伏流水

※『星晴れの島唄』の脇道エピソードです。

 正月以来四か月ぶりだというのに、自宅を訪ねていった真栄里真哉(まえざとしんや)を見るなり、赤嶺勇一(あかみねゆういち)は「ちょうどいいところに来た」などとのたまう。

「真哉。お前、勇(いさみ)先生の『でんさ節』の音源持ってないか」

「は?今更なんで『でんさ節』?」

 唄三線の稽古場としても使っている座敷に足を踏み入れて、真哉は絶句した。普段はきちんと片づけられている十畳の和室には、オーディオ設備の傍らにCDやら録音テープやらが散乱している。段ボール箱がいくつも積み上げてあって、「工工四(くんくんしー)」と呼ぶ唄三線の楽譜もあちこちに広げられている。

「…なんの思い出探しだ」

 呆れたように言うと、勇一はくそ真面目に「そうじゃない」と首を振る。

 話を聞いてみると、昨夜出席した民謡協会の会合で、お歴々の中でも一際石頭の重鎮に、難癖を付けられたらしい。

「真栄里真哉の『でんさ節』は唄い方がなってない、なんて言い始めやがって。あれがうちの流派の正しい唄い方なんだ、俺たちはずっとそう教わってきたんだ、って、何度言っても聞きやしねえ。腹が立ったから、勇先生の録音聴かせてやろうと思ったんだけど、ちゃんとした音源が見つからねえんだ」

 いつもの彼らしくない乱暴な口調で言いながら、違う箱を開けて、中を探し始める。真哉は静かに溜息をついた。

 この三歳年長の幼馴染は、父親である赤嶺勇と同じように八重山民謡の師範になった。真哉自身も幼い頃から唄三線を教わっていたその「勇先生」は、昨年惜しまれつつ亡くなった。温厚な人柄で知られていた父親と異なり、その息子は、頑固な上に少々短気な性格が災いして、どうも余計な敵を作りがちである。

 まあ、俺も人のことは言えないけどな、と真哉はこっそり首をすくめると、すっかり頭に血が昇っているらしい勇一の肩をぽんぽん、となだめるように叩いてやった。

「そうむきになるな。所詮、いちゃもんつけるのだけが目的の奴に、何聴かせたって無駄だろ」

 勇一が、民謡協会の重鎮から何かと言いがかりを付けられるのは、実は真哉にも原因がある。赤嶺勇は、人格者でもあったし唄も三線も一流だったが、決して八重山民謡の主流派ではなかった。だが、そんな勇の弟子であった真哉が、今や本格派の民謡歌手として全国区の知名度を誇っている。「正統派」を自認する一部の連中はそれが面白くないらしく、事あるごとに、勇一たちは「亜流」だなどとほのめかすのだ。

 まったく、子どもじみたやっかみだと真哉などは毎回呆れてしまうのだが、勇一は自分たちが貶められていると感じるようで、そういった嫌がらせにいちいち噛みついている。それがまた、一層反感を買うらしい。

「あれでよく『民謡協会所属』なんて看板を掲げる気になれるよな。民謡なんて、それぞれに唄い方が違ってて当たり前なのに、自分のやり方と違うものはことごとく『間違ってる』なんて、歌に対する冒涜だ」

 怒り心頭といった調子で真哉にそうぶちまけた後、悔しそうに唇を噛んでいる姿を見ると、つい苦笑いをこぼしてしまう。

 年下でも入門が早かった真哉の方が、勇一より兄弟子という立場になる。だが、そのせいだけではなく、真哉は昔から、この熱血漢で不器用な幼馴染のことが、どうしても放っておけない。

「勇一、ありがとーな」

「…なんだ、唐突に」

「だって、俺をかばってくれたんだろ」

「お前を弁護したんじゃない、一門の誇りを傷つけられたから怒ってるんだ」

 拗ねたようにそっぽを向く。思わず吹き出してしまうと、切れ長の目で鋭く睨みつけてくる。勇一の弟子どもなら震え上がって黙りこくるのだろうが、真哉にはそんな神通力は通じない。

