。後から読み返すと、必要な情報が抜けていたり、状況が上手く描写できていなかったりして、読みづらい」
もちろんそれは、あくまでも田辺の個人的な癖で、現場で臨場感あふれる文章を書くのが得意なライターだっている。
「今の俺の仕事は、旅行関係の媒体が比較的多くて。そういうのは、どこか他の場所でそれを読んでいる人に、そこを訪れたいと思わせるような文章にしたい。だから、少し現場から距離を置いて、自分がもう一度そこを旅したい、というような気持ちで改めて書いた方がいいのかもしれない」
「旅、かあ。そうかもしれないですね。田辺さんがここで書いた記事、読んでみたいな」
社交辞令かと思いきや、高森は自分の顎に指を当てて、結構真剣な表情で田辺のノートパソコンの画面を見つめている。
「じゃあ、掲載されたら高森さんに送るよ。知床に行きたくなってくれるといいんだけど」
言いながら、心がそわそわしているのを感じる。
「僕は、もう旅行はいいですよ。子供の頃に一生分の移動をしちゃった気がします。でも田辺さんの記事は読みたいので、もしよかったら支店宛に送ってください」
「うん、そうさせてもらう」
さすがに自宅の住所は教えてもらえないのか、と軽い落胆を覚えてから、はっとする。
一体自分は何を考えているんだ。田辺は軽く頭を振った。
「しかし、外は蒸し暑くてまいるね」
火照った気持ちを覚ますように、南国らしい花の香りのお茶で喉を潤して、ほっと息をつく。その田辺の言葉に、高森が窓の外を心配そうに眺めながら答えた。
「台風、進路を変えてこっちに来そうですね」
「え、そうなの」
南の海上で数日前に台風が発生したのはチェックしていた。だが、台湾の西側を通過する可能性が高く、天気は下り坂でもそれほど大きな影響はなさそうだという話だったはずだ。
慌てて気象庁のサイトにアクセスしてみた。確かに、昨日までの見通しとは大きく変化しており、予報円の進路を示す点線が描く扇形の内側に、石垣島が入っている。他にもあちこちのサイトを確かめてみたが、どうやら直撃の恐れも出てきたらしい。今回の台風は不確定要素が多く、今後も予報が大きく変わる可能性があるとかで、情報をこまめにチェックする必要がありそうだ。
「うわあ、星の写真、一昨日までに山のように撮影しておいてよかったよ」
「お仕事より、まずは身の安全を確保してください。ホテル、どこにお泊りですか」
心配そうな声だ。田辺がホテル名を告げると、小さく頷く。
「よかった、港の正面とかじゃないですね。それなら、浸水の心配はないかな。いずれにせよ、あれこれ備えていた方がいいですよ」
年上の田辺に対して、まるで諭すような口調だ。
「こっちの台風は内地とは威力が違いますから」
「あー、そうでしょうね。報道でしか見たことないけど」
「とにかく風がすごいんです。風速三十五メートルとか、トラックも横転しますからね。絶対に外に出ちゃだめですよ」
本当だろうか、と思ったが、高森の表情は真剣そのものだった。
「家の中に閉じこもってたって、風の音で眠れないくらいなんですから」
田辺はふと、この人は石垣島に来てから、そんな猛烈な台風をもう何度体験しているのだろうか、と思った。まだ十代の頃から、たった一人で家の中に閉じこもって、怖いほどの風の音を聞いていたのだろうか。
高森稔さんよ、そりゃちょっとないだろうよ、と、息子を置いて放浪しているという自分の憧れの作家に、田辺は心の中で密かに悪態をついた。
翌日も、台風はそのまま八重山諸島寄りの進路を辿って北上し、石垣島は夕方には暴風圏に入るという見通しだった。
飛行機もフェリーも、午後までにすべて欠航になった。急遽離島から引き上げてきた旅行者が、臨時の宿を求めて田辺が泊まっているビジネスホテルにもやってきたらしく、フロントはしばらくごった返していた。
雨も風もどんどん強くなる。叩きつける雨粒に、窓が打楽器のような音を立てる。通りを吹き抜ける風の唸りが五階の田辺の部屋まで聞こえた。これでは、たとえ用事があっても外に出る気は起きない。
今できる仕事を一通り片付けてしまうと、田辺は観念して、文庫本を手にベッドに寝転がった。最近出版された、児童文学に関する高森稔のエッセイ集だ。『十五少年漂流記』がニュージーランドから出航する話だったなんて知らなかった。
室内の電話が鳴った。フロントから、何か届けものだという。訝しく思いながら部屋を出て、階下へ向かう。
エレベーターを出てロビーに足を踏み入れた瞬間、心臓が軽く跳ねた。
「え…どうして?」
フロントの隣に、ずぶ濡れで立っていたのは高森だった。
「今日は、店は午前中で臨時休業になりました。一度家に戻ってから出直したんで、こんな時間になっちゃいましたけど」
そう言って、顔をほころばせる。
「いや、そうじゃなくて、どうしてここに」
「田辺さんが、困っているんじゃないかと思って」
「え」
高森は、背負っていたボディバッグの中からビニール袋を取り出した。
「充電用のアダプタケーブル、自宅に予備があったので持ってきました。あと、念のためモバイルバッテリーと乾電池も」
ぼけっと突っ立っている田辺の手に、次々と部品を渡してくる。
「台風で停電したら、スマートフォンは命綱ですよ。ネットは情報が早いし、テレビやラジオもアプリで受信できますし、手元を照らす灯りにもなります。とにかく、今のうちにできるだけ充電しておいてください」
畳みかけるように説明される。そういえば、籠城を覚悟して食べるものなどは用意したが、停電の可能性は考えていなかった。
「わざわざこれを届けに、こんな天気の中を?」
自分の能天気さに腹が立つが、それ以上に、この悪天候の中、高森が自分のことを思い出してくれたのが嬉しかった。
「こんな天気だから、心配して来たんじゃないですか」
「…お代、払います」
ありったけの感謝の気持ちを伝えたいのに、こんなことしか言えない自分がもどかしい。ライターの看板を下ろすべきだろうか。
「私物だからいいですよ。後で返していただければ」
ホテルの従業員が、慣れた様子でロビーの窓のシャッターを閉じている。外から聞こえてくるすごい風の音を閉め出そうとするかのように。
「せめて電池代だけでも。それに、そんなずぶ濡れで外に出る前に、一度乾かした方がいい」
「駐車場まで戻るだけで、どうせまたずぶ濡れになりますけどね」
