二度目のほうが甘いもの


 それはあたかも、たまご色とカラメル色をした理想の塊がふるふるっと天から降ってきたかのようだった。

「な……なんだこれ」

 感動に胸を震わせながら、愛沢薫(あいざわかおる)は皿の上のカスタードプリンにスプーンを伸ばす。

 記憶というのはしたたかだ。時とともに美化され、理想化されていく。主観に甘やかされ尽くした思い出はひたすら美しい。対して、現実は不利な闘いを強いられるのが常だ。

 しかし今薫の目の前にあるプリンには、たった一口で思い出を打ち砕くほどの強烈なインパクトがあった。

 適度な弾力のある表面は、銀色のデザートスプーンの先をほんの一瞬押し返した後、極細の糸がぷつりと切れるような感触を指先に伝える。明け渡された切り口は密度が高く、だらしなく崩れたりすることもない。

 その凛々しい印象が、口に含んだ瞬間に一変する。ぎりぎりのところで保たれていた形が舌の上でとろりと崩れる。バニラの香りとカスタードの素直な優しさのすぐ後を、カラメルのほろ苦さと濃厚な甘さが追いかけ、手を取り合うようにして喉を滑り落ちていく。

 こんなにもシンプルでありながら官能的な食べ物が他にあろうか。

 パティシエの腕はカスタードプリンを食べればわかる、が薫の信条だ。こんな神業のようなプリンを作る職人がいる店で、他のケーキの味を確かめずに帰るわけにはいかない。

 薫はイートインコーナーのテーブルから決然と立ち上がり、色とりどりのスイーツが並ぶ宝石箱のような冷蔵ケースの向こうに立つ店員に声をかけた。

「すみません」

「はい」

 にこやかな笑顔を返してきたのは、洋菓子店よりも美容室やセレクトショップにいそうなスタイリッシュな雰囲気の男性店員だ。

「洋梨のタルトと、シュークリームと、あとモンブランを追加でください」

「ありがとうございます。お持ち帰りのお時間はどのくらいでしょうか?」

「いえ、すべてイートインで」

 注文したケーキを冷蔵ケースから取り出していた男性店員が、慌てて薫の背後を確認する。連れが来たかとでも思ったのだろう。

 この手の反応には慣れている。甘党の男性は世間ではまだ少数派なのだ。薫は念を押すように、ゆっくりと繰り返した。

「イートインで、お願いします。俺一人なのでスプーンとフォークの追加はいりません」

「か、かしこまりました」

 店員がトレイに並べたケーキを奥の厨房へ運んでいくのを尻目に、薫は悠然と席へ戻る。

 薄れゆく残照を惜しむかのように、プリンの残りを口に運んだ。やっぱり、自分の理想の味に限りなく近い。これはスイーツの神様が引き合せてくれた奇跡の出逢いに違いない。最後の一口を食べ終えて、思わず空の皿に向かって手を合わせてしまったときだった。

「お待たせしました」

 プレートに盛りつけられ、フルーツソースやクリームを添えて仕上げられた追加注文のスイーツが三つ、すっと目の前に置かれた。白いコックコートの袖をまくった腕が視界の隅に映る。厨房で仕上げをしたパティシエが自ら持ってきてくれたのだろうか。

「どうもありがとう」

 一言プリンの感想を伝えようと愛想よく顔を上げた薫の視線が、こちらに向けられた色素の薄い瞳と交錯した。

 その瞬間、急ブレーキを踏んだかのようにがくんと身体がこわばる。

 そんな、まさか。

「……愛さん?」

 テーブルの方へと身を屈めていたパティシエが、ぼそりと呟く。その顔を見つめながら、薫はまだ言葉を失ったままだ。

 わずかに眉間に皺を寄せてどこか眩しそうな表情でこちらを見つめ返す瞳は、日本人にしては虹彩の色が薄く、明るいところで見るとほとんどオリーブグリーンに近い。

「俺です。高校の新聞部で一学年後輩だった唐島隆司(からしまりゅうじ)」

「お……おう」

 忘れるはずもない。

 高校卒業以来だから十年ぶりの再会ということになるだろうか。それなのに唐島は特に驚いた風でもなく、冷ややかに言い放つ。

「一人でケーキ四つイートインで注文するって、一体どんな客かと思ったら」

 その言い草に、薫は思わず眉を吊り上げる。

「いやそれ俺の台詞だから。一体どんな凄腕パティシエかと思ったらお前かよ! 意表を突くにも程があるだろ!」

 出会い頭の衝撃から立ち直ると、椅子から立ち上がらんばかりの剣幕で言い返す。だが唐島は飄々と肩をすくめるばかりだ。

「そんなに意外ですか」

「当たり前だろ、よりによってお前がこれ作ってるとか」

 花畑のようなケーキのプレートと、コックコートを着ていてさえマフィアの側近か何かに見えてしまう後輩の姿に、交互に目をやる。

 当時から高校生離れした強面だった。抜きんでた長身と明るい金茶に染めた長髪に加え、無口で無表情だったので、その威圧感たるや廊下ですれ違う上級生が慌てて脇に避けるほどだった。地域では一番偏差値の高い公立校で唐島も決して成績は悪くなかったはずだが、中学を一年留年しているだとか、指定暴力団の組長に目をかけられているだとか、根も葉もない噂がまかり通る始末だった。

 改めて目の前に立つ青年の姿を眺める。

 長身はあの頃から変わらないが、肩や腰のあたりのラインがさらにがっしりとした印象だ。金色に近い明るい褐色の長い髪を後ろで無造作に結んだスタイルも、高校生の頃は無闇と挑発的に感じられたものだが、今はむしろ厳(いか)つい雰囲気を程よく和らげている。彫りの深い端正な顔立ちで瞳の色も淡いので、なおのこと日本人離れして見える。

「そういう愛さんは、今何やってんの」

 迫力満点の男前に思わず見惚れてしまっていた薫だが、唐島の返しにぎくりとする。

 いつどこで取材したいと思う対象に出くわすかわからないから、一人でふらりと散歩するときでさえ名刺入れは必ずポケットに入れて出る。だが、何があろうと唐島にだけはこの名刺を見せるわけにいかない。

 かといって、あまりに見え透いた嘘をつくのもはばかられる。こんな平日の昼間から住宅街の洋菓子店のイートインコーナーでケーキを頬張る二十八歳の男が、会社勤めと言い張るのはいくらなんでも無理があるだろう。しかも今日の薫は、背中に大きく蝶の模様の刺繍が入ったビンテージのデニムシャツに、細身のコットンパンツという出で立ちだ。

「ん。その……何って、一言じゃ説明しづらいかな。今はフリーで仕事してて」

 いかにも怪しさ満点のごまかし方になってしまった。だが、唐島はわずかに肩をすくめたきり眉毛ひとすじ動かすでもない。

 そのいかにも関心の薄そうな反応に少し落胆している自分に、我ながら呆れてしまう。十年だぞ十年、と自分を嗤(わら)おうとするが、上手くいかない。

 やっぱりこのケーキは持ち帰りにしてもらおうかと思ったときだった。

「何なにー。珍しく隆司が奥から出てきたと思ったら、知り合いー?」

 先ほどの店員が、薫の座る椅子のすぐ後ろから声をかけてくる。

「こいつ、普段は接客なんて絶対にしようとしないのにさ。ね、お兄さん、何者?」

 気安い調子で、ひょいと顔を覗き込まれた。

「あ。えっと、俺は……」

「愛さんは、高校んときの先輩」

 語尾を裁ち落とすようなぶっきらぼうな唐島の物言いは、十年前とちっとも変わらない。

「えー、アイさんって本名? 顔だけじゃなくて、名前も女の子みたいに可愛いんだー」

 思わず苦笑してしまう。「可愛い」と揶揄されることを極端に嫌う薫だが、ここまで直球をぶつけられるといっそ清々しい。

「馴れ馴れしく呼ぶな、水上(みなかみ)」

 しかし、何が気に入らなかったのか唐島は聞こえよがしに舌打ちをした。トレードマークのような仏頂面をさらに厳めしくこわばらせて、犬を追い払うかのように手を振る。

「わー、こわっ」

 水上は大げさに首をすくめると、にやにやと笑いながらショーケースの方へと戻る。唐島の方はというと、そのまま薫の正面の椅子にどかりと腰を下ろしてしまった。

 内心大いに慌てながら、薫はなるべく不自然に見えないようにさりげなく椅子を引く。

「馴れ馴れしいのはお前だろ」

 いやむしろ、図太いと言うべきか。

 高校の頃に何度か繰り返したやりとりがデジャヴのように巻き戻される。

――お前、その呼び方やめろ。

――なんでですか。女子の先輩によく「愛ちゃん」って呼ばれてるじゃないですか。

――あいつらはいいんだよ。でもお前に呼ばれるのは、なんかむかつく。

 それでも唐島は一向に呼び方を改めようとしなかった。生意気だと悪態をつきながらも、薫はくすぐったいような気持ちを抑えきれずにいた。この強面の後輩が自分にだけは懐いてくれることに密かに優越感を覚えるとともに、そんな自分に後ろめたさを覚えてもいた。

 こうして向かい合っていると、自意識過剰をこじらせまくっていた高校生の頃に戻ってしまいそうだ。

 動揺を隠そうと、薫は咄嗟に一番手前のタルトに手を伸ばした。さくり、と一口分をフォークに取って口に運ぶ。

「わお」

 その瞬間、感嘆の声を上げてしまった。

「洋梨のコンポートの密度すげえな! アーモンドフィリングもどっしりしててリッチだ。あ、タルト生地の歯応え最高。さっくさく」

 贅沢さと軽やかさのバランスが絶妙で、ほんのり効かせたリキュールの香りに至るまで完璧だ。ではこっちはどうだ、と薫は隣のモンブランにもフォークを伸ばす。

「やっべえ。なんだこの、栗。栗すぎる」

 濃厚だがちっともくどくないマロンクリームに圧倒され、ほとんど意味不明なことを口走ってしまう。

「あーそうそう、これだよこれ! シュー生地は硬すぎちゃだめなんだよ。しんなりしてるのは論外だけどさ、フォークでぱりっと割れる軽さがシューの身上なんだよ!」

 どのスイーツもことごとく薫の好みど真ん中の味で、文句のつけようがない。なんだこの店は。夢の国か、楽園か。

「お客さんにそこまで言ってもらえると作り甲斐があるねえ、隆司?」

 一人でグルメ番組そこのけの台詞をまくし立てていた薫は、水上の声にはっと我に返る。

 しまった。つい興奮して素が出てしまった。

 一人で一度にケーキを四つ食べるだけならまだしも、普通の客はそれらをいちいち詳細に品評したりしない。早速自分の正体を見破られただろうか、と青ざめたときだった。

 ふ、と目の前の唐島が息を漏らす音がした。

「愛さん、全然変わってないな」

 テーブルに頬杖をついて、瞬きの少ない淡褐色の目をじっと薫の方へと向けてくる。

 その瞬間、薫の心臓が宙返りをした。

 そうだった、と思い出す。どこか謎めいたこの瞳と、不愛想な割に不思議と穏やかなこの表情に、自分の心は捕まったのだ。

 あれから十年。

 初恋の相手は、砂糖漬けのように甘く保存された思い出をはるかに上回るいい男になって、今、薫の目の前にいる。

 

 ゲイであることを特に隠してはいない。わざわざ自分から言及することでもないと思うが、訊かれれば普通に答える。何しろ見た目からして男臭さが皆無なので、「なんとなくそれっぽい」などと遠回しに推測されるくらいなら、最初から明らかにしてしまった方が気楽だというのもある。

 肌は抜けるように白く、さらさらと細い髪は対照的に艶のある濡れ羽色だ。小顔で、ただでさえ大きなつり気味の目が目立つ。自分で鏡を見て感心してしまうほどの仔猫顔だ。高校の文化祭では「愛沢がやっても今更なんの意外性もない」と、女装要員から真っ先に外されたくらいだ。

「だから恋愛ネタよりも、むしろこっち関係の悩みの方が心配だったんですよ私は」

 電話の向こうで、担当編集者の武田里紗(たけだりさ)が溜息をつく。たった今送ったばかりの原稿に、思い切りダメ出しを食らったところだ。

「こっち関係って」

「美容や容姿の悩みですよ。『ちょっとぽっちゃりしてるくらいが可愛いよ』なんて慰められて死にたくなった経験なんて、生まれてから一度もないでしょう?」

「あるわけないじゃないですか。てか、マジで女子ってなんでそんなに無闇と痩せたがるのかなあ? 男の考える理想体重より五キロくらい下を目指してませんか」

「身長百七十センチで体重五十キロの男子にだけは言われたくないですよそんなこと」

「え。なんなの武田さん、エスパーかなんか? なんで俺の身長体重知ってんですか」

「げ。ホントに五十キロしかないんですか? あーやだやだ。のべつ幕なしに甘いもの食べててそのプロポーションって、どんだけ神様に贔屓されてんですか、もう」

 妬むような口ぶりの武田だって、薫に言わせれば標準よりは細い方に入る。

「贔屓、って。こっちはそれがコンプレックスだったりするんだから」

 つい、昼間再会したばかりの唐島の姿を思い浮かべてしまう。身長は優に百八十センチを超え、コックコートの上からでもはっきりとわかる男らしい体型だった。肩幅は広く胸板も薄っぺらくなく、手足にもしっかり筋肉がついていて、ひょろりと細いばかりで非力な薫とは大違いだ。

 電話の向こうで、武田がくすりと笑った。

「ほーら。そういうことですよ」

「……どういうこと」

「容姿のコンプレックスに対して他人の評価なんて大して慰めにならない、ってことです。少なくともダイエットに悩んでいる女の子に『自分で思うほど周りはあなたの体型を気にしてない』なんてアドバイスは逆効果」

「お、おお……なるほど……」

 薫は初めて、自分の原稿のどこがいけなかったのかを身をもって実感する。

「なんのために『あなたの悩み、甘やかします』なんて連載タイトルにしてると思ってるんですか。ちゃんと相談者を甘やかす内容に書き直してください」

「う。わかり、ました」

 神妙に頷いて、電話を切る。

 仕事を受けるにあたって、あらかじめ自分のセクシャリティを明かしたのは今回が初めてだった。若い女性にターゲットを絞ったウェブマガジン「キュリオ」での週刊連載で、読者から寄せられた悩みにスイーツの話を絡めて「甘い」回答をするというコーナーだ。

「俺、ゲイなんですけど。女性の恋愛の悩みとかにも答えちゃっていいんですか」

 そう確かめた薫に対して武田は、「そんなことは関係ありません。それより、どんな悩みに対しても読者を励ます内容にするよう心がけてください」と即答した。セクシャルマイノリティだという告白を「そんなこと」とスルーする神経は大したものだと思うが、なるほど連載を始めてみると、性的指向以前の問題だと思い知らされる。

「上から目線や、相談者を責めるような書き方は厳禁。自分語りも極力控えてください」

 武田に申し渡された大原則だったが、これがなかなか難しい。油断するとつい、習い性となっている毒舌が顔を出してしまう。

「大体、この内容で相談者を甘やかせ、って言われてもなあ……」

 甘いものがどうしてもやめられなくてダイエットに失敗ばかりしている、という悩みだ。正直、薫にとってこれほど「わかります」と頷いてやれない相談もない。依頼を読むなり武田に「ダイエットの方を諦めればいいだけの話だよね」と言ってしまい、「いずれ夜道で刺されますよ」と凄まれた。

 大体において、こういうことを相談してくる女性は本人が気に病むほどは太っていないものだ。しかしそこで、容姿のコンプレックスという先ほどの武田の話を思い出す。

「まあ、そうだよな。俺だって唐島に『可愛い』なんて言われたくないもんな」

 実際に言われたことがある。なんの文脈かもう忘れたが、「愛さんはいいんですよ、可愛いんだから」などと言われて、「二度と俺のことを可愛いとか言うな」とキレた。

 我ながら大人げなかったと思う。でも、羨望と恋慕とがないまぜになった想いを密かに向けていた相手にコンプレックスのど真ん中を撃ち抜かれて、他にどうすればよかったのか。こっちがどんな気持ちでいるかも知らないで軽く言いやがって、という恨めしさと、そもそもこの気持ちを知られるわけにはいかないじゃないか、という自嘲とに挟み撃ちされながら、「ありがとう」と爽やかな笑顔を返せるほど人格者じゃない。

