Coming In, Coming Out

『星晴れの島唄』の続編ですが、単独の作品としてもお楽しみいただけます。


 女顔だとか優男だとかは言われ慣れている。美形だね、と褒められることもある一方で、オカマ、なんて悪しざまに罵られることもある。かつて本名を伏せて通っていたゲイバーでは、ママが冗談で呼んだ「アドニス君」がそのまま通り名になってしまい、内心ものすごく恥ずかしかった。

 だが、仕事の席で女性に面と向かって「お人形さんみたいに綺麗な顔」なんて言われたのはさすがに初めてだ。

「トオル、いい加減機嫌直しなさい」

 取材が終わってワンボックスカーに乗り込んでから、むすっと黙ったままの高森透(たかもりとおる)をバックミラー越しに見て、ハンドルを握るマネージャーの宮良達之(みやらたつゆき)が呆れたように言う。

 透はそれには答えず、車の窓からぼんやりと外を眺めていた。都会の無機質な風景が、黄昏の薄紫色の光の中で、淡い夢のように浮かび上がる。空は見事な夕焼けだった。

「や、こいつの気持ちもわかるって。あの記者、露骨にトオルに色目使って、完全に勘違い女だったもんな」

 透の隣に座ったギターの伊波航希(いはこうき)が、同情を禁じ得ない、という口調で透を擁護する。金髪に近い明るい茶色に染めた長い髪を鬱陶しそうに掻き上げ、透に向かってにやりと笑って見せると、唇の端から八重歯が覗いて、二十八歳という実年齢より幼い印象になる。

「あれはないっしょー。そりゃ、音楽性についての突っ込んだ質問があるとは期待してなかったけど、いきなり『すごいモテそうですけどお付き合いしてる女性はいるんですか』とか訊く?普通」

 助手席に座った、パーカッション担当でメンバー最年長の三十歳の上原純(うえはらじゅん)も、ヘッドレスト越しに二人の方を振り返りながら、丸眼鏡をかけた髭面をうんざりしたようにしかめる。

「ネットメディアなんてそんなもんだよ」

「たっつん、その決めつけは乱暴だよー」

「そうそう、あの手のサイトにも、まともな音楽の記事はいくらでもあるっしょ。それともまさか、こっちでは俺らをアイドル路線で売り込もうっての、うちのマネージャーは」

 やる気のない返事に対して二人から集中砲火を浴びて、達之は「ブレイク、ブレイク」と音を上げている。

「東京の道は不慣れなんだからさ、ちょっと運転に集中させてよ」

 透たち三人で組む音楽ユニット「PALM」は、沖縄を中心に活動している。発足は石垣島だったが、ギターと三線(さんしん)とパーカッションというなかなか珍しい組み合わせが評判になり、半年前に那覇に拠点を移した。

 所属している事務所の先輩である真栄里真哉(まえざとしんや)は、本格的な八重山民謡の唄者ながら、東京などの大都市圏でも人気が高い。その人脈で、今回初めて、若手のバンドばかりが出演する東京でのライブイベントに参加が決まった。

 そのライブは明日の夜だが、やり手マネージャーの達之は、前日の今日、都内のデパートで開催されている沖縄物産展のステージで一曲演奏する手はずも整えてきたのだ。今朝東京に着いて、昼にそのイベントを終え、地方紙とウェブマガジンの取材をはしごして、ようやく今日のスケジュールを終えたところだ。二泊三日の東京遠征中、透たちはほとんど観光をする余裕すらない。

「確かに、もう少しPALMの音楽についてアピールしたいところではあったけど、そういう話題で親しみを感じて興味を持つ人も世の中には多いんだから」

 なだめるような達之の口調だ。

 透だって、そんなことは百も承知だ。まだ全国的には無名の存在である自分たちのことを、どんな形であれ話題にしてもらえるだけでありがたい。もともと接客業に就いていたこともあり、営業スマイルにもそれなりに慣れているつもりだった。それでもさすがに、いきなり恋愛関係の質問を振られる心構えはできていなかった。

 反射的に「女性には興味ないんです」と答えてしまったが、その瞬間、それまで甘ったるい笑みを浮かべていた女性記者の表情が気まずそうに固まったのがわかった。

「気にすんなよ、トオル。上手く誤魔化せたから」

 航希になだめるように肩を叩かれ、透は俯いた。「こいつ、シャイで女の人と話すときは特に無愛想なんですよー」と、すかさず透の失言をフォローしてくれたのは航希だ。

「その後、『だから彼女はなかなかできません』って言い直したあれは模範解答」

 リーダーの航希はもともと面倒見のいいたちだ。特に、商業的な音楽活動にはまだ不慣れな透には、いつもさりげなく気を遣ってくれる。

「いっそ『十歳年上の彼氏がいます』とかバラしちゃった方が、別路線のファンがつくんじゃねーの」

 一方、正義感の強さを毒のあるジョークで包む癖のある純は、搦め手から妙な援護射撃を入れてくる。

「…ジュン、冗談でもそれはやめてね」

「まーた、たっつんは頭硬いなあ。今時ゲイのミュージシャンなんて珍しくないっしょー」

「日本ではまだ、そういうのカミングアウトした後もメジャーでやってくのは難しいの!君ら、ファン層を限定できるような立場じゃないでしょうが、まったく」

 純の冗談に達之が律儀に腹を立てるのも、お約束通りの展開だ。

「特に今は、東京進出の足掛かりを掴んだ大事な時期なんだよ?皆、普段からもっと自覚して、イメージダウンになるようなことは極力控えてよ」

 達之に悪気がないのはわかっているが、自分の恋愛関係はバンドの「イメージダウン」になることなのか、と透は今更ながら落ち込んでしまう。

 あんな、自分にはもったいないような恋人なのに。

「なー、たっつん。今日はもうこの後は仕事ないんだろ?トオルを今からでも篤志さんとこに行かせてやれないの」

 だが、いきなり航希がそんなことを言い出したので、透は仰天する。

「コウキ、今の僕の話、聞いてた?」

 がっくりきたような達之の声。

「聞いてたよ。でも、これ以上トオルが凹むと、明日のライブでのデキに影響すっかもしんないだろー」

「そうそう、篤志さんさえ当てがっときゃ、トオルは常に絶好調なんだからさ」

「あのさ…コウキもジュンも、俺が拗ねてるの面白がってるでしょ」

 ようやく透が口を開くと、二人揃って「ばれたー?」と悪びれずに笑う。

「だってトオル、篤志さんといるときは、もぉのすごくわかりやすくデレるっしょ」

「そーそー。客席に篤志さんいるといないとじゃ、歌うときの声の色っぽさが数段変わるもんなー」

「そんなわけないだろ」

 透はむきになって反論するが、その顔がみるみる耳まで赤くなるのを見て、二人はにやにや笑っている。

 篤志さん、と彼らが呼んでいるのは、透の恋人の田辺篤志(たなべあつし)のことだ。男同士である上に、十歳の年齢差、そして東京と石垣島の遠距離恋愛という三重の逆境をどうにか乗り越え、今は晴れて那覇で一緒に暮らしている。とはいえ、フリーのライター兼カメラマンである篤志は全国を仕事で飛び回っていることが多く、PALMの活動が軌道に乗ってきた透とは、最近は何かと生活がすれ違いがちだ。

 実は今、篤志は東京に出張中である。一週間ほど滞在して、打ち合わせや取材など首都圏での仕事をまとめてこなし、透たちの二日後に那覇に戻る予定になっている。

 だから、こちらで少しは会えるかと期待したのだが、昼間はお互いに仕事が忙しく、どこかで落ち合うこともままならない。せめて今夜くらいは篤志が借りているウィークリーマンションに顔を出したかったのだが、達之に却下されてしまった。「都内のウィークリーマンションなんて、どんだけ安普請で壁が薄いか、知れたもんじゃない」という達之の持ち出した理由に、透は今みたいに顔を真っ赤にして黙りこくるしかなかった。

「まったく、皆あまり聞き分けのないこと言わないでくれよ、ホントに」

 宿泊しているホテルの駐車場に車を入れながら、達之が大げさに溜息をついた。


 ほとんど遊ぶ時間がないことに対するせめてもの埋め合わせなのか、達之は部屋の窓から東京湾の夜景が見えるホテルを宿泊先に選んでくれた。

 来月の大型連休時には、大変な混雑になるのだろう。だが、四月中旬の平日とあって、今はロビーにもそれほど人は多くない。

 ホテルのレストランで、明日のライブの打ち合わせも兼ねて夕食を取り、その後はそれぞれの部屋に引き取る。

 航希と純がツインの同室。何かと雑務が多くて慌ただしい達之は自由度の高いシングル。そして、透はツインを一人で使う代わりに、かさばる機材と同室だ。

 だが、自室のドアを開けた透は、室内灯のスイッチのところに自分が手にしているのと同じカード式のルームキーが既に差し込まれているのを見て驚いた。

「あれ?」

 室内の照明は消えていて、カーテンを開けっ放しの窓からは美しい夜景が見える。ライトアップされた東京スカイツリーを遠景に、窓の手前に立っていた長身で引き締まった身体つきの人物が振り返った。