そう笑いながらも、高森は逆らわずに、田辺と一緒にエレベーターに乗った。
部屋に入ると、エアコンの風に高森の身体がぶるっと震えた。田辺は慌ててリモコンを操作して風を止める。雨に濡れて色の変わった淡いブルーのTシャツが、背中にぴたりと貼り付いて、畳んだ翼のような肩甲骨の形をくっきりと浮き上がらせている。
「ええと…これ、まだ使ってないから」
バスルームの棚から、予備のタオルを出してきて渡した。それから、鞄の中から財布を探し出す。
「電池代、いくらでしたか」
だが、返答がない。
高森は、タオルを手にぼんやりと立ったまま、室内の一点を見つめている。その視線の先を追うと、ベッドの上に読みかけで放り出したままの文庫本があった。
いつも年齢に不相応なほどしっかりしている高森が、このときだけは、ひどく心細そうに見えた。
「高森さん」
囁くような田辺の呼びかけに、ゆっくりと振り向く。少し癖のある前髪から、長い睫毛の上に滴が落ちて、高森は目をしばたかせた。頬に散った水滴が、涙のように見える。
田辺は咄嗟に視線を逸らせた。借りたアダプタをデスクの上のコンセントに差し込みながら、なるべくさりげない口調で聞く。
「自宅に戻るの、急ぎますか」
「いえ…戸締りもしてきたし」
ケーブルにスマートフォンを繋ぐ手に、うっすらと汗をかいている。
「その、もし、よかったら」
風が、窓の外で荒れ狂っている。その咆哮に負けないほど強く、心臓が鳴っている気がする。
「雨と風が少し治まるまで、ここで雨宿りしていきますか」
当分治まる見込みなんてない。ただ、この暴風雨の中、高森を一人で返したくなかった。彼を置いて行った父親の代わりにはなれなくても、今は、彼の孤独の隣についていたかった。
「…邪魔じゃないですか」
その返事に呪縛を解かれたかのように、田辺はほっと息をついて振り向いた。
「高森さんがいてくれるなら、俺もありがたい。この状態でできる仕事もなくて、手持無沙汰だったんだ」
言い訳を並べるみたいに、急いで説明する。高森は、視線をベッドの上の文庫本に戻した。
「本を読んでいたんじゃ」
「これは、帰りの飛行機の中ででも読むよ」
本をベッドの上から拾い上げて、鞄の中に放り込む。田辺は今後自分が、この作家の作品を以前と同じように虚心に受け止めることができるかどうか、あまり自信がなかった。
真夏の気温とはいえ、濡れた服を着たまま長時間いたら風邪を引く。高森にバスルームを使わせ、続いて自分もシャワーを浴びてさっぱりすると、田辺は湯を沸かして紅茶の用意をした。
時計を見ると、午後六時を回っている。朝からほとんど動いていないのであまり腹は減っていなかった。買い置きの食料は高森に食べさせようか、と、あの定食屋での見事な食べっぷりを思い出す。
「服、ありがとうございました。濡れちゃって気持ち悪かったんで助かります」
高森がぺこりと頭を下げた。田辺の貸したTシャツは彼には少しサイズが大きく、首や二の腕が実際以上に華奢に映る。下はホテル備え付けのルームウェアという格好で、いつもの印象よりもずっと幼い印象になる。まるで、夏休みに親戚の家に泊まりに来た少年みたいだ。その手に、淹れたばかりの紅茶のカップを握らせた。
「本当に、すごい風になるんだね」
暴風が時折不気味に建物を揺らす。窓の外を見ると、分厚い台風の雲の下で、通りはもうすっかり夜のように暗い。
「ますます強くなってますね。この分だと本当に停電するかもしれない」
紅茶をすすりながら、高森も田辺の隣で心配そうに外の様子をうかがう。
電信柱までが強風にゆらゆらと揺れている。風に物理的な恐怖を感じるのなんて初めてのことだ。自然の猛威の前には、人間の築き上げてきた文明などか弱いものだと、肌で思い知る。
「高森さんは、台風で家に閉じ込められちゃったりしたときは、どう過ごしているの」
ふと思いついて訊いてみた。
高森は、ゆっくりと紅茶を味わいながら、いたずらっぽい顔でこちらを見る。
「歌ってます」
「へ」
「これだけ風が強いと、どれだけ大声を出しても三線を鳴らしても、近所に気兼ねはいりませんから。発声練習のつもりで、もう思う存分声を張り上げて歌います」
言いながら、自分でくすくす笑っている。
「それは…聴いてみたいな」
一際強い風に、窓ガラスがびりびりと鳴る。田辺は、気休めとは思いながらも、窓のカーテンを閉め切った。
「フロントで、三線借りられないかな」
突然、高森がそんなことを言い出した。
「え、まさか」
ビジネスホテルで、三線?
「エントランスにポスター貼ってあったんですよ。『唄三線の手ほどきします』って」
半信半疑でフロントに問い合わせると、安物で恐縮ですが、と言いながらも、本当に三線を一丁貸してくれた。従業員に得意な人がいるらしい。
「さすが沖縄だなあ」
感心しながら、フロントで受け取ってきた三線を高森に渡すと、「上等、上等」と言いながら慣れた手つきで調弦を始めた。
「歌ってもいいことになったの?」
無理強いしたのではないかと心配になって聞いてみる。
デスクの脇の椅子に座り、何度か弦をはじいて耳で音を確かめていた高森は、そのまま顔を上げずに答えた。
「師匠にお願いしてみたんです。どうしても歌を聴いてほしい人がいるので、未熟だけれど歌ってもいいですか、って。自分の歌を聴いてもらうのではなくて、この島の、自分の好きな歌を聴いてもらいたいから、って」
そこまで言うと、きちんと三線を構え直して、まっすぐ田辺の顔を見た。
「そうしたら師匠は苦笑いして、いいから歌ってこい、どんなに下手くそか自覚するだろうから、って言ってくれました」
「…それは、俺からも師匠に感謝しなきゃな」
田辺は、高森と向かい合う形でベッドに座った。
「じゃあ、まず『白保節』から。僕の師匠が生まれた石垣の白保というところの歌で、風光明媚なこの島は今年は例年にも増して豊作だったから、厳しい税を納めた残りの稲や粟で泡盛を造ってお祝いしましょう、という歌です。隣の部屋に迷惑をかけちゃまずいので、控えめにやりますね。でも楽しい曲なので、田辺さんはビールでも飲んで寛いでいてください」
そして一礼すると、明るい曲調の歌を軽やかに歌い出す。三線の弦の上で、長い指がひらひらと蝶のように舞っている。
囃子が「ゆらーてぃーくー、ゆらーてぃーくー、ぶどぅりあすぃば」と繰り返され、田辺が面白がって真似をすると、高森が嬉しそうな顔をして頷いた。「寄って来い、寄って来い、踊り遊ぼう」という意味なのだそうだ。
