何度でもすれ違えない


 日が暮れるのが随分と早くなったことに、空を見て気付く。

 大学病院の自動ドアを抜けて一歩外に出ると、傾いた秋の陽射しが空気を薄紫色に染め上げていた。見慣れた風景がまるで外国映画のワンシーンのように見えて、木村万葉(きむらかずは)は思わず足を止めた。

 建物の隙間から北風が吹き付けてきて、猫っ毛をくしゃくしゃに掻き混ぜていく。万葉は逃げ込むように、エントランスの傍らに立つ落葉樹の陰に身を寄せた。

 しばらくそこに立ち止まったまま、カーキ色のダスターコートのポケットに突っ込んだ両手を握ったり開いたりする。手袋が必要な季節も間近だ。

 この身体が、数カ月前には割れたガラス瓶か何かのようにぐしゃぐしゃに壊れていたなんて、実感がわかない。

「順調に回復している証拠ですよ」

 主治医はそう言って笑っていた。経過は良好で、十一月からは復学しても問題ないというお墨付きをもらったばかりだ。半年間の空白期間を置いて、再び大学四年生としての生活が始まる。

 一時停止状態になっていた人生の再生ボタンを、ようやく押すことができる。きちんとストーリーが繋がるかどうか少し不安はあるけれど、こうして一歩ずつでも前に進めるだけでありがたい、と、今の万葉は心から思う。

 エントランスから伸びるスロープを下り、病院の正門を出て、駅の方へと曲がろうとしたときだった。

「わ」

 こちらに向かってきた人影に、出会いがしらにぶつかりそうになった。

 咄嗟に右によけようとすると、相手も同じ方向によけようとする。急いで左に重心を移動させると、向こうも同じように足を踏み替えてくる。いつまでたってもすれ違えない。

 何かが、心の隅をかすめる。

 相手の靴は、シルバーのバックルが付いた黒いエンジニアブーツ。一方のこちらは、チョコレートブラウンに白いラインが入った革のスニーカー。

 はっと姿勢を起こすと、相手もまったく同じタイミングで顔を上げたらしく、まともに目が合った。

「万葉!」

 顔や背格好よりも先に、その声が万葉の記憶中枢を揺さぶった。反射的に頭に浮かんだ名前が、唇から滑り出ていく。

「……直輝(なおき)?」

 目の前に立っているのは、万葉と同い年くらいの若い男だ。チャコールグレーのタートルネックのセーターに、下は細身のブラックデニム。モノトーンのスタイルが引き締まった長身を際立たせている。

 黒が似合う体型が羨ましい。髪も目も生まれつき茶色っぽく、成人男性にしては体格の華奢な万葉は、黒が致命的に似合わない。

 顔立ちも、線の細い造りの万葉とは対照的だった。黒い短髪と広い額。きりっとまっすぐに引かれた眉。その下で、切れ長の両目が二、三度瞬いたと思うと、懐かしそうに細められた。

「怪我、すっかり治ったのか」

「あ……ああ」

 万葉は一瞬パニックになりかけた。

 彼は自分のことをどれだけ知っているのだろう。そして自分は彼のことを、どの程度知っているはずなのだろうか。

 記憶がない、というのがこれほど心許ないものだとは思わなかった。手すりのない橋の真ん中にいきなり置き去りにされたかのように、身がすくむ。

 同時に頭の一部は、今病院で受けてきたばかりのカウンセリングでの説明を冷静に辿っている。

 万葉が交通事故で意識不明の重体に陥ったのは今年の五月のことだった。赤信号なのに横断歩道を無理やり渡ろうとして、大型トラックにはねられたらしい。搬送された大学病院で直ちに長期の人工的昏睡状態に置かれ、自己細胞増殖による最先端の再生治療を受けた。損傷を受けた複数の臓器は、万葉が深く眠っていた数カ月間のうちに元通りになっていた。