「あーくそ。脳の栄養が必要だなこれは」

 いつの間にか自分の黒歴史まで遡ってしまって、書き直しがまったく進まない。薫はデスクから立ち上がって台所へと向かった。独り暮らし用の小ぶりな冷蔵庫の扉を開け、白い紙箱を取り出す。シールをはがして慎重に蓋を開けると、中にはケーキが四つ。

 あの後テイクアウトしてきたものだ。「彼女の分?」などと唐島に訊かれ、自分のだと正直に答えたら、さすがに「どんだけ食うの」と呆れられた。「仕事で頭使うと甘いものが欲しくなるんだよ」と言い訳すると何か訊きたそうな顔をされたが、その仕事の内容を明かすわけにはいかないので、そそくさと会話を打ち切った。

 どれにするかしばし迷った末に、シブーストを皿に乗せ、丁寧にドリップしたコーヒーと一緒にデスクまで運ぶ。

「いっただきまーす」

 シブーストは、クリームでデコレーションしたようなケーキと比べて見た目は地味だが、手の込んだ菓子だ。焼いたパイ生地の上にキャラメリゼしたリンゴを敷き詰め、さらにカスタードクリームを二層に分けて上から流して焼き、表面にグラニュー糖を振って焦がしてカラメルの膜を作る。硬めのクレームブリュレの奥にほろ苦い煮リンゴを詰めたものがパイ生地の上に乗っているようなものだ。

「あー、やっぱ手抜きしてねえなー」

 一口食べて薫は唸る。カスタードはみっしりと濃厚なものと、メレンゲを混ぜ込んでふわりと優しい口当たりにしたものと、二種類をきちんと使い分けてある。リンゴは果肉のフレッシュさを残しながらも水っぽくなく、幾層にも重なったパイ生地も頼りがいがある。

 このサイズのケーキなら一度に二つ三つは軽くいけてしまう薫だが、唐島の作るスイーツはいつものようなペースで平らげてしまうのが惜しいような気にさせられる。

 迷彩服を着て自動小銃でも構えていた方がしっくりきそうなあの風貌で、こんなにも繊細なスイーツを手間暇かけて作っているのかと想像すると不思議になる。彼はいつもどんなことを考えて厨房に立っているのだろう。

「あ。そうか」

 その瞬間、ひらめいた。

 ケーキフォークを皿の上に置いて、隣に開いたままになっているノートPCの方へと向き直り、悩み相談の原稿の書き直しを始める。

「可愛い服も着たいけど、美味しいスイーツもやめられないですよね。スタイルを少しよくするために、人生最大の喜びを諦めることはないんじゃないでしょうか」

 ひとまずここまでは書き換えなくても大丈夫だろう。その続きをばっさりと削除して、新たな文章をキーボードで打ち始める。

「三日間甘いものを我慢してスイーツ貯金をして、いつもの三倍のお値段の手の込んだスイーツを買ってみませんか。それを作ったパティシエの手間を想像しながら、一口ずつ時間をかけて味わってみましょう。量をたくさん食べなくても、十分満足できるはず」

 そういう趣旨に書き換え、最後に恒例の「そんなあなたにオススメのスイーツ」としてシブーストを推しておく。このコラムが載るのは十月で、美味しいリンゴが出始める時期だ。季節感もばっちりだろう。

 体裁を整え、速攻で武田にメールで送る。しばらくして「OK」の返信があった。先ほどの電話とは打って変わって、メールでは書き直しの内容を絶賛してくれている。「飴とムチ」という言葉が頭をよぎる。

「さすが辛島さん。この調子で、次回もまたよろしくお願いします」

 そう締めくくられたメールを読んで、薫はシブーストの最後の一口をフォークに刺した手を思わず止めてしまう。

 そうなのだ。

 薫は「辛島馨(からしまかおる)」というペンネームでライターをやっている。本名の「愛沢薫」といういかにも愛らしい字面に抵抗があって、ペンネームくらいはもっと硬派なものにしたかったのだ。具体的にどんなものにしようか考えていたときに頭に浮かんだのが、高校のときに淡い恋心を抱いていた後輩のことだった。

 彼は薫のコンプレックスの裏返しのような存在だった。見た目だけなく、中身も。

 言葉よりもまず行動で自分の考えを表に出す奴だった。相手が間違っていると思えば、教師だろうが先輩だろうが決して従おうとしなかった。そのせいで誤解や軋轢が生じることも多々あったが、言い訳をしたり相手を責めたりはせず、マイペースを貫いていた。自分に自信があるからできるのだろうと、薫はいつもその姿を眩しいような思いで見ていた。外見で舐められまいと言葉で虚勢を張ってしまう自分とは正反対だった。

 せめて文章を書く自分くらいはあんな風にきっぱりと男らしくいられたら、という気持ちで、名字を同じ音にしてみたのだ。

「だって、まさか……今更再会するとか、思わねえだろ」

 高校を卒業すると同時に、密かな片想いには区切りをつけたはずだった。初恋の思い出は幼い日に食べたおやつの味と同じように、ほんのり甘くてキラキラと綺麗なまま、現在の自分には何も害をなさない宝物としてしまっておくつもりだったのだ。

 自分が「辛島馨」なんていう名前で仕事をしていることを万が一にも唐島に知られたら、きっと恥ずかしさのあまり即死する。

 画面の前で一人顔を赤らめながら、薫は冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。

 

 しかし、薫のあくなきスイーツ欲は、ペンネームがばれてしまうことへの恐怖をやすやすと上回ってしまった。

「この柿のショートケーキって初めて見るな」

「今週からの新作です。超オススメですよ!」

 いつものようにテンション高めに勧めてくる水上は、半年前にオープンしたばかりのこの洋菓子店「ヴィトライユ」のオーナーの息子だという。料理専門学校の洋菓子専科に通っていたが、自分には才能がないとパティシエの道を諦め、代わりに同期で首席だった唐島をこの店にスカウトしたらしい。

「でも、柿って洋菓子にするにはちょっとインパクトが弱くない? 香りとか」

「そう思うでしょ? でも、これはマジで隆司の自信作なんですよ。ぜひ味見してって!」

「そう言われると断れないなあ」

 水上の押しの強さに屈したふりをしながら、薫は首を縦に振る。唐島の自信作だなんて、お勧めされなくても注文するに決まってる。

「じゃあ今日はそれと、ベイクドチーズケーキと、あとカスタードプリン。全部イートインで。持ち帰りは食べてからまた考えるね」

 注文を終えると、薫は案内される前にいつものテーブル席に腰を下ろす。

「それにしても愛沢さん、本当にカスタードプリン好きですよねえ」

 厨房から戻ってきた水上が、感心しつつも半ば呆れたような声で言う。

「いっつも必ずプリンは注文しますもんね。もはや主食じゃないですか」

 毎回イートインで三つか四つはケーキを食べていく薫だが、水上の言うとおりカスタードプリンは絶対に外せない。

「いや、ここのプリンは特別だから」

「何が特別なんですか」

「長年追い求めた理想の味なんだよ。たとえこの店の商品がこのプリンしかなくても、俺は毎日でも通うよ。なんなら今すぐここの近所に引っ越してきたいくらいだ」

 実際、あれから三日にあげず通い詰めている。イートインだけでなく持ち帰りでも必ず買っていく。原稿書きのお供にはここのスイーツが欠かせなくなってしまった。

「熱烈ですねー、ありがとうございまっす」

 軽く受け流そうとする水上に、このプリンが自分にとっていかに特別かをさらに力説しようとしたときだった。

「お待たせ」

 テーブルの上に、ショートケーキとチーズケーキとプリンの載ったプレートが置かれる。

「うわっ」

 思わず仰け反るようにして、運んできた相手を見上げてしまった。もちろんそうやって確かめるまでもなく、コックコート姿で厨房から出てきた唐島でしかあり得ない。

(い、い、今の聞かれてたか?)

 心臓が体内でにわかに爆音を轟かせ始める。

 口を極めて褒めそやしたのはあくまでもプリンの味であって、唐島本人のことではない。それでもあんな熱っぽい口調で語っているところを聞かれていたのかと思うと、知らないうちに裸の背中を見られていたみたいな恥ずかしさが襲ってくる。

「何慌ててんですか」

 ところが唐島の方はといえば、当然のような顔をしてそのまま正面の椅子に座ってしまう。薫は内心の焦りを隠して口を尖らせた。

「いや待て。お前の方は何寛いでんだ」

「ちょうど作業も一段落したところだし、他にお客さんもいないし」

「だからって客とだべってていいのかよ」

「今、水上と喋ってたじゃないですか」

「接客担当の水上君とパティシエのお前じゃ、仕事内容が違うだろ」

 だが唐島は、薫の抵抗など意にも介さない。

「理想の味、って本当ですか」

 やはり、聞かれていたらしい。

 テーブルに頬杖をついた姿勢のまま、唐島は挑むような視線をこちらに投げてくる。彼のことをよく知らない人間が、因縁でもつけられるのではないかと怖がるのも無理はない。

 瞬きもせずにこちらを見据える唐島の視線をかわすように、薫は論点を微妙にずらした。

「というかさ、『とろける系』の柔らかいプリンが許せねえんだよ俺は」

 昨日までやっていた仕事のモヤモヤが甦る。

 コンビニスイーツ新作の食べ比べの企画だった。そのひとつの「究極のとろけるプリン」が、生クリームをこれでもかと入れてゼラチンで固めたタイプの、薫の理想とするカスタードプリンとは対極の商品だったのだ。

「何が『かつてなかった贅沢な味わい』だよ。かつてあったわけねえだろ、あんなのプリンとは呼ばねえんだから。正直に『ババロア』って商品名にしとけっての」

 もちろん、仕事なのだからそんなことを書くわけにはいかない。コンビニ各社は「キュリオ」の重要な広告主でもある。それでも唐島を前にすると、校内新聞の編集長だった頃に戻ったかのような熱血口調になってしまう。

「俺としては、蒸す工程を経てないものは基本的にプリンと認めたくないわけよ。ゼラチンで固めたものなんて、いわば『カスタードゼリー』だろ。まして卵の味がほとんどしないものなんてカスタードですらないわけで、もう、『プリン』の要素はどこに残ってるんだ! って叫びたくなるよな」

 薫の熱い主張に、唐島は冷静に応じる。

「それはあくまで、愛さんの好みの問題だと思うけど」

「そうだよ、百パーセント俺の好みで主観で偏見だよ。悪いか」

「全然悪くない」

 変わってないなこいつ、と薫は苦笑する。唐島の言葉には遠慮もないが嘘もない。

 さすが、ごまかしの一切効かないカスタードプリンで勝負できる奴は違う。自分は中身で勝負する自信がないから、いつも饒舌すぎるほどの言葉で武装してしまうのだ。

「つまり、俺の作るプリンは愛さんの好みだってことでいいんだよね」

 こんな風に正面から真っ直ぐ切り込むことのできる唐島を眩しく思えば思うほど、なぜか逆に薫の態度は素直さから離れていく。

「俺の好みの原点かつ頂点は、高校の学食のプリンだ」

「学食?」

「あれ。お前、覚えてねえ? あの幻の絶品プリン」

「いや……覚えてますけど」

 あれは、薫が新聞部の新部長に就任した二年生の二学期のことだった。学食のメニューに新たに加わったカスタードプリンは、他に販売されているメーカーの大量生産品とは一線を画した手作りの味わいで、たちまち生徒の間で評判になった。月曜と木曜のみの数量限定販売だったため争奪戦となり、「購入は一人一個」というルールができたほどだ。

 もともと甘党ではあった薫も、あの味にはすっかり虜になってしまった。

「新聞部で取材しようって思ってた矢先に、販売が打ち切られちまったんだよなあ。あんときは本気で悔し涙が出たな」

 意気揚々と向かった学食で「販売終了」の張り紙を見たときの、足元から地面が崩れていくような無力感は今も忘れられない。人一倍プリンへの執着が強いのは、そんな経験も一因になっているのかもしれない。

「はあ」

 だが、唐島の反応は微妙だ。肯定とも否定ともつかない中途半端な相槌を打ったきり、答えに窮したように黙り込む。鼻筋にわずかに皺を寄せ、くしゃみでも我慢しているみたいに居心地の悪そうな顔だ。

 薫は肩をすくめる。

「いいって、無理に話を合わせなくても」

 あのとき、もう二度とあのプリンを食べられないのかと打ちひしがれていた薫を、不器用ながら慰めてくれたのは唐島だった。

 いや、あんなのは慰めたうちには入らないだろう。ただ、薫のあまりの落ち込みように他の新聞部員が呆れる中、唐島だけは「たかがプリン」とは言わなかった。そしていつもの素っ気ない口調で「そのうちまた、食べられる日が来ますよ」と言ってくれたのだ。

 三百六十度どこから突っ込んでもただの気休めでしかありえない言葉だ。でもだからこそ、取って付けたようなあの一言は薫にとって特別だった。決してうわべを取り繕ったりしないこの後輩が、自分を励まそうと気休めを言ってくれたことが嬉しかった。

 けれど、どうやら唐島本人はそんなことはすっかり忘れてしまったらしい。当たり前だ。あんな他愛のない会話をそんなにいつまでも覚えているはずがない。

 相手のことを、特別な存在として意識していない限り。

 初恋の相手と再会なんてするもんじゃないな、と思い知る。なけなしの思い出を後生大事に磨き続けて、そのきらめきに心の慰めを見出していたのに、今更それがメッキだったなんてことを知らされたくはない。どうせ実らなかった片想いなのだから、綺麗な形のままでとっておきたかった。

 胸の奥にじわりと広がる苦さを相殺しようと、薫はスプーンを手に取ってカスタードプリンを一口すくった。

「あー、やっぱりプリンはこれでなきゃなあ」

 薫は目を閉じて満足の吐息をつく。仕事のストレスも青い春を振り返ってしまった気恥ずかしさも、唐島のプリンはすべて甘く、優しく包み込んでしまう。

「愛さん」

 唐島が、ふいと頬杖を外した。切れ長の目を真っ直ぐこちらに向け、テーブル越しにわずかに身を乗り出してくる。

 唐島の目は、淡い色の虹彩と真っ黒い瞳孔とのコントラストが強いせいか、感情の動きを読み取りづらい。こんな風に瞬きもさせずに見つめられると、つい身構えてしまう。

「今も、あの学食のプリンが理想?」

「へ」

 真剣な顔で、何を言い出すかと思えば。

「ああ……まあ、そうかな」

 薫は曖昧に頷いた。

 どれほど評判のいい上等なプリンを食べても、あの素朴でありながら丁寧で繊細な味わいには適わないと、どこか物足りなく思っていた。記憶を塗り替えるほどの味に出会ったのはこの唐島のプリンが初めてだ。