「こんなのが聴けるなら、台風で閉じ込められるのも悪くないなあ」
我ながら現金だと思いながら、つい本音を口にすると、高森は照れたように笑った。
「おだてると、また付け上がりますから」
「君は、俺がおだてた程度で天狗になるような人じゃないだろ」
自分にはその度量がない、と言い切ったときの、あの真摯な表情を思い出す。
「身の程知らずってわかってても、どうしても師匠の歌と比べちゃうんです」
「師匠はそんなにすごいのか」
「毛筆みたいな声です。繊細な声も太い声も自在に出せて、それでも常に柔らかくて、厚みがあって。それと比べると、僕の声はせいぜいボールペンかなあ」
「世の中には、ボールペンで見事な字を書く人もいるさ」
誰がどう評価しようと、田辺は高森の声が好きだと思った。果てしない星空を思わせる、透明な声。この声を独占できるなんて、思いがけない贅沢だと思う。そして「どうしても歌を聴いてほしい人がいる」という一言を、何かの拠り所のように繰り返し思い出している自分がいるのにも、気付いていた。
田辺が部屋に用意していた食べ物をつまんだりしながら、高森はその後も次々と歌を披露してくれた。曲や歌詞についても簡単に説明してくれる。時間があっという間に過ぎていくが、外では風の音がますます強くなっていった。
ふと、会話が途切れた瞬間だった。
「あ」
突然、何の予兆もなく部屋の灯りが消えて真っ暗になった。
「…電気、停まったか」
「やっぱり来ましたね」
廊下の方で、狼狽した宿泊客がばたばたとドアを開けたてする音がする。
「こりゃ、大変なことになったな。辺り一帯停電みたいだ」
立ち上がって窓のカーテンを細く開けてみたが、灯りはまったく見えない。
「風が弱まるまで、復旧は無理でしょうね」
一方、高森の声には慌てた様子もない。
田辺は、充電ケーブルに繋いだままにしていた端末に手を伸ばした。既にフル充電されている。モニター使用として特別に通信機能も確保してもらったので、いざとなればこれでネットにも繋がるはずだ。安堵して、画面をオフにする。
「おかげさまで、充電は大丈夫だ。本当に助かった、ありがとう」
高森が姿勢を変えたのか、暗い中で椅子がきしむ音がした。
「田辺さん」
「ん」
「俺も、ビールもらっていいですか」
俺、という一人称の響きに耳が反応したが、敢えて気付かないふりをした。
「ぬるくなる前に飲んじゃうのは正解だけど、高森さん、車だろ。飲酒運転させるわけにはいかないな」
冗談めかして言うと、闇の中から、静かな声が返ってきた。
「どうせ、朝までこの状態ですよ」
暴風雨が激しく窓を叩く。だがそんな中でも、高森の囁くような声は、なぜかはっきりと聴き取れる。
「一晩、ここにいさせてもらうのはだめですか。迷惑はかけませんから」
田辺は一瞬ためらった後、電源の落ちた冷蔵庫の扉を手探りで開け、冷えたオリオンの缶ビールを一本取り出して、デスクの上に置いた。ことり、という音を頼りに高森が手を伸ばす気配がする。その手に触れたい、と、強く思う。長い指で三線の弦を操り艶のある音色を奏でていた、あの手に。
高森が缶のプルタブを開ける音がする。口を付け、顔をのけ反らせて缶を傾け、細い喉に黄金色の液体を流し込んでいるのが、目の前に見えているようにわかる。
早く電気が復旧してほしいような、このままずっと暗闇のままでいてほしいような、矛盾に満ちた感情が、田辺の中で小型の台風のように渦を巻いた。
高森はふう、と息をついて、缶をゆっくりとデスクの上に戻すと、そのまま何の説明もなく曲を弾き始めた。
静かな旋律だが、建物の外から聞こえてくる肉食獣の唸り声のような荒々しい風の音にも負けない、不思議な強さがある。それにしても、完全な暗闇でも正確に音を出せるものなのだな、と、楽器のできない田辺は妙なことに感心してしまう。
――いとぅまぐいとぅむてぃ むちゅるさかじぃきや
先ほどまでの、豊作の歌や労働歌を歌っていた調子とは明らかに違う、切ない歌声だ。
――みなだあわむらし ぬみぬならぬ
決して大きな音量ではないのに、暗闇がその声で一杯に満たされていく。外は嵐だというのに、天井に星空が見えるような気がする。ボールペンだなんて謙遜もいいところだ、と田辺は思う。
――んぞなりむよー はり しょんかねーよー
歌声を聞いているうちに、胸がじわりと痛み出す。歌詞の意味を知りたかったが、歌を途切れさせたくはなかった。
同じ旋律で違う歌詞を三回ほど歌ったあと、静かに歌が終わった。
「これは、どういう歌?」
沈黙を破るのが怖いような気がしながら、田辺が口を開く。
「『与那国しょんかねー』という歌です。昔、与那国に派遣されてきた琉球王府の役人が、赴任期間が終わって本国に帰ることになった。そのために現地の妻と別れなくてはならなくて、その別離の哀しみを歌った歌です」
高森の声が低くかすれている。
「『暇乞いと思って盃を持つが、涙が溢れて飲むことができない』という歌詞で始まって、最後は妻が、『与那国の海は池の水のように穏やかなので、安心してまた渡ってきてください』と歌うんです」
デスクの上の缶ビールに再度手を伸ばして、一口飲むと、高森は先を続けた。
「本当は、与那国の海は荒れやすくて、渡るには難所だったんだそうです。全然穏やかなんかじゃない。そうでなくても、一度本国に戻った役人が再び海を渡って与那国を訪れるはずがない。でも、それを承知でこんな風に歌う彼女の気持ちが、今はわかる気がする」
田辺は、充電された携帯の電源を入れた。暗闇に慣れ始めた目に、四角い画面の人工的な光がまぶしい。その光に、睫毛を伏せた高森の横顔がうっすらと浮かび上がる。あの夜の東屋で見た時よりも、さらに白く、冴え冴えと輝く三日月のような、謎めいた表情。
「つまり、これも普遍的な失恋の歌なんでしょうね」
やけに喉が渇くのは、錯覚だろうか。
「…必ずしも、失恋と決まったわけでもないんじゃないか」
液晶画面の光を避けるように、高森は顔を田辺と反対の方に背けた。その手から缶ビールを受け取り、高森が口をつけた後の飲み口から、からからの喉にビールを流し込む。唇の上で泡が弾ける。
缶を置いて、携帯の画面を切った。再び暗闇に包まれる。エアコンが切れたので、閉め切った部屋は少し蒸し暑い。その、とろりとした闇の中に、星を掴むように手を泳がせた。