 ただし、身体機能の回復と引き換えに、万葉は記憶の一部を失った。

――人工的昏睡の後遺症として、記憶障害が生じることがあります。家族や友人など、日常的に接していた人のことが思い出せないという症例がいくつか報告されています。

 そんな説明を何度か主治医から聞かされた。

――日常生活で無用なストレスをためこまないためにも、退院後も引き続きカウンセリングに通ってください。

 今日受けてきたばかりのそのカウンセリングの内容を、こんなにすぐに実践することになるとは思わなかった。

 まず、深呼吸をして落ち着くこと。そして変にごまかしたりせず、自分が相手を覚えていないと率直に伝えること。

「え……と」

 説明しようと、口を開いたときだった。

「万葉、ごめん」

「へ?」

 目の前の相手にいきなり頭を下げられてしまった。

「あ、あの」

 思いきり面食らっている万葉をよそに、彼は顔を伏せたまま沈鬱な声で続ける。

「ずっと連絡がないし、もう二度と俺とは顔を合わせたくない、って思ってるだろうけど、一言謝らせてくれ」

「いや、それは」

「言い訳でしかないのはわかってる。でも」

「ちょっと待って」

 謝罪の言葉を途中で遮るのは申し訳なかったが、そのままぽかんと聞いているわけにもいかないと思った。彼の言葉の響きが誠実だったから、なおさら。

「ごめん。俺、直輝のこと、名前以外は何も思い出せないんだ」

 直輝が、ぱっと弾かれたように顔を上げる。

 男らしく精悍な顔に、一瞬驚きの表情が浮かんだ。そこに少しずつ当惑の色が広がっていく。

 万葉は咄嗟に付け加えた。

「今は、まだ」

 年配の女性カウンセラーからは、万葉と同じように大学生の男性で、親しい友人のことを忘れてしまった症例があったと聞かされていた。

「その人、どうなったんですか」

「定期的に通ってきているうちに徐々に思い出して、今ではほとんど問題ない状態ですよ。だから、木村さんもあまり心配しないでくださいね」

 そうは言っても、実際にその事態に直面すると平静ではいられない。

 もし目の前にいる直輝という男が万葉の親しい友人だったら、ショックを受けるかもしれない。逆の立場だったら、友人が自分を忘れてしまったことに傷つくだろう。想像して、万葉の胸がつきりと痛む。

 直輝は黙って万葉の顔を見つめている。正面の万葉にまっすぐに向けられているのに、どこか違うところにいる誰かを探しているかのような不思議な視線だった。

 やがて、直輝は諦めたようにひとつ溜息をついた。

「そうか」

 その短い一言にどんな感情が込められているのか、万葉には推し量ることができない。

 万葉は思わず口を開いた。

「あのさ。忘れたくて忘れたわけじゃ、ないから。覚えてないのは治療のせいらしいんだ。でも……ごめん」

 相手が自分に対して何を謝ったのかがわからない。それに対して、万葉も謝罪以外の言葉を返せない。それがもどかしい。

 だが、直輝はその万葉のもどかしさを引き取るように頷いた。

「わかってる」

「え」

「人工的昏睡の後遺症だろ」

「……どうして、知ってるんだ」

 この最先端の治療はまだそれほど一般的にはなっていない。まして、後遺症のことまで広く知られているはずがない。

 直輝は小さく肩をすくめただけで答えない。

「じゃあ、俺は用事があるから」

 そのまま病院の方へ歩いて行こうとする直輝を、万葉は慌てて呼び止めた。

「待ってくれ」

 直輝が振り向く。

「自力で思い出すまで、ヒントをくれないか」

「ヒント?」

「直輝って、何者?」

 咄嗟に口走ってから、ひどい日本語だと自覚する。だが、他にどのような訊き方ができただろう。

 直輝の切れ長の一重の目がわずかに見開かれたと思うと、再びふっと細められた。

 口元がほころんだわけでも、笑い声が聞こえたわけでもない。相変わらずぶっきらぼうな表情のままだ。それなのに万葉にはわかる。

 彼は今、少しだけ笑ったのだ。

「高遠直輝(たかとおなおき)。東光大学理工学部生命科学科」

 高遠直輝。そのフルネームをしっかりと心に刻んで、万葉は頷く。

「同じ大学か」

 学部はまるで違うが。どこで知り合ったのだろう。直輝はサークルには入っていない。

 思いきって訊いてみる。

「あのさ。俺たち、友達だった?」

 一瞬、奇妙な間があった。

「多分」

 中途半端な肯定。

 それが意味するものはなんだろう。読みきれない行間が歯がゆい。

「じゃあな」

 直輝はくるりと背を向ける。

「えっ。ヒント、それだけ?」

 すがるように声をかけると、一旦足を止めて振り向いた。

「横断歩道、気を付けろよ」

 ぼそりとそう付け加え、今度こそ直輝は歩き去る。

 その肩幅の広い後姿をしばらくじっと見送っていたが、直輝はもう、万葉の方を振り返ることはなかった。

 