「お疲れさま、透。忙しくて大変みたいだな」

 深く、低い声。その柔和な声音を聴けば、暗い室内でも、男らしく端正な顔立ちが優しい笑顔にほどけているのがわかる。

「篤志さん…なんで?」

 思わず駆け寄ると、すかさず長い腕を背中に回され、広い胸の中にすっぽりと包み込まれた。顔の脇に大きな手を添えられたと思うと、次の瞬間、官能的な唇に疑問詞を封じられる。

 しばらくは無言のまま、互いにキスを貪った。短い髭がざらっと浮く篤志の頬を両手で挟み、唇をついばむ。上下の唇の合わせ目を舌先でなぞられ、素直に口を開くと、すかさず侵入してきた分厚い舌に、口内の感覚を残らず絡めとられる。

「ふぅ…ん…」

 隙間から、鼻にかかった声が漏れていく。

 ようやく口を離し、改めて、突然現れた恋人の顔を見上げた。

「なん、で…ここ…に」

 もう、息が弾んでいる。

 篤志は、早くも目を潤ませている透の顔を見下ろして、いたずらっぽく笑った。

「さっき、宮良さんに予備のルームキーをもらったんだ。すっかりへそを曲げたらしい王子様のご機嫌を直すことができれば、ご褒美に一晩ここで過ごしていいってさ」

「誰だよ王子様って」

 その言い方にかちんときたが、ルームキーを渡されたという篤志の言葉を思い出して、膨らませた頬を元に戻す。

(たっつんてば、あんなこと言ってたくせに)

 そういえば、食事の最中に携帯に着信があって、席を外していた。ただの業務連絡だと思って気にも留めなかったが、こんなサプライズを仕込んでいたとは。

「そうかー透はへそ曲げてたのかー」

「わ、ちょっと、篤志さん」

 シャツの裾から素早く潜り込んできた篤志の手が、素肌に触れる。

「ホントだ、だいぶ曲がってるぞ」

 子供をあやす父親みたいな口調と裏腹に、篤志の指は、透の臍の周りを誘いかけるように撫でていく。

「ちょっ…や、そこ、やめろって」

 弱いところを的確に攻められて、軽く背がのけ反る。その背骨を辿って、篤志のもう片方の手が、三線がデザインされた透のお気に入りの長袖Tと、その上に羽織った大きめのニットカーディガンとをまとめてたくし上げていく。

「珍しいな。何をそんなに拗ねてたんだ」

 長身をかがめるようにして透の耳元に囁きかけてくるその声は、笑いを含みながらも、どこか気遣わしげでもある。

 拗ねてなんかいない、と反論しようとした透だが、久しぶりに肌に触れてくる篤志の手が、逆らう気持ちを優しく撫でつけてしまう。

「篤志さんに会えなかったからだよ」

 そう言いながら、両腕を篤志の背中に回す。自分で言葉にして初めて、それが本心だったことに気付いた。

 どんなにスケジュールが慌しくても、移動で疲れても、インタビューで見当外れなことばかり訊かれても。自分たちの名前さえ知らない客ばかりの会場のステージで足が震えそうになっても。何をやっても上手くいかなくて、自分にはどうしてこう才能がないのだろう、と落ち込んでも。

 それでも、そんな自分の隣に篤志がいてくれる。そう信じられる瞬間、透は自分が世界一幸せだと心から思う。

 今みたいに。

「だから会いに来たんだ」

「うん。篤志さんも忙しいのに、ありがと」

「透が弱ってるなんて聞いたら、おちおち仕事もしてられない。北海道からだって会いに来る」

 篤志なら、やりかねない。

「まさか俺、仕事の邪魔しちゃった?」

 ふと、心配になって顔を上げる。透の背を撫でていた篤志の手が止まって、ふっと笑い声が聞こえた。

「透に会えない方が、仕事に差し障りがあるくらいだ」

「篤志さんは、いつも俺を甘やかしすぎだよ」

「透を思う存分甘やかすのが俺の癒しなんだ」

 これ絶対本気で言ってるよな、と透は半ば呆れる。

「でもさ…その、明日も朝早かったりするんじゃないの」

 篤志が借りていたウィークリーマンションは、確か新宿周辺と聞いていた。那覇のような街の規模に慣れていると、東京は広すぎて距離感覚が狂うほどなのだが、それでもここから結構遠いはずだ、ということくらいは透も把握していた。

「明日の朝早いと、透は何か困ることがあるのか?」

 真面目に心配したのに、篤志はそんなことを囁きながら、透の耳殻を甘噛みしてくる。ぞくぞくと走る感覚に、上ずった声が出そうになる。

「あるに、決まってんだろ」

 篤志の仕立てのいいシャツを皺くちゃにしないように、慎重にボタンを外していく。

「何が困るのか、ちゃんと言ってみろ」

「どうして毎回言わないとわかんないんだよ」

「透が期待してることがいつも同じとは限らないだろ」

「同じだよ」

 互いの肌の感触を確かめるだけでなく、そうやって言葉でも戯れ合う。

「いつも同じだよ。篤志さん以上に俺が必要としてるものなんて、ない」

 はだけた胸元に額を押し当てる。分厚い胸板の奥から、大切な人が生きている証が響いてくる。この世界のどんな音楽よりも、透の心を動かすリズムだ。

「…透は、俺を煽る天才だな」

「え」

 いきなり腰のところを掴まれて、ぐいと持ち上げられた。

「わ、な、なに」

「シャワー浴びるぞ」

「お、降ろして、自分で歩けるから!」

 いくら華奢な体型とはいえ、透だって体重は五十キロ以上ある。それを腰の上に抱え上げたままバスルームに行こうというのか、この三十六歳は。

 明日の仕事どころか、今夜この後のあれやこれやにも支障が出るのではないかと本気で心配する。

「逃げないで、ちゃんと一緒にシャワー浴びてくれるなら、降ろす」

「…篤志さんがそうしたいなら」

「もちろん、心の底からそうしたい」

 すとん、と素直に床の上に降ろされ、安堵する。と同時に、いつになく子供っぽい篤志の行動が可笑しくて、くすくすと笑いを漏らしてしまった。

 その透の癖のある前髪を、篤志の手が払う。額にそっと唇が押し当てられた。

「よし、ようやく笑ったな」

 東京の夜景は、石垣島の星空よりずっと明るい。照明を消した部屋の中でも、目の前でにんまりと笑った篤志の顔が十分確認できるくらいに。

「もう。ホントに…」

 本当に、この人のことが好きでたまらない。

 透はその顔を引き寄せて、自分の中に生じた欲求のままに、唇を重ねた。


 ホテルのバスルームは、身長百八十三センチと百七十二センチの男二人が同時に使うようには設計されていない。シャワーカーテンを閉じてその狭い空間に並ぶには、互いに身を寄せ合うようにするしかない。

「透の身体は、どこもかしこも本当に綺麗だな」

 身体を洗う、という口実で、泡立てたボディソープ越しに透の全身を撫でていた篤志が、改めて驚いたみたいな言い方をする。

「何言ってんのさ、もう…」

 呆れたような口調で誤魔化すが、全身が火照るのは、シャワーの温度調節の問題ではないことはわかっていた。

「俺は透には本音を隠しておけないんだ」

 背中に濡れた裸の胸を押し当てられて、耳元でこんなことを言われて、のぼせない方がおかしいだろう。

 この差は何だろう、と、自分でも不思議になる。さっきの女性記者には、あんまりお綺麗だから隣に並ぶ女性が気後れするんじゃないですかー、なんてちょっと媚びたような声で言われただけで、正直うんざりしたのに。篤志には、こんな扇情的な手つきで全身をまさぐられて、下心全開の口調で「綺麗だ、透」なんて言われて、それが内心少しも嫌じゃない。