「はいはい。それより、昨日の透のライブの話、聞きたいだろ」

 さらりと受け流して、訪問の本来の目的を持ち出すと、ふくれ面を引っ込めて、素直に頷く。

 小柄な上に、よく日に焼けた肌とスポーツ刈りのように短くした髪の毛のせいもあって、勇一は四十という年齢よりもだいぶ若く見える。明るい茶色に染めた癖っ毛を長く伸ばしている真哉とは対照的な、見るからに真面目そうな風貌は学校の教師のようだ。実際、教えるということに関しては、勇一は真哉など足元にも及ばないくらい上手だ。そういえば、子どもの頃はよく勉強をみてもらったりしたが、あの当時から、懇切丁寧に説明をしてくれるくせに、問題を解いたりするのは一切手助けしてくれない、スパルタ方式だった。

 今でも、唄三線の生徒には厳しい。目をかけていればいるほど、つい厳しい態度を取ってしまうようだ。そのくせして、内心では彼らのことが可愛くて、その成長ぶりがいちいち気になって仕方がないのである。真哉の実家の隣に住む高森透もそんな一人だ。勇一の弟子の中でも抜群に筋がいいのだが、いつだったか、必要以上に技巧的に歌いたがるので、はき違えるな、ときつく叱ったそうだ。その後しばらく、叱った側の勇一の方がすっかりしょげているのを見て、真哉はおかしいやら呆れるやらだった。

「真哉が『とぅばらーま』の返しを入れてくれたそうだな。俺からも礼を言うよ」

 ざっと片づけた座敷で、冷たいさんぴん茶とお茶請けの黒糖など出しながら、勇一が言う。

「なーに改まってんだ。それより、厳しい勇一先生が、よくあれを歌うのを許可したな」

「…人に聴かせるレベルじゃなかったか?」

 たちまち、心配そうに眉根を寄せる。四十男のそんな様子が可愛いなどと思ってしまう自分は、相当いかれている、と真哉は自覚している。

「まさか。手も安定してたし、唄も情感がこもっててよかったぜ。返しの入れ甲斐があった」

 昨夜のライブを思い出す。お世辞抜きに、透の歌は素晴らしかった。これまでの、正確だがどこか線の細い歌い方が一変して、声の透明感はそのままに、表現が厚みを増した感がある。

 蛹が蝶に脱皮したかのようなその変貌の原因には思い当たりがありすぎるほどなのだが、ここでわざわざ自分が種明かしをすることではない。

「そもそも、俺は透に、『とぅばらーま』を歌っていい、なんて許可を出した覚えはない」

 だが、勇一がそんなことをぽつりと言うので、真哉はふと心配になった。

「まさかお前、反対してたのか?」

 昨夜ライブをやった、ギターと三線とパーカッションのユニット「PALM」に、透を半ば強引に加入させたのは真哉だった。民謡も中途半端なうちに他の音楽活動を始めさせるなんて、などと渋っていた勇一だが、「あいつは少し、自分の音楽の幅を広げた方がいい」と真哉が説得したのだ。実際その後、透の唄三線も目に見えてよくなっているので、その後はぶつくさ言わなくなった。それでも、内心は透の活動に不満を持っていて、その話を持ちかけた真哉にも腹を立てていたのだろうか。

「そうじゃない。透の側が、許可を求めてこなかったというだけだ」

「なんだって」

 あの、師弟関係には呆れるほど折り目正しく、しかも師匠の勇一に心酔しきっている透が、一体どうしたんだ。いよいよこれはまずいことになっているのか、と不安になる。

 だが、勇一はそんな真哉に柔らかな笑みを見せた。

「あいつ、今度のライブで『とぅばらーま』をやります、って断ってきたんだ。『やらせてください』じゃなくて、『やります』ってな。俺が許可するまでもなく決定事項だったんだよ」

 そう言って、愉快そうに笑う。

「『一門として出る場で歌うなら師匠の許可が必要ですが、今回はそれを離れた活動なので、勝手ながら、師匠の弟子ではなく、高森透として歌ってきます』だと」

「まあ、筋は通ってるな」

「どうだ、あの子も随分頼もしくなっただろう?」

 自分のことのように自慢げに言うその頭を小突いてやりたくなる。この「師匠莫迦」が。心配して損した。

「ぶれなくなったんだろうなあ。自分の好きなものを全面的に信じてる、そういう歌い方だった」

 さんぴん茶を口にしながら言うと、勇一も頷く。

「誰かを信じて、その誰かのために歌えるようになれば、一人前さ」

 さりげない口調だったが、その確信したような言葉に、真哉は驚いた。

 思わず、まじまじと勇一の顔を見てしまう。細面で目元涼しい端正な顔で、これで色白だったら歌舞伎役者にでもなれそうだ。一見優しげな顔立ちなのだが、厳しいくらい真面目な表情を浮かべているときなどは、近寄りがたい印象すら与える。