 

 大学と病院の最寄駅から、各駅停車で二駅。そこから万葉が借りているアパートまでは、商店街を抜けて徒歩五分。途中のスーパーで奮発してベルギービールを買う。ようやく飲酒にも許可が下りたので、一人ささやかに快気祝いをするつもりだった。

 軽やかに澄んだ十月の大気と対照的に、狭い1Kの部屋は、閉めきっていたせいで空気が淀んでいる気がする。さっと窓を開けると、東の空にはランプを灯したような満月が浮かんでいた。空気を入れ替えてからカーテンを閉め、万葉は狭い台所に立つ。さっきから少し冷えるので、今夜はポトフでも作ろう。

 退院後しばらくは、実家から母親が様子を見に来てくれた。ありがたかったが、高速を使っても片道三時間もかかるところをそう何度も往復させるわけにもいかない。

 身の回りのことは自分でできるから大丈夫、と母を説得した手前、あまり家事に手を抜くわけにはいかない。大学に入って独り暮らしを始めた頃から、少なくとも料理だけはまめにやるようになっていて、母もその点は安心していたようだ。

 ニンジンやらセロリやらカブやらの野菜を切って、ソーセージと一緒に煮込む。塩コショウで適当に味をつけたものを深皿に入れると、万葉はそれを部屋の中央のコタツテーブルに運び、ノートパソコンを立ち上げた。登録しているオンライン映画配信サイトを開き、ブックマークしていたタイトルをスクロールしていく。

 事故に遭う前の数カ月は以前ほど頻繁に映画を観なくなり、「積み本」ならぬ「積み映画」ばかりを増やしていた。

 正直、今見返すとなんでこんなものをブックマークしていたんだろう、と思うタイトルもある。ニューヨークでのクリスマスの夜の人間模様を描いたオムニバスなんて、全然趣味じゃないはずなのに。

 むしろ興味がわいて、そのタイトルをクリックし、フルスクリーン表示にした。

 映画を観ながら、のんびりとポトフを口に運ぶ。身体がじんわり温まってくる。ビールを飲み終えたら、スープの残りに解凍したごはんを入れて、粉チーズをかけたリゾットもどきにしよう。

「ん?」

 だが、映画が始まって五分も経たないうちに、万葉は首を傾げてしまう。

 これ、観たことがある。ようやくそう気付いた。

 画面を見ていると、次の展開がわかる。この失業中の冴えない主人公はこの後、高校時代に憧れていた女性と再会するのだ。彼女が落とした手袋を拾ってやるそのシーンまで、くっきりと思い浮かべることができる。

「おっかしいなあ。いつ観たんだっけ」

 わざわざ映画館に行った記憶はない。

「やれやれ、これも例の後遺症?」

 頭を掻いて、ビールを一口飲む。

 主人公が、自分の恐ろしいほどのポンコツ車でカセットテープを聴いているシーンで、万葉はふと手を止めた。

「カセットテープを再生できるカーオーディオって、地球上に現存すんのかよ」

「え。うちの田舎じゃ、テープしか聞けないような車もバリバリ現役で走ってたぜ」

「まじか」

「じーちゃんの車、空になったティッシュの箱にカセットがびっしり並んでてさ。俺、子供の頃よくそれを五十音順に並び替えて遊んでた」

「ティッシュの……空箱……」

「ちょ、ツボるのそこかよ。おい、笑うのやめろって。映画に集中できねーだろ」

 そんな会話が、頭の中で再生される。

 万葉は画面をクリックして映像を一時停止させた。

 そうだ。このPCで、この部屋で観たんだった。誰かと一緒に。

 途中、せっかくのいいムードのところでわざわざくだらない感想を言って、互いに突っ込みを入れて笑い合った。それなのにラストシーンでは不覚にも涙が出そうになって、相手にバレないように慌ててそっぽを向いた。