 だが、作った本人に正面切ってそんな賛辞を贈るのはさすがにこそばゆい。

「そっか」

 言い淀んでいるうちに、唐島は何を納得したのか、ひとつ頷いて席を立ってしまう。そしてそれ以上薫に声をかけるでもなく、また厨房の方へと戻ってしまった。

 残された薫は、心にぽつりと落ちた水滴で波立った表面を優しい甘さで覆い隠すみたいに、黙ってカスタードプリンを平らげる。

 伝票を持ってレジに向かうと、水上がいつもの調子で愛想よく声をかけてくる。

「愛沢さん、お持ち帰りにこれいかがですか」

「ん?」

 水上が差し出す箱を見て、薫は身を乗り出した。細かい仕切りの中に、背の高い小さな王冠のような形の焼き菓子が並んでいる。

「カヌレ? え、そんなもの扱ってたのか」

「へへへーこれも今週から始めたんですよ」

「そんなん、買うに決まってるだろ」

 早速カスタードプリンと一緒に包んでもらい、イートインの分と合わせて会計をする。レジを打ちながら、水上はいたずらっぽい笑顔を向けてくる。

「隆司が言ってたとおりだ」

「唐島が? 何を?」

「カヌレって、ちょっと焼きプリンっぽい味じゃないですか。だからきっと、愛沢さん好きなんじゃないかって」

「……え」

 薫は、思わず水上の背後の厨房に続くドアに目をやってしまった。扉に開いた小さな窓から、背の高い金髪の後ろ姿が見え隠れする。

「あいつが、そんなこと言ったのか?」

「ええ。ほら、カスタードプリンだと冷蔵庫に入れても、当日中じゃないと厳しいでしょ。その点これは常温で三日はもちますし、なんなら冷凍保存もできますよ」

 そこまで言うと、水上はぱちりと綺麗にウインクをする。

「あいつから聞いてますよ。甘いもの食べて、お仕事頑張ってください」

「あ……ありがとう」

 最初に持ち帰り分を買おうとしたときの会話を、唐島が覚えていたなんて意外だった。あんなささやかなやりとりを。

 ロゴ入りの紙袋を受け取る指先が浮つく。

 こんな些細なことで特別扱いされたつもりになって喜んでいるなんて、淡い片想いで終わったあの初恋から何も進歩していない。そう思うのに、店からの帰り道の足取りが自然と弾んでしまう薫だった。

 

 唐島のカヌレは優しい味だった。

 焦げ茶色に焼けた表面はかりっと香ばしいが、内側はもっちり、とろりとした食感だ。バターやラム酒やバニラの香りはあくまでも脇役に回り、卵をたっぷりと使った滑らかな生地の風味を引き立てている。本当に彼の作るカスタードプリンをそのまま凝縮して焼き上げたかのような味わいだ。

 せっかくなので、月に一度の打ち合わせの際に「キュリオ」編集部にも持参した。

「あっ、これ美味しい!」

「シンプルで上品だけど、満足感あるねー」

 早速、武田をはじめとするスタッフの間でも好評を博す。

「さすが辛島さん。センスいいですね」

 手土産のおかけで薫自身の株までワンランク上がったようだ。

「そうそう。センスはいいしイケメンだし、せっかくだからそのキャラを読者にアピールしましょうよ。まずは、プロフィール欄に顔写真大きく載せてみるとか」

 だが、武田にうきうきとした口調でそんなことを言われた薫は閉口する。

「スイーツのコラム書いてる優男ライターなんて、思いっきり陳腐じゃないですか」

「うーん、そうきたか」

 武田はラメ入りのネイルを施した指先に持っていたペンをくるりと回して、その根元でふんわりとしたセミロングヘアをぽりぽりと掻く。海外ドラマに出てくるファッショナブルなキャリアウーマンみたいなのに、仕草の端々が微妙にオッサン臭い。

「親身になって悩みを聞いてくれるのがこんな美形のライターだとわかれば、アクセス急増間違いなしなんだけどなあ」

 おいおい、と薫は呆れてしまう。

「そういう売り方は邪道でしょ」

 だが、武田は動じない。

「邪道だろうが王道だろうが獣道だろうが、多くの人に読んでもらうための道を選ぶのが編集の仕事です」

 それはそれで正論と言えなくもない。少なくとも、彼女のプロ意識には敬意を表したいところだが。

「いや、顔出しは勘弁してください。マジで」

 何しろ薫には、「辛島馨」の名前で仕事をしていることを絶対に知られたくない相手がいるのだ。しかも、スイーツ業界に。

「本人が嫌なら無理強いはしませんけど。まあ、地道に内容で勝負してファンを増やしていきましょうかね」

 その結論にはほっとしたものの、肝心の連載の打ち合わせは少々難航した。今回は鬼門だと思っていた恋愛相談だった。「友達として親しくしている相手を好きになってしまった。想いを伝えたいが、振られたらと思うと怖い」というものだ。よくある悩みと言ってしまえばそれまでだが、簡単に答えが出ないからこそ多くの人が同じことで悩むのだ。

 編集部を辞した薫は、さてどう答えたものかと途方に暮れる。

 既に友達という関係を築いているなら、それを壊したくないと思うのは当然だろう。一方で、もっと特別な存在になりたいという願いに蓋をして、笑顔の間柄を保つのは苦しいに違いない。

 想いを寄せる同級生の隣で、切ない恋心を隠して笑う女の子の姿を想像する。

「きっと、優しい人なんだろうなあ」

 彼女の恋煩いが伝染したみたいに、ふうっ、と大きな溜息をついたときだった。

「誰が」

「わあああっ」

 危うく椅子から飛び上がりそうになった。

「……愛さん、俺が話しかける度にそうやって仰天するの、いい加減やめてくれない?」

 タルトタタンとガトーショコラとカスタードプリンが載ったプレートを薫の正面に置きながら、唐島が憮然として言う。

「お、おう……悪い、ちょっと考え事してて」

 相談に対してどんな切り口から答えたものか悩んでいるうちに、足は自然と「ヴィトライユ」へ向かっていた。水上に勧められるままにケーキを注文し、いつものテーブル席に座ってからも、まだ同じことを堂々巡りのように考え続けていたのだ。

「で、『優しい人』って誰のこと考えてたんですか」

 目の前の椅子に座った唐島が、薫の独り言を律儀に拾い上げる。

「いや、誰って……」

 知らない人だよ、と言いかけて、薫は慌てて言葉を呑み込んだ。

「ちょっと、悩みを相談されててさ」

 仕事で、と明かすわけにはいかない。

「悩み?」

 唐島が形の良い眉をひょいと持ち上げる。

「なんか、仲のいい友達の一人だった相手を好きになっちゃったらしいんだよ」

 唐島が黙り込む。だがその目は瞬きもせずにこちらに注がれたままで、薫の話に真剣に耳を傾けてくれているのがわかる。

 そうだ、この特殊な瞳の色は「ヘーゼル」というのだった、と思い出す。日本生まれの人の間にも少数ではあるが存在するというが、これほどグリーンの色味が強い例は珍しいのではないだろうか。

 目の表情に感情の揺れが映りにくいので、どこか無機質な印象を抱いたこともあった。だがそうではないのだ、と薫は気付く。

 彼の眼差しは「強い」のだ。見栄を張ることも卑下することもなく、言い訳を封じるかのように正直に相手と向き合う目だ。

 ふと、彼ならどう答えるだろうかと考える。

「なあ。唐島ならどうする」

「どうする、って」

「お前なら……それまで友達だった相手に、好きだって言える?」

 自分の発した言葉を耳にして初めて、迂闊だったと薫は気付いた。その問いはあまりにもブーメランすぎた。

 自分は、言えるだろうか。

「愛さんだったら?」

 恐れていたとおりに問いをピンポイントで返されて、かっと顔が熱くなる。

「言えるかどうか、わかんねえよ。わかんないから訊いてるんだよ」

 たとえば今ここで、「実はお前が俺の初恋だった」などと打ち明けたらどうなるだろう。想像しただけで身がすくむ。

「相手も自分と同じ気持ちでいてくれるならいいけど、そうじゃなかった場合は互いに気まずくなるだろ」

 自分の場合は、おそらく気まずくなるどころでは済まない。なんせ同性だ。いくら過去のこととはいえ、親しくしていた先輩が実は自分のことをそんな目で見ていたなんて聞かされたら、拒否反応のひとつやふたつ出てきて当然だ。

 こんな風に、ときに愚痴をこぼしながら極上のプリンを味わう奇跡のような時間も、あっけなく終わりを告げてしまうだろう。

 だが、そんな薫の本心を知らない唐島は相変わらず憮然とした表情のままだ。

「気まずくなるかもって不安になってるうちは、告白なんてしたって無駄だよ」

「へ?」

 予想外に強い唐島の口調に、薫は目をぱちくりさせてしまう。

「俺なら、言えるようになるまで粘る」

 言えるようになるまで。

「……それって、いつまでだ?」

 唐島は店の制服のベレー帽を取って、金髪を尻尾のように結んだ後頭部に手をやる。

「正直に、あんたに恋愛感情を持ってるんだけどそれでも傍にいていい? って訊けるようになるまで。そこで『だめ』とは言われないだろうって自信が持てるようになるまで」

 きっぱりと断定する唐島の迫力に呑まれそうになる。

「相手にとって、恋愛感情を抜きにしてもどうしても必要な人間に自分がなればいい。そうすれば、どう転んでもこっちの勝ちですよ」

「……お前、すごいな」

 そんな強気で一途な発想は、自分にはまったくなかった。心底感心して、薫にしては珍しく思ったままを率直に口にする。

「俺なんかよりお前の方が、よっぽど悩み相談の相手に向いてるよ」

 それなのに唐島は素っ気なく首を振る。

「俺がアドバイスなんかしたところで、相手を怖がらせるのがオチだ」

「んなことねえだろ。俺なんかよりよっぽど頼りがいがあると思う」

「頼りがいがあると思われてるのは、愛さんの方でしょうが」

「頼りがい? どこがだよ」

「だって高校の頃も、よく女子の相談に乗ってたし」

「あれは、なんていうか」

 悩み相談なんて大げさなものではなかった。自分は彼女たちの恋愛対象の埒外にいたというだけの話だ。

 中性的な容姿のせいか、それとも周りが無意識のうちに薫の性的指向を察していたのか、こういう話題だと男子よりも女子の方が自分をすんなりと仲間として受け入れてくれた。あちら側とこちら側という風に隔てられることなく、いつも本音全開の恋愛トークを聞かされてばかりだった。

「いつだったか、新聞部の愛さんの同期の女子が、彼氏に友達の前で『ブス』呼ばわりされたって泣いてたじゃないですか」

「そんなこと、あったっけ」

「うん。愛さん、子供っぽい独占欲でそんなことする男はろくな奴じゃない、とっとと別れちまえ、ってすごい剣幕で怒り始めて、最後は泣いてた彼女に逆になだめられてた」

「くっそ。そんなん、どっから見ても相談相手として不適格すぎじゃねえか」

 覚えてはいないが、いかにも自分がやりそうなことだ。やめろよ恥ずかしい、と高校時代の自分を羽交い絞めにしてやりたくなる。

「そうかな」

 唐島がふっと真剣な表情をほどいた。

(あ)

 その、わずかな表情の変化に目を奪われる。

 くっきりと目力の強い切れ長の目がかすかに細められ、目尻に一筋皺が寄る。たったそれだけで、端正だが厳しい顔つきが角の取れた柔らかな雰囲気になる。

「俺は、愛さんって優しいな、と思ったよ」

 なんのてらいもない誉め言葉に、心臓がリズムを一拍飛ばしにする。薫は慌てて視線を逸らした。

「そんなわけ、ないだろ」

 自分は弱いだけだ。毒舌を吐いたり大げさに怒ったりするのは、その弱さを覆い隠すためのハリボテにすぎない。

 優しいのは唐島の方だ。向ける眼差しが強く優しいからこそ、そこに映る人の姿が優しく見えるのだ。

 その夜、改めて持ち帰りでも買ってきたタルトタタンを食べながら薫は悩み相談の原稿を書いた。

「ちょっと発想を変えてみませんか。友情というのは必ずしも恋愛に至る手前の関係ではなく、他には代えがたい信頼関係ではないかと思います。あなたはきっと優しい人で、相手の人にも友人として信頼されているのでしょう。そんなあなたなら相手の人との間に、告白をしても壊れないくらいの確かな関係を築いていけるはずです」

 最後の「そんなあなたにオススメのスイーツ」には、逆転の発想のお菓子の代表格であるタルトタタン。りんごのタルトを焼こうとして下にタルト生地を敷くのを忘れ、慌てて上に被せて焼いて後から逆さまにした、と言い伝えられる。

 俺は嘘つきだ、と、書き終えた原稿を読み返しながら薫は落ち込む。こんなことを人にアドバイスしておきながら、自分はそんな風に気持ちを切り替えることはできそうもない。いつか自分の初恋について知られてしまうときが来るとして、それでも壊れない確かな関係を唐島との間に築ける自信なんてない。

 ごまかしの効かない強い瞳を思い浮かべる。

 自分が「辛島」なんてペンネームで仕事をしていることを彼に知られるのは、いまだに、どうしようもなく怖かった。

 

 十月も中旬になると、クリスマスシーズンに向けての仕事で一気に忙しくなる。「キュリオ」からも連載に加えてクリスマススイーツ関連の仕事が何本か舞い込んだ。

「この店、メディアの取材とか受けないの」

 お決まりの席についた薫は、水上にそれとなく訊いてみる。

 評判のいい店の情報などはいち早くキャッチする「キュリオ」編集部でも、「ヴィトライユ」の名前は誰も知らなかった。ネットにも情報はほとんどなく、口コミサイトや個人のSNSなどで店名が言及されている程度だ。

「取材? ないですよー。こんな個人規模の、オープンしてまだ数カ月の店なんだし」

 水上は笑って手を振る。

「規模とかは関係ないでしょ」

 薫はぐるりと店内を見渡した。

 こぢんまりとした店内のインテリアは、外国の雑誌にでも出てきそうな凝ったものだ。薫の座るテーブルの脇の窓にはステンドグラスがはまっていて、レトロな雰囲気に高級感を添えている。「ヴィトライユ」とはフランス語でステンドグラスのことらしい。

「店の雰囲気もいいし、何よりこれだけ味がいいんだから、評判になるのは時間の問題じゃないかな」

「店員もパティシエもイケメンですしねー」

 だが水上は相変わらずの調子で、あっけらかんとそんなことを言う。

「……自分で言っちゃうあたりが、水上君の残念なところだよね」

「えーひどいな」

「そう? よく言われるでしょ」

「ちぇ。愛沢さんこそ、よく言われるでしょ」

「何を」

 薫のテーブルに紅茶のポットを運んできた水上が、にやりと笑う。

「名前もルックスもお菓子みたいに甘いのに、中身はスパイスが効いてるね、って」

「う」

 見た目と毒舌とのギャップは、仕事でもよく指摘される。武田などには「ほとんど『スイーツ詐欺』」とまで言われている。

「それって、警戒心の裏返しですか?」

 なんのことだと顔を上げると、水上がテーブルに手をついてぐっと前屈みになってきた。

「わ。か、顔近いって」

 思わず仰け反ると、心得顔で微笑まれる。

「やっぱりね。ね、愛沢さんってもしかして」

 声のボリュームが低くなった。すぐ耳元でようやく聞き取れるほど。

「……男性が恋愛対象な人?」

 不意打ちすぎて、いつものようにさらりと肯定したり曖昧な笑顔で煙に巻いたりすることができなかった。

「なんでわかった?」

 咄嗟に険のある目つきで睨んでしまうが、水上の方は拍子抜けするくらい屈託のない笑顔を返してくる。

「うん。愛沢さん、人との距離感にすごく気を遣ってるな、って見ててなんとなく感じたんですよね。特に、同性相手に」

 そう言いながら厨房の方へと意味ありげな視線を向ける。まさか、と薫は椅子の上でぎくりと背中をこわばらせた。

「それ、唐島には……」

 ひょっとして彼も既に察しているのだろうか。緑がかった褐色の瞳を思い浮かべる。怖くて、水上の視線を追って厨房の方を振り向くことができない。

「いや、隆司はそういうことに鈍いし、気付いてないと思いますけど?」

「言うなよ」

 間髪入れず返したタイミングといい、張り詰めた声といい、テンパっているのがバレバレだと自分でも思う。だが、取り繕っている余裕はまったくなかった。

「え、なんで? あいつ、そういうこと気にする奴じゃないですよ」

 自分よりもよほど唐島のことをわかっているかのような水上の言葉が癪に障る。

 気にするような奴じゃないなんて、薫だってよく知っている。でも、あの仏頂面で武田に言われたみたいに「関係ない」などと流されてしまったら、自分は二度と立ち直れないくらい傷つくような気がしてしまう。

「とにかく、言うな」

 唐島に知ってほしいのか、知られたくないのか。自分でもわからないまま、もう一度水上に強く念押しする。

 だが水上は引き下がる気配を見せない。

「じゃあ言わないって約束する代わりに、ひとつお願いを聞いてもらえません?」

「……お願い?」

 何か胡散臭い気配を感じて、薫が鼻の頭に皺を寄せたときだった。

「何やってんだ、水上」

 背後から地を這うように響いてきた低い声に、薫は危うく悲鳴を上げそうになる。

 計ったようなタイミングで登場した唐島は、ミルフィーユとキャラメルタルトとカスタードプリンが綺麗に盛り付けられたプレートを手にしていなければ、今にも水上の胸倉に掴みかかりそうな勢いだ。

 だが水上はそれを、ふふんと鼻であしらってしまう。

「そんな怖い顔しなくても、単に『愛さん』のこと口説いてただけだよ」

「口説いてた?」

 凄むような声に合わせて、いつもより乱暴な手つきでプレートがテーブルの上に置かれる。それに対して水上は面白がるような笑みを口に含み、ひょいと肩をすくめてみせる。

「ほら、例のあの件だよ。どうせお前、まだ言い出せてないんだろ?」

 例の、あの件?