「そこ、さっき洗ったってば」

 篤志の手が、腰から胸元へとにじり上がってきた。その指先が狙う透の胸の先端は、既にぷつんと尖っている。

「透がそうやって動くから…ちゃんと、洗えないだろ」

 篤志は身をよじる透をからかうように言うと、指でそこをぴんと弾く。

「あんっ…」

 こうやって背後から羽交い絞めにされてしまうと、体格差があるので抵抗が難しい。感じやすい胸元を、ぬるぬると滑る指で思うさま弄られて、ただでさえ音が反響するバスルーム内だというのに、高い声を放ってしまう。

「あ…やぁっ……あぁ…ん」

 次々と押し寄せてくる甘い刺激に、腰がびくびくと揺れる。

「感じやすいな、透は」

「っ…やだ、そこ…」

 透の肩を顎で挟むように捕まえると、篤志は両手を透の下腹部の方に滑らせていく。

 手足や腰から力が抜けていくのに反比例するように、そこだけは欲望を力強く漲らせ、大きさと硬さを増していっている。その様子を逐一篤志にも見下ろされ、恥ずかしくてたまらない。

「ここは、自分で洗う?」

 だが、篤志は途中で手を止めて、そう訊いてきた。透は思わずほっと頷く。

 ボディソープをすくい取って泡立て、自分のそこに擦りつけようとして、ふとためらう。両手でそこを包むような自分の手つきが、まるで。

「透がやらないなら、俺がやるよ」

 しれっとそんなことを言って手を伸ばしてくる篤志を制して、仕方なく、自分の指をその上にそっと滑らせた。

「っ…」

 おずおずと手を上下させると、下肢が震えるような刺激が走る。その感覚がたまらなくて、思わず、自分のものをきゅっと握ってしまった。

 掌に残ったソープのぬるりとした感覚が、既に敏感になっているそこを淫らに刺激してくる。それを塗り広げるように、どんどん硬くなっていくものに沿って手を上下させる。

「そう…続けて」

 肩ごしに降ってくる篤志の声に逆らえない。片手を下に沿えて支え、もう片方の手を素早く上下させると、喉からかすかな喘ぎが漏れた。

「…ん…」

 洗ってるだけだ。頭の中でそう言い訳を繰り返すたびに、指使いはどんどんいやらしくなっていく。擦られている箇所が湯とボディソープに濡れて光り、自分でも正視をためらうほど卑猥だ。

「いつも、そんな風にしてるの?」

「なに、が」

「俺がいないときは…そんな風に、自分で」

 ぶるぶると首を横に振る。

「篤志さんに会えない日は、しない」

 くちゅくちゅ、と、濡れた音を響かせながら、乱れた息で透は必死に説明する。

「一人じゃ、気持ちよくなっても、その分寂しくなるから…しない」

 これが、篤志の指ならいいのに。そんなことを思いながら自分の身体に自分で触れても、不在をより強く意識してしまうだけだから。

「あ…ダメだくそ」

 背後でいきなり篤志が悪態をついたので、透は驚いた。

「透。そんな健気すぎるの反則だろ」

 かすかに苦しそうな声と共に、背中から篤志の身体が離れる。

「どうしたの」

 心配になって振り向くと、篤志はバスタブのへりに腰を下ろし、長身を壁にもたせかけていた。

「篤志さん…大丈夫?」

 気分でも悪くなったかと心配になって、前かがみに顔を覗き込むと、その身体をぐっと引き寄せられる。

「え?」

 足下が滑りそうになって、慌てて壁に両手を付いてバランスを取った。その角度から篤志を見下ろすと、彼の引き締まった体の中心にそそり立つものが、嫌でも目に入る。

「悪い…透、先に出ててくれるか」

「急にどうしたのさ。のぼせた?」

 だが、篤志は小さく息を吐いて首を横に振った。

「情けないけど、さっきので一気に昂ぶっちまった。一回ここで抜く。そうしないと、今日は我慢できなくて透に無理をさせそうだ」

「無理なんて…」

「本番のライブは明日なんだろ。あんまり体力使わせるわけにいかないからな」

 そう言うと、上から覆いかぶさるようになっている透の顔の方に伸び上がって、唇をかすめるようなキスをした。

「透が可愛すぎて、理性が飛びそうなんだ」

 顔を離して、自嘲気味に笑う。

 ああ、もう。本当に、この人は。

 さっきまで感じていた強い性欲とは別の何かが、腹の奥から込み上げてきて、透は笑いたいのか怒りたいのかわからなくなる。

「篤志さんの、莫迦」

 壁伝いに滑り下ろした手を篤志の肩に乗せ、腰を落として、透は篤志の膝を跨いだ。

「透…?おい、この体勢、危ないぞ」

「篤志さんは滑らないように身体支えてて」

 腰の位置をずらして、張り詰めている自分のものと、それより一回りサイズが大きい篤志のものを、三線の竿を握るみたいに一緒に片手で握り込む。

「一緒に抜くよ。俺だって、さっきから限界なんだから」

 巻き付けた指に少しだけ力を込めると、篤志が鋭く息を吸う。

「せっかく今は一緒にいるのに、一人でするなんて、言うなよ」

 透がそう言うと、篤志は目を軽く見開いて、それからすぐに、くしゃっとした笑顔になった。

「そうだったな。悪い」

「謝らなくていいから、ちゃんと…感じてて」

 自分のものと同じくらい、篤志のそれも硬く反り返っている。

 同じように、感じている。

 それが嬉しくて、ただ上下に手を滑らせているだけで達してしまいそうになる。でも、自分が快楽を味わうよりも、今は篤志を頂点まで導きたい。

 くびれの下を軽く握って、指で挟んで先端を弾き合わせるようにすると、ただ手で触れているだけのときとは違う、鮮烈な刺激が走り抜ける。

「んんっ」

 篤志が、顔を仰向かせて低く喉を鳴らした。

「篤志さん…今の、気持ちいい?」

「ん…ああ。いい。すごく、いい」

(あ、これってもしかして)

 精悍な篤志の顔が快楽にほどけていくのを見て、透はふと思う。もしかして、自分をとろとろに甘やかしながら、篤志はいつもこんな気分を味わっているのだろうか。

 この人をこんな風に気持ちよくしているのは自分なんだ、という、誇らしげな気持ち。もっと焦らしたり責めたりして乱れたところを見たくなるような、ちょっと意地悪な感覚。そんな相手を見て自分の快楽も高まっていくことの喜びと、そして、全身を満たしていく愛おしさ。

「なんだか…ずるい」

 思わずつぶやくと、篤志が不思議そうな目でこちらを見る。その鼻先に、ちゅ、とあやすようなキスをする。

「もっと気持ちよくしてあげるよ」

 間欠的に突き上げてくる衝動に自分自身も翻弄されながら、それでも懸命に手を動かして、篤志の中から快感を引き出していく。

 擦り合わせた先端に、湯でもボディソープでもない液体が滲む。それを円を描くように指先で塗り込めていくと、透を上に跨らせたまま、篤志が腰をびくりと浮かせた。

「あ…くぅっ」

 先端の小さなくぼみを指先で優しくこじるように刺激する。篤志の口元から、感に堪えないといった低い声が漏れる。

「んくっ……あ、透…とお、る……もう…」

「篤志さん…俺も、いきそ」

 二本を一緒に両手の中に収め、下からぐいっと扱き上げると、一気に熱がはぜた。握り込んだ篤志のものの先端から白濁が飛び散り、それを追いかけるように、透自身のものも絶頂を迎える。

「透…とおるっ…」

 自分が達したことよりも、自分の名前を叫びながら篤志が達してくれたことに安堵して、透は上体をくたり、と篤志の胸にもたせかけた。

 人を好きになるって不思議だ、と思う。もらうよりも与える方が、何倍も幸せに感じられるのだから。


 改めて身体を洗い流し、下着だけ着けて部屋に戻る。片方のベッドは寝具に手も触れず、透が使っていた方のシングルに二人揃って潜り込んだ。

 細身の透には十分な大きさのベッドだが、そこに背の高い篤志が加わると、さすがに狭い。

「ねえ…今日はもう、しないの」

 篤志の半身の上に乗り上げるように、ぴたりと身体を沿わせながら、透はそっと訊いてみた。

「透は、したい?」

 抱え込むように透の身体に回した手で、篤志がそっと背中を撫でる。

「ん。どっちでも、いいかな」

「なんだそれ」

 機嫌のいい猫みたいに、喉の奥で低く笑う。篤志のこの笑い方が、透は一番好きだ。

「してもしなくても、今は篤志さんといるだけで、すごい幸せだから」

 そう言いながら、篤志の裸の胸に頬ずりをする。

「とかなんとか言いながら、いつもねだってくるのは透の方だろ」

「それじゃ、まるで俺が淫乱みたいじゃないか。それに、もう無理、って言ってもまだ続けたがるのは篤志さんの方だろ」

「それじゃ、まるで俺が絶倫みたいだな」

 どちらともなく、笑い出す。

「じゃあ、今日はこれ以上はやめておくか」

 篤志はそう言うと、軽く身じろぎをして、身体を離した。

「透、寝ちゃう前に何か着ろ」

「なんで」

「東京はまだ寒いからな。万一冷えて喉がおかしくなったりしたら、後で宮良さんにぶっ飛ばされる」

「んー」

 面倒だなあ、と思いつつも、それが正論だとわかっているので、透も身体を起こした。適当なTシャツを引っ張り出して頭から被る。ふと、今の篤志の言い方をきっかけに、気になっていたことを思い出した。