 あれは、誰だったんだろう。

 映画のストーリーの細かいところよりも、それを観ながら交わしたどうでもいい会話が楽しかったことを覚えている。それなのに、その相手が誰だったかを思い出せない。消しゴムでもかけたみたいに、そこだけが空白だ。

 狭い独り暮らしの部屋が、急にがらんと広く感じられる。

 万葉は無意識のうちに両手をこすり合わせていた。それからようやく気付いて、ホットカーペットのスイッチを入れた。

 内容を思い出した映画を再度観る気にはなれない。画面を切って、ポトフとビールを一人黙々と平らげる。

「授業の準備でもするか」

 寂しいと感じていることを認めたくなくて、わざと明るい声で独り言を言ってみたら、もっと寂しくなった。

 二十二にもなって家に一人でいると寂しいとかどうなの、身体だけじゃなくて心まで寒がりかよ、と自分にダメ出しをする。喝を入れようとお気に入りの映画のサントラをかけ、威勢よく口笛を吹きながら、ノートの整理などを始めた。

 五月から休学して四年生の前期の単位が取れなかったので、万葉は来年も四年生をやり直さなくてはならない。とはいえ、十一月からでも後期の授業に出ておいて損はないし、映画史をテーマに卒論を書く予定のゼミにはいずれにしても顔を出したい。

 幸い、授業を受けた記憶は残っている。

「あれ、なんだこれ」

 ぱらぱらとめくっていたノートから、一枚の紙片がひらりと落ちる。拾い上げると映画の前売り券だった。

 一目見て、なぜかぎくりとしてしまう。

「クリスマス……オムニバス作品……」

 タイトルもコンセプトも、今途中まで観た映画に酷似している。舞台だけが、ニューヨークではなくロンドンだ。

 日付を見ると去年の冬の公開だったようだ。先ほどのニューヨークのは二年前のクレジットだった気がするが。

 半券は切り取られていなかった。ということは、結局これは観に行かなかったのだろう。内容もまったく記憶にない。

 わざわざ前売りを買ったのに映画館に足を運ばないなんて、以前の万葉だったら考えられない。時期的に、事故が原因で行かれなかったということでもないはずだ。

「変なの」

 なんだか思い出せないことだらけだ。今年の五月までこの部屋で暮らしていた木村万葉という男が、今ここにいる万葉とはまったくの別人のように思えてきてしまう。

「いや、そんなことはないよな」

 今日の映画のストーリーだってちゃんと思い出せたのだ。記憶は、消えたのではなく埋もれているだけなのだろう。カウンセラーの言う通り、焦らずに時間をかければ、いずれ色々なことを思い出せるはずだ。

 捨ててしまおうかと思ったが思い直して、万葉はその前売り券を再びノートの間に挟んでおいた。

 

 

 夢を見た。

 万葉は大学一年生に戻っていた。傘を差して、まだ全貌を把握しきれていない大学のキャンパスを歩いている。六月にしては肌寒いような気候だった。

 万葉の通う東光大学は、郊外の丘陵地を切り拓いた土地に、医学部や理工系の学部、社会科学系の学部、万葉の通う文学部、そして大学院も集めた総合大学だ。隣には大学病院も併設されている。

 敷地内は緑が多く、さながら広大な公園の趣だ。入学時には頼りないほど柔らかな新芽だった木々の葉は、一カ月足らずであっという間に濃密な緑に変わっていた。雨粒までがグリーンに染まりそうな土曜日の午後。

 その日は、大学の映画愛好サークルの週に一度の会合日に当たっていた。希望して入ったサークルのはずなのに、なんとなく気が重い。手に持った傘までいつもより重く感じられ、深く前に傾けてしまう。