高森の少し癖のある髪に指先が触れる。びくりとその身体が震えるのがわかったが、構わずに腕の中に引き寄せる。
「…透」
初めて呼ぶ名前の響きは心地よくて、いつまでも舌で味わっていたくなる。
こくり、と小さく高森が頷いた。輪郭を指でなぞって確かめ、澄んだ声の記憶に導かれるように、田辺はその唇に口づけた。
台風の渦の底で、闇が一段と濃さを増したように思う。
一度離れた唇を訪ね当てるように、今度は高森の方からキスをしてきた。そのねだるような仕草に煽られて、田辺もさらに熱っぽく、柔らかな唇を求める。
角度を変えて、無言のまま何度も吐息を重ねる。そのたびに、ますます渇望が強くなっていくような気がする。
きりがない、と、やっとの思いで顔を離した。だが、首の後ろに両手を回され、鼻先を髪の毛に埋めるようにして、耳に熱い囁きを吹き込まれる。
「田辺さん…」
歌うときの張りのある発声とは違う、吐息のような、ひそやかな声。
「篤志、でいい」
まずい。止まらない。そう思いながらも、高森の華奢な背中に両腕を回してしまう。
「苗字にさん付けの相手と抱き合うのは、あまり趣味じゃない」
「抱いてくれるの」
腕の中にいるはずなのに、どこかずっと遠くからその声が聞こえてくるように思えるのは、人工的な光をすべて奪われているせいか。
「俺、男だけど、いいの」
かすかに声が震えている。
「君こそいいのか。こんなおっさん相手に」
高森が、軽く身を揺するようにして一旦身体を離した。肌の間にわずかな空間ができただけで、自分が今どれほど相手を求めているのかを痛感する。距離を限りなくゼロにしたくなる。何を焦っているのだろうと思うが、そんな自分を止められそうにない。
「最初に、会ったとき」
ぽつり、と闇に目印を打つように、高森が話し出す。
「展望台で歌ってたとき?」
「そう。美女のところに通い続けた男のつもりになって、そこまで思い詰めた相手がこんな星空の下に姿を見せたら、一瞬で恋に落ちるんだろうな、なんて想像してて」
田辺の首筋を高森の手がなぞっていく。
「そう思った瞬間、本当に人が現れたから、驚いた」
頬に当てられた手に、田辺は自分の手を重ねた。髭をもっときっちり剃っておくんだった、などと思いながら。
「夢でも見たのかと思ってたら、翌日、職場に同じ人が来たから、もうどうしようかと思った。しかも、明るいところで見た方がさらにかっこよかった」
そこまで言うと、田辺の顔を引き寄せ、もう一度唇を重ねてきた。
先ほどまでの情熱的な口づけとは違い、居場所を確かめるようなキスだった。そっと触れて、安心したように離れていこうとする。だが、田辺はそれだけで済ませるつもりはなかった。
後頭部に手を当ててしっかりと抱え込むと、舌で唇を割って、中へ侵入する。誘いかけるように巧みに舌を絡め、歯の裏をくすぐる。
「ん…く、ふぅ」
改めて、愛し合うためのキスであることを十分すぎるほど伝えた後で、初めて顔を離す。
「俺だって、思い返すたびに夢じゃないかと思ってた。この島には本当に精霊がいるのかと柄にもないことを考えた」
窓を揺らして無粋な音を立てる風に遮られないように、できるだけ耳に近寄せて言葉を注ぎ込む。
「今だって、これが本当のこととは思えないでいる。明かりが点いたら、その瞬間に君は消えてしまうんじゃないか、って」
「まさか」
高森の笑い声が、窓越しに風を受けたかのように揺れている。
「ちゃんとここにいる」
そう言って田辺の手を取ると、自分の胸に押し当てた。
心臓が強く脈を打っている。自分の鼓動か、それとも高森のか。触れ合うだけで相手の思っていることが伝わればいいのに、などと青いことを久しぶりに考える。
「篤志、さん」
この人の口から発せられると、自分の名前でさえ美しい歌詞の一部のように響く。
「ここにいさせて。朝まで、一緒に」
「いてくれ」
その声を引き止めるように、強く身体を引き寄せた。
Tシャツの下に手を滑り込ませてたくし上げると、高森が身体をひねって、それを首から抜き取る気配がした。
「触って」
囁きに促されるように手を伸ばす。真っ暗な中で触れた滑らかな肌の感触を楽しむように、掌をゆっくりと移動させ、闇の中に、見えない高森の姿を指先で描いていく。
背骨がつくる浅い谷間から、脇腹へ。腕の下をかすめて、胸元へ。鎖骨へ。
「はぁっ……ん」
漏れ出た声が、喉の奥に呑み込まれる。田辺は、首の後ろから背中を辿っていた右手を一度離した。
「声、出して」
その手で、きゅっと結ばれた高森の唇を優しく撫でる。
「透の声をもっと聴いていたい」
「そ…いう、声じゃ」
頬の線をそっと指先で探り、耳の下に舌を這わせ、耳朶に優しく歯を立てる。
「ひゃぅ」
小さな悲鳴とともに、身体がぴくりと跳ねる。頬に触れる高森の耳が、熱をもっている。
「歌ってなくたって、君の声は綺麗だ」
そのまま首筋に顔を埋めて、うっすらと滲む汗の、青草のような匂いを吸い込む。鎖骨の窪みにそろりと舌を這わせると、腕の中で、高森の裸の上半身が小さく震えた。田辺の体内で、風がますます強く渦を巻く。
自分の理性を吹っ切るように、田辺は高森のしなやかな身体を、ベッドの上に押し倒した。
その身体は、触れるたびに美しい音色を奏でる繊細な楽器のようだった。
田辺の指が肌にこすれるたびに、全身が細かくわななき、息が徐々に荒くなっていく。暗闇そのものが呼吸しているかのようだ。
うっすらと浮く肋骨をなぞり上げて、胸元の小さな蕾を指がかすめると、高森がびくん、と反応した。
ここも、女のそれと同じように愛撫していいのだろうか。試しにつまんで指先で擦ると、弦をはじくような声を漏らす。
「ああっ…ん……」
顔が見えないのが惜しくなるほど、艶のある声だ。
その声をもっと聴きたくて、弄っていたものを口に含んだ。唇で軽く弾き、鋭く吸う。
「や、それ…あっ」
舌を強く押し付けると、それに抗うように硬く立ち上がる。歯の間にそっと挟んで、尖らせた舌先でちろちろとつついてみる。高森の全身に電気のような震えが走ったのがわかった。
「あ…だ、め…」
今度は反対側の胸に唇を落とす。ちゅ、と、わざと大きな音を立てて吸うと、こちらもすぐにぷつんと立ち上がる。それをくりくりと口の中で転がすと、高森の手が、掻きむしるように田辺の髪に絡みついた。
「も…やめ、て…そこ、すぐ、いっちゃうから…」
そんな可愛い声で懇願されても、むしろ逆効果だ。