「余計なことすんな」

 さも不機嫌そうに言い捨てると、唐島はいつものように向かいの席にどさりと腰を下ろす。水上はひらひらと手を振って、ショーケースの向こうの持ち場へと戻っていく。

 一人、薫だけが話が呑み込めずにいる。

「例の件って、なんだよ」

 無言で水上を睨みつけていた唐島が、ひとつ溜息をついて顔を薫の方へと向け直した。

「愛さん」

 瞬きの少ない切れ長の目。ヘーゼルの虹彩と、その中央に的(まと)のように丸く浮かぶ黒い瞳孔。それがひたむきなほど真っ直ぐに自分に向けられている。

「な、なんだよ」

「水上じゃなくて、俺に口説かせて」

 何か突き上げるような大きな音が聞こえたと思ったら、自分の鼓動だった。椅子から転げ落ちそうになるのを、咄嗟にテーブルの端を掴んで持ちこたえる。

「愛さんがそんなつもりでこの店に通ってるんじゃないってのはわかってます。だから、遠慮なく断ってくれていいですから」

「何の、話……だよ」

「クリスマスケーキの試食の話です」

「……へ?」

「そろそろメニューを最終決定しないといけないんですけど」

 テーブルの上で手の指を組み直しながら、唐島が説明する。

「愛さんに試作品を食べてもらって、率直な意見を聞かせてもらいたいと思って」

「なんだ、そんな話か……」

 破裂寸前の風船のようだった緊張感が、一気に緩んでいく。

「だめですか?」

「いや、急に言われても……大体、なんで俺なんだよ? そういうのはあれだろ、フードコーディネーターとかそういう専門家に頼んだ方がいいんじゃないのか?」

 なんなら知り合いを紹介するぞ、と続けそうになって、すんでのところで口をつぐむ。そうだった。自分がライターをやっていることを唐島に知られるわけにはいかないのだ。

 いや、逆にそれがばれてしまったからこんな申し出をされているのだろうか。その可能性に気付いて、薫は肝を冷やす。

 だが唐島は、表情を変えずに首だけをきっぱりと横に振った。

「愛さん以外に頼むつもりはないから」

「だから、なんで」

「たくさん食べてくれるし、舌も確かだし。こんな適任、他にいない」

「……こんな大食いでうるさい奴はいないってわけだな」

 くそ面倒な奴だと自分でも思うが、どうしてもひねくれた答えを返してしまう。

「うるさくないよ」

 唐島が、顔の前で祈るような形に組んでいた両手をほどいた。

「愛さんの言葉は、いつも本気だから安心する。大丈夫だからそのまま進め、って後ろから援護射撃してくれるみたいに感じる」

 思いもよらないことを言われて、薫は長い睫毛を瞬かせた。自分の辛辣な物言いがそんな風に受け止められていたことも意外だったが、それ以上に、他ならぬ唐島がそんなことを言うのに驚いた。

 自分以外の誰にも寄りかかったりしそうにない奴なのに。それこそ孤高のスナイパーみたいに、援護射撃なんてむしろ邪魔なだけだと言いそうなのに。

 だが、こちらに真っ直ぐ向けられたヘーゼルの目は真剣そのものだ。

「試食の件、考えてみてもらえませんか」

「そりゃ……食べて感想言いまくるくらいでよければ、いくらでも協力するけど」

 唐島が自分のことを必要だと言う。ほだされる理由なんてそれだけで十分だ。

「よかった」

 唐島がほっと溜息をつく。

「ホントですか? わー、助かった」

 背後で、水上までが弾んだ声を上げる。

「いや、あまり当てにされても困るんだけど」

 二人の反応に、薫は慌てて釘を刺す。

「俺なんてただの素人だし。自分の好みかどうかは言えるけど、それ以上のことは責任持てねえぞ」

 ライターなんて仕事をやっていて悩み相談の連載も持っているが、部外者のアドバイスなんて所詮は無責任なものだということは承知しているつもりだ。

「いいんですよ、それで」

 だが、唐島はいつものようにテーブルに頬杖をつき、安心したような目を薫へと向ける。

「それが一番大事なことだから」

「それが、って……どれが」

 唐島の言葉はいつも直球だ。それなのにどうしてか、構えた場所とは違うところにボールが飛んできそうな不安が付きまとう。それはきっと、自分の期待の方が的外れだからだ。だから勘違いを正してほしくて、いちいち問い返さずにはいられない。

 唐島は薫の問いをかわすように肩をすくめる。代わりに答えたのは、またも水上だった。

「食べてもらうお客さんも専門家なわけじゃないですもん。特にクリスマスなんて、普段はあまり甘いものを食べない人でもケーキを買うでしょ。だからこそ、食べる人の素直な感想が聞きたいんです。作り手の独りよがりになるのが一番怖いんですよ」

「うん……わかった」

 どこかはぐらかされたような思いがしながらも、仕方なく薫は頷く。

 そして、ふと思う。

 自分は唐島の口から、どんな答えを聞き出したかったんだろうと。

 

 指定された日時は定休日の水曜日、午後二時だった。薫は午前中で仕事を一段落させ、当然のように昼食は抜いて、「ヴィトライユ」へと向かう。

「鍵は開けておくからそのまま入ってきて」

 前もって唐島からそう言われていたので、薫は「Closed」の札が下がった扉を遠慮なく押し開ける。

 店内は照明も入っておらず、しんと静まり返っていた。いつもは色とりどりのケーキが並んでいるショーケースも、今はただの空っぽのガラスの箱だ。薫の指定席のようになっているテーブルに、窓から差し込む外光がステンドグラスの美しい影を落としている。

 見慣れた店内が全然違う場所のように見えてくる。座標軸が少しだけずれた空間に迷い込んだかのような不思議な感覚だ。

「お忙しいところ、すみません」

 厨房の扉から出てきた唐島は、いつものように金に近い茶色の髪を無造作に後ろで束ね、白いコックコートを着ている。だが、今日は店の制服である襟元のスカーフもベレー帽もなしだ。そのせいか、かしこまった口調とは裏腹にいつもよりもラフな印象だ。

「試食は厨房の方でお願いしていいですか」

 唐島がまるで賓客をエスコートするかのように扉を手で押さえて招き入れる。そんな些細な仕草にときめいている自分が照れ臭い。

「あれ、水上君は?」

 促されて厨房へと足を踏み入れた薫は、そこにも水上の姿が見当たらないので戸惑う。

「今日は来てません。もう試食のしすぎでわけがわからなくなってるし、愛さんも気が散るだろうしって言うんで」

「いや……えっと、そうなのか」

 歯切れの悪い相槌を打っていると、調理台の手前で振り返った唐島が、腕組みをしてむっつりと言う。

「水上がいた方がよかったですか」

「い、いや、そういうんじゃなくて」

 二人きりだとわかった途端に、どっと緊張が押し寄せてきた。

 脇の下に汗をかきそうになる。ケーキの試食なのでフレグランス類は自粛したが、汗臭かったりしたらどうしよう。

 やはり匂いが気になってスタイリング剤を使わなかったせいで、妙に坊ちゃんヘアーになってしまっているのも今更気にかかる。ミリタリー調のスタンドカラーのジャケットにスキニーデニムというお気に入りのスタイルが、髪型と全然合っていなかったと後悔する。

「愛さん? どうかした?」

「あ、わ、悪い。なんでもない」

 うろたえるな、と自分をたしなめながら、薫は唐島に勧められた調理台の脇のパイプ椅子に腰を下ろした。デートじゃあるまいし、たかが試食で何をそんなに動揺しているんだ。

「まずブッシュ・ド・ノエルなんですけど、食べ比べて意見を聞かせてもらえますか」

 とはいえ現金なもので、目の前に試食用のケーキが並べられると、薫の気持ちはたちまちそちらへ吸い寄せられる。

「え、なんだこれ。ちっちゃくて可愛い」

 サイズもデコレーションも変わらない小ぶりのブッシュ・ド・ノエルが二つ。薪をかたどった正統派の形ではあるものの、ロールケーキのホールサイズではなく、せいぜい缶ビールを横にしたくらいの大きさだ。

「クリスマスってカップルでケーキを買いに来るお客さんも多そうだから。二人で分けて食べるにはこのくらいがちょうどいい大きさかと思って」

「なるほど、ありだな」

「敢えて説明はしないんで、まず食ってみて」

 そう言われ、フォークで慎重に一口分を切り分けて口に運ぶ。

「うわあ」

 思わずうっとりとした吐息を漏らしてしまった。

 ふんわり軽いココア生地で巻いてあるのはややビターなチョコレートクリームだが、その芯の部分に甘酸っぱいラズベリーのコンフィチュールが忍ばせてある。

 チョコレートとラズベリーの組み合わせは、お伽噺の王子と美女のように王道の組み合わせだ。ラズベリーのしっかりと主張する味と香りは、少女のような可憐さと大人の妖艶さを兼ね備えている。それを芳醇に香るチョコレートが抱きしめるように包み込み、舌の上でとろけ合う。たまらなく甘美で、情熱的だ。

「うう、ヤバい代物を作りやがって」

「美味いかな?」

 冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルの中身をグラスに注ぎ、薫の方へと差し出しながら、唐島が探るように訊いてくる。

「美味いなんてもんじゃねえよ。ったく、天才かお前は」

 クリスマスイブに恋人と二人でこのケーキを食べたら、さぞかしロマンティックな夜を過ごせることだろう。

「もうひとつの方はなんだ」

 グラスの水を飲んで舌をリセットし、もうひとつの見た目はまったく同じブッシュ・ド・ノエルの味を試す。

「……ん?」

 こちらもケーキの生地とチョコレートクリームは一緒だが、芯のところにさらに濃厚なチョコレートガナッシュが使われている。シンプルなだけに、チョコレートの香りと味わいがストレートに伝わってくる。

「あれ……なんだ、この香り」

 その上質なクーベルチュールチョコレートの奥に、ほのかにエキゾチックなスパイスの気配を感じる。ぴりっとかすかな辛みが心地よいアクセントになっている。

「気付いた?」

 唐島に訊かれて、薫は素直に首を横に振る。

「いや。正体がわかんねえ」

 よく知っている香りのような気がするのだが、なんだったか思い出せない。降参、と両手を上げると、唐島がぽつりと答えた。

「山椒」

「え」

 びっくりして、目の前の皿に視線を落とす。

「山椒って……鰻にかけたり、ちりめんと一緒に炊いたりする、あれか?」

「そう。生の実を細かく擦り潰したものを、ガナッシュにほんの少しだけ混ぜてみたんだ」

 急いで、もう一口味を見て確かめる。

「わ。本当だ、言われてみれば山椒の風味だ」

 つんと鼻に抜ける香りは、和食ではお馴染みのものだ。取り合わせが意外すぎて思いつかなかった。

「そっか。そういえば海外にはチリライム味のチョコレートとかあるもんな。なるほど、こういう濃厚なチョコレートには、辛味と清涼感のあるスパイスが合うんだな」

 言われなければわからないほどかすかな隠し味だが、とろっと濃厚な甘さを引き締めるには十分な役割を果たしている。

「これは他では食べたことのない味だなー。やばい、なんか癖になりそう」

「愛さんなら、どっちを選ぶ?」

 自分もグラスから水を飲みながら、唐島が問いかける。

「……難問だな」

 薫は顎に手を当てて黙り込んでしまった。甲乙つけがたい、とはまさにこのことだ。

 万人受けするのは、王道のラズベリーの方だろう。ほんのりスパイシーな山椒のチョコレートには他にはない個性と驚きがあるが、派手さはないし、そもそもこの隠し味に気付かない客も多いのではないか。

 薫は慎重に口を開く。

「なあ。お前、客としての俺の率直な感想が聞きたいから試食頼んだって言ってたよな」

「はい」

「売れ筋とか演出とかそういうの一切無視して、俺自身がどっちが好きかで答えていいか」

「もちろん。むしろそれが聞きたい」

「なら、俺は山椒かな」

 再びフォークを手に取って、改めて二種類のブッシュ・ド・ノエルを交互に口に運ぶ。

「うん。どっちも文句なしに美味いけど、なんだろうな、山椒の方が特別感がある」

 心の底から美味しいと思えるものを言葉で表現するのは、薫にとってはほとんど本能に近い反応だ。

「こういう意外な素材が使われてることに気付くと優越感をくすぐられるんだよな。他の奴にはわからない暗号を解読したみたいで嬉しくなるだろ? なんか、自分だけのために作ってもらったみたいな気にさせられる」

 喋っているうちに高揚感がどんどんせり上がってきて、ついそんな浮かれた本音を漏らしてしまう。

「それにこうして食べ比べると、甘酸っぱいベリーの味よりもスパイスの辛味の方が、不思議と色っぽい感じがするな」

「へえ」

 唐島が意外そうな声を上げる。その反応に、薫はいつの間にか自分が相当のぼせ上っていたことに気付いた。

「あ、いや、その……つまり、俺が個人的にクリスマスに予約するならこっちかな、って」

 慌てて言い添えると、唐島の切れ長の目がにわかに剣呑な色を帯びる。

「愛さん」

「な、なんだよ」

 調理台の向こうからほとんど睨むような視線を投げかけられる。何か怒らせるようなことを言っただろうか。

「愛さんはその予約したクリスマスケーキ、誰と食べるんですか?」

「へ」

 何言ってんだこいつ、と薫は目を丸くした。

「一人で完食するに決まってんだろ。このサイズのケーキなんて、文字通り朝飯前だ」

「いや……そうじゃなくて」

 唐島は頬杖を外して、かくりと拍子抜けしたような顔をする。

「そうじゃなくて、なんだよ」

「なんでもないです。で、愛さんはこのケーキだったらクリスマスに予約してくれるんですか」

「これだけじゃなくて、なんなら当日店に出てるケーキ全種類制覇したいくらいだけどな」

「ありがとうございます」

 ひとつも嬉しくなさそうな無愛想な声だが、先ほどまでの険しい雰囲気がふわりと緩む。目がわずかに細められ、目尻に細い皺が寄る。

 吸い込まれそうな瞳の色に、あの哀しいくらいささやかな思い出が不意に甦った。あの日、プリンがもう食べられないと落ち込む薫に気休めを言ってくれたときも、唐島はちょうど今と同じような表情をしていた。

 そして、唐突に気付く。

 仏頂面の唐島にとってこれは限りなく笑顔に近い表情なのではないだろうか。

 どくん、と心臓が震えた。

(待て待て待て)

 制止を振り切って、心がぐんぐん走り出す。初恋をあっという間に追い越して、目の前の唐島へと辿り着く。記憶の中の理想の味を更新するかのように、十年前の片想いが鮮やかに上書きされていく。

(やばい)

 息苦しいほど強く拍動する心臓を抱えて、ようやく、悟る。

 これは、二度目の初恋だ。

 不器用に笑う後輩に、まるで一目惚れのように恋をし直している自分がいる。

 

「愛さん?」

 唐島に怪訝な顔をされて、薫ははっと我に返った。ほんの一呼吸ほどの時間に思えたのだが、実際には普通の会話のテンポをいくつか飛ばすくらい長いこと、無言で唐島の顔を見つめていたようだ。