 その傘の縁で切り取られた視界の正面に、ぬっと黒いスニーカーが現れた。

「おっと」

 相手も傘で視界が遮られていて、ぶつかりそうになるまで気付かなかったのだろう。

 右によけようとすると、ちょうど同じタイミングで向こうは自分の左足を出す。慌てて逆向きに身体を倒すと、これまた、相手は同じ方に重心を傾けてくる。

 互いに通せんぼし合っているかのように、何度やってもすれ違えない。

 レンガを模した敷石の上でぎこちない右往左往を繰り返した挙句、万葉はようやく傘を持ち上げて、相手の顔を正面から見た。

「あれ」

 見覚えのある男だった。背はすらりと高く、肩幅が広くて手足が長い。真っ直ぐな眉と切れ長の目が少し硬い印象だが、きりっと端整な顔だ。

 目が合って、相手も気付いたのがわかったが、向こうはにこりともしない。「硬派」を絵に描いたらこんなだろうか。

 どこで会ったのだっけ。

「そうだ、思い出した」

 あれは確か入学してすぐの頃、購買部の通路だった。右、左、右、と何度身体を横に振っても、いちいち被ってしまってすれ違えなかった相手がいた。あのとき、思わず見合わせてしまったのと同じ顔だ。

「二度目ですね」

 照れ隠しに笑ってしまった万葉とは対照的に、立ち止まったままの彼はぶっきらぼうな表情のまま口を開いた。

「違う。三度目だ」

 初めて聞く声は、意外なほど穏やかな響きだった。

「三度目?」

 思わず問い返す。

 彼は傘の中から、何か不思議なものを見るような目を、じっとこちらに向けている。

「あの……」

 そのときだった。

「雨の日割引やってまーす」

 傍らから明るい女性の声が飛んできた。

「は?」

「ん?」

 二人同時にぐるりと首を回すと、ビニール傘を差してグリーンのエプロンをした女性にチラシを渡された。「雨の日はドリンクお代わり半額!」と書いてある。

 顔を上げると、石畳の先に構内のカフェの入口が見える。メニューを書いた黒板が細かい雨に濡れていた。

 チラシを手に、二人で顔を見合わせる。万葉が、どうする? と首をくい、と傾けると、相手はおもむろに頷いた。

 無言の会話が成り立ったのが嬉しくて、にこりと笑いかける。相手は何かの合図みたいに、親指と人差し指で挟むようにして自分の耳を引っ張った。短い髪から突き出た大きく丸っこい耳は、厳しく整った顔にちょっとした愛嬌を添えている。

 まるで最初からそう示し合わせていたかのように、二人は並んでカフェに入った。

「高遠直輝。理工学部生命科学科、一年」

 注文カウンターに並びながら自己紹介をされて、ちょっと驚いた。落ち着いた印象から、年上かと思っていた。

「俺も一年。文学部英文学科、木村万葉」

 幾分肩の力を抜いてタメ口になる。

 しかし、歯切れのいい直輝の注文を聞いて、万葉は再び目を丸くしてしまった。

「ブレンドのMと、フレンチトーストのブルーベリーソース」

 目の前に立つ直輝は、万葉よりも十センチ以上背が高い。百八十センチを超えていそうだ。黒いTシャツの上に濃いグレーの半袖シャツを重ねた服装といい、ぶっきらぼうな態度といい、およそ、女子力の高いスイーツのイメージとは程遠い。警察官の指に水玉パステルカラーのバンドエイドが貼ってあるのを見てしまったくらいの意外性がある。

「なあ」

 つい、その背中をつついてしまった。

「ん」

「フレンチトースト、一口味見させてもらっていい?」

 内緒話のように声のボリュームを落とす。

「自分で頼まないのか」

 さすがにそれは恥ずかしい、とは言えなかった。

 万葉は甘党なのだが、高校に入った頃から、外でパフェやケーキを注文するのを避けるようになっていた。中性的な自分の外見と名前がその頃からコンプレックスになっていて、少しでも「男らしく見られたい」なんて見栄を張ってしまうのだ。

「とりあえず味見して、美味かったら次は頼んでみる」

 ちゃっかりとした万葉の返答に、直輝は笑いもしなかったが気を悪くした風もなかった。そして、生クリームとフルーツソースがたっぷりかかった一切れを、かなり気前よく分けてくれた。