「どれ」
田辺は胸から顔を離すと、見当をつけて下の方に伸ばした手で、高森のものに触れた。
「ひぁ」
硬く張りつめているものを下着の上から撫で上げると、先端にかすかに湿り気を感じる。
「ちょっ…」
身をよじって逃れようとするのを許さず、ボクサーショーツに指をかけて、巻き取るようにめくり下ろした。
直に触れると、高森が息を呑む音がする。我が身にも覚えのあるその熱く、硬い感触に、田辺は思わず顔をほころばせた。
「本当だ。もう結構、切羽詰まってるな」
「も…誰のせいだと、思って…やんっ」
根元を手の中に包み込んでゆっくりと揉みほぐし、硬く立ち上がった部分を、促すように指でなぞる。
「俺のせいか?なら嬉しいな」
「やあぁっ、あ、まって…あつし、さん」
手の動きを少しずつ強く、早くしていく。それに呼応するように、高森の声の響きが甘く熟れていく。
「あ…ああっ…ん…」
喘ぎ声までが旋律のようだ。その響きが、田辺を酔わせる。
「だめっ、あ…」
「透…」
「もう、俺……い、く」
細い腰がびくびくと痙攣する。一瞬の鋭い緊張の後、高森の身体が、腕の中でぐったりと弛緩する。
手探りで枕元のティッシュを掴み、手の中に放たれたものを拭い取る。本当は、舌で舐めとってしまいたいくらいだ。
「篤志さん」
「ん」
「なんか…慣れてるね」
その、どこか拗ねたような口調に、田辺はついからかうような口調で返してしまう。
「そりゃ、ココは自分のと同じだから」
「本当に、同じ?」
「わっ」
さりげなく下ろされた手に自分のものを掴まれて、田辺は思わず声を上げた。慌てて制止しようとするが、先ほどから高森の声だけで興奮しきっていたものを、三線を鳴らすあの繊細な指に握られていると思うと、全身の力が抜けていく。
「嘘つき。ずっと大きいくせして」
愉しそうな声。
「透。それ以上は勘弁してくれ」
「どうして」
「こんな、停電してろくにシャワーも使えない状況で、最後までするわけにいかないだろ」
「しようよ」
肩に両腕が回されて、誘われるようにキスを交わす。抑え込もうとしていた欲望が再び燃え上がる。田辺は慌てて顔を引きはがした。
「俺は、男相手にしたことがないし、こんな真っ暗な中で下手なことをして、君の身体を傷つけたりしたくない」
やっとの思いでそう言うと、高森がふふ、と耳元で柔らかく笑った。耳殻に柔らかな息がかかって、体内の炎がさらに煽られていく。
「じゃあ、今度は俺が、篤志さんに気持ちいいことしてあげる」
高森の吐息が、田辺の耳元を離れ、胸から腹へと、ゆっくりと滑り降りていく。
「見えなければ、女の人にされるのと、一緒だから」
「う…ぁ」
咥えられて、田辺は呻き声を上げた。
「そんな、こと…ああ」
両手を添えたまま、下から上へ唇で弾ませるようにしごく。絡ませた舌を、根元から先端へと往復させていく。巧みな口使いだった。どこで覚えたんだろう、などと余計なことを考えた途端、男を相手に淫らな行為に耽っている高森を想像してしまって、どうにもたまらないような気持ちになる。そのくせして、その自分の想像に、下半身を一層固くさせてしまう。
「いいよ…汚さないようにするから」
くぐもった声が聞こえた直後、熱く濡れた口腔内に根元まで包み込まれた。この華奢な身体の、もっと別のところにそれを突き立てているような錯覚を起こす。きゅ、と鋭く吸われて、その淫靡な想像がますます加速する。
快感が罪悪感を振り切った。大きな波に持ち上げられるように、高森の口の中に解き放ってしまう。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
「そんな、透…」
嘘だろう。飲み込んだのか。あの、美声を発する喉に。
「…これで、あいこ」
下から、少しかすれたような声がしてくる。田辺は荒い息を整えながら、手探りで高森の上半身を引き起こした。
細い身体に回した両手は、手首のところで交差させても、まだ余る。その両腕の輪を引き絞るようにして、強く抱き寄せる。そうやって、外の暴風から守るかのように、自分の胸の中に包み込んだ。
窓を叩いていく激しい雨も、荒れ狂う風も、もはや遠い世界の出来事のようだ。呼吸の音に合わせてかすかに上下する肩と、ほのかに甘いような汗の匂い。液体のように濃密な闇の中で、自分の腕の中にある熱い身体だけが、田辺の存在をこの世界に留めてくれているような気がした。
台風が過ぎてしまうと、翌日の午後からは嘘のようにいい天気となった。風はまだ強く、波も高かったが、上空には南国の青空が戻ってきている。停電も午前中に復旧した。空港に問い合わせると、明日の午後の便は問題なく飛ぶだろうということだった。
日が暮れる頃、ホテルまで高森が車で迎えに来た。田辺が石垣島で過ごす最後の夜に、自宅に招待してくれるという。
「シフトでは今日は休みの予定だったんだけど、店の方が台風の後始末で大変だから、今日は出勤して明日午前中半休をもらうことにしたんだ」
「そうだったのか。お疲れさま」
高森の自宅は、大きくはないが瀟洒な造りの一軒家だった。表札の入った門の両脇に、愛嬌のある顔つきのシーサーが狛犬のように鎮座している。父親の知り合いの陶芸家が作ってくれたものだという。
「昨日の台風で、二階の部屋の天窓から少し雨漏りしたみたい」
「え、それは大変じゃないか」
「いつも頼んでる業者さんに見てもらうから大丈夫。今は使っていない部屋だし」
階段を上がった突き当たりにあるその部屋は、主寝室として設計されたものだとすぐにわかった。広々として日当たりもよさそうだ。ベッドやデスクや本棚が置かれているが、使われている形跡はなかった。
「一応、親父の部屋なんです。行っちゃってからは一度も使ったことないけど」
窓の下の床にできた染みを確認した後、ドアを閉めながら高森はぽつりと言った。田辺は思わずそのドアを振り返ったが、何も言わなかった。
「食事、簡単なものだけどすぐ用意するから、ビールでも飲んでて」
小ぶりの庭に向いた掃出し窓のあるリビングは、フローリングに低いテーブルとイグサの座布団が置かれた、寛いだ空間だった。先ほどの、人の気配のない冷たい部屋とは対照的な雰囲気だ。
「いいよ、料理ができるまで待ってるから一緒に乾杯しよう」
そう言うと、高森はぱっと嬉しそうな笑顔を閃かせた。その可愛い顔を抱き寄せて、唇の甘さを味わいたくなるが、辛うじて踏みとどまる。
