『オペラ座の夜』

 ミラノ・スカラ座。

 そこはオペラを愛する者にとっての聖地だ。

「今回のエイズ撲滅チャリティ・コンサートの出演者に選ばれた、率直なご感想は?」

 若い女性記者は、質問をしながら天瀬諒(あませりょう)の美貌に熱い視線を注いでくる。頬を軽く上気させ、取材者というより一人の女性としての顔つきだ。もっとも諒は取材者のこういった視線には、男女問わず、とっくに慣れっこになっていた。

「なぜ私たちキャリアの浅い若手に声が掛かったんだろう、とまず思いましたね」

 その口に微笑みでも浮かべれば、相手はすっかり舞い上がったかもしれない。だが諒は「アイス・ビューティ」と称される顔をほころばせもせず、つけつけと言葉を続ける。

「チャリティということはギャラなしですよ。功成り名遂げて懐具合の心配もなくなったような、自他ともに認める重鎮が率先してやるべきだと思いませんか」

「そ…うです、ね」

 女性記者は明らかに鼻白んでいる。諒はそれを見て危うく小莫迦にしたような笑いを漏らすところだった。

 諒のこの性格も知らずに取材に来たわけでもあるまいに。

「プログラムについてはどう思われますか」

 辛辣な共演者批判など始まってはたまらないと思ったのか、記者は質問を変えてきた。

「『行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って(ヴァ・ペンシエーロ)』をスカラ座で合唱できるのは嬉しいです」

 オペラ「ナブッコ」の最も有名な曲で、イタリアでは「第二国歌」として親しまれるこの歌には、諒も特別の思い入れがあった。今回のコンサートではフィナーレで出演者全員が歌うことになっている。

「ミスター・アマセがソロで歌われるのは、オペラ・トゥーランドットから『誰も寝てはならぬ(ネッスン・ドルマ)』。これもイタリアのみならず全世界で人気のアリアですが」

「スカラ座の天井桟敷に詰めかける熱狂的なオペラファンから野次を飛ばされないように気をつけますよ」

 もちろん諒には、そんなオペラ通をも呻らせる歌声を聴かせる自信はあった。とはいえ、自分の評判についてもよく承知していた。

 東洋人に特有の肌理の細かい白い肌に漆黒の髪。氷のように冷たい美貌とは対照的な、焔のように情熱的な歌声。そして、傲慢とも受け取られるプライドの高さ。今や世界で最も将来性のあるテノールの一人と目される天瀬諒は、熱狂的な崇拝者がいる一方で、誹謗中傷に近い酷評を浴びることも珍しくない。

 今回も、「リョウ・アマセには王子カラフよりも、むしろ氷のような心を持つトゥーランドット姫の方が似合うのでは」などと陰口を叩かれているらしい。もちろんこれは、超人的なソプラノの技量が求められるトゥーランドット役に対しても失礼極まりない言い草だが。

「そういえば、ミスター・アマセはミラノの音楽学校を卒業されていますね。この地に何か特別の思い出がおありですか」

 諒は、記者の着けているらしい香水の甘ったるい匂いから顔をそむけ、ホテルの窓の外を見やった。

「プライベートの時間に再訪しようと思っている店はあります」

 それはどんな店ですか、という記者の質問に対して、諒は軽く首を振っただけで答えなかった。

 

 サルトリア・ダッラリ・ドラーテ。直訳すれば、仕立て屋・黄金の翼。

 ミラノの旧市街にある高級紳士靴の店舗兼工房だ。熟練の職人がフルオーダーで顧客のために世界に一足しかない靴を作る。工程はすべて手作業。手間がかかる分、見た目も履き心地も、出来合いの商品とは一線を画す。

 店の入り口の扉を開けると、店主兼職人のロベルトが両手を広げて諒を迎える。

「ボンジョルノ、シニョーレ・アマセ。できておりますよ」

「ありがとう」

 店内の椅子に腰を下ろし、脚を放り出すように足台に乗せる。ロベルトは素早くその前に跪くと、諒が履いていたレースアップのブーツを恭しく脱がせ、飴色の革に微妙なアドバン仕上げを施して陰影のある色合いを出したストレートチップをすっと履かせた。