 餌付けされた感は否めないが、それでも素直に、カッコいい奴だな、と思った。

 愛想笑いに頼らなかったり、人からどう思われるかを気にせず食べたいものを注文できたりするのは、素の自分に自信があるからだろう。少し、いや、かなり羨ましい。

 男前だから堂々としていられるのか。それとも、堂々としているから男前なのか。

 いずれにせよ、初めて言葉を交わす万葉の前でも、直輝がごく自然体でいるのは伝わってきた。彼の方から積極的に話しかけてくるわけではない。だが、会話が続かなくて気まずくなるということもない。簡潔だが的確な返事をして、その流れで同じ質問を返してきたりするので、会話がぶつ切りにならない。

 そんな直輝を相手に万葉はいつの間にか、これからサークルの会合に行かなくてはならないのだが、なんとなく気が進まないのだということを打ち明けていた。

「なんかさ、高尚すぎるんだよね」

 直輝は黙って万葉の話を聞いている。顔をじっとこちらに向けたままで、真剣に話を聞いてくれているのが伝わってくる。

「俺さ、映画はB級ホラーとか、下品なジョークのオンパレードのコメディとか、ツッコミどころ満載だけどスカッとするアクションとか、そういうの好きでさ。でも、サークルはそういうノリと違うんだ」

 まだ数回しか顔を出していないが、話題になるのは地味でも含蓄のある、知的な作品ばかりだった。

「あれ、小津安二郎のローアングルを彷彿とさせるよな」

「敢えて淡々と描くところが、たまらん」

「でも光と影の強いコントラストに、じわっと狂気を感じる」

 そんな会話に万葉は入っていけなかった。

 万葉とて、芸術性の高い作品を毛嫌いしているというわけではない。映画として優れていると思うものもある。ただ、そういうシリアスな作品について、よく知らない誰かと真面目に語り合うのはなんだか気後れがする。何もゼミで論文を書くわけではないのだから。

「話が合わないなら、無理に参加することはないんじゃないか」

 フレンチトーストを綺麗に平らげた直輝は、数式でも説明するような口調で言った。滑舌のくっきりした話し方で、一つひとつの単語を丁寧に発音する。

「でもさ」

 きっぱりと物事を言いきる直輝と話していると、自分が普段からいかに「でも」とか「とりあえず」とかの留保付きの言い方を多用しているかに気付かされる。

「俺だって、誰かと映画の感想を言い合いたい。くだらない話でいいんだけど」

「それなら遠慮しないで、自分の思ったことを言えばいい。誰も怒らないだろ、そんなことで」

 正論だ。

「でも、あの中に俺が観たおバカ映画のタイトルを割り込ませたら、すげー空気読めない一年って思われるよ。絶対莫迦にされる」

 直輝は口に運んでいたコーヒーマグをテーブルの上に戻した。

「そんな理由で莫迦にするような連中、放っておけよ」

 あれ、と思った。静かで落ち着いた口調の奥に、わずかに苛立ちのようなものを感じる。

 表面ばかり取り繕おうとする自分の底の浅さにうんざりされたかな、と心配になったときだった。

「何が、面白い?」

「え」

「映画。最近観たやつで、面白かったの何かあるか」

「なんで」

「試しに一本観てみようと思って。で、よかったら感想聞いてくれ」

「え、それって」

「気楽に感想言い合いたいんだろ。相手は俺じゃだめか」

 仏頂面にぶっきらぼうな態度。そして、なんのてらいもない、まっすぐに届く言葉。

「ただ、頼んでおいて悪いけど、ホラーとかサスペンスとかの怖い映画は苦手なんだ。心配せずに笑えるようなやつの方がいい」

 あっさりと「怖い映画は苦手」などと言ってしまうところが、逆に潔くて男らしいと思う。万葉なら、初対面の相手にこんなことは絶対に言えない。特に相手がこんな男前だと、自分も少しでもカッコつけようと背伸びをしてしまう。

 直輝なら、万葉がくだらない低予算B級コメディを勧めても莫迦にしたりしないだろう。そしてこんな風に、止め、はね、はらいをきちんと筆で書いたような律儀な話し方で感想を述べてくれるだろう。