リビングの隅には三線が二丁、スタンドにきちんとセットされていた。その後ろに本棚がある。民謡の楽譜らしきものが並んでいたので、一冊手に取ってぱらぱらとめくってみたものの、原稿用紙のような升目に漢字や記号が縦書きで書かれている、見たこともない形式のものだった。これで曲が弾けるのか、と、不思議に思っていると、掃出し窓をこんこんと叩く音がした。
目を上げると、エプロンをつけた初老の女性が窓の外に立っていた。いきなりのことに度肝を抜かれた田辺にはお構いなしに、そのまま鍵のかかっていない窓をからりと開けると、「とおるちゃーん」と呼ばわる。
「なーに」
台所からやってきた透に、にこにこしながら手に持っていたタッパーを渡す。
「じゅうしいと、ハンダマ。いるかね」
「わあ、友達来てるから助かるよー。いつもありがとーね」
こんな風に打ち解けた表情をすると、透の端正な顔は、年齢相応の、少し幼ささえ残す印象に変わる。田辺は改めて、この青年が自分より十歳も下であることを、自分の心に言い聞かせる。
女性は、初めて田辺に気付いたかのようにこちらに目をやると、恥ずかしそうな顔になって、無言で会釈をした。田辺も会釈を返すと、安心したように高森との会話に戻っていく。
「おじいのケータイ、まーたメール打てなくなったみたいさ」
「ホント?じゃ、明日見に行くから、そう伝えておいてよ」
一通り会話を終えると、女性はもう一度田辺に頭を下げて、何事もなかったかのように庭を横切って行ってしまった。
「ええと、今のはお隣の真栄里(まえざと)さんのお母さん。いつも食べるもの分けてくれたり、料理教えてくれたりするんだ」
渡されたタッパーを開けて、テーブルの上に置く。炊き込みご飯と、葉の裏が紫色をした青菜のおひたしだ。
高森はその他にも、用意した料理の皿をテーブルに並べ、ビールの缶とグラスを運んでくる。田辺の隣に座布団を引いてきて座り、ぽってりとした沖縄ガラスのグラスにビールを注いだ。
「乾杯」
グラスをかちり、と合わせる。
今日の田辺は、これまで撮影しそびれていたビーチやマングローブ林を撮影するために半日走り回っていたので、喉の渇きにビールが沁みた。
並んだ料理は、高森が作ったものもお隣からの差し入れも美味だった。いずれも、外では食べられないような心のこもった家庭料理ばかりだ。この島をふるさとだと思っている、と言っていたが、その言葉に相違なく、この土地にしっかりと根を張って生活していることが、食事の内容からも感じ取れた。
田辺は典型的な都会の独り者だ。東京の狭いマンションは仕事場兼寝室のようなもので、取材が続けば今回のように一週間家を空けることもある。隣の住人の顔も知らない。
胡座をかいた膝の上に乗せた三線をぱらぱらと爪弾いている高森の隣で、田辺は泡盛を注いだロックグラスの氷を鳴らした。こんなに寛いだ夕食はいつ以来だろう。
「そういえば、高森稔さんの本はないんだね」
本棚が目に入って、つい、思ったことが口を滑り出た。三線の音がぴたりと止む。
「…俺、親父の本は読んでないから」
「うん。すまない、余計なことを言った」
あの、がらんとした二階の寝室の様子を思い浮かべた。
高森の肩を引き寄せると、そのまま顔を首にもたせかけてくる。また庭から誰か来やしないかとひやひやしながら、その髪を優しく撫でる。
「篤志さん」
「ん」
「もう、俺の部屋、行こ」
三線を床に置いて、少し潤んだような目でこちらを見上げてくる。
「…ここ、片付けないと」
「明日の朝でいいよ」
立ち上がって、子供のように田辺の手を引く。泡盛のせいか、目元がほんのり赤い。
もちろん、田辺に異存はなかった。
二階の、主寝室の手前の少し小さめの部屋を、高森は自分の寝室として使っているようだった。といっても普段はリビングで生活しているらしく、部屋にはベッドと小さなデスクとパイプハンガーがあるだけだ。
そのベッドに座るなり、高森は田辺の背中に両腕をきつく巻き付けてきた。
「…俺は、放浪してばかりの親父と違って、この島で一生暮らすことに決めたんだ」
「うん。若いのに、ちゃんと地に足をつけて暮らしているのがわかるよ」
その背中を、なだめるようにそっと叩く。実際、彼の暮らしぶりは羨ましいほどこの土地の匂いがした。
「ここにいられれば他に何もいらないし、一人でちゃんとやっていけてると思ってた。台風のときでさえ、誰かに傍にいてほしいなんて思ったことは今までなかった」
静かな声だ。だがその奥に、普段は表に出さない激しい感情が潜んでいるような気がしてならない。
胸に押し当てられた高森の頭を撫で、癖のある柔らかい髪に両手の指を絡める。
「篤志、さん」
「ん」
覗き込んだ高森の顔は、上気してほんのりと赤く染まっている。大きな黒目が濡れたような反射を返してきて、我ながら浅ましいと思いながら、田辺は、ごくりと唾を呑み込まずにはいられなかった。
だが、続く高森の言葉に、今にもその身体をベッドに押し倒そうとしていた手が止まる。
「この島を離れたら、俺のことは忘れてくれていいから。だから、もう一晩だけ、一緒にいて」
咄嗟に返す言葉がなかった。
一夜だけの気紛れな遊びの相手として、高森のことを抱くつもりはなかった。だが、いくら自分にそんなつもりはなくとも、田辺が今していることを客観的に眺めれば、島を訪れた旅行者が行きずりの関係を無責任に楽しんでいる、としか映らないだろう。
停電の中で高森が歌ってくれた、現地妻を残して本国へ帰っていく役人と、自分は何一つ変わらない。
「…白状すると、俺は今、台風が戻ってきて明日の飛行機が全部キャンセルになればいいのに、なんて困ったことを考えてる」
溜息と一緒に本音を吐き出す。
夜が明けなければいいのに。台風が戻ってくればいいのに。自然への畏れを忘れさせ、自分の都合のいいように世界を造り変えようとする、この不届きな心はどこから来たのだろう。荒れた海を、池のように平らかだと思いたくなる心と同じだろうか。
高森は泣きそうな声で笑った。
「だって篤志さん、いつまでもこの島にいたら、この島のことを書けないよ」
「ああ…そうか」
何気なく交わした会話の隅々まで覚えているのは、田辺だけではなかった。それだけで嬉しかったし、今の自分には過ぎた贅沢のようにさえ思える。
「だから、今日だけでいいんだ。最後まではしなくてもいいから」