「篤志さん、たっつんに、何か言われた?」

「何か、って?」

「その…俺と一緒に出歩くな、とか」

 篤志は一瞬きょとんとした表情になったが、すぐに「いいや」と首を振った。

「そんなことを言われたのか、透」

「うん…まあ、そういう言い方じゃなかったけどね」

 イメージダウン、か。

 車の中で言われたことを思い出して嘆息する。だがすぐに、気を取り直して笑顔を篤志に向けた。

「でも、今日はここでこうして一緒にいられるから、いいんだ」

 ここへ篤志を呼んだのが達之である以上、少なくとも今夜、この部屋に二人でいる分にはお咎めなしなのだろう。

 ベッドの上に起き上がって、部屋に備え付けのルームウェアを羽織っていた篤志が、優しく笑って手招きをした。

「透、おいで」

「ん」

 Tシャツとスウェットを着て、隣に寄り添うように座ると、すかさずその背中に篤志の上体が覆いかぶさってくる。もぞもぞと身体を動かして、篤志の両脚の間に腰を落ち着け、背中全体を篤志の胸に預ける。

 子供みたいだが、透はこうして篤志に背後から抱きかかえられるのが好きだった。自分の身体があるべき場所にきちんと収まっている感じがするのだ。

「不安に思ってることがあるなら、一人で抱え込まないでちゃんと相談してくれよ」

「うん」

 何か悩み事や心配事を抱えていると、篤志には必ずバレてしまう。考えていることがそんなにわかりやすく顔に出てるだろうか、と、透はいつも不思議になる。

「あのさ…自意識過剰だとか思うだろうけど、笑わないで聞いてくれる?」

 篤志の両腕が、透の胸の下に回されてきた。

「もちろん」

 華奢な背中をぎゅっと抱きしめながら、篤志が真面目な声で請け合う。

「俺がこんな顔じゃなかったとしても、皆、俺の曲を聴いてくれるのかな」

 綺麗な顔だ、というのは、ほとんどの場合褒め言葉だろう。線が細すぎて自分ではあまり好きではないが、てらいのない賞賛は素直に嬉しい。だが、透は容姿を褒められたくてステージに立っているわけではない。

「PALMの音楽を聴いてくれる人たちは、俺の声と外見から、どんな人間を想像してるんだろう。ライブハウスに来てくれる女の子たちは、俺がゲイだって知ったら、裏切られた、って思うのかな」

「うーん、難しいな」

 半ば愚痴に近い自分の言葉に、篤志が意外にも真剣に考え込むので、透は少し慌てた。だが、篤志は一言ずつ慎重に考えながら言葉をつないでいく。

「今PALMの音楽を支持している人の中にも、もし透が付き合っているのが俺みたいな男だって知ったら、掌を返したように攻撃してくる奴が出てくるだろう。残念ながら、世の中ってそういうもんなんだ」

「うん、そうだよね」

「だから、そういう不毛な批判を避けるために、素の自分とは違う『PALMのトオル』っていう誰かを演じなければいけないかもしれない。それでも透は今の音楽活動を続けたいか?」

「それは…」

 考え込んでしまう。

 音楽は好きだ。高校一年生で石垣島に引っ越してから、唄三線はずっと続けている。今では三線は自分の身体の一部のような気さえする。

 人前で歌ったり三線を弾いたりするのは、最初はすごく緊張したが、自分たちの演奏で客席が楽しんでくれているのを見る幸せは、他では味わえない特別なものだ。

 バンド活動というのも透には初めての経験だったが、航希と純と一緒だと、自分一人では絶対に作れない音楽が生まれる。新しいものを作り出す、というより、この世界のどこかに隠されていた音楽を発見する、という感覚に近い。宝探しの仲間として、彼ら二人はかけがえのない存在だ。

「…うん。今は、これを続けたい」

 考えた末に、現時点での覚悟として、ひとつ答えを出してみる。

「そのうちすごくしんどくなってきたら、改めて考えるかもしれない。でも今は、表向き嘘をつかなきゃいけないことがあっても、PALMの活動は続けたい」

 透の頭を、篤志の手がくしゃりと撫でた。そのまま抱え込むようにして、乾かしたばかりの透の柔らかい癖っ毛に鼻先を埋めてくる。

「進むのも、引き返すのも、いつだって透の自由だ。どんな選択をしても、俺はずっと透のそばにいる。そのためなら何でもする」

 改めて、身体に回された篤志の両腕に力が込められる。ぴったりと密着した背中から、低く落ち着いた声が響いてくる。

 その声をじっと聞いていると、不意に涙がこぼれそうになった。

「篤志さんとのことを隠しておきたいわけじゃないんだ」

 本当は、こんな優しい恋人がいることを世界中に自慢したいくらいなのに。

「うん、わかってる」

「PALMと篤志さんとどっちか選べって言われたら、俺は一瞬も迷わない。篤志さん一択だから」

「誰も選べなんて言わないから大丈夫だ」

 篤志の鼻先が、透の頭にぐりぐりと擦りつけられる。

「忘れてるかもしれないけど、俺は透の唄三線の熱烈なファンでもあるんだからな。そもそも、透自身より先に透の歌声と出逢って、心を掴まれたんだから」

 そうだった、と透は思い出す。誰もいないと思っていた展望台で歌っていたら、闇の中から突然背の高い男が現れて、その瞬間に恋に落ちてしまった夜のことを。

「きっと、同じように透の歌声に惹かれている人もたくさんいる。君たちの音楽には、ちゃんと、音楽そのものの力があると俺は思うよ」

 篤志はこうして、いつだって、透が一番安心できる言葉をくれる。

「うん…ありがと」

 透はそっと目を閉じた。涙はこぼさなくて済んだ。


 しばらくそうして、背に温もりを感じながら身体を預けていたが、そっと身じろぎをすると、固く回されていた両腕が少し緩んだ。振り向いて、正面から篤志の顔を覗き込む。

「いつも励まされてばかりだけど、俺もたまには、篤志さんに何かしてあげたい」

 真剣にそう言ったのに、篤志はにやりと人の悪い笑顔になった。

「じゃあ、透からキスしてくれ」

「なんだそれ」

 その頬を指で挟んで軽くつねると、篤志がくすぐったそうに笑う。シャワーの後で髭を剃って今はすっかり滑らかな肌になっているが、透は、少しだけ無精髭の伸びた篤志の顔もワイルドで好きだ。

 短い髪に広い額、鋭い輪郭、凛々しい目元。男らしく精悍な、自分とはまるでタイプの違う男前。一目惚れだったのは事実だが、その外見だけでなくて内面にも、いまだに毎日惚れ直している。

 両手を頬に当てて引き寄せ、目を閉じて、唇をそっと触れ合わせた。いつも自分からするときは、ねだるような甘えたキスになってしまう。でも今日は、与えてもらっている何かを少しでも返したいという願いを込めて、丁寧に唇を重ねる。

 だが、一度離れて、またゆっくりと触れて、と繰り返しているうちに、二人の間で交わされる熱が少しずつ温度を上げていく。気が付けば、篤志の手に後頭部を抑え込まれ、ほとんど噛み付くような荒々しく情熱的なキスを受け入れていた。

「ふぅ…」

 何度目かに顔が離れてようやく深く息継ぎをする。篤志の目に至近距離からまっすぐに見据えられて、身体の奥で、眠ったふりをしていた欲望がぶるり、と震えた。

「ね…やっぱり、しよっか」

 鼻先が触れるか触れないかという距離でそう囁くと、篤志がまた、喉の奥で笑う。

「ほら、そう言うと思った」

「どうせ淫乱ですー」

 そう言いながら、篤志のルームウェアの胸元に手を滑り込ませ、さらなる欲望を誘い出すように、鎖骨の窪みを指先でなぞった。篤志は、がっしりした体格の割には鎖骨の上の凹みが深くて、そのせいなのかここが感じやすい。触れると高確率でスイッチが入る。