 薫は急角度で視線を外して、手にしたままだったフォークを食べ終わったブッシュ・ド・ノエルの皿に戻した。

「もしかして、もう腹一杯ですか?」

「ままま、まさか」

 思い出だけでも心は十分に甘く揺らいだが、目の前にいる本人を改めてそういう対象として意識してしまうと、もはや動悸を鎮めるすべがない。速すぎる鼓動のせいか、舌までもつれる有様だ。

「それなら、次はショートケーキの試食もお願いしていいですか」

 一方唐島の方は、声も表情もいつもと変わらず抑揚が少ない。改めて自覚した恋心に薫が狼狽していることには気付いてはいないようで、少しほっとする。

「ショートケーキか。そっちはどんな変化球を用意してるんだ」

「いや、オーソドックスに苺なんだけど、その品種で迷ってて」

「苺の品種?」

 業務用の青果販売業者が取り扱う苺のうち三種類を候補にしている、と唐島は言う。

「小粒だけど味のいい品種。見栄えのする贅沢な大粒の品種。それと、今年のクリスマスシーズンに向けて品種改良された新種。これは形と色が綺麗だっていう触れ込み」

 説明しながら、唐島はその場でショートケーキの仕上げを始める。

 四角く焼いたスポンジケーキの厚みを、ナイフですっぱりと半分に切る。業務用冷蔵庫から七分立てにした生クリームを取り出し、パレットナイフで切り口に塗る。苺を並べ、スポンジを重ね、上にも均等に生クリームを塗っていく。端を切り落とし、生クリームを絞り出して苺を飾り、「メリークリスマス」と書かれた小さな紙片とイミテーションのヒイラギの葉をあしらう。最後に銀のアラザンを数粒ぱらぱらと散らす。

 流れるような手つきにただただ見惚れているうちに、あっという間に薫の前に一人分サイズに切り分けられたショートケーキが三つ置かれていた。まるで魔法だ。

「愛さんの左から、小粒、大粒、新種の順」

 薫は思わず目を細める。

「あー、やっぱり苺ショートって華やかでいいな。なんか無性にわくわくさせられるよな、この色合い」

 新雪を思わせる白く滑らかな生クリームに、花が咲いたように鮮やかな赤い苺。そこに添えられたヒイラギの緑。これぞハレの日のケーキの王道中の王道だ。

「でも、大事なのはやっぱり味だよな」

「うん。その点、苺がどれも一長一短で。見た目がいいのは味が物足りない」

「上に飾る用と中に挟む用と、種類を使い分けたら?」

「そうするとそれぞれロスが出るし、まとめて注文した方がコストもかからない。単価はなるべく抑えたいから」

「なるほどなー」

 とにかく話は食べ比べてみてからだ。まずは薫から見て右端の、新種の苺を使ったものを手元に引き寄せた。

 見た目はこの苺が一番バランスがいい。形も綺麗な円錐型で赤味も深く、絵本に出てきそうな可愛らしいケーキに仕上がっている。

「うん、悪くないと思うけどな」

 酸味も甘味も強すぎす、優しい味だ。生クリームのコクやスポンジケーキのふんわりした食感の邪魔をせず、むしろ引き立て役となっている。

 続いて、真ん中の大粒のもの。

「あ、俺はこれはあんまり好きじゃない」

 甘味は強いが主張しすぎる感じで、クリームとのバランスが悪いように思える。これなら、わざわざケーキに使わなくても苺単独で食べた方がよさそうだ。

 そんな薫の感想を、唐島は真剣な顔つきでメモにとっている。本当に菓子作りに真面目なんだな、と思う。

 ケーキを仕上げていたときの唐島の手つきを脳裏に甦らせる。正確で、迷いがなくて、でも丁寧で。真摯な集中力が、傍で眺めているだけの薫にもひしひしと伝わってきた。

 一度でいいから唐島のあの手に、あんな風に大切に扱われてみたい。

 そんなことを夢想している自分に気付いて、薫は慌てた。唐島は真剣に仕事をしているというのに、不謹慎極まりない。

 雑念を払い落すように軽く首を振って、薫は最後のショートケーキにフォークを入れた。

「あ」

 舌に乗せた瞬間、違う、とわかった。

 他の二つは苺の粒が大きかったので、中に挟む苺は半分に切って並べられていたが、これは切らずに丸ごと使われている。そのためか苺の香りや酸味が一際鮮烈に感じられるのだ。飾りや添え物ではなく、生の果物を食べているという堂々とした存在感がある。それでいて、生クリームの甘さとのバランスも絶妙に保たれている。

「いかにも苺のショートケーキ、って感じでいいな、これ」

「そうなんだけど」

 目を上げると、唐島が厳しい表情のまま腕組みをしている。

「粒が小さくて見栄えがしない」

「でも、見た目の華やかさなんて苺以外の部分でいくらでも演出できるだろ? 味はダントツでこれだと思う」

 フォークを持ち替えてもう一口分を丁寧に切り取り、再び口に含む。今度は苺そのものの味に意識を集中させる。すると、さっきはそれほど強く感じなかったジャムのような甘みが舌にじゅわりと広がっていく。

「わあ」

 薫は思わず目を閉じて感嘆の吐息をついてしまった。

「この苺、二口目の方が甘く感じる」

「は? そんなことってありますか」

「いや、俺もこんなの初めてだけどさ」

 薫はケーキの上にちょこんと乗せられた苺を、指先で行儀悪くつまみ上げる。

「なんだろうな。生クリームとの相性がいいのかな?」

 つまんだ苺の先にクリームが付いているのを、味を確かめるみたいにぺろりと舐めた。

 色が薄く感情を読み取りにくい唐島の目が、刺すように薫の口元へ向けられる。

「嘘だと思うなら、お前も食ってみろよ」

 薫は生クリームを舐め取った苺を唇から離して、ほら、と唐島の方へ差し出す。

 ただのジェスチャーのつもりだった。

 だが。

「うす」

 腕組みをほどいた唐島が長身を屈めてきたと思うと、まるで餌付けされる野生動物のように、薫の手にした苺に自分の口を寄せた。

「……え?」

 顔をわずかに傾け、小粒の苺をぱくりと銜(くわ)える。

「!」

 唇が薫の指先に触れた。びくりと引っ込めようとした手首を、即座に掴まれる。

 指の腹を舌先に撫でられる。ちゅ、という音が手元から響く。全身の血液が指の先端になだれ込んでいく気がする。

 苺を丸ごと吸い取るようにして唐島の口が離れた。だが、手首はまだ握られたままだ。

 コックコートの襟元の上に見える喉仏が、こくりと上下する。唐島は口に含んだ苺を一口で飲み込んでしまうと、薫の顔から目を離さずに自分の唇をぺろりと舐めた。

 全身の官能が揺さぶられ、ぞくっと鳥肌が立つ。頭の中が真っ白になる。咄嗟に、握られていた手を激しく振り払ってしまった。

「お前っ……ざけんな」

「愛さん?」

「いきなり何しやがる」

「何、って」

 唐島が無表情のまま首を傾げる。

「愛さんが、食ってみろって言うから」

「だからって人の手から直接食うとか、するか普通! しかも俺が先に口つけたやつ!」

「しないですか、普通」

 唐島が眉間に皺を刻んで不本意そうな顔をするのを見て、薫の頭の中で何かがぱん、と音を立てて弾けた。

 するのか。こいつは。普通に、友人と、こんなことを。

「じゃあお前は、水上君とも普段こういうことしてんのかよ」

「はあ?」

 唐島の声に、今度は明確に怒気が混じる。

「なんでそこで水上が出てくるんですか」

 自分で出した名前をきっかけに、薫はその水上に指摘されたことを思い出した。

――距離感にすごく気を遣ってるな、って。

――特に、同性相手に。

 図星だった。正確には同性相手ではなく、唐島相手にだ。

 本当は、真正面に座ってずっと見惚れていたかった。その手にも唇にも触れたかったし、触れられたかった。「可愛い」なんて言われて、素直に喜んでみたかった。

 意固地なまでにそれを避けてきたのは、自分の片想いが再開してしまったことを認めたくなかったからだ。唐島にときめいているこの気持ちも、「思い出」という箱の中に閉じ込めてしまえば安全圏に置いておけると思ったのだ。

 薫はパイプ椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がる。

「帰る」

「え?」

 唐島の視線を避けて、くるりと背を向ける。これ以上一秒でも長くあの目に見つめられたら、心の内を読み取られてしまいそうだ。

 身を翻して、全力で厨房の外に走り出た。

「愛さん!」

 引き止めようとする声を置き去りにして、ドアを開けて一気に店の外へ脱出する。住宅街の細い道を莫迦みたいにまっしぐらに疾走し、逃げるようにバス停まで辿り着く。

 ぜいぜいと呼吸を整えながら背後を振り返るが、誰も追いかけてきてなどいない。当たり前だ。

 唐島に吸いつかれた指先がじんと痺れる。反射的にそれを口元に持っていこうとして、急いで拳に握り直す。思い出すまいとむきになればなるほど、指先に触れた唇の感覚をくっきりと甦らせてしまう。

――しないですか、普通。

 動揺した薫を怪訝そうに見返してきたあの顔が、恨めしくて仕方ない。

 休みの日に二人きりで過ごしたり、まだ商品化もしていない特別なケーキを食べさせてもらったり。手首を握られて、指に吸い付かれて、自分の舐めた苺を口に含まれたり。

 それらをどれも特別なことのように意識してしまって、いちいち胸を高鳴らせていたのは自分だけだった。わかっていたはずなのに、息が苦しくなる。強すぎる鼓動を打ち続ける心臓が、いつまでもしくしくと痛む。

 ようやく来たバスに乗り込んでからも、薫は俯いた顔を上げることができなかった。

 

 その夜携帯にかかってきた唐島からの電話に、薫はどうしても出ることができなかった。

 本来なら、試食を途中で放り出してきてしまったことを謝るために自分から電話しなくてはいけなかったと思う。仕事として依頼されたわけではなかったけれど、唐島の方はもちろん仕事だった。あれほど真剣にこちらの意見に耳を傾けてくれていたのに、あまりにも勝手なふるまいだった。

 でもそれを謝るには、あのとき取り乱した理由を説明しなくてはならない。

 手を振り払ったときの唐島の、わけがわからないという顔を思い出す。いきなり指にキスされて焦ったなどと言ったところで、そんなつもりは微塵もなかった唐島は面食らうだけだろう。逆に、自分が唐島をそういう風に意識していたことを暴露してしまうだけだ。

 どうすればいいのかわからなくて、何度かかかってきた電話を無視してしまう。知らん顔をして「ヴィトライユ」へ行くわけにもいかない。

 逡巡して落ち込む気持ちと反比例するように、ハードルはどんどん高くなる。あの日の行動を説明するだけでなく、電話に出なかったことにも店へ顔を出さないことにも、もっともらしい理由が必要になってきてしまう。そうやって一日延ばしにすればするほど、難問だらけの宿題が積もり積もっていく。

 明日こそ、来週こそ、と決心を鈍らせているうちに、気が付けば一カ月以上が経ってしまっていた。唐島からの電話はとっくにかかってこなくなっていた。

「……聞いてますか、辛島さん」

 電話口の向こうで心配そうな声を上げたのは、編集者の武田だ。

「ああ、はい。すみません」

 今日何度目かの同じやりとりに、武田が深く溜息をつく。

「とにかくこのままではちょっと使えないので、せめてもう少しオブラートにくるんだ書き直し案を送ってください。お願いします」

「……わかりました」

「辛島さん、なんかありました? 大丈夫ですか?」

「なんにもありません。大丈夫です」

 せっかくの武田の気遣いも、今の薫には煩わしいとしか感じられない。まだ話を続けたそうな彼女の様子には気付かないふりをして、強引に電話を切った。

「あー……くそ」

 携帯を放り出してデスクの上に顔を伏せる。傍らのノートパソコンには、ボツにされたばかりの悩み相談コラムの原稿ファイルが開きっ放しになっている。

 相談内容は、親友と些細なことで仲違いをしてしまったというものだった。学校で毎日顔を合わせるので気まずいままなのは嫌なのだが、自分に落ち度があるとはどうしても思えず、心にもない謝罪をしてごまかしたくない、というのだ。

「これってさあ、親友を怒らせておいて『自分に落ち度はない』って言い切っちゃう、そういう態度に相手はキレたんじゃねえの?」

 つい画面に向かって毒づいてしまう。「素直に謝れないあなたの側の問題では」という趣旨で回答してみたのだが、武田は承知してくれなかった。相談を送ってくるということは本人もそれなりに自分の行動を後悔しているはずだから、上手く仲直りできるように背中を押してあげてほしい、というのだ。

「上手く仲直りできる方法なんて、俺が教えてほしいくらいだよ」

 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、どうにか修正案の体裁を整える。

「仲違いに効く特効薬は二つ。思い切って先に謝っちゃうことと、不愉快なことも忘れてしまうくらい美味しいスイーツを一緒に食べること」

 そんな書き直し案をメールで送りながら、今の自分はそのどちらもできないくせに白々しい、と情けなくなる。

 苛々とコースターの上に置いたマグカップに手を伸ばすが、中身はとっくに空だった。そうだった。コーヒー豆はこの一杯を最後に切らしてしまっていたのだ。

 以前取材した自家焙煎の店の深煎りブレンドが気に入って、自宅でスイーツと合わせるコーヒーはそれと決めている。ところがあいにくその店は「ヴィトライユ」のすぐ近くなのだ。もともとコーヒーを買いに行く途中で、新しく洋菓子店がオープンしたのを見つけたのがきっかけだった。あの店に行くとなると、どうしても「ヴィトライユ」の前を通ることになる。それを躊躇しているうちに、いよいよストックを使い切ってしまった。

 まして、唐島の作るスイーツに至ってはもうかなり長いこと口にしていない。生菓子はもちろんのこと、冷凍しておいた買い置きのカヌレや、日持ちするマドレーヌやサブレもとうに底をついていた。

 薫は普段ほとんど自炊をしない上に、仕事が立て込んでくるとまともに食事をしなくなる。気分転換に淹れるコーヒーと一緒に食べる甘いものは貴重なカロリー源だった。

「さすがにこのままじゃ餓死すんな」

 薫は椅子から重い腰を上げて、財布を片手に外へ出る。エレベーターを降りてマンションのエントランスを出たところで、吹き付けてきた強い北風にぶるっと身を震わせた。

 外はとっぷりと日が暮れている。今年のカレンダーが最後の一枚になるまではまだ数日あるが、既に真冬のような冷え込みだ。そんな寒さの中に、薫はイージーパンツに薄手のスウェットパーカという部屋着のままで出てきてしまった。

「ま、いっか」

 コートを取りに部屋まで戻るのも面倒くさい。どうせ徒歩三分程度だと、両肘を抱え込むように背を丸めて寒々とした住宅街の道を急いだ。それでも、バス通りの角のコンビニに着いたときにはすっかり身体が冷えてしまっていた。

 暖房の効いた店内に入っても空腹感は少しも刺激されない。パックのごはんやレトルトのカレーなどを義務感だけでかごに入れていく。インスタントコーヒーもカップスープも、とにかく最初に目についたものを機械的に手に取る。正直、ここに並んでいる何を食べたところで美味いと感じるとは期待していなかった。それなら何を選ぼうが同じだ。

 レジに向かう途中の冷蔵ケースの前で、ふと足が止まる。そこには、いつか試食した「究極のとろけるプリン」が「好評発売中」のシールを貼られて並べられていた。そういえばここのチェーンの商品だった。

 急に、打ちのめされるほどの喪失感が襲ってきた。

 今この瞬間、唐島のプリン以外に食べたいものなんて何もない。でもそれは学食のプリンと同じように、もはや手に入らない幻の味になってしまった。しかも今回は自分の一方的な落ち度で。

 一度手に取ったその「究極のとろけるプリン」を投げやりに棚に戻し、足を引きずるようにしてレジに向かう。店員に代金を払い、ビニール袋を手に表に出る。

 今回の悩み相談の内容を思い出す。喧嘩をした相手と毎日学校で顔を合わせなくてはならない相談者のことが、薫はいっそ羨ましい。

 大人になって自分で逃げ道が作れるようになると、自分のような臆病者は、ついそちらを選んでしまう。そして最初の一歩をそちらへ踏み出すと、もう後戻りはできなくなるのだ。まるで迷路の奥に誘い込まれるように、元へ戻る道はどんどん遠ざかる。自分の弱さと向き合うことから逃げようとした結果、気が付けばとても大切なものを失ってしまう。