 覗き込んだその目は、いつものように真摯な光を返してくる。

「…知ってたのか」

 その表情に釣り込まれるように、つい言ってしまってから、はっと言葉を呑み込む。

 そんな真哉の様子を見て、勇一は珍しく、にやりと唇を歪めた。

「何のことだ?」

 子供のいたずらを面白がっているような表情だ。

「いや、その」

「透に付き合っている相手がいる、って話か?それなら、保護者気取りの誰かから聞かされるまでもなく、もちろん知っている」

 そんなことを得意そうに言う自分の方が保護者気取りだろう、と言ってやりたかったが、それより気になることがあった。

「相手に、会ったのか」

 透が自分で勇一に話したのだろうが、その付き合っている相手が、東京でライターをやっている十歳年上のいかつい男だ、などということまで明かしているのだろうか。さすがにそれはないだろう、と思って、真哉はつい慎重になる。

「直接会ったことはないが、透に写真を見せてもらった。凛々しい美男子じゃないか」

 だが、勇一がさらりとそんな風に答えたので、口にしたさんぴん茶に危うくむせそうになる。

「お前…事もなげに、美男子って」

「ん、実物はそうでもないのか?真哉、お前は何度も会ってるって聞いたぞ」

 なんでそんな、羨ましそうに言われなければならないのだ。

 透の恋人の田辺篤志に対して、真哉自身は悪い感情は持っていない。都会人らしくさばけたタイプで、内にこもる傾向のある透には、むしろああいった、大らかな包容力のある相手がいいのだろう、と思う。何より、あの二人が互いにとことん惚れ合っているのは一目瞭然で、見ていてこちらが当てられるくらいだ。

 とはいえ、世の中には、そんなこと以前に男同士でそういう関係になっていることが理解できない、という人間が大勢いる。バイセクシャルの真哉でさえ、その手の偏見には散々直面してきた。

「勇一。お前そういうの、反対しないのか」

「好き合ってるんだから他人がどうこう口を出す筋合いはないだろ。年が離れていようが、内地の人間だろうが、本人が幸せならいいじゃないか」

「そこじゃなくて、男同士とか、抵抗ないのかよ」

「あったら、お前とこんな付き合いしてないだろう」

 今度こそ、茶にむせる。

「俺かよ?」

 思い切り咳き込みながら問い返す。「こんな付き合い」の部分を拡大解釈しそうになって、一瞬、頭の中が真っ白になる。

「『真栄里真哉は、女癖だけじゃなくて男癖も悪いらしい』なんて、こちらが訊いてもいないのに下世話な噂を耳に入れてくる連中が、いくらでもいるんだよ」

 一方の勇一は涼しい顔でそんなことを言う。

 これは二重の意味で想定外だった。

 真面目で潔癖なところのある勇一だから、同性愛を毛嫌いしてもおかしくない、と、常々真哉は思っていた。というか、もし勇一がそう考えていたら、と思うと、怖くて自分のことを打ち明けられずにいた。

 自分の性癖のことで、誰にどれほど口汚く罵られようと、真哉は一向に気にしない。だが、勇一にだけは蔑まれたり疎まれたりしたくなかった。

「俺が口を出すことでもないだろうけど、いい加減お前も、そっち方面で少しは身を固めないと、悪く言われる一方だぞ」

 だが、勇一はそんな真哉の動揺を知ってか知らずか、完全に身内を心配する顔で忠告してくる。

「バツ一にそんな小言を言われたくない」

 つい、むきになって子供っぽい反撃をしてしまう。だが、勇一がそれに対しては一言も反論せず、ただ寂しそうな笑顔を浮かべただけなのを見て、強烈な後悔に襲われた。

(年が離れていようが、内地の人間だろうが、本人が幸せならいいじゃないか)