何か言いたいのだが、どうしても言葉が出てこない。
何をどう言葉にしても、一番大切な部分だけすくい取れずにこぼしてしまうような気がして、田辺は黙ったまま、高森の顔を引き寄せた。
初めて触れるみたいに心を震わせながら、唇を重ねる。
顔を離すと、その額にかかる前髪を軽く払って、震える睫毛の奥を覗き込んだ。黒目勝ちの瞳の中に、抑えきれない熱がゆらめいている。
「どうすればいいのか、言ってくれ」
熱い頬に、掌をそっと重ねる。
「じっとしてて…少しだけ、触らせて」
高森はそう言うと、田辺のベルトを外し、ジーンズとトランクスをまとめて引っぱり下ろす。
田辺の大きなものは、早くも隆起の兆候をはっきりと示していた。高森が、それにそっと指を滑らせる。
「う…」
親指一本だけで、裏側を下から上へゆっくりとなぞっていく。先端を一周し、今度は頂から前に降りて、根元もぐるりと辿る。強く擦るわけではない。一貫して、羽毛で楽器の手入れでもするかのように柔らかく慎重な手つきで、ただ撫でていくだけだ。
それなのに、自分でするときよりも、はるかに激しく渇欲を揺さぶられる。
次に、人差し指。続いて中指が、一本ずつ順番に同じルートを辿っていく。
「くそぅ…それ…」
薬指の背が、弾丸のように硬くしこっている付け根の双球に触れた時点で、田辺はこらえきれずに、押し殺したような悲鳴を上げた。
屹立は既に鋳鉄のように硬く締まり、欲望を恥じらいもなく天に突き上げている。
高森の手が止まる。
救いを求めるようにその顔を見下ろすと、大きな目がまっすぐこちらを見ていた。
「…君が欲しい」
星空のように深い瞳に吸い込まれそうになりながら、田辺は堰き止めていた熱を解放するように、そう告げた。
「本当に?」
頬に影が落ちそうなほど長い睫毛の奥で、瞳にかすかな挑発の色が浮かぶ。
「無理しなくていいよ。俺、また口でしてもいいし」
自覚しているのか無意識なのか、その表情は背筋がぞくりとするほど扇情的だ。一瞬、我を忘れてむしゃぶりつきそうになって、田辺は慌ててぐっと奥歯を噛んだ。
「透。抱かせてくれ」
今にも、その前にひざまずいてしまいそうになる。こんな気持ちにさせられる相手は、高森が初めてだ。
「頼むから」
自分のことも人のことも、一歩引いて冷静に見る聡明さがありながら、無垢な少年のように純真な一面も見せる。そして、ベッドでは驚くほど大胆になる。この不思議な青年に、自分でも呆れるくらい、魅了されてしまっていた。
ベッドに座った田辺の傍らで、高森はゆっくりと服を脱いでいった。陽射しの強いこの島で暮らしているのが信じられないほど、その肌は白い。
田辺の視線に気付くと、はにかんだように笑った。
「見た目で萎えそうだったら、目を閉じててね」
その言葉に、田辺は慌てて首を振った。冗談じゃない。さっきから、萎えるどころか昂ぶっていく一方だ。高森のしなやかな肉体を見ているだけで、全身の血が熱くたぎっていくようだ。
高森が腰を下ろすのを待ちかねたように肩を抱き寄せ、濃厚なキスを繰り返す。
「んん…ふ…」
唇の間から、とろけるような甘い声が漏れてくる。顔を離して目を覗き込むたびに、澄んだ瞳の奥で官能の色が濃さを増していく。それがたまらなくて、何度も何度も唇を奪ってしまう。
「待って…準備するから」
ようやく顔を離すと、高森はデスクの引き出しから取り出した箱を枕の脇に放り、手にしたチューブからジェルのようなものを指に絞り出した。
そのまま、ベッドの上に伸ばした田辺の膝を跨いで、濡らした自分の指を背中側に回す。
「ん……ふ、う…」
くちゅくちゅ、という湿った音に合わせて高森の腰がゆらゆらと前後に揺れる。それを支えるように、尖った腰骨に掌を当てた。触れた瞬間、高森が後ろ手のまま背筋をぴんと反らせる。
片方の手を前にずらして、突き出されるような格好になった高森のものを素早く握った。
「ああっ」
既に硬く勃ち上がり、田辺の掌を溶かしそうなほど熱くなっている。そこにさらに摩擦熱を加えるようにしごくと、びくりと身体を震わせる。
「やあぁっ…あ…あつし、さん」
とろり、と、先端から蜜がこぼれた。それを田辺が指先でぬぐうと、ぶるぶると首を横に振る。
「だめっ…いま、そこ、さわん…な…い…」
「ここは、だめ?じゃあ…こっちの方が、いいか」
あっさりと手を離すと、今度はその手を窓辺に忍び寄る猫みたいに上に伸ばした。荒い息に上下している両胸で、薄紅色の小さな乳首がつんと上を向いている。
「ひ、やあぁ、ん」
尖った先端を一瞬だけ指先で弾いた。その後は、特に感じやすい箇所をわざと避けて、その周囲にゆっくりと円を描く。
「んっ……やだ、そこ…」
膝の上で、高森がもどかしげに身をよじる。白い肌をうっすらと桜色に上気させ、細かく身を震わせている様子が、強烈に艶かしい。
指で挟んで強く擦ると、弾けたように顔をのけ反らせて、快楽の歌声を上げた。
「あああっ…んっ…」
つまんだ指先に力を込めると、指の中のしこりがさらに硬くなる。
「すごく、感じやすいんだな」
「篤志さんは、意外と…意地悪なんだ」
目元を朱に染めて恥ずかしそうにこちらを睨む、そんな表情までもが蠱惑的に映る。
「感度がいい、って褒めてるんだ」
「篤志さん、男の人初めてって、嘘でしょ」
「本当だよ」
女性となら何人かと経験のある田辺だったが、自分の指先の動きひとつ、囁き声ひとつに、こんなに素直に反応してくる相手は初めてだった。
「じゃ、ここからは俺にさせて」
高森は、枕元の箱から取り出したコンドームのパッケージを破いて、手際よく田辺の上に被せた。
「っ…」
薄い膜越しに指が滑っていく感触に、唇を噛んで耐える。
「あ」
高森は田辺の肩に手を置くと、すい、と腰を浮かした。杭のようにまっすぐ立ち上がった田辺の中心に手が添えられる。そこに狙いを定めて、細い身体がゆっくりと下りてきた。
「わ…透」
勃起の先端が窪みに当たると、ぬめるような抵抗がある。
「もう…いれる、よ」
滑る屹立を握られた。襞を押し開くようにして、先端が中にめり込んでいく。
「う…あ…」
思わず声を上げる。埋められた先が、痺れたように熱い。
「ぁ…おお、きい…」
くびれのところで、一旦動きが止まる。
「透、これ、きついんじゃ…」
入口がびくびくと痙攣して、苦しそうだ。腰を引こうとしたところを、制される。
「だめ、まって。いま……っん…」