 強い風に身体が吹き飛ばされそうになる。しばらく体重計にも乗っていないが、武田に見破られた五十キロという体重には下方修正が必要かもしれない。

 家に戻ると倦怠感がどっと押し寄せてきた。指先が痺れたようにかじかんで、全身が細かく震える。湯を沸かして買ってきたばかりのインスタントコーヒーを淹れて飲んでも、身体は冷え切ったままだった。頭が、鉛のヘルメットでも被せられたみたいに重たい。

 だるい身体を引きずるようにして布団に潜り込んだ。数時間ほど仮眠するつもりで、携帯のアラームをセットする。

 しかし、アラームが鳴る頃には体調はさらに悪化していた。強烈な寒気がして、布団を頭の上まで被ってもがたがたと歯の根が合わない。身体の節々が軋みを上げるように痛む。枕に押し付けた耳の奥に、自分の鼓動が鈍く反響している。

 体温計を取り出すまでもなく、かなりの高熱なのがわかった。トイレに起きるのも一苦労で、立ち上がっても足の震えが止まらない。家には市販の風邪薬さえないが、とてもではないが外に買い物に出られる状態ではない。ひたすら水分を補給して、後は砂浜に打ち上げられた流木のようにベッドに横たわっているしかなかった。

 朦朧とする意識の中で、漂うようにぼんやりと不安な夢を繰り返し見た。

 コックコートを着た唐島が向かいに座って、あの高校の学食のプリンを差し出してくる。

「これが食べたかったんでしょう?」

 違う、と言いたかった。今の自分が恋焦がれるのは、唐島の味だ。そう答えようとした瞬間、あのとき唐島に触れられた指先にちりっと痺れが走った。

 だめだ。

 この想いを知られてしまっても唐島の前に座っていられる自信なんて、自分にはない。

 返事はおろか首を振ることさえできずにいると、唐島はしびれを切らしたように席を立ってしまう。

「唐島」

 喉の奥に張り付いたものをはがすみたいに、声を絞り出す。でも唐島は聞こえないのか、聞こえても無視をしているのか、コックコートの背をこちらに向けてそのまま歩き去ろうとする。薫はすがりつくようにその背中に声をかけた。

「ごめん」

 好きになってしまったりして。

 彼の足がぴたりと止まった。だが次の瞬間、その姿はドアの向こうへと消えてしまう。

「唐島!」

 その叫びは、もう彼には届かない。

 自分は、どこで間違えてしまったのだろう。

 初めて唐島に触れられて動揺したあの日だろうか。もう一度彼に恋をしていることを自覚してしまったあのときだろうか。試食なんて引き受けるべきではなかったのだろうか。

 いや、それを言うならそもそも唐島と再会してしまったのが過ちだったのか。

 どこまでも続く後悔の迷路の奥へと、薫は引きずり戻されていく。身体の中で負の感情が渦を巻いて、摩擦熱がそのまま体温に変換されていくみたいだった。

 どうして、ささやかながらも優しい思い出だけで満足しておかなかったのだろう。自分の恋心を打ち明ける勇気もないくせに。

 

 丸一日寝込んだ後、這うようにして最寄りのコンビニとドラッグストアまで買い物に行き、辛うじて都会での孤独死は免れた。薬を飲んで死んだように眠り、三日目にはようやくゼリーやスープなどを口にできるようになった。

 武田に事情を説明すると、仕事の方は心配いらないから静養してくれというメールが返ってきた。一週間ほどしてどうにか体力が回復すると、薫は謝罪を兼ねて「キュリオ」編集部を訪れた。

「ご迷惑をおかけしました」

 持参した菓子折を差し出して深々と腰を折る。普段から不摂生を重ねていた身体が針金のようにやせ細ってしまったのを見て、武田が溜息をついた。

「そのやつれ具合じゃ、言い出しづらいなあ」

「何を」

 打ち合わせ用のスペースに向かい合って座ると、武田が珍しく言い淀む。今日も綺麗にネイルをした両手の指先を組んだりほどいたりしている様子を見て、なんとなく、いい話じゃないなと察する。

 武田は肩を一度ぐっと持ち上げて落とすと、静かに切り出した。

「急ですが、『あなたの悩み、甘やかします』の連載は年内で終了することになりました。つまり、今日これから依頼する分が最終回ということになります」

「……え」

 武田はテーブルの上に資料を取り出した。

 閲覧数が思うように伸びていないこと。特にここ数週間は寄せられる相談の数も大幅に減っていて、読者に飽きられている傾向が見られること。「キュリオ」のサイト自体がリニューアルを予定していて、多くの連載を入れ替える方針であること。一つひとつデータを示して淡々と説明をした後で、武田は初めて悔しそうな顔になった。

「もともと、無理のある企画だったのかもしれませんね」

「無理?」

「辛島さんに、かなり無理させてたでしょう」

 武田は、組んだ両手の掌をくるりと外向きに返して、うーん、と伸びをする。

「私より長く編集をやってる方に話したら、それはライターさん大変だよ、って言われたんです。悩み相談なんて受ける方もメンタル削られるから、週一の連載はきついって」

 それから、ほどいた両手をぱん、と顔の前で合わせ、薫に頭を下げた。

「今日の辛島さんの顔を見て、本当だって反省しました。ライターさんを潰すような企画にするつもりはなかったんです。至らない編集で、本当にすみません」

 いつも元気な武田に拝むようなポーズで言われて、薫はうろたえる。

「そんな。至らなかったのは、俺の方です」

 振り返ってみても、ここ数回の回答内容は我ながら出来が悪かった。自分自身の悩みに振り回されて、見ず知らずの人の相談に乗る気持ちの余裕がなかった。でも、そんなことは読者には関係がない。身の入っていない回答をしてしまった人たちに申し訳なかったし、飽きられてしまったのも当然だと思う。

 手抜きの仕事をしていたつもりはない。それでも忸怩(じくじ)たる思いは残る。もっと頑張ればよかった、なんていう後悔は甘えでしかない。そんなことを言うくらいなら、最初から全力で臨めばよかったのだ。

「それで、ひとまずは最後の相談内容なんですけど、もし辛島さんが嫌でなければこれを取り上げてもいいですか?」

 武田がプリントアウトを一枚寄越す。普段はそこに一カ月分の相談内容の候補が挙げられていて、武田と話し合いながら方針を決めるのだが、今回は最初から一件しかない。

 最初の一行に目を落として、すぐに武田が「嫌でなければ」などという言い方をした理由がわかった。「同性の友人を好きになってしまいました」とあったからだ。

 相談を一気に最後まで読んで、顔を上げる。

「武田さん」

「はい」

「最終回にこれを選んでくれて、ありがとう」

 薫はテーブルの上に伏せるように深く頭を下げた。膝の上に揃えた拳をきゅっと握る。

「こんなの虫のいいお願いかもしれませんが、もしまたチャンスをもらえるのなら次こそは頑張ります」

「いえ、むしろ病み上がりのところ申し訳ないくらいなんですけど、すぐに別のお仕事を依頼することになりそうなんですよ」

 武田の声が、ようやく明るくなった。

「バレンタインに向けて、これからブレイクしそうなチョコレートスイーツを数回に分けて特集したいんですけど、これは是非辛島さんにお願いしたいと思ってます」

 その言葉に、山椒の隠し味を効かせたブッシュ・ド・ノエルの味を思い出してしまって、ちくりと胸が痛んだ。

「何か耳寄りな情報があったら知らせてくださいね!」

 だが、いつもの仕事熱心な武田の表情に戻ったのを見て薫もほっとする。

「そういえば今日のお菓子、この前のカヌレのお店のと違うんですね」

 薫の持参したバウムクーヘンのパッケージを見ながら、武田が言う。心を読まれたみたいなタイミングに、ぎくりと顔がこわばる。

「ああ……ちょっとこのところ、あっち方面にまで足を伸ばせてなくて」

 本当はこの編集部に来るよりもよほど近いのだが、心理的には地球の裏側のように遠い。適当にごまかすと、武田は「あーそうですよね、寝込んでたんですもんね」と勝手に納得してくれる。

 バレンタインの仕事の詳細については後日メールで連絡をもらうことにして、薫は編集部を後にした。

 その夜は、インスタントコーヒーとコンビニスイーツをお供に、久しぶりにデスクに向かった。メールで送られてきた相談内容のファイルを開き、改めてじっくりと読み直す。

「同性の友人を好きになってしまいました。片想いでいいと思っていたはずなのに、いつしか、この気持ちを受け入れてもらえるのではないかという期待を抱くようになりました。けれど、それは自分の思い上がりでした。焦って距離を縮めようとして、相手に拒絶されてしまったのです」

 読みながら、薫は半ば無意識のうちに胸に手を当てる。

「今は相手に徹底的に避けられていて、どうしていいかわかりません」

 文章の行間から、涙が滴り落ちてくるのが見えるような気がする。

「軽率な行動に出てしまったことを謝りたい。もし相手が許してくれて、友人に戻れるなら、自分の恋は諦めてもいい。ただずっと傍にいて、必要なときにはいつでも支えられるような存在でいたい。そう考えるのは自己満足でしょうか」

 相談は、そう締めくくられていた。

 胸の奥に涙がつかえている。それを堰き止めている栓を引き抜くように、薫はいきなり回答を書き出した。

「謝らないでください。許しを乞わないでください。あなたは何も悪くないのだから」

 むしろ、自分の気持ちを素直に行動に移したこの相談者の勇気を讃えたいと思う。

「あなたは堂々と自分の気持ちを告げていいんです。その気持ちを持ったまま、あなたにしかできないやり方でその人のことを支えてあげることもできるはずです。その想いは自己満足なんかじゃない」

 インスタントコーヒーがマグカップの中で冷めていくのも構わず、薫はキーボードを叩き続ける。

「諦めるという決断を否定するつもりはありません。ただどうか、『好きになった自分が悪い』などとは思わないでください」

 そこで薫はひとつ息をつくと、続きを一気に書いた。

「僕はゲイです。ストレートの友人に片想いをして、『好きになってごめん』と思ったこともあります。でも結局、僕らの恋愛も異性間の恋愛も、本質的には何も変わらない。喜びも、痛みも。だから、たとえあなたの好きな相手が同性との恋愛を受け入れられない人だったとしても、あなたは胸を張ってその人のことを好きでいていいんです」

 これが本当に相談者の悩みへの回答になっているか、自信はない。でも、自分にはこれ以外に書けることはない。

――援護射撃してくれるみたいに感じる。

 いつか唐島が言ってくれたことが耳の奥に甦る。どうかこの言葉も、この相談者にそんな風に届きますように、と祈る。

「つらい恋をしているときほど、美味しいスイーツを食べましょう。好きな物を食べられないと、どんどんマイナス思考になっちゃいますから。これは僕の実体験です!」

 最後だけは少しおどけた調子で締めくくる。何度も読み返して、推敲して、ようやく納得がいったところで武田に原稿を送る。

「自分語りは控えろって言われていたのに、最後にやっちゃいました。でも僕はどうしても、こういう形でこの相談者の気持ちに寄り添いたかったんです」

 メールにはそう書き添えた。

 翌朝、携帯に電話がかかってきた。

「びっくりしました」

 電話を取るなり、武田が言う。

「いいんですか、辛島さん」

「何が」

「こんな形でカムアウトして」

「あ、媒体的にNG? それならその部分は削ります」

「いえ。辛島さんがいいならこのまま載せますけど……」

 武田の配慮に感謝しつつ、薫はきっぱりと言い切る。

「構いません。そのまま載せてください」

「わかりました」

「他は大丈夫ですか?」

 このところしばらく、一発OKが出ることはなかった。だが武田は「問題ありません」と請け合ってくれる。その後、電話を切る前にぽつりと呟いた。

「読んで、ちょっと泣きました」

 じわりと、胸にあたたかいものが広がっていく。

 自分の送った原稿をもう一度読み返す。コラムの最後の「そんなあなたにオススメのスイーツ」のところには「あなたの一番好きなスイーツ」を挙げ、「ちなみに僕ならカスタードプリン」と付け足してある。

 学食のプリンが販売終了になったと知ったあの日、何よりも悔やまれたのは、自分がいかにあのプリンの味に惚れ込んだかを作り手に伝えずじまいになってしまったことだった。

 同じ後悔は繰り返したくない。傷つくのが怖くて一方的な想いを閉じ込めたままでは、この先もいつまでも、思い出という名の自己満足以上のものは手に入らないだろう。

 唐島の顔を思い浮かべる。

 自分の一番好きなスイーツを食べに行こう、と思う。堂々と、胸を張って。

 

 決心はついたものの、実行に移すまでには時間がかかった。

 年末進行でただでさえ締め切りのきつい仕事が回ってきていた上、数日間寝込んだせいでスケジュールがさらにギリギリになってしまった。「キュリオ」からは早くもバレンタインスイーツの取材依頼が何件か入っている。なんとかそれらの仕事を片づけ、一息つけるようになった頃にはもう十二月も下旬に突入していた。

 クリスマス前の洋菓子店の殺人的な忙しさは、薫もよく承知している。唐島は寝る間も惜しんで働いていることだろう。そんな時期に話をしたいなどと店に押しかけるのは迷惑以外の何物でもない。忙しさのピークが過ぎるまで行くのは控えるべきだろう。

 こんなにもクリスマスが恨めしかったことはなかった。そして、ケーキをひとつも買う気になれないクリスマスも初めてだった。どの有名店のどんな豪華なスイーツを食べたところで、唐島の作るあのブッシュ・ド・ノエルやショートケーキの味に叶うはずがないことはわかっていた。

 ほとんど飢えにも近い焦りをぐっと押さえつけ、二十六日になってようやく「ヴィトライユ」へと向かった。

 重たい灰色の雲から雪でも落ちてきそうに冷え込んだ日だったが、店に近づくにつれ、薫は手に汗を握り始める。

 覚悟を決めて出てきたつもりだったが、店内のあのテーブルにいざ唐島と向かい合って座ったら、果たして正直に自分の胸の内を明かすことができるかどうか自信がない。色素の薄い瞳がカメラの焦点を合わせるようにじっとこちらに向けられるところを想像すると、店のドアの前で、まるでバンジージャンプに臨む前でもあるかのように足がすくむ。

 それでも引き返すつもりはなかった。戻れないのなら、また始めるだけだ。たとえこの先何年かかろうとも。

 ままよ、とドアを開ける。

「いらっしゃいませ……って、あれ? あ、愛沢、さん?」

「ご無沙汰」

 ショーケースの向こうで目を丸くする水上に会釈する。幸い、他に客はいないようだ。

「おーい隆司、待ち人登場だぞー」

 水上がいきなり奥に向かって呼びかける。待ち人ってなんだ、と突っ込む間もなく、厨房の扉がばたん、と開いた。

「愛さん!」

 びっくり箱の蓋が開いたような勢いで、唐島が飛び出してくる。まさに「血相を変えて」という表現がぴったりだった。

「え。お前……なんか、少しやつれた? クリスマス、そんな忙しかったのか?」

 白いコックコートをぱりっと着こなす長身も、後ろで結んだ金茶色の髪も、二カ月前と何も変わっていない。だが思わずそう声をかけてしまうほど、その顔は憔悴を色濃く物語っている。こちらに真っ直ぐに向けられた目の下には隈が浮き、淡褐色の瞳を取り囲む白目が充血している。

 そこへ、完全に呆れ顔の水上が口を挟む。

「山椒ガナッシュのブッシュ・ド・ノエルも、小粒の苺を使ったショートケーキも、愛沢さんのアドバイスのおかげで大好評でしたけど、こいつがこんな顔してるのはそのせいじゃないですよ」