 先ほどの言葉が脳裏に甦る。勇一は昔、関西から来た年上の女性陶芸家と恋に落ち、周囲の反対を押し切って二十代前半で結婚した。だが、結局その女性はこの島の生活に馴染めず、勇一と離婚して郷里に帰ってしまったのだ。

 それ以来、いくら周囲が再婚を勧めても、勇一は頑として独身を貫いている。浮いた噂ひとつない。男女問わず遊び相手には事欠かず、時に複数の相手と同時進行で関係を持っていたりする真哉などとは大違いだ。

 そんな勇一だから余計に、この手の話はしたくない。

「お前は俺に、そういうことは何一つ相談してくれないんだな」

 だが、勇一の方は真哉に距離を置かれたと思ったのか、傷ついたような顔をする。

「まあ、信用なくても仕方ないか」

「そういうんじゃねえよ」

 そんな顔をするな、と思う。抱き寄せてしまいたくなるから。

 自分が本気の恋愛をできずにいるのは、勇一と同じ理由からだ。何十年もずっと、たった一人の人に心を囚われてしまっているからだ。そのたった一人と心を通じ合わせることができないのなら、誰といても誰もいないのと同じだ。

 昔から、真哉にとっては勇一だけが特別だった。真面目で頑固で一本気で、頭もよくてしっかり者なのにどこか危なっかしくて、優しいくせに優しく振る舞うことをためらうこの男のことが、どうしようもなく愛おしくて、大切だった。自分などが手を出せるはずのない純粋で尊い存在だと思う一方で、傍にいてどんなときも守ってやりたい、と思わずにはいられないのだ。

 でも、そんなことを明かすわけにはいかない。

 男が男を好きになることに対して、一般論として勇一に嫌悪感がなかったとしても、自分がその当事者にされるとなると、話は別だろう。

 まして、別れた元妻を今も一途に想い続けている勇一に、昔からお前のことが好きだった、などと打ち明けても、苦悩させるだけだ。

「そういえば、次回のこっちでのライブの日程が決まった」

 まっすぐにこちらを見つめる視線をかわすように、話を変えた。勇一も、これ以上言っても無駄だと思ったのか、真哉が強引に話題を変えたことに、むしろほっとしたように表情を和らげる。

「石垣でやるのは久しぶりだよな」

「そうだな、年明けの東京を皮切りに、このところずっと県外だったしな。七月の最初の週末なんだ、言ってくれればチケットは何枚でも確保するぜ」

 カレンダーをめくっていた勇一の手が止まった。その手元をひょいと覗き込むと、七月最初の週末の欄には、既に予定が書き込まれていた。

「そうか。協会の用事、入ってたか」

 なるべく軽く言ったつもりだが、落胆の色が声に滲んでしまっただろうか。

 だが、勇一は真哉の顔を見上げると、ふわりと笑った。

「いいさ、こっちはすっぽかして、お前のライブに行く」

「おいおい勇一先生」

「どうせ、行っても行かなくても、文句を言う奴は言うんだ。『兄弟子の地元での出番に顔を出さないわけにはいきません』って言えば、普段『最近の若い者は上下関係をきっちりさせない』なんて言っているお偉いさんも黙るだろう」

 そんなことを言って楽しそうに笑うので、面食らってしまう。

「…結局、俺が悪者かよ」

「面と向かってイヤミ言われるのと陰口叩かれるのと、どっちか好きな方選ばせてやるよ」

「俺、悪口言われる才能ないんだよなあ」

「どこの誰の話をしているんだ、図々しい」

 肩をどやされる。本当は、進んで自分が矢面に立ってやりたい。勇一さえ、こうして笑顔でいてくれるのなら。

「久々に真哉の『与那国しょんかねー』を生で聴きたいな。あの曲だけは、お前に適わない。透にも、あの曲は俺じゃなくて真哉を手本にしろ、って言ったくらいだ」

「あの曲だけかよ、図々しい」

 手にした黒糖を投げつけるふりをすると、勇一がまた楽しそうな笑い声を上げる。

 海を隔てて別れ別れになる恋人同士の、別離の哀しみを歌ったあの歌詞を、勇一はどんな風に聴くのだろう。

 あの曲だけじゃない。どんな恋歌を歌うときも、俺はいつだってお前のために歌ってるんだぜ、と、真哉はその無邪気な笑顔に向けて、そっと心の奥でつぶやいた。