「ここの靴は、もはや試し履きの必要すらないのだけれどな」

 店内の床の上を歩いてみながら諒は呟いた。ロベルトが履かせてくれた瞬間から、その靴はまるで自分の身体の一部であるかのようにすんなりと足に馴染む。

「恐れ入ります」

 最初に諒が靴を作ってもらったときは四十台前半で脂の乗り切った職人だったロベルトも、今や髪はすっかり薄くなり、顔には柔和な皺が増えた。最近は息子のダリオが腕を上げてきているらしいが、まだ当分は第一線を退くつもりはないようだ。

「明日のラ・スカラでのコンサートは、私も店を早じまいして観に行きますよ。シニョーレ・アマセの歌声を生で聴けるのが楽しみで」

「なんだ、言ってくれれば招待券を手配したのに」

「とんでもない、チャリティ・コンサートでしょう。チケット代くらいは払わせてくださいよ」

 ロベルトは如才ない商売人である以前に頑固な職人だ。自分の腕ひとつで世界を相手にしているという自負がある。採寸のときの手つきにさえプライドが感じられる。

「こちらこそ、まだ学生の頃から世話になっているのだから」

 誠実な応対はその頃から変わらない。それもあって、諒にとっては心を許せる数少ない相手の一人だった。

「あれからもう十年も経つんですねえ」

 感慨深げに溜息をついた後、ロベルトはふと視線を逸らせた。

 つられるように、諒も横を見る。ディスプレイ台の隅に飾られた一足を見て、ぎくりとした。

 紐を通す部分が上から被さる外羽根式の靴だ。爪先にごく近いところから甲のほぼ全長に渡ってハトメが並ぶ。スポーティな印象になりがちなデザインだが、光沢のある上質な革を使ったタイトなシルエットは実にエレガントだ。部分的に使われているクロコダイルの革や、甲を細かく編み上げるチェリーレッドの靴紐など、ディテールにはどこか背徳的な気配さえ漂わせる。

 一目見て、その持ち主の姿が浮かぶような個性的な靴だ。

「ああ」

 問いかけるような諒の視線に、ロベルトは曖昧に首を傾ける。その表情を見て確信した。

 アレッサンドロの靴だ。間違いない。

「どうしたものか、正直私も困ってましてね。仕方なくああして、店に飾らせていただいてます」

 やけに歯切れの悪い言い方だ。諒が怪訝そうに眉を寄せると、ロベルトはしまった、という顔になる。

「失礼。ご存知ありませんでしたか」

「何をだ」

 話の流れを頭が追う前に身体が感じ取った。これは、悪い報せだ。

「秋にお亡くなりになられたんです」

 知らなかった。

 足台の向こうの椅子にどさりと腰を下ろす。指先の震えを見られないように、膝の上できつく手を組み合わせた。

「申し訳ございません。どこかでお耳に入っていたものと」

 恐縮したような様子のロベルトに、力なく首を振ってみせる。

 彼がどこで生きていようと、どこでどのように死のうと、自分はその消息を知るような立場ではない。

 そのことは誰よりもよくわかっていたつもりだが、いざこうして訃報を耳にすると、さすがに平静ではいられなかった。

 あの靴は夏前に注文されたものらしい。秋に取りに来るから急がない、という話だったそうだ。

「オペラ・シーズンに間に合えばいい、とおっしゃって」

 いかにも彼らしい。

 だが、アレッサンドロはついに完成品を手にすることはなかった。

 ある夜、路上でいきなり暴漢に刺されたのだ。

 痴情のもつれだとかホモフォビアの凶行だとか、あれこれ噂されたが、犯人が直後に自殺したので真相は謎のままだという。

「靴に関しては、料金も既にいただいておりましたし、引き取られる方がいらしたらお渡ししたかったんです。でも、ほら、ご家族とは疎遠にされていたでしょう。そんなものを渡されても困る、と言われてしまいまして」

「オーダーシューズでは、誰かに譲るわけにもいかないだろうしな」

「そうなんですよ。実際、靴の遺品というのは皆さんお困りになられるようです。今にも故人がそれを履いて歩いてきそうだ、などと言われて」

「そのうち、靴だけの幽霊が店先でタップダンスを始めるんじゃないか」

「よしてくださいよ」

 笑い声の空疎な響きにはお互い気付いていたが、二人はそこでこの話題を打ち切った。

 修理のために手持ちの靴を一足預け、店を出る頃にはすっかり日が落ちていた。

 ヨーロッパの冬は夜が長い。ミラノは欧州では南の方に位置するが、それでも五時ともなれば辺りは暗くなる。だからこそオペラ・シーズンなのだ。

 