「え、じゃあ、なんで」

「……愛さん、クリスマスケーキはどこで買ったんですか」

「は?」

 血走った眼の唐島に思わぬことを問い詰められて、薫はぽかんとする。ショーケースの後ろで、水上が溜息をついた。

「こいつ、ブッシュ・ド・ノエルとショートケーキとカスタードプリンを一個ずつ、昨日の閉店まで取り置いてたんですよ。愛沢さんの予約分だって言い張って」

「……え」

 水上の言葉に、薫は目を瞠(みは)る。あんな口約束とさえも言えない自分の言葉を信じて、唐島は待っていてくれたというのか。

「そのケーキ、買う。今すぐここで食う」

 慌てふためいて財布を取り出そうとするが、唐島はふいとそっぽを向いてしまった。

「もう廃棄しましたよ。売れ残りですから」

 心臓が止まるかと思った。

「そう、か」

 遅すぎたのか。

 高熱に苦しむ中で見た夢が甦る。ごめん、と言った薫を一顧だにせず、ドアの向こうへと立ち去った唐島の背中。

 用意してきた言葉がすべて、大波にさらわれるように頭の中から流されていく。もはやそれをかき集める気力もなく、ただ呆然と俯いていたときだった。

「あれっ。カラシマさん?」

 背後でドアが開いて、入ってきた客が声を上げる。

「えっ?」

「はい?」

 薫と唐島が同時に返事をする。薫は、はっと気付いて自分の口に手を当てた。

「いらっしゃいませー」

 水上が明るい声を上げて迎えた来店客は、武田だった。

「わー。辛島さんとかち合うなんて偶然」

 唐島の目の前で武田に「辛島」と呼びかけられ、薫は息の根が止まるかと思った。バンジージャンプに挑もうと呼吸を整えているところを、いきなり背後から力一杯突き落とされたような気分だ。

「た……武田さん、なんでこの店に……」

 命綱にぶら下がってゆらゆらと揺れているような力ない声しか出せない。

「あのカヌレがあんまり美味しかったので、取材依頼を兼ねて来ちゃいました」

「取材?」

「あ、こちらパティシエさんですか?」

 傍らの唐島に武田はにっこりと笑いかけ、綺麗にネイルを施した指で名刺を取り出す。

「ウェブマガジン『キュリオ』編集部の武田と申します。こちらのライターの辛島馨さんと組ませていただいて、スイーツ関連のコラムなんかを担当しています」

「カラシマ、って……え?」

 水上が目を白黒させる。終わったな、と薫は膝から崩れ落ちそうになった。

 ところが水上と違って、唐島は薫の筆名を知らされても驚く気配すらない。

「知ってます。『あなたの悩み、甘やかします』愛読してました」

「なんだって?」

 薫は弾かれたように顔を上げた。

「し、知ってたって、お前なんで。俺そんなこと一言も説明しなかっただろ」

 驚愕のあまり、ペンネームがばれた気まずさが一時的にどこかへ行ってしまう。

「なんで、って」

 だが、唐島はむしろその問いの方が意外だと言わんばかりの顔をする。

「いつか相談されたって言ってた悩みが、コラムの内容そのまんまだったじゃないですか」

「あ」

 そういえばそんなこともあった。

「それに毎回お勧めされているスイーツが、うちの店で食べてたものと被ったし」

 それは盲点だった。まさかそんな細かいところまでチェックされていたとは。

「ご愛読いただきありがとうございます!」

 武田の声が嬉しそうに弾む。だが、そこに再び唐島が爆弾を落とす。

「連載が終わってしまったのは残念ですけど、最終回に俺が送った悩み相談を取り上げてもらって嬉しかったです」

「……は?」

 さすがに武田もこれには面食らったようだが、薫はもはや面食らうどころではなかった。

 最終回の、悩み相談。

 薫の頭の中で、「同性の友人を好きになってしまいました」で始まるあの相談文が繰り返される。

「あれ、愛さんのことです」

 唐島の淡々とした口ぶりに、逆に薫の心拍数が跳ね上がる。

「俺、愛さんのことが、好きなんです」

 ヘーゼルの虹彩の中央の黒い瞳孔が、真っ直ぐ薫を見つめてくる。その瞳を中心に世界がぐるりと反転していくような錯覚を起こす。好きだ、と心の中だけで唱えていたはずの言葉が、唐島の中へと吸い込まれてそのまま跳ね返ってきたみたいだ。

 ひょっとして夢かな、と思う。だって、こんなの本当だなんて思えない。きっとこの前の熱のときに見た夢がボツになって、やり直しをさせられているんだ。

 だとしたら、今度こそちゃんと言わないと。

「俺も……唐島のことが」

 だが先を続けようとしたところで、ひゅう、と背後から口笛が聞こえた。

 薫ははっと周りを見回す。夢じゃなかった。

 水上がにやにやと笑いながらウインクを寄越す。武田は、ぽかんとした顔で唐島と薫の顔を見比べている。普段ペンネームでしかやりとりをしないので、唐島の言う「愛さん」が薫のこととは気付いていないようだ。

 照れ臭さのベクトルが一斉に自分自身に向かう。顔が発火したように熱くなる。

「あ、あのさ。この話はまた、今度。な」

 真っ赤な顔で訴えると、唐島が不満そうに瞬きをした。莫迦、とその顔に向かって心の中で悪態をつく。

「他に、お客さんもいるし……」

 消え入りそうな声で言いながら、じりじりと後ずさった。ところが、薫が小刻みに開けた距離を唐島は大きな一歩で詰めてしまう。

「待って」

 あの試食のときと同じくらい強い力で手首を掴まれる。瞬きの少ない切れ長の目の奥から、淡い色の瞳が意味深に薫を見つめてくる。

「今日の夜は家にいますか?」

「いる……けど……」

 唐島の目尻に、かすかに皺が寄った。

「じゃあ、今夜行きます」

「え?」

 笑顔に限りなく近い顔が、すぐ目の前に迫る。心の遠近感が狂いそうだ。

「後で住所教えて。特別にケーキをデリバリーするから」

 内緒話そこのけの囁きは、まるで呪文だ。薫は魔法にでもかかったような気分で、黙って首を縦に振った。

 

 予告したとおり、その夜遅くなってから唐島は薫の部屋までやってきた。私服姿は初めて見る。いつも後ろで結んでいる金髪を下ろして、ニット帽を被っているのが新鮮だ。

「はい、これ」

 唐島から手渡されたのは、「ヴィトライユ」のロゴの入った紙袋だ。

「中、見てもいいか?」

「いいけど、サプライズでもなんでもないですよ」

 ニット帽を取り、羽織っていた濃いカーキのMA‐1ジャケットも脱いで、唐島がコタツの脇のクッションに腰を下ろす。その隣で袋の中に入っていた紙箱を取り出し、蓋を開けた薫は、思わず歓声を上げてしまった。

 十分にサプライズだ。箱の中にはカスタードプリンの他に、小ぶりなブッシュ・ド・ノエルと、一人分サイズの苺のショートケーキが収められていたのだ。

「廃棄したって言ってたのに」

「材料がまだあったから、今日急いで作った」

「わざわざ?」

 自分のために?

「うん。それよりさ」

 唐島がクッションの上で胡座をかいていた脚を組み替えた。

「結局俺たち、両想いってことで合ってる?」

 いきなり切り出されて、危うく箱をひっくり返しそうになる。

「……そう言っただろ」

「俺、ちゃんと聞いてません」

「お、お前の告白が唐突すぎるんだよ! 大体、なんだよあの悩み相談は」

 今日あれから、薫は恥ずかしいのを必死に我慢して、ウェブサイトで連載の最終回を読み返していたのだ。

「『焦って距離を縮めようとした』って、俺はそんなことをされた覚えは……」

 そこまでまくし立てたときだった。

 身を乗り出してきた唐島にきゅっと手首を掴まれて、薫はひくっ、と息を呑む。

「ないですか?」

 ヘーゼルの瞳がわずかに伏せられたと思うと、握られた手を口元まで持っていかれる。

「あ……」

 指先に、唐島の唇が触れた。そこにある幻の苺を口に含むみたいに、くちゅ、と小さな音を立てて吸われる。

 ぞくっと甘い戦慄が指先から飛び火して、背筋を走る。

「か、唐島っ」

 唐島はあのときと同じように舌先で軽く薫の指をつつくと、名残惜しそうに口を離した。

「愛さん、俺にこうされるの、嫌だった?」

 唐島の瞳は、色は淡いが力は強い。焦がすように熱っぽい視線を向けられて、薫はぶんぶんと首を横に振る。

「い、嫌なわけ、ねえだろ」

「でも、本気で怒ってたじゃないですか」

「それは、だって……お前あんとき平然と、こんなの『普通』だって言っただろ」

「好きな人に触りたいのって、普通でしょ」

 かあっと顔が火照る。

「好きな、って。お前そんなそぶり全然……」

「してたじゃないですか。俺、愛さんだけは圧倒的に特別扱いしてたつもりだけど」

「へ」

「他の客には、わざわざイートインのケーキを自分から持って行ったりしないし、席に座って喋ったりなんか絶対しない。愛さんがいなかったらカヌレは商品化しなかったし、万人受けするよりもこの人に気に入ってもらえるケーキを作りたいなんてことも、愛さん以外の相手には考えたこともない」

 薫は目を見開く。些細なことを特別扱いと思って浮かれていたのは、自分の思い過ごしではなかったのか。

 薫の側と唐島の側にばらばらに散らばっていた点と点が、不器用に引かれた線で結ばれて、想像もしなかった図を描いていく。

「言うつもりはなかったんだ。店に来て俺のケーキを食ってくれるだけで十分だった。でも愛さんが水上に言い寄られているのを見たら、自分が抑えきれなくなった」

「あ」

 掴まれたままだった手を引き寄せられて、そこに再び唇を押し当てられる。もう、どうしたって間違えようがない。それははっきりとした、キスだった。

「水上君とのことは……誤解だ」

「わかってます。後であいつに、悪ノリしたって謝られた。でもあいつのせいじゃない。俺が悪い。愛さんが怒っても仕方ない」

 握った手にきゅっと力を込められる。頼りないくらい細い自分の手首と比べて、唐島の手の大きさと力強さを嫌でも意識してしまう。

「俺、自惚れてたんだ。愛さんには、恋愛感情持ってるって知られても傍にいることを許されるんじゃないかって。あんな風に突き放されたりはしないだろうって高をくくってた」

「俺は……突き放してなんか……」

「電話にも出てくれないし。メールを送ろうにもアドレス聞きそびれたし。自分がSNSやってないことを死ぬほど後悔した」

 畳みかけられて、薫はここでも素直に謝るきっかけを失ってしまう。

「でも俺、待てるから。いつも援護射撃をしてくれる愛さんが、俺のことを必要としてくれるようになるまで」

 そこまで聞いて、薫は観念したように小さく息をついた。

「そんなのもう、とっくになってる」

 唐島の目が、ふっと細められる。

「本当?」

「本当だって。お前の作るスイーツなしじゃ、俺はこれ以上一日だって生きていけねえよ」

 握られていた手をするりとほどいて、薫はコタツの上に置いたままだったケーキの箱の方へと伸ばした。

「なあ。これ、一緒に食おうぜ」

「愛さん」

 顎に手を掛けられて、ひねっていた顔をぐりん、と正面に戻された。

「必要なのは、スイーツだけ?」

 覗き込んでくる瞳が部屋の灯りを反射して緑色に光る。

「なわけ……ねえだろ」

「ちゃんと聞きたい」

 唐島の視線はこちらを囲い込んで退路を断つような迫力に満ちている。まるで、その強引さに屈したという言い訳を薫に用意してくれているみたいに。

 今は、この優しさに甘えてしまいたい。

「唐島が……好きだよ」

 積年の想いを、溜息に交えて吐き出す。

「俺の初恋だったんだよ」

 その初恋が、まさかもう一度戻ってくるなんて思わなかった。まして、周回遅れのはずの想いが届くなんて想像もしていなかった。

「愛さん」

 唐島の目がわずかに細められて、目尻にかすかに皺が寄る。石に彫りつけたみたいに厳しく端正な顔が、薫にだけはわかる優しい笑顔に変わる。

「ケーキを食べるのは後回しにしようよ」

「先に何をしようってんだ」

「それ、本気で訊いてんの」

 拗ねたように言いながら、唐島は慎重な手つきで薫の頬を包み込む。宝飾品のように繊細なケーキを仕上げていたこの手に、こんな風に触れられたいといつも思っていた。

 顎をすくい上げられ、ゆだねるように瞼を伏せる。

 唐島のキスは、優しくて、強引で、極上のスイーツよりも甘かった。

「愛さん、痩せた?」

 座ったままの身体を抱き寄せられて、改めて自分の痩身と唐島の逞しい体躯との差を思い知る。唐島の腕は力強く、身をよじったくらいでは振り払えそうもない。仕方なく、がっしりとしたその肩に甘えるように頭を持たせかけてみる。

「お前のケーキ、食えなかったからな」

 抗えないという事実を受け入れた途端、素直に想いを口にできるようになるのが不思議だ。距離感を気にしていた臆病さまで、丸ごとくるみ込まれてしまう。

 頭上から溜息が降ってきた。

「俺が愛さんのそういう言葉に弱いって、知っててわざとやってる?」

「弱い? お前が?」

 薫は驚いて、もたれていた身体を離した。

「ったく」

 向かい合った正面から、ぎゅうっと抱きしめ直される。

「俺がどんだけ、あんたに振り回されたと思ってんですか」

「くそ。その言い方、ずるいぞ」

 まるで、薫の方は振り回されていないみたいな言われようだ。

「ずるいのは、愛さんの方だよ」

 唐島が薫の肩の上に顔を伏せてくる。長い髪の先が首筋をくすぐる。

「友達を好きになったらどうする、なんて思わせぶりな相談してくるし」

「あ、あれは仕事で。行き詰まってて」

「俺と同じ読みのペンネームで仕事してるし」

「う」

 顔が一気に火照る。

「本当にあんたって人は……どこまで可愛いんですか」

「ひゃっ?」

 不意打ちのようにうなじにキスをされて、跳ねるような声を上げてしまった。

 耳の後ろで唐島が小さく笑う。初めて聞く唐島の笑い声は、耳の奥を羽でくすぐられるみたいな音がする。

「声まで可愛い」

「『可愛い』って言うな」

 そう言われるのは好きじゃない。けれど不思議と、唐島に言われるのだけは嫌じゃない。嫌じゃないから、困る。

「あんたはいい加減、自分が可愛いってことを自覚してください」

「どこが可愛いんだよっ」

「どこもかしこも。確かめてみますか」

 声の熱量が低いので油断していたところを、ラグの上に押し倒された。性急な手つきでセーターの裾をたくし上げられる。脇腹を撫でられて、全身がぞくりと震える。

「あ、ちょっと待て、って」

 焦ったように発した制止の声に、唐島がすっと身を起こした。

「無茶言わないでください」

「お前の方が無茶だろうが」

 的を絞るようにこちらに真っ直ぐに向けられた、ヘーゼルの瞳を睨む。

「高校時代からの片想いがようやく叶うってのに、リビングの床の上はねえだろ」

 床に押し付けられていた背中を起こして、自分なんかのことを可愛い、という物好きな男の首の後ろに腕を回した。

「……ベッドまでお姫様抱っこしてくれるなら、考えてやってもいい」

 唐島が、薫の腰に手を回しながら呻くような声を上げる。

「くそ。寝室、どこですか」

「どこって訊くほど広い部屋じゃねえよ。そのドアの奥」

「じゃあ、ちゃんと掴まってて」

 唐島はそう言うと、薫の細い身体をよいしょ、と抱き上げてしまった。

「え。無理すんなって」

「平気だよ。愛さん、軽いから」

 腕の中にしっかりと抱え込まれて、身体と一緒に心まで浮き上がる。

「はは。この体型で得したな」

 そんなこと、生まれて初めて思ったけれど。

 

 

 唐島に横抱きにされたまま、薫は奥のドアを開けて明かりを点けた。壁際に置かれたベッドの上にどさりと身体を下ろされる。

「あ……」

 すかさず、逃げ道を封じるように唐島が上からのしかかってくる。その身体の確かな重みに、期待するような吐息が零れてしまう。

 わななく唇を唐島の指に撫でられた。

「ずっと、独り占めしたかった」

「なに、を」

「愛さんの、舌」

「なんだ、それ……んっ」

 小さく跳ねた息の先を奪い取られ、深く口づけられた。

 さっきの、軽く重ねて確かめるようなキスとはまるで違う。強引に唇を割られて、舌をきゅっと強く吸われる。

(なに、これ)