「こら」

 篤志は、そんな透の仕草を咎めるような声を上げて、透の手首をぐっと握る。

「絶倫エロオヤジに、明日朝寝坊させられる羽目になっても知らないからな」

「いいよ、明日は十一時までは適当に時間潰してていいって言われてるもん」

 そう言って笑った瞬間、もう片方の手首も掴まれて、ベッドの上に仰向けに押し倒された。

 力の強さで透が篤志に適うはずもない。子供がじゃれるみたいに足をばたばたさせてみるが、ふと見上げると、篤志の表情が思ったよりも真剣でどきりとする。

「篤志、さん…?」

「じゃあ、明日の朝十一時まで、透は俺だけのものだ」

「何言ってんだよ…その後もずっと篤志さんのだよ」

 篤志は、笑顔を作ろうとして途中でやめたような、奇妙な表情になる。

「透。俺だって、本当は言いふらしたいんだぞ」

「え?」

「ライブで透が声援を浴びているのを見るたびに…それどころか、店で食事をしてても、街中を歩いていても、通りすがりの誰かが透に目をとめたり振り返ったりするたびに、『これは俺の恋人だ』って大声で宣言したくなる」

 透は思わず目をしばたかせた。

「大人げないだろ。呆れたか?」

「呆れてはいない…けど…」

 驚いた。まさか、いつも落ち着いていて、滅多なことでは取り乱したりしない篤志が、こんなことを言うなんて。

「透が心変わりするかもしれないなんて疑ってるわけじゃない。束縛したいとも思っていないし、必要とされている確信もある。でも、それでも…ときどき、透が俺の知らないところへ行ってしまうようで、どうしようもなく怖くなることがある」

 透は目を丸くする。自分よりもよほど大人の篤志が、自分と同じようなことを考えていたなんて、思いもしなかった。

「だからせめて、俺しか知らない透がいることを確認して、安心したくなるんだ」

 透を組み敷いたまま、篤志はまるで果物にでもかじりつくように口を開けて、その首元に顔を寄せてきた。

「あ…そこ、跡付けちゃだめ」

 必死に顔を逸らして逃れようとする。明日のステージでは、いつものように上は半袖Tシャツ一枚だけで演奏する予定だ。万が一にも見咎められるような跡を残すわけにはいかない。

 透の制止に、篤志は一瞬びくっと身をすくませた。

「…くそっ」

 押し殺した声と同時に、首筋をべろりと舐め上げられる。

「ひぁん」

「そんな色っぽい声、ステージで歌ってるときは絶対出すなよ」

「なっ…出るわけないだろ、って、あっ」

 篤志は素早く、透が履いているスウェットを引っ張り下ろし、両足首から完全に抜き取ってしまった。

「ちょっと、まっ…て」

 透の両脚の間に、篤志が自分の身体を割り込ませてくる。そのまま、膝の裏に手を当ててすくい上げた。

「ここなら、跡を付けてもいいよな」

 内腿に篤志の吐息がかかる。

「や…あぁっ」

 脚の付根の内側の、肌が柔らかく敏感なところを、篤志の唇に強く吸われた。続いて、反対側の同じところも。

 白い肌に、薄紅色の花弁がくっきりと浮き上がる。引き攣れるような弱い痛みは、たちまち快感へと姿を変え、透の全身を細かく震わせる。

「ああ、くそ…どこもかしこも、しゃぶりつきたくなる」

 透の身体からもぎ離すように篤志が自分の身を起こした。

「いいよ。しゃぶりついてよ」

 挑発しているという意識は透にはなかった。ただ思ったことをそのまま口にしただけだ。

 正面から向き合って目を見交わすと、篤志は透の顔を両手で挟んで引き寄せ、食らい付くようなキスをしてくる。濡れた唇がぴたりと重ねられ、舌をねじ込まれる。

「んふぅ…んん……っ!」

 角度を変えて深いキスを繰り返す。その合間に、むしり取られるような勢いで服を脱がされた。

 篤志は、自分も着ていたものを性急な手つきで取り去ると、ベッドの上に起き上がり、自分の膝の上に透を跨らせる。

「もう、こんなに硬くなってる」

「ぁあっ…」

 股間を無造作に撫で上げられたかと思うと、そのまま大きな手の中に握り込まれた。きつく握られて上下にしごかれ、電流のような刺激が走る。下肢にたまっていた熱が出口を求めて暴れ出す。

「やだっ、だめ…そんな、したら…すぐ…」

 こぼれ始めた淫液が幹を伝い、篤志の指を濡らす。だが、篤志は透を責め立てる手を一向に休めようとしてくれない。

 ぬちぬちと卑猥な音が響き、耳からも透の羞恥を煽る。力を抜いたらすぐに達してしまいそうで、透は篤志の肩に回した両腕と、腰を挟んでいる両膝に、くっと力を込めた。

「こら…透、急かすなっ…」

「あ…でも、もう…篤志さんだって…」

 手を伸ばして、透のものと同じくらい熱く張り詰めている、篤志の太い屹立に触れる。

「当たり前だろ」

 呻き声が耳に吹き込まれる。切実に求められているのが伝わってきて、たまらないような気持ちになる。

 前を弄っていた篤志の手がようやく離れた。だがその手は、すかさず後ろに回される。

「…は、あっ…」

 濡れた指先を奥の窄まりに押し当てられて、喉が大きくのけ反る。

「少し、ほぐそうか」

 ベッドサイドに、ホテルからサービスアメニティとして支給されたマッサージ用のアロマオイルが置いてあった。篤志がそのパッケージを取って、中身を手になじませる。

 ジャスミンの香りがふわっと広がって、一瞬、二人が出会った南の島に戻ったかのような錯覚を覚えた。

「…ぃやっ……あ……っ」

 つぷり、と、ぬめる指先を埋められた。蠢く襞を掻き分けるように、秘部を侵してくる。

 生理的な反射で、透のそこは一瞬、押し返すように固く締まった。だが、浅いところで指先を前後に動かされると、たちまちとろりとほどけ、篤志の指を関節のところまですんなりと呑み込んでいく。

「いつもにも増して、感じやすいな」

「篤志さんの、せい、だって…っ」

 呼吸を乱しながら軽く睨むが、中をまさぐる篤志の指の動きが早くなると、語尾がそのまま喘ぎ声に変わってしまう。

「そんな可愛い顔するな…我慢がきかなくなるから」

「だから、なんで我慢なんか、するんだ、ってば」

「あ、透…おい…っ」

 前かがみになって、篤志の鎖骨を甘噛みする。

 それが何かの合図ででもあったかのように、ずるり、と、後ろから篤志の指が抜かれた。そのまま、オイルに濡れた両手の指に尻を鷲掴みにされる。

 立ち上る濃厚な花の香りと、快楽の予感が、透の全身をとろかしていく。

「待て、って言われても、もう聞けないからな」

 篤志の低い声に透は頷く。

「うん、もう、待てない」

 硬く勃起している篤志のものを手の中に収め、前ににじり寄る。すっかりほころんでいる入口に熱くたぎる先端を押し当て、一気に腰を落とした。

 オイルで滑りがよくなっている。そのままためらうことなく、根元までめりこませた。

 篤志の太い楔が、奥をこじ開け、空隙を隙間なく埋めていく。

「あ、ぁっ」

 待ち焦がれていた感覚に甘い声を放ってしまう。と、同時に篤志も低い悲鳴のような声を上げた。

「うっ…あ、とお、る」

「あ…篤志さん…」

 互いの名を呼び合う声は、もはや安堵の吐息に近い。

「くっ……動かす、ぞ」

 篤志が透の腰骨を両手で掴み、繋がったところを起点に前後に揺する。

「うあぁ…っ……」

 びりりとした刺激が、下肢から全身を駆け巡った。思わず腰を浮かすと、それを追いかけるように、下から突き上げられる。

「ああぁっ…ん、それっ…」

 強すぎる快感から一時的に逃れようと身体をねじると、中で当たる角度が変わって、逆に一層強い刺激が走る。膝から力が抜けてへたり込みそうになると、その動きに合わせて、ぐっと奥を穿たれる。