 最初にアレッサンドロの話を聞いたときは、ろくな人間ではなかろうという印象しかなかった。諒より十歳ほど年上の貴族傍系の次男で、オペラ好きの道楽者。音楽院にも多額の寄付をしているらしい。同性愛者だということは公然の秘密だった。

 そんな相手を紹介された貧乏留学生としては、せいぜいその金と地位を利用させてもらうしかない。

 楽器と比べて声楽は金がかからないといわれるが、それでも異国で暮らすだけでも何かと物入りだ。何より、諒は生活費を切り詰めてでも、一回でも多くオペラやコンサートに通いたかった。巨匠が出演するとなれば、桟敷席でもそれなりの値段がする。

 その上、卒業後も音楽家として身を立てていこうと思うなら、上流階級の人脈は必須だ。もちろんそんなものが無料で手に入るはずもない。

 金持ち貴族の恋人ごっこに付き合ってやることでそれが賄えるなら悪い話ではない。男娼まがいのことをしているという後ろめたさがなかったわけではないが、諒は自分には投資に値する才能があると確信していた。相手が貴族だろうが大富豪だろうが気後れすることはない。施しを受けるのではなく、あくまで対等な関係だと割り切ることができた。

 アレッサンドロは予想通り、いや予想以上に鼻持ちならない男だった。だが自分でもまったく予想していなかったことに、諒は一目でこの男に魅了されてしまった。

 美しい男だった。諒のように幾分線の細い中性的な美貌ではなく、堂々たる美男だった。大理石の彫刻のような鋭く端正な顔立ちに、車よりも馬に乗る方が似合いそうな手足の長さ。最高級の仕立てのスーツが惚れぼれするほど映える。

 そのアレッサンドロは初対面の諒を頭から爪先まで一瞥するなり、有無を言わさずロベルトの店に引っ張って行った。そこで初めて注文した二足は修理を重ねて今でも愛用している。どちらも日本円で軽く十万はしたが、アレッサンドロは諒には一銭も払わせなかった。

「足に合わない靴だからすぐに脱ぎたくなるのだ。靴を脱いでいいのはベッドの上だけだ」

 それが彼の持論だった。

「服も同じだ。仕立ての悪いものを着るくらいなら裸でいろ」

 そう言って、豪華な自宅の寝室のベッドで諒の一張羅のスーツを脱がし、ネクタイを抜き取り、ドレスシャツをはぎ取った。

 糊のきいた清潔なシーツの上で、諒は言われるままに身体を開いた。指で、舌で、そして他のあらゆる箇所でアレッサンドロの望みに応えた。

「後ろを向いて、両手をつけ」

「力を抜け。息をゆっくり吐くんだ」

「我慢せずに叫べ。声を出すのは得意だろう」

 おかげで、イタリア語の命令形はすっかりマスターした。

 アレッサンドロは声も美しかった。低く、柔らかく、少しだけかすれた、たまらなく官能的な声の持ち主だった。名前を呼ばれることは滅多になかったが、ごくたまにリョウ、と耳元で囁かれると、それだけで身体の芯が溶けていくような思いがした。

 お気に入りの「ヴァ・ペンシエーロ」を機嫌のいいときに口ずさむ小さな声までが、なんとも言えず魅惑的だった。

「あの指揮者は凡才だな。この歌にはもっと、空に浮かぶような軽やかさがなくては」

「虐げられた民が故郷を想う曲をそんな軽々しく歌えるものか」

「お前はイタリア・オペラを何もわかっていない。あれは絶望の淵に浮かぶ彼らの夢だ。それをひたすら暗く歌ってしまっては何の救いもない」

 まったく、音楽は素人の癖に、オペラに関してはどんな教官よりも厳しかった。

 楽譜をめくりながら、諒はその口調を思い出して苦笑した。

「あのように重苦しい歌い方で、想いが『黄金の翼』に乗っていけると思うのか。ヴェルディの旋律をしっかり聴くがいい」

 もうすぐ幕が上がる。

 

 諒は劇場でアレッサンドロと一緒にオペラを鑑賞したことは一度もなかった。

「私はお前のパトロンになるつもりはない」

 最初にそう宣言された通り、アレッサンドロは靴をはじめ高価な服飾品を諒に買い与えることはしても、音楽活動を直接支援してくることはなかった。

 カトリックの国イタリアでは、ヨーロッパの他の国と比べ、いまだに同性愛に対して心理的な抵抗のある人が少なくないと言われる。ミラノ社交界でもアレッサンドロの評判はよくなかったようだ。その彼が後援しているオペラ歌手の卵とくれば、諒自身も口さがない噂の的にされるのは必至だ。