高森が内股をわななかせながら、じわりと腰を落としていく。楔を打ち込むように、その身体の奥へと田辺を呑み込んでいく。
「うっ…」
根元まで咥え込まれ、田辺は再び、低い声を漏らした。
突き入れた田辺の欲望を押し返すように、熱くうねり、絡みつく。その中で、半ば力づくで腰を動かしてみると、びりびりするような快感が全身に走った。同時に、高森の背が三日月の弧のように綺麗にしなる。
「あああっ、あつし、さんっ…あ、それっ…いい…」
中がさらにぎゅうっと狭くなる。その圧が、酩酊のような愉悦をもたらす。
生身の肉体を貪り合うような、強くて、深い、接合。こんな、怖いほど気持ちいい挿入は初めて経験する。
「あ、透…すごい…」
「あぁ…んっ…もっと…もっと動いて…」
南の海の上を吹いてくる風よりも、さらに熱く、湿った吐息が、耳元に注ぎ込まれる。
気が付いたら、高森の両腕を引っ張るように掴み、腰を激しく突き上げていた。その淫らで美しい肢体を味わいつくすように、何度も何度も、己のものを奥に打ち付ける。
「…ぁ…あ…つし、さ…ん……」
壊れた人形のようにがくがくと首を振る高森の声が、熱っぽくとろけている。肩で息を整えながら必死に言葉にしようとするのだが、田辺の腰が跳ねるたびに、語尾が喘ぎ声へと溶けていってしまう。
「も……いく、いく…」
それだけ言うのが、精一杯だったようだ。
嗚咽のような声と共に、昇り詰め、解き放つ。ぱたぱたと滴り落ちる高森の精を腹に受けながら、田辺も、低い呻き声と共に自分の欲望を吐き出していた。
空港の上空は恨めしいくらいに晴れ渡っていた。夕方になって太陽の高度こそ低くなったものの、日差しの強さはほとんど衰えた感じがしない。
午後から出勤するという高森の家を午前中に出て、ホテルに戻って荷造りをしてチェックアウトした後、もう一度だけ海岸に写真を撮りに行った。だがその後はもうすることがなく、とりあえず飛行機を待ちながら半端な仕事を片付けるつもりで、早めに空港に来てしまったのだ。
「空港までは、見送りに行けない」
「うん、仕事だもんな。わかってる」
朝寝坊をしながら、ベッドの中で交わした会話を思い出す。
「仕事がなくても、行けない」
高森は狭いベッドの中で器用に身体の向きを変えて、田辺に背中を向けた。
「どうして」
「あんなところで泣いたりしたら、知り合いに見られる。高校の同級生が何人か、あそこで働いてるんだ」
(田辺さんも、泣いたことがありますか)
居酒屋で、ビールのジョッキ越しにこちらをじっと見つめながら、高森が投げかけてきた言葉が甦る。
「透」
腕を伸ばして、後ろから抱え込むようにその背中を抱きしめた。
好きだ、という言葉が喉元までせり上がってきたが、ぐっとそれを飲み下す。今日島を離れてしまう自分には、恋人面をしてそんな言葉を口にする資格はない。
今は、まだ。
「俺は、君の歌に泣かされたんだけどな」
「え?」
くるりと背中を返してこちらを見たその目が、大きく見開かれていた。
「展望台での撮影の二晩目に、突然綺麗な歌声が流れてきてな。それをずっと聴いてたら、なんでか涙が出てきた」
瞬きもせずにこちらを見ていた目が、まぶしそうに細められた。
「いい写真、撮れたかな」
「おかげさまでね。そういえば、続きを聴かせてもらいそびれたな」
「続き?」
「『とぅばらーま』だっけ、最初に展望台で途中まで歌っていた歌。君が一番好きだと言っていた歌」
「ああ」
ふわりと透き通るような笑顔を見せる。
「…あれは、特別な歌なんだ」
「特別な時しか歌わないの?」
琉球民謡には、色々としきたりがある。座開きの歌。お祝いの歌。宴会の最後で歌い踊るときの歌。その状況ごとにふさわしい歌があるのだと、高森が説明してくれた。
「そうじゃないけど…なんて言えばいいのかな。誰もがこの歌が特別だと思っている歌。一番綺麗で、一番八重山らしい歌」
独特の節回しを思い出しながら、田辺は曖昧に頷いた。
「やっぱり、もう少し上達しないと、人には聴かせたくないな」
真剣な顔で言うその頬を、小さく指でつついた。
「聴かせてくれよ」
「だから、まだ…」
「うん。だから、そのうち」
このくらいの約束なら、許されるだろうか。
「透が聴かせてくれるまで、何度でもこの島に通い詰めるから」
二度、三度と、長い睫毛が上下した後、その目から涙が一粒こぼれた。それを唇で受けるように、頬にそっとキスをする。
「よし、これでおあいこだな」
田辺のその言葉に、無言で小さく首を振っていた。
彼は、信じてくれるだろうか。
羽田行きの便の出発までは、まだだいぶ時間がある。空港のロビーでモバイルノートをネットに接続し、仕事のメールをチェックした。懇意の編集者から、台風の被害を心配するメールが入っている。「災難でしたね」という一言に、思わず苦笑いが浮かんだ。
災難どころか。
おかげさまで無事に東京に戻れそうです、と、無難に返信をしておいた。携帯の着信も確認する。今ではほとんど通話にしか使っていないとはいえ、この古いモデルを使い続けるのも、そろそろ限界か。
ふと思いついて、例の携帯電話ショップの石垣支店の電話番号にかけてみた。
「お電話ありがとうございます」
高森の声だ。
「高森さん?田辺です。連日お世話になりました」
一瞬、軽く息を呑む気配がした後、業務用の完璧な口調で「こちらこそありがとうございました」と応じられた。
田辺が仕事をした例の新モデルについて聞いてみると、十二月下旬に発売予定とのことだ。
「まだ予約は受け付けていないのですが、おかげさまで引き合いが多く入っています。発売日に確実に入手されるには、やはりご予約がお勧めですね。予約受付開始のタイミングで、メールでお知らせもできますよ」
「それがいいな。申し込んでおこう」
「その際は、お引き渡しの店舗のご指定が必要になりますが」
「わかりました」
一呼吸おいてから、付け加えた。
「そちらの店舗で受け取る指定にします。よろしく」
「え」
高森の丸い大きな目がさらに大きく見開かれているところを想像して、田辺は笑みを浮かべた。
独り者のフリーライターの機動力をなめるなよ、と思いながら、手元のノートパソコンの画面に向かい、今後の仕事のスケジュールの確認を始める。こうなったら、十二月の下旬に意地でも休みをとってやる。しばらくは可能な限り前倒しで仕事をする羽目になりそうだった。
【第二章に続く】