「やあっ…は、あああっ…!」

 がくがくと身体を揺さぶられ、自分の体重も加わって、接合はより強く、深くなる。

 でもまだ足りない。どこまでも深く繋がりたい。ひとつに溶け合って、そのまま二度と身体を離したくない。

「ああ、透……とお、る…」

 逃さないとでもいうように、背中から肩かけて腕を回され、全身を抱え込まれた。

「ひ、あんっ……」

 ずん、と一際強く奥を突かれ、悪寒にも似た、でももっとはるかに甘美な感覚が、全身を駆け抜ける。

「あつし、さん、あ、あつし、さん…」

 流れを堰き止めておくのも、もう限界だ。呼吸をするのもままならないほどの快感に翻弄されながら、震える声で篤志の名を呼ぶ。そうすることで、彼を飽くことなく求めてしまう自分の罪深さを懺悔する。

「透」

 篤志の唇に目尻を小さく吸われて、初めて自分が涙をこぼしていたことに気付いた。

 目を大きく見開いて、篤志の顔をじっと見つめる。その瞳に、いつになく激しい雄の欲望が燃えている。猛々しく美しい、捕食者の双眸だ。

 食われてしまいたい。そうしたら、ひとつになれる。

 想像して、官能に全身がわななく。そんな透の様子を見て、篤志がにやりと唇を歪めた。

「透、顔が強烈にエロい」

 限界まで昂ぶっている身体をさらに熱くさせるようなことを言う。

「もう、そういうことっ…言う、な」

「本当なんだから仕方ない」

 篤志の手が下に伸びて、腹につきそうなほど反り返っている透の屹立を、容赦なくしごいた。

「っ……んっ……だ、め…」

「イクときの顔も、見せてくれ」

 はしたないほど硬くなったものを握られたまま、腰をゆっくりと揺すり上げられる。張り詰めた身体に追い討ちをかけるような刺激が、前と後ろとに同時に与えられ、透を篭絡する。

「あ、くっ、あ…あああっーーー」

 身体の中で花火が炸裂したような気がした。心臓が壊れそうに強く拍動し、それに合わせて、下半身がびくびくと痙攣する。

 背を大きく弓なりにのけ反らせたまま力が抜けてしまって、そのまま後ろ向きに倒れそうになるのを、篤志の腕に支えられた。

「あっ…はぁ……あ…あつし、さん?」

 精を放ってくたりとした透から芯を抜くように、篤志のものが中から出ていく。

 ぬぷり、といやらしい音を立てながら抜かれた太い幹の上に、篤志はすかさず、透の手を取って重ねる。

「もう一度、透の手の中で、いきたい」

 透の手の上から被せて包むように、篤志の大きな手がぎゅっと握られた。つい今まで自分の中にあったそれは、凶暴なほどの熱を漲らせてどくどくと脈打っている。その欲望が、透の指が触れた瞬間にぶるりと震えた。

「っ…」

 押し殺したような篤志の声と共に、ぴんと張ったものが弾けるのがわかった。ほとばしった濃い液体は、絡み合わされた二つの手を濡らしただけでなく、篤志の腹の上にまでぱたぱたと飛び散る。

 その激しい反応に、透は半ば呆然とつぶやく。

「どうして…挿れたままで、よかったのに」

 寂しい、とさえ思ってしまった。

 むしろ透としては、篤志のむき出しの欲望をそのままぶつけてほしかった。そんなことは、このいつも穏やかな恋人には珍しいことだったから、それをそのまま受け止めたかったのだ。

 だが、篤志は息を弾ませながら、首を振る。

「後が大変だろ。明日大事なライブを控えてるってのに、余計な負担増やしてどうするんだ」

 そして、荒い呼吸の隙間に、ふっと笑いを漏らす。

「そんな強引なマーキングみたいなことしなくても、透は俺のものだって、ちゃんとわかってるから」

「…俺の股ぐらにマーキングした絶倫エロオヤジはどこにいったんだよ」

 篤志の気遣いとは裏腹に、本能の赴くままに貪り欲していた自分を思い出すと恥ずかしくて、透は照れ隠しに減らず口を叩いた。すると、篤志は枕元のティッシュで透の手をぬぐいながら、こともなげに言う。

「あー、危なかったなあれは。首にキスマーク残すところだった。ちゃんと止めてくれてありがとな、透」

 困ったように笑うその笑顔を見て、なぜだか、胸がきゅうっと締め付けられた。

「ああ、本当にもう…」

 今日何度目かの呆れた溜息をつく。

「本当に……大好きだよ」

 両腕を広い背中に回して、抱きついた。

 どうしたってこの人には適わない、と透は思い知る。自分がこの人のことを甘やかしてあげるなんて、一生無理なのかもしれない。それならば諦めて、もう最初から、とことん自分が甘えることにする。

 顔を上げて、うっすらと開いた唇に、篤志の吐息がかかる。

「…俺もだ」

 優しく、でも熱く唇を塞がれた。

 触れているだけでとろかされそうなキスに、安心して身を委ねる。誰かに甘えられる、と思うだけでこんなに身も心も満たされるなんて、篤志と付き合うようになる前の透は想像すらしていなかった。


 眠ってしまうのが惜しいくらいだったのだが、篤志の身体にくるまれるように横になると、瞬く間に安らかな眠りが訪れる。気が付けば朝になっていて、窓から見下ろす平日の都会は既に動き出している気配が察せられた。

 ホテル内のレストランで一緒に朝食をとるのは、なんとなくためらわれた。昨夜の情事をお膳立てしてくれた形の達之と鉢合わせたら気恥ずかしいし、航希や純に至っては、露骨にからかってくることだろう。

 そう打ち明けると、篤志はあっさりと「じゃあ、外に行こう」と言った。

「ちょっと歩くけど、先輩に教えてもらった穴場のファミレスがある。特に面白い場所じゃないけど、平日の朝なら気兼ねなく仕事できるような店だから、のんびりできる」

「うん、少し歩きたい気分かも」

「じゃあ散歩がてら、帰りに近くの公園にでも寄るか。この時間なら三線の練習くらいできるだろ」

「あ、そういうの、いいな」

 午前中に効率よく観光できるような場所も思い付かないし、篤志と一緒にゆっくり過ごせるのならどこでもよかった。誰も自分たちのことなど気に留めない街で、二人で並んで歩けるのならば、それだけで透にとっては楽しいデートだ。

 目当てのファミリーレストランは思ったよりも混んでいた。席に座り、注文した料理が運ばれてきてしばらくすると、すぐ隣の席にも二人連れの客が案内されてくる。

 そちらにちらりと目をやった篤志が、驚いたように目を瞠った。

「どうかした?」

「いや…ちょっと」

 そう言いながら、手元の一眼レフの電源を入れる。透も、さりげなく隣席の様子を伺った。

 こちらと同じく、男二人連れだ。二人とも短髪で、細いが筋肉質の体型をしているので、現役のスポーツ選手のような見た目だ。

 篤志と並んだ側に座った背の高い男は、透とあまり変わらない年頃のようだが、浮付いたところのない、大人びた雰囲気だ。少し堅い印象だがきりっとした顔立ちで、篤志と出逢う前の透だったら、ちょっと惹かれていたかもしれないタイプのいい男だ。

 ゲイだというのは直感でわかった。専門学校時代はそれなりに男遊びをしていたし、その後は離島の狭い社会で自分の性癖を隠して暮らしてきたから、同類かどうかを見分ける目だけは随分と鍛えられた。

 一方、その向かい、透の側に座った男は、ぱっと見はノンケだ。陽気な雰囲気で、連れより少し年上のようだったが、むしろこちらの方が表情は若く、いかにも人懐こそうな笑顔を浮かべている。

「なーなーなに頼むー?」

 隣の男がうきうきとした様子でメニューを開く。

「俺はコーヒーで」

「おまえ、いっつもそれじゃーん。たまにはメニューくらい見よーぜ」

「どんだけメニュー熟読しても、結局あんたもいつも同じもの頼むじゃないですか」

 チェーンのファミリーレストランなのに、まるでテーマパークに遊びに来た小学生のように楽しそうな隣の男に対して、向かいの男はやや憮然としている。だが、その声はどこか、相手を甘やかしているような響きだ。一見不機嫌そうな顔をしているのだが、涼しげな目元の奥に、何とも言えない温かい光がある。

 これによく似た目を、透は知っている。

 その目の持ち主に視線を戻すと、篤志は意味ありげに笑って、手にしていた一眼レフの液晶画面を透の方に向けた。

「あれ?」

 その小さなモニターに、今まさに隣のテーブルにいる二人が映っている。オレンジ色の作業服のようなものを着て、ずっと真剣な表情をしているが、間違いなく同じ顔だ。

「二月に、東京出張を急遽一日延ばしたことがあったろ」

 隣を気遣ってか、篤志の声は小声だ。もっとも、鼻歌を歌いながら楽しそうにメニューをめくっている透の隣の男の耳には、こちらの会話が聞こえている心配はなさそうだが。

「うん、なんか、お世話になった先輩にどうしてもって頼まれて、助っ人に入ったとか言ってたよね」

 一緒に住み始めて一カ月も経たない頃だったので、那覇に戻るのが一日遅くなる、という篤志の連絡に、ひどく落胆した記憶がある。

「そう。実はこの店を教えてくれたのもその人なんだ。今は専門誌の記者をやってるんだけど、同僚のカメラマンがインフルエンザに罹ったとかで、ここのすぐ近くの消防署の取材に駆り出されたんだよ。これがそのときの写真」