 だから、諒が彼の「恋人」であることを知っていたのは、ロベルトなどごく限られた人たちだけだった。

 経済的・社会的な後ろ盾を求めていた諒にとっては期待外れの関係だったはずだ。それなのに、結局音楽院を卒業するまでその関係を続けたのはどうしてだろう。

「お前には才能がある。私などが支援しなくても、のし上がってこられるだろう」

 くっきりとした二重瞼の奥で強い光を放つ灰色の瞳に、諒は昂然と言い返した。

「当然だ。あんたの助けなどなくても、俺はいずれスカラ座で主役を張る」

 アレッサンドロは満足そうに笑った。

「お前がラ・スカラでアリアを歌うときは、必ず聴きに行く」

 彼はスカラ座に年間予約席を確保していた。ボックス席ではなく、舞台全体がよく見えるプラテアと呼ばれる平席で、諒などは留学中ついに一度も座ることができなかったような上席だ。

 当然ながら、舞台からもよく見える。

 そこにアレッサンドロの姿はなかった。

 嘘つきめ、と諒は内心で悪態をつく。

 いかにも、余計な敵を作って恨まれそうな男ではあった。

 尊大で、頑固で、皮肉屋で、ささいなことでも自分の希望が通らないと凄まじく不機嫌になった。本当に性格の悪い男だった。自分といい勝負なくらいに。

 だが、少なくとも諒はアレッサンドロに嘘はつかなかった。

 だから、愛してる、などと囁いたことも一度もなかった。

「誰も寝てはならぬ…姫君よ、あなたもですよ」

 基本的には軽い声質の若々しいテノールと目されてきた諒にとって、より力強い表現が求められるこのアリアはひとつの挑戦だった。

「…私の口づけが静寂を破り、あなたは私のものになる」

 甘く官能的な歌声が劇場を震わせる。

 墓場から起きてこい。

 俺の声を聴かせてやるから。

 繊細かつ豊かな旋律を歌いきった諒は拍手喝采を浴びた。普段は辛口のスカラ座の聴衆も、地元ミラノで学んだ若き日本人テノールのことは大目に見てやることにしたのかもしれなかった。

「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って…」

 フィナーレで、諒は他の出演者と共に「ヴァ・ペンシエーロ」の合唱に加わった。囚われの民が失われた故郷へ寄せる想いを、静かでどこか軽やかな歌声に込めて。

 かつてアレッサンドロが確保していた席は、一人分だけ空席のままだった。

 

 諒がロベルトの靴を気に入っているのは、そのデザインや履き心地だけではなかった。

 上質な革製の靴底は、石畳の上を歩くと、こつ、こつ、と美しく乾いた靴音を奏でる。耳に快いその靴音が、今もどこかから響いてくる。

 諒はベッドの上で寝返りを打った。

 なぜこんな、ホテルの窓の外から聴こえてくるかすかな物音で目を覚ましたのだろう。この部屋のフロアは日本風に言えば三階だし、窓ガラスは二重になっている。通りの足音などほとんど聞こえるはずがないのに。

 深夜のせいか車の音も聞こえない。石畳に当たる革靴の音だけが、やけにくっきりと響いてくる。

 靴音は、早すぎず、遅すぎず、ベッドに横たわる諒の鼓動と同じような一定のペースを刻んでいる。その足音から、どんな人物かを想像する。

 背の高い、姿勢のよい男性。歩幅も広そうだ。乱れない足取りは悠然とした態度を思わせる。血の気の多い若者ではない。かといってそれほど年配でもない。これだけよい音を立てる上等な革靴を履いているのだから、美意識の高い、身なりに気を遣う、裕福な紳士だろう。