 容赦なく貪ってくるキスが、頭の奥が痺れそうに甘く感じられる。

 甘党にかけては自信があったのに、唐島に与えられる欲望は桁違いに糖度が高く、たやすく飽和量に達して溢れ出しそうになる。甘さに飢えていたのは、身体ではなく心の方だったのかと思い知らされる。

 絡め取るようなキスの隙間を縫って、たくし上げられたセーターの下に唐島の手が滑り込んできた。産毛を逆立てられるみたいに素肌を撫でられると、普段は意識することもない胸元の小さな突起がぷつんと硬くなる。

「は、うっ」

 いやらしく尖り始めたそこを指先で試すようにつつかれて、びくん、と背中が跳ねた。深いキスの余韻に薫をつなぎ止めたまま、唐島が熱い息を漏らす。

「ここ、好き?」

 指の腹で押されて、そのままくりくりと転がされる。ちりっとした刺激が、回路が繋がったみたいに腰骨まで走る。

「ん……んんっ」

 鼻にかかる甘ったるい声を懸命に噛み殺していると、唐島は薫の服をさらに大きくめくり上げ、ケーキの苺でもつまむみたいにそこを口に含んだ。薫は唐島の肩に手を置いたまま、顔を仰け反らす。

「あ、唐島……やだ、それ」

 首を左右に振って訴えるが、聞き入れてもらえない。しゃぶられて、転がされて、浅く歯を立てられる。強弱の刺激が振幅となって、全身を細かく震わせる。

「愛さんが欲しい。舌だけじゃなくて、全部」

 喘ぐような声とともに唇は下方へ移動していく。熱いのにぞくぞくする身体のそこかしこを、唐島の手が撫で、唇が拭う。浅く浮いた肋骨の下を探り、臍の脇を辿り下ろす。

 自分の身体がチョコレートにでもなったみたいだ。熱せられて、とろとろに溶かされて、舐め取られていく。

 ジーンズのボタンを外され、下着とまとめてあっさり抜き取られる。薫の身体の中心で、そこは既にくっきりと隆起していた。

「やっ……見んな……」

 身をよじって抵抗しようとするところを、シーツの上に磔(はりつけ)にされる。

「それは、無理」

 色は薄いのに温度の高い瞳が薫の全身を眺め回す。

「愛さんの恥ずかしがるところ、見たい」

「なっ」

「隠したがるところも暴いて、誰も知らないところにも触って、全部俺のものにしたい」

「あ……っ」

 瞳に焔を燃えたぎらせて、唐島が薫の腰の上に屈み込んでくる。口に含まれて、薫は思わず自分の顔を両手で覆った。それでも抑えきれない声が、指の間から零れていく。

 分厚い舌でねっとりと裏筋を舐め上げられる。亀頭の下のくびれを細く絞った唇でしごかれる。感じやすい先端を、誘うように舌先でつつかれる。その度に、細い腰が唐島の手の中でびくびくと跳ねた。

「や、も、だめっ……いき、そ……」

 奥から妖しい熱がこみ上げてきて、薫は喉を震わせる。いつからこんなに溶けやすい身体になったのだろう。

「ん。いいよ」

 唐島はこともなげに言うと、根元から茎までを手で上下に扱きながら、先端を口に含んで強く吸った。

「あ……あっ、い、やああああ」

 快感が吹き上げる。離せ、と言う間も与えず、唐島がそれを口で受け止めて飲み込む。

「甘い」

 身体を起こした唐島が、手の甲で自分の口を拭いながら目を細めた。いかにも満足そうなその表情に、頭がくらくらしてくる。

「はっ……ぁ……この、莫迦……」

 涙のうっすらと浮く目で睨みつけても、唐島は一向に悪びれた様子を見せず、逆に汗ばんだ薫の額に愛おしげに唇を押し当ててくる。

「いくときの愛さんの声、可愛い。聞いてるだけで俺もやばいかと思った」

「……この野郎」

 そういうことはせめて、もっと冗談めかして言ってほしかった。もっとも、この後輩にそんなのは無理な注文だということはよくわかっている。

 薫は唐島のセーターを引っ張った。

「脱げよ」

「え?」

「お前もやばいんだろ」

 もう片方の手で唐島の股間をぐっと握る。硬く張り詰め、籠った熱がジーンズの布越しでも感じられそうだ。薫はもどかしい手つきで固いフライボタンを外した。

「あ、愛さん」

 開いた隙間から手を突っ込むと、唐島が初めて焦ったような声を上げる。

「ごめん。俺、今日はその……濡らすものとか、ちゃんと用意してきてなくて」

「なんでお前が用意するんだよ」

 ベッド脇の引き出しを開けた。中からパッケージを取り出すと、唐島が目を丸くする。

「え。なんで」

「今日お前が来るって言うから、買っといたんだよ」

 半ばやけになって、未開封のコンドームの箱とローションのボトルを唐島の目の前に突きつける。

「これ以上言わせんな」

「愛さん」

 薫の手からそれらをひったくった唐島が、むしり取るように自分の服を脱ぎ捨てる。さらに、中途半端にはだけたままだった薫のセーターとカットソーも首から引き抜いた。

「もう、本当にあんたって人は」

 唐島の切れ長の目が、ぎらりと底光りする。

「あんまり、煽んないでください」

 どさり、と再び仰向けに押し倒される。膝の裏を抱えられ、股関節を割り開かれた。

 ローションで濡れた指が秘所に触れてくる。

「ひ、あぁ」

 ひくん、と閉じようとするところを強引に押し開かれる。引き攣るような痛みはすぐに、不規則に疼く快感にすり替わった。

「あぁ……ん、ふっ」

 くちゅくちゅとあられもない音が響く。埋め込まれた指先が、探るように中で蠢く。

「愛さんの気持ちいいとこ、教えて」

「は、あうっ……」

「このへん?」

 こりっ、とそこを探り当てられて、背中が弓なりにシーツから浮き上がった。

「い、あああっ」

「ここ、いいんだ」

 指が二本に増やされた。熟れ始めたそこを指の腹が交互にこねるように擦り上げ、理性を快感で圧し潰していく。

「ああ……ぁっ」

 さらにもう一本増やされた指も、薫のそこは貪欲に呑み込んでいく。たっぷり潤まされた粘膜がひくつき、ゆるゆると出入りする唐島の長い指にしゃぶりつく。

 でも、まだ足りない。

「やだっ……も……っと……」

 喉から下腹部までをなだらかに反らせて、薫は懇願するように喘いだ。

「もっと、何?」

「ばかっ、わかれ、よっ……」

 涙混じりの目で懇願する。ちっぽけな強がりは、とっくに原型をとどめないほど甘く溶かされてしまった。

 ふ、と唐島が息をついて目を細める。

「嘘。ごめん」

「あ!」

 ずるっ、と指を抜かれた。そこにすかさず、唐島の先端が押し当てられる。

「あ、おお、きっ……」

 丹念にほぐされてぐずぐずに溶けきった身体にもなお、その質量は圧倒的だった。

「ひ……ぅっ」

 欲望の大きさをそのまま形にしたみたいな穂先を、もどかしいほどゆっくりと呑み込まされていく。まるでそれに噛みつくかのように、内側がきゅうっと絞れる。

「やっぱり……きついか」

 くびれまで埋め込んだところで、唐島がためらうように腰を引く。

「あ、だめ」

 そこに、なりふり構わず脚を絡めた。

「抜くな、よ」

 銜えこんだ奥がさらにきゅっと締まる。

「……全部、欲しいって……お前、言ったろ」

 全部、奪われたい。そんなことを本気で思うのは、相手が唐島だからだ。

「愛さん」

 汗に濡れた髪を、唐島の手が乱暴に払った。

「だから……煽んなって、言ってんのに」

 腰に響く低い声とともに、ずん、と一気に打ち込まれた。

「あ、あああっ」

 重たい快感が、一息に全身を貫く。と思うとすかさず大きく引き抜かれる。

「え、あっ……う、そ」

 そのまま激しい抽挿が始まるのかと思いきや、唐島のものは、内壁をくすぐるみたいにゆっくりと中に入ってくる。

「あっ……ひ、あぁっ?」

 緩やかな動きに物足りなさを覚えていると、再び、悲鳴を上げてしまうほど激しく打ち付けられる。そうやって乱暴なまでに抜き差しされた後、急にペースを落とされて、ゆっくりと中を掻き混ぜられる。

 どっちに照準を合わせていいのかわからない。自分ではどうすることもできない落差の大きさは、そのまま快楽の深さに直結する。

「そん、な……あ、あっあ、い……やぁっ」

 不規則な繰り返しに合わせて、振り乱すような声を上げてしまう。膝の裏を持ち上げられて、抉るように深く埋め込まれて、甘苦しいもので奥の奥まで一杯にされる。

「愛さん……このまま、いけそうだね」

 さっき一度達したはずのそれは、再び限界まで追い上げられていた。腰が揺さぶられるのに合わせて、もたげた鎌首が涙をこぼす。

「やだ、さわって……こすって……」

「うん、でも、こうすると」

「ああああっ」

 一際強く奥を穿たれ、ぎりぎりのところで耐えていたものが臨界点を越えた。

 瞼の裏で光が明滅する。直接触れられないまま放出された熱は、長く余韻を引きながら薫の身体を波立たせる。

「愛、さんっ……」

 薫の顔の脇で、唐島の腕がぶるっと震えた。

 灼熱の槍が一際貪欲に蠢く。唐島の爆ぜる感覚がびりびりと痺れるように内側から伝わってくる。

「ふ、ぁっ……あ……」

 恍惚とするような快感が体内をなだれ落ち、全身が飴細工みたいに甘く溶け崩れていく。夢中で唐島の背中にしがみつくと、身体の輪郭すら曖昧になるほど強く抱きしめられた。

 呼吸を唇に奪われる。苦しいのに、深く重ねれば重ねるほど甘く感じるのが不思議だ。

 溺れそうなキスからようやく解放されると、唐島はヘーゼルの瞳で真っ直ぐに薫の顔を覗き込んでくる。

「愛さん」

「ん」

「好きだよ」

 語尾を切り落とすようなぶっきらぼうな言い方に合わせて、目尻に細く皺が寄る。

 自分にずっと向けられていたこの笑顔の意味を、薫はようやく思い知る。

「もう、愛さんのこと離せる気がしない」

 耳元でそんなことを囁かれ、ついでに耳たぶを軽く噛まれた。

 俺だって、と言う代わりに、唐島の肩に額を擦りつける。掠れた声で名前を呼ぶ。

「から、しま……」

 心の中でずっと唱え続けて半分自分のものにしてしまったその名前を、こんなに近くで呼ぶことができるなんて、なんだか空恐ろしいくらいに幸せだった。

 

「うちのパティシエ、なまじなんでも作れちゃう分こだわりがないっていうか、最初はちょっと頼りない感じがあったんだよねー」

「え、そうなんですか。ちょっと意外です」

 薫はメモを取る手を止めて顔を上げた。

 閉店後の「ヴィトライユ」のステンドグラスの窓に、店内の明かりが反射する。いつもの席で屈託なく喋る水上の隣で、唐島は渋い表情だ。

「それが、ある人がお客さんとして来てくれるようになったのがきっかけで、作るものに一本芯が通るようになったっていうか。この山椒を隠し味にしたガナッシュも、その人のイメージで作ったらしいんですけどね」

「ある人」

 誰だそれは。そんな話は初耳だぞ、と改めて唐島の顔に目をやる。

 そんな薫を見て、水上がにやりと笑った。

「そんなわけで、愛沢さんには色々と感謝してるんですよ」

「え。お、俺?」

「いやーどっから見ても相思相愛なのに、こいつがもう不器用過ぎて見てらんなくてね。一時はどうなることかと心配したけど、どうやら丸く収まったみたいで本当によかった」

「ままま、待って待って」

 薫は慌ててICレコーダーの一時停止ボタンを押した。

「いい加減にしろ、水上」

 それまでむっつりと黙っていた唐島が、腕組みをほどいて水上の頭をはたく。

「あいて。だって本当のことじゃない」

「否定はしない。でも、わざわざここで話すことでもないだろ」

「否定はしないんだー」

「あの……インタビューの続き、いいですか」

 二人の間に割って入って、薫は懸命に仕事の顔を作る。

 あの後、武田がバレンタイン特集に急遽「ヴィトライユ」のスイーツも加えたいと言ってきた。打ち合わせの結果、山椒の風味のガナッシュを使った季節限定のフォダンショコラを取り上げ、作り手のインタビューも掲載することに決まった。

 薫はといえば、悩み相談の連載が終わったのをきっかけにペンネームをやめて本名の「愛沢薫」で仕事を始めていた。もうそんな風に虚勢を張る必要はないと思えたのだ。

 一本芯を通してもらったのは、自分の方かもしれない。

「そもそも唐島さんがパティシエを目指したきっかけは、なんだったんですか」

 録音を再開して、用意してきた質問を向ける。唐島は一度大学に進学したものの、菓子職人の道を諦めきれず、中退して専門学校に入り直したのだと聞いていた。

「実家が総菜屋をやってて、子供の頃から手伝わされてたんです。通ってた高校の学食にも店の商品を納入してました」

「へえ」

 全然知らなかった、と言うと、同級生などにも言ったことはないという。

「なんか宣伝してるみたいで嫌で。あと、俺はどっちかというとデザート作る方に興味があったんです」

「甘いものが好きだったとか?」

「それもありますけど」

 テーブルに頬杖をついて、唐島は薄い色の瞳を真っ直ぐに薫の方へ向けてくる。

「高校時代の初恋の相手が、甘党だったから」

「……え」

「それで、店の厨房を借りて独学で色々とスイーツを作ってたら、両親が面白がって、試しにプリンを学食に入れてみようってことになったんです」

「え。学食の、プリンって」

 まさか。あの、幻の。

「期間限定だったけど、自分の作ったものがちゃんと売り物になるってわかって嬉しかった。何より、その初恋の相手の人がすげえ気に入ってくれたのが最高だった」

 切れ長の目が懐かしそうに瞬いたと思うと、緑がかった淡褐色の瞳が、正面に座る薫を真っ直ぐに捉えた。

「それが、パティシエになりたい、って思ったきっかけ」

 眉間に小さな皺が刻まれて、眩しそうな表情を作る。

「嘘……だろ……」

「ホントです」

 唐島がひらりと席を立った。一度奥の厨房に入り、皿を手に戻ってくる。

「論より証拠」

 薫の目の前に置かれた皿には、カスタードプリンがひとつ乗っていた。

――そのうちまた、食べられる日が来ますよ。

 甘い記憶と目の前の現実がひとつに重なる。一度はしまい込んだ片恋の糸の端が、十年の時を経て結び合わされるように。

「一息入れますか。俺、紅茶淹れてくるよ」

 今度は水上が席を立つ。呆然とする薫の方を向いて片目をつむったところを見ると、気を利かせてくれたつもりなのかもしれない。

 薫はスプーンを手に取って、唐島のプリンを一口すくい取った。

 優しい味が、とろりと口の中を甘やかす。閉じ込められていた記憶よりもなお甘く、鮮烈に、薫の舌を独占する。

「なあ、唐島」

「なんですか」

「あの学食のプリンより、こっちの方がはるかに美味い」

 こちらを見つめる唐島の目が、すっと細められる。目尻に一本皺が寄る。

 薫だけが知っている、特別な笑顔だ。

「本当ですか」

「嘘だと思うなら、食ってみろよ」

 薫はプリンをすくったスプーンを前へ差し出した。頬杖を外した唐島が顔を傾けて口を寄せてくる。キスをするときと同じ角度。

 十年前の自分に教えてやりたいと薫は思う。

 初恋は、二度目の方が甘いってことを。

 

 

 

 

 

(Photo by Camila Melim and by Lucy-Claire on Unsplash)

最後までお読みいただきありがとうございました!

お気に召していただけましたでしょうか。こちらから、一言でもご感想などいただけますと本当に嬉しいです。