 なるほど。この二人は消防士だったのか。

「どれも、いい写真だね」

 消防署での救助訓練か何からしい。写真からも現場の緊迫感が伝わってくる。一通り見せてもらってからカメラを返すと、篤志はにやりと笑って、横目で隣の席を見た。

「被写体がよかったからな」

 つられるように、透も隣を見る。

「…いいなあ」

 コーヒーを口にしながら、ぽつりとこぼれた本音を、篤志が聞き咎める。

「何が?」

「なんでもない」

 慌てて首を振って、にっこりと笑った。

 隣席でオーダーをしている彼らの様子は、どこかぎこちない。付き合い始めたばかりのカップルかな、などと想像する。だが、先程の一連の写真からは、既に彼らの間に強い絆があることがはっきりと感じられた。

 きっと恋人同士である以前に、信頼し合える同僚なのだろう。相手の仕事の顔もプライベートの顔も、どちらもよく知っているというのはどんな気分だろう。透には、仕事の現場での篤志の姿を見る機会はほとんどない。

「篤志さん、今日の夜は遅くなりそうなんだよね」

「うん、ごめんな。ライブに行きたいのはやまやまなんだが、今夜の出版記念パーティーは一応主役の一人だから、どうしても外せないんだ」

 篤志が文章と写真を担当していた科学雑誌の連載企画が、この度まとめて書籍化されることになったとかで、最近はその関連の仕事にかなりの時間を割いていたようだ。

「いや、それ冗談でも俺たちのライブに来てる場合じゃないから」

 もちろん、初めての東京での本格的なライブイベントを見てもらえるなら最高だったのだが、篤志にとっても、今夜の会はキャリアにおける晴れ舞台のはずだ。

「まあ、パーティーといっても、お世話になった研究室の先生たちや担当編集者と集まって、小ぢんまりとやるだけだから、あまり気兼ねはいらないんだ。夜は適当に連絡入れる」

「うん、俺たちも今日の夜は打ち上げで遅くなると思う」

 次に二人でゆっくり過ごせるのはいつになるだろう。篤志が那覇に帰ってくる夜は、透は次のライブに向けたスタジオリハが入っている。頭の中で日付を数えながら洩らしそうになる溜息を、コーヒーの最後の一口でどうにか飲み下した。

 そろそろ行くか、とつぶやきながら、篤志も時計に目をやる。二人で過ごす時間は、なぜかいつもあっという間に過ぎてしまう。

 そのとき、隣の男の嬉しそうな声が耳に入ってきた。

「おまえ一口食うか?」

 ついそちらを向くと、自分の皿のホットケーキを得意そうに一口分切り分けている、子供みたいに無邪気な横顔が目に入る。

(うわあ、ケーキの分けっこだって。いーなー、かっわいー)

 どう見ても自分より年上だが、目の前にいる相手と過ごせるのが嬉しくて仕方ない、という様子が、透の目にはなんだか眩しく映る。

 だが、向かいの男はきまり悪そうにそれを断って、辺りを見回している。確かに体育会系の男二人が、朝のファミレスでホットケーキを仲良くシェアしている図は、傍目にはかなり奇異に映るかもしれない。そういうことを気にする彼の心理も、透にはわかるような気がする。

 一方のホットケーキ氏は、そんなことは意に介した風もなく、こちらが二人を見ているのにも気付かない様子で、「いいじゃん、付き合ってんだしー」などと声をひそめもせずに言い放つ。

 あーそうだよね、元ノンケって意外とそういうことに無頓着だよね、と、篤志の方をちらりと見ると、向こうも同じように、何か思い当たるといった表情で透を見ていた。

 その、元ノンケらしき彼が先ほど切り分けたホットケーキの欠片をフォークに刺して、あーん、と彼氏の方に差し出している。だが、差し出された方は焦ったように顔の前で手を振る。

「その……外でそういうの、恥ずかしいんで」

 その姿に、人目ばかり気にして、篤志の愛情表現を素直に受け止めることができなかったかつての自分を重ねて見てしまって、透の胸がちくりと痛んだ。

 気が付けば、立ち上がって声をかけてしまっていた。

「恥ずかしがると、かえって変な目で見られるんですよ」

 コーヒーを飲んでいた男は一瞬ぽかんとしたが、すぐに表情を引き締めて、透と篤志とを胡散臭そうな目で見比べる。無理もない。そもそもいきなり不躾なことを言い出したのは透の側だ。

 でも、透はどうしても、不器用そうなこの人の味方になりたい、という気持ちを抑えられなかった。

「そのうち、人の目なんか気にしていた自分が莫迦みたいに思えますって。隠そうとしてびくびくするほうが、よっぽど陰で何か言われますから」

 大きなお世話だよ、と自分でも呆れる。でもその言葉は、目の前にいる彼への忠告というより、むしろ自戒の言葉だった。

 自分がゲイだと明かしたら離れていくファンもいるかもしれないが、そんなの知ったことか、と思う。ミュージシャンとしてのイメージに傷が付くかもしれないなんて、先回りしてあれこれ気に病むことじゃない。少なくとも、大切な人と過ごす貴重な時間を犠牲にしてまで思い悩むことじゃない。

「ほらぁ。この人もこう言ってんじゃん」

 ホットケーキ氏は、子供みたいににこにこと笑って、透の言葉に頷いた。

「……あんた、すぐ周りの人に影響されるんですから」

 あ、やっぱり、と透は確信する。鍛えた鋼のように厳しく鋭いこの人の雰囲気が、彼と接するときだけ、はっきりと和らぐ。その表情に、つい笑いがこぼれてしまった。

 そういう特別な相手と共に過ごせることに比べたら、他人が自分をどう見ているかなんて、些細なことだ。透が忘れかけていたそのことを、この二人は思い出させてくれた。

 二人のやりとりを聞いて篤志も同じように笑っていたが、ふと真顔になって、男に語りかける。

「わからなくもない。あなたは相手を大事に思っているから、隠しておきたいんでしょう」

 その静かな言葉にどきりとする。篤志はきっと、透を非難の矢面に立たせるくらいなら、自分の気持ちに蓋をする方を選ぶだろう。一度そうと決めたら、二人の関係を守るために、最後まで秘密を守り抜くだろう。

「い、いえべつに大事になんて……」

 彼は篤志の言葉を否定しかけたが、途中で言葉を切って、気遣うような様子で向かいの男に視線を投げた。その真摯な表情を見るだけで、年上の彼がめろめろになるのもわかるなあ、と思ってしまう。

 あまり邪魔しても悪いと思ったのか、伝票を手に篤志がレジの方へと向かう。それに続こうとして、透はふと思い付いた。

 鞄の中から、持ち歩いていた新作のCDを一枚取り出すと、ゲイらしき彼の方に強引に手渡す。自分の外見にもセクシャリティにもまったくこだわらないであろうこういう人にこそ、自分たちの音楽を聴いてもらいたかった。

「僕が参加してるユニットなんだ。ギターと三線って意外な顔されるけど、うちのバンドはなかなかだからね」

「はあ」

 せいぜい、売り出し中のミュージシャンらしい顔を作って、自信たっぷりに言ってのける。

 ちらりと向かいの男の方を見ると、ホットケーキの残りを熱心に平らげているところだった。その彼に聞こえないように、声を落として囁く。

「片方がノンケでも、うまくいく恋だってあるよ。僕らもそうだったから」

 うまくいく。いかせてみせる。何があっても。

 じゃあね、と手を振って、篤志を追いかける。自分の心に、新たな勇気が湧いてきたのを自覚しながら。


 ホテルの近くの公園の大きな桜の木は、もう花も散って若い緑が萌え出ている。

 その下に座って、持ち歩いていた三線を構えた。さすがに都会の真ん中であまり大きな音を出すわけにはいかないから、「忍びウマ」と呼ばれる、反響をあまり大きくしないための部品を弦の下に差し込んだ。