 そんな男を、諒はかつて一人知っていたような気がする。

 ふと、足音がぴたりとやんだ。

 辺りは不自然なほど静かだ。いくら予約の際に「できるだけ静かな部屋を」と頼んだとはいえ、大都会のミラノだ。少しは靴音以外の物音が聞こえてきてもよさそうなものだ。

 そこまで考えたところで、諒はおかしなことに気付いた。

 思わずベッドの上に跳ね起きる。

 そうだった。この部屋の窓は通りには面していない。静かな部屋を、という諒の希望を容れて、ホテル側は中庭に向いた一室を用意してくれたのだ。

 その中庭は草花と果樹と噴水で美しく彩られていた。ぐるりと囲む回廊部分には椅子とテーブルが並べられ、朝食やお茶の時間に緑を眺めながら軽食を取れるようになっている。

 深夜に革靴で歩き回るところではない。たとえ誰かが歩いたとしても、あんな硬質な足音が響くはずがない。

 諒の首筋を冷たい汗がつうっと伝った。

 窓には分厚いカーテンが引かれている。ナイトランプを点ける習慣がないので、部屋は重たい闇にすっぽりと包まれている。いつもなら心を穏やかにしてくれるはずのその暗闇に、今は何か得体のしれない圧迫感のようなものを感じる。室内は暖房が効いていて寒くはないのだが、全身に細かく鳥肌が立つ。

 ドアの外で、ぱた、とかすかな音がして、諒は跳び上がりそうになった。

 ぱた、ぱた、という柔らかな音は徐々に近づいてくる。廊下に敷かれた絨毯を革靴で踏みしめるような音だ。

 再び、音が止んだ。

 耳が痛くなるような静寂の中で、諒の鼓膜は自分の心臓の音を拾うばかりだ。

 その沈黙を破るように、かちり、とかすかな金属音がする。扉の錠が回る音だ。続いて、重厚な木の扉を支える蝶番が、きい、と小さくきしんだ。ルームキーはもちろん室内に置いてあるので、フロントのマスターキーでも使わないと鍵は開かないはずだが、確かに扉が開く気配がした。

 しかし、部屋は依然として暗闇に沈んだままだ。ホテルの廊下に深夜でも灯っているランプの光は見えない。

 再び蝶番がきしんで、ぱたん、と静かに扉が閉まる。

 しゅ、しゅ、と部屋の分厚い絨毯の上を硬い靴底が擦るような音がする。その足音は、諒が起き上がったまま動けずにいるベッドの脇で静かに止まった。

 誰か、いる。

 姿は見えない。声はおろか呼吸の音すらしない。だが、そこに人が一人じっと立ってこちらを見下ろしているのが、諒にははっきりと感じられた。

 自分は何か悪い夢でも見ているのだろうか。それとも、気が触れてしまったのか。

 恐怖と混乱に耐えきれなくなって、叫び声を上げそうになったそのとき、馴染みのある香りが諒の鼻先をふわりとかすめた。

 ラベンダーの気配を忍ばせたハーバルなトップノートの奥に、力強いオークモスのベースが香る。あの豪華な寝室で、この身体を幾度となく包んだ特別なフレグランスだ。

 呪縛が解けたように、諒はそっと口を開いて囁いた。

「アレッサンドロ。あんたか」

 暗闇の中にかすかに甘い香りが広がっていく。

 そうか、嘘つき呼ばわりして悪かったな、と、諒は小さく唇を歪めた。

 隣でアレッサンドロも笑ったようだ。音声としては何も聞こえてこないが、あの皮肉な笑い声の気配がする。

「ベッドに入るなら、靴を脱げよ」

 そう声を掛けると、スプリングがぎしっと音を立てた。

 身体から力が抜ける。シーツの上に再び仰向けに横たわる。

 それとも、そこは目には見えない誰かの腕の中だったろうか。

 

 一体今は何時だろう。

 コンサートを終え、関係者への挨拶も済ませ、ホテルに戻る頃には既に日付が変わっていたから、もう明け方に近いのかもしれない。

 それとも今自分がいるのは、もはや日付や時刻が意味を成さない場所だろうか。

「アレッサンドロ」

 自分の口から出たとは思えないほど切ない響きに軽くおののきながらも、諒は言葉を続けた。

「あんたに、触れたい」

 ここが地獄でも一向に構わない。あの美しい身体に、再び触れることが叶うなら。

 そんな、まるでオペラのアリアの一節のようなことを考えながら探るように手を伸ばす。

 どうせ空を切るだけだろうと思った。ところが、暗闇の中でその指は誰かの手に捕まえられた。

「え」

 指先を揃えるようにしてきゅっと握られる。と思うと、指を開いて絡められる。指と指の間を擦られ、掌をくすぐられる。

 諒の口からこぼれた驚きの声は、少しずつ、吐息へと変化していく。

 長い指が手首に回され、くい、と引かれた。

「アレッサンドロ?」

 黙りなさい、とでも言うように唇の上に指が置かれた。その指は、口元をなぞり、顎を辿り、首筋を滑り降りていく。

 目隠しをされたかのような闇の中で、自分に触れてくる者の姿はまったく見えない。だが視覚を奪われた分、肌はいつもより敏感になっている。寝間着を脱がす指先を追いかけるように、身体の表面が熱を帯びる。