「透が歌ってるところ、撮ってもいいかな」

「うん」

 透が頷くと、篤志が手の中の一眼レフを構える。

「前に篤志さんが、恋の歌は古今東西どれもよく似ていて、ありふれているけど普遍的だ、みたいなことを言ったよね」

 静かに調弦をしながらそう言うと、篤志はカメラのファインダーを覗き込んだまま、うん、と相槌を打つ。

「人は一人ひとり皆違うのに、誰かを好きになる気持ちの本質は、不思議なくらい同じなんだろうな」

「…さっきの、隣のテーブルにいた彼らのことか?」

「ふふ」

 やっぱり同じことを考えてる、と思って可笑しくなる。きっと篤志も、彼らの姿に自分たちを重ね合わせて、何がしかを思ったのだろう。

「意外と皆、同じように悩んでるんだな、と思って。で、俺たちの音楽を聴いた人も、そういうことに気付いてくれたらいいなあ、なんて思った」

「うん?」

「嬉しいことも哀しいことも、つらくて悩んでいることも、ちゃんと分かち合える人がどこかにいるよ、って気付くために、ありふれた歌を聴くのかもしれないよね」

「ああ。そういうの、あるのかもな」

 仰向くと、よく晴れた空から降ってくる光が、若い緑の合間からこぼれている。

「毎回自分のことでテンパってるけど、今日のステージでは、俺も同じだよ、って誰かのことを励ませるような、そんな演奏ができたらいいな」

 ぱらり、と弦をはじく。

 今回のオリジナルCDに入っているのは、ほとんどが航希の作った曲だったが、透が作詞作曲した曲も一つだけ入っていた。録音するつもりはなかったのだが、航希も純も「トオルらしい曲」だと気に入ってくれたのだ。

 石垣島の海に沈む壮麗な夕日を思い浮かべて作った『茜』という曲だった。空が炎に包まれたかのような夕焼けは、翌日の好天を約束してくれる。前に進むのがどうしても怖くなるようなときに、夕焼けを思い浮かべて、一歩だけ足を前に出してみる、そんな思いを込めたつもりだった。

 その曲を、三線一本で静かに歌う。

 さっきの二人の嬉しそうな、あるいは戸惑ったような顔が脳裏に浮かぶ。航希や純や達之や、一緒に仕事をしてくれるスタッフの顔を思い浮かべる。石垣島にいる八重山民謡の師匠や、その師匠に自分を紹介してくれた、唄三線の大先輩でもある真栄里真哉。島の高校時代の同級生や、昔の仕事仲間。あるいは、もう顔も覚えていないけれど、かつてどうしても夜を独りで過ごしたくないときに束の間の温もりをくれた相手もいたことを思い出す。

 そして、そうやって頭で思い描くことをしなくても、目を上げればそこにカメラを構えた篤志の柔らかな笑顔がある。自分の人生は、この人の隣にある。晴れの日も嵐の夜も、この先ずっと。

 歌い終えて、ふうっと深く息をつくと、背後の思いがけないところから拍手が響いた。

「貴重な自由時間にも新曲の練習かー。感心感心」

 振り向くと、八重歯を覗かせてにかっと笑った航希と目が合う。

「二人きりのところ邪魔してわりーな。近くを通ったら三線の音が聞こえたからさ」

 純はそう言いながら、被っていた帽子を取って律儀に篤志に会釈をする。

「田辺さん、昨日は無理言ってすみませんでした…あ、写真撮ってらしたんですか?」

 達之までいるとは。

「ごめんなさい、アーティストの写真を勝手に撮影しちゃって」

「だめですよ検閲しますよー。どれどれ…あ、これなんかいい表情に撮れてるなあ、宣材に使わせてもらおうかな」

「プライベート料金として、使用料は五割上乗せでお願いしますね」

 二人のやりとりを聞きながら、透はぽかんとしてしまう。篤志と達之がここまで意気投合しているとは意外だった。もっとも、篤志は初対面の人間とでもすぐにこうやって打ち解ける。特別社交的に振る舞うわけでもないのだが、不思議な人だ。航希も純も、今では篤志のことを少し年上の従兄弟でもあるかのように慕っている。

「元気出たか」

 ぽん、と肩に手を置かれて、見上げると航希が真顔で透の顔を覗き込んでいる。

 そこまで落ち込んでたわけじゃない、とか、心配をかけてごめん、とか、色々な返事が頭の中を瞬時に駆け巡ったが、どれも不要な言葉だと気付いた。代わりに、大きな笑顔を一つ作る。

「うんっ」

「おーおー、かーわいい顔しちゃって。やっぱ篤志さんマジック、威力絶大ー」

 逆側から伸びてきた純の手に、頬をぐりぐりとやられる。

「あのさ、コウキ、ジュン」

 ひとしきり笑い合った後、透は真剣な顔つきに戻って二人の顔を見る。

「俺やっぱり、自分がゲイだってことは、いずれちゃんとオープンにしたい」

 静かに、そう宣言した。

「うん。トオルは、そう言うんじゃないかと思ってたよ」

 航希は驚いた素振りすら見せない。

「反対しない?」

「そりゃ、俺らが反対したりすることじゃないっしょ」

 純もあっさりと言う。

「でも、一緒に活動している二人にも迷惑がかかるかもしれない」

 綺麗事では済まされないだろう。激しい拒否反応や、予想もつかないような軋轢を生むかもしれない。できれば航希や純を巻き込みたくはないが、おそらく、そうも言っていられない事態になる。

「あのさートオル。俺らがそれ覚悟してないと思う?お前まだあんまりそういうの経験ないだろうけど、この世界、人を妬む奴がホント多いから。ちょっと名前が売れただけでわけのわからん誹謗中傷されるのとか、もう日常茶飯事っしょ」

 純がそう言って肩をすくめる。

「そーそー。俺なんて前のバンド抜けたの、ボーカルと女の取り合いしたのが直接の原因だなんていまだに言われてるもんなー。あいつと同じ女を取り合うほど趣味悪くないっつうの」

 航希もおどけた風に言うと、いつものさばさばとした調子で続ける。

「だからさ、嘘つこうが本当のことバラそうが、どっちにしても悪口は言われるんだって。そんなら自分がやりたいようにやった方がいいだろ」

「……」

 予想外の二人の返事に、透はただ黙って頷くしかない。

「おーい、たっつん」

 いつの間にか篤志とカメラ談義で盛り上がっている達之を、純が呼ぶ。そして、何を言い出すかと思えば。

「トオルがそのうちどこかのステージで、『俺の恋人を紹介しまーす』って交際宣言するってさー」

「えええええ?」

 文字通り跳び上がった達之の様子に、航希も純も笑い転げる。

「いや、それは勘弁してくれ。俺はその会場で、透のファンに刺されたりしたくない」

 目を白黒させている達之の代わりに、妙に冷静な調子で篤志が応じた。

「そ、それは困る!交際宣言はしない!」

 透が慌てて立ち上がる。その場面を想像してしまって、背筋が凍った。

 だが、青くなった透を見て、航希と純だけでなく、達之と篤志までもが愉快そうに笑い出した。

「なんだよっ。本気で心配してんのに」

 あまりに大笑いされたので、むくれて篤志を睨む。だが、篤志は全開の笑顔のまま、透の方に歩み寄った。

「ああもう。本当に…」

 そして、航希たちがいるのも構わず、透の身体を抱き寄せる。

「本当に…俺は透のことが好きで好きでどうしようもない」

 小さく耳打ちをされて、今度は一気に顔が赤くなる。その様子を残る三人がにやにやと眺めていて、余計に頬が火照る。

「そんなの…一緒だよ」

 それだけを小さくつぶやく。いや、もしかしたら声に出して言うまでもなかっただろうか。

「はいはいはい、皆そろそろホテル戻るよ」

 時計を見て、達之が修学旅行の引率の教師のように手を叩く。航希がうーん、と伸びをする。純が帽子を被り直す。

 篤志が、透の身体に回していた手をするりとほどく。

「じゃあ、俺もそろそろ行くな」

「うん」

 頑張れよ、も、気を付けて、もない。もちろんお別れのキスもない。それでも、ほんの一瞬目を合わせるだけで、すべて伝わってくる。

 誰かを好きだという気持ちは、本当に不思議なくらい、こんなにも、同じだ。

 だからきっと、届く人のところには、歌はちゃんと届くだろう。

 篤志と小さくハイタッチをすると、透は持っていた三線をしっかりと抱え直して、航希と純と達之の後に続いた。

 

 

Many many thanks to:

暮野逢さま

 

※この小説は、暮野逢作『恋人はオレンジ色』のワンシーンから着想を得て書かれたものです。当該シーンを拝借することをご了承いただいた暮野さまに、深く深く感謝申し上げます。


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