「…っ」

 胸の先端を軽く弾かれて、そこが既に硬くなっているのに初めて気付いた。

 と思うと、もう片方の手が内腿に忍び寄る。

「は…んっ……」

 諒の滑らかな肌の感触を楽しむように、掌が膝から脚の付け根までをゆっくりと上下していく。

「あ」

 胸元を弄っていた指先が離れ、両手で膝をすくい上げるように大きく割られた。

「ひ、あぅっ」

 無防備に晒されたものを握られて、小さく悲鳴を上げる。そこは早くも硬く勃起していた。

「やめ、そんな…まて、って…」

 ベッドでは、諒の方からアレッサンドロに触れるのが常だった。裸身の前に跪き、爪先から唇に至るまで、どんな小さな特徴も記憶に刻み付けるように丹念に辿った。奉仕しているという意識はなかった。その肉体を崇めているだけで、自分もどうしようもなく昂ぶった。

 だから、こんな風に一方的に愛撫されることには慣れていない。ただでさえ感じやすくなっている身体が呆気なく追い上げられてしまう。

「あ、アレッサンドロ…ぁ、んんっ」

 彼の視線を感じる。

 弱いところを責め立てられて喘ぐたびに、そんな諒の反応を目を細めて楽しんでいる気配がする。

「いやぁ、あっ、だめだ、って……あぁ」

 その容赦のない指に、一番奥の窄まりをこじ開けられた。

 アレッサンドロの「恋人」であることをやめてからは、誰にも許していないところだ。そしてこれからも、他の誰にも許すつもりはなかった。

「や…あああぁっ」

 貫かれた瞬間、痛みの奥で燃えるような愉悦が跳ねた。強すぎる刺激にたわめられるように、諒は背を大きく反らせる。

 その背中を誰かの腕に支えられた。

 耳に唇が触れる。

「リョウ」

 低く、柔らかく、わずかにかすれた声を確かに聴いたと思った。

「あ……っ…サンドロ…」

 身体が宙に浮くような感覚がある。腰の奥で熱の塊がはぜる。

「ん…あ……い、くっ」

 クライマックスを奏でる楽器のように、諒の全身が細かく震えた。その唇に、甘やかな香りがふわりと落ちた気がした。

 

 遅めの朝食を済ませ、部屋で荷造りをしながら、諒はロベルトの店に電話を入れた。

 昨夜のコンサートは素晴らしかった、新境地の開拓だ、天瀬諒のトップテノールとしての地位は少なくとも今後二十年は確約された、などと興奮気味にまくしたてるロベルトを遮って、諒は切り出した。

「ところで、君が困っていたアレッサンドロの靴のことだけれど」

 電話の向こうで、ロベルトがはっと口をつぐんだ。

「差支えなければ、私が引き取りたい」

「申し訳ありません、シニョーレ」

 困惑しきった声でロベルトが言う。

「その…あの靴なんですが、実は昨夜から行方不明になっていまして」

 コンサートのために店を早じまいしたときは、確かに棚にあったという。それが今朝見たら忽然と消えていたというのだ。

「戸締りはいつも通り厳重にしておりますし、奥で遅くまで作業をしていたダリオも何も気付かなかったと言います。他になくなったものもないようで、ただの物取りとも思えないんですがねえ…」

「そうか。ならばいいんだ」

「見つかったら必ずご連絡します」

「いや、それには及ばないよ」

「ですが…僭越ながら私も、あの靴はシニョーレ・アマセに持っていていただくのが一番いいように思うんです」

「なぜ」

「ラ・スカラで歌うあなたを観に行くためにあつらえた靴ではないかという気がしたので」

 氷の美貌に、珍しく純粋な笑みが浮かんだ。諒は、ありがとう、とだけ言って電話を切った。

 その靴は今、諒の膝の上にある。今朝、ベッドサイドに諒の靴と並んで脱ぎ捨てられていたのだ。

 アッパーの革は磨いたばかりのような美しい光沢を放っているが、裏返すと、靴底に石畳の上を歩いたようなわずかな傷がある。

 諒はその靴の爪先にそっと唇を押し当てると、左右を揃えて、自分のスーツケースの中に丁寧に収めた。

 

 

 

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