「そうか、何がいいかな」

 この際、うんとぶっとんだコメディでも勧めてみようか。この硬派の見本のような男前がハイテンションのギャグで大笑いしているところが想像できなくて、万葉はくすりと笑ってしまった。

「何笑ってるんだ」

「なんでもない」

 不思議だった。ほぼ初対面の直輝とこうして話をしている方が、サークルに顔を出すよりもよほど楽しい。

 ドリンクを半額でお代わりして、二人で話し込んだ。会合が始まる時間になっても、万葉は席を立たなかった。結局、そのサークルはその後二度と顔を出さないまま、あっさりとやめてしまった。

 

 

 久しぶりに足を運ぶキャンパスは、秋の一大行事である学園祭も終わり、落ち着いた雰囲気を取り戻していた。

 学生課で復学に伴う諸々の手続きをした後、図書館でいくつか映画論の本を漁った。一息入れようと思って構内のカフェに寄る。何か甘いものが欲しくなってカフェモカをオーダーし、店内のテーブルの方へと足を向ける。

「あ……」

 夢の中で直輝と話をしたのと同じ席に、見覚えのある姿があった。黒っぽい服と広い肩幅で、俯き加減でもすぐにそうとわかる。

 あれは甦った記憶なんだろうか。それともなんの根拠もないただの夢なのだろうか。

 確かめてみようかと思う。直輝のテーブルに歩み寄り、その前の席にカフェモカのカップを置く。

「ここ、いい?」

 手元の本に落とされていた直輝の視線が上を向く。万葉と目が合うなり、直線的な眉がぴくりと持ち上げられた。

「ダメだ」

「えええ?」

 いきなりの全面拒否?

 固まっている万葉の目の前で、直輝は椅子を引いて立ち上がった。テーブルを回り込んで、万葉の立っている側へやってくる。

「そっちの席は、ドアが開いたときに外の風が入る」

「へ」

「手足が冷えるって言ってただろ」

「あ……」

 よく知ってるね、という言葉を呑み込む。

 万葉のことをよく知っている直輝を、今の万葉は知らない。

 その感覚は、万葉を立ち止まらせる。相手に自分がどう思われているのか見当もつかない状況では、どんな風に振る舞っていいのかわからない。ここは固辞するべきなのか、丁寧に礼を言うのがいいのか、それともそんな堅苦しい態度を取ったらかえって悪いのか。

 それは直輝も同じだろうか、と想像する。今の万葉にとって直輝が見知らぬ人であるのと同じように、直輝のことを覚えていない万葉は彼にとっても初対面に近い存在のはずだ。

 たとえ以前の自分と直輝とがどれほど親しい友達だったとしても、万葉が記憶を失くしたことによって、その関係はゼロにリセットされてしまったのだ。

 何かとても大切なものを失ったような感覚に、身体がぶるっと震える。指先がすうっと冷えていく。

 だが、万葉の目の前で椅子を引いて腰を下ろす直輝の様子には、少しもぎこちないところはなかった。万葉もカップをもう一度手に持って、今まで直輝が座っていた側に回り、腰を下ろす。

 自分から声をかけたというのに、何をどう切り出せばいいのか途方に暮れてしまう。ノーヒントのクロスワードパズルでも解かされているような気分だ。自分と直輝とを繋ぐ空欄をどう埋めていいのかわからない。

 あのとき俺、なんの映画を勧めたっけ? などと前置きもなく訊くわけにもいかないだろう。そもそもあれが正確な記憶かどうかすら定かではない。

「なあ」

 だが、カップを両手の中に包み込むようにしていると、直輝の方から声をかけてきた。

「ん?」

「前みたいに、下の名前で呼んでもいいか。万葉、って」

 癖なのか、訊きながら耳を自分の指で引っ張る。サイドの短い髪から少し立ち気味の、丸くて大きな耳。

「もちろん」

 律儀にどうも、と続けようとしたのだが、直輝と目が合った途端、最初に同じことを訊かれたのを思い出した。

 夢で見た会話の中の、虫食いのように抜けていた箇所が埋まっていく。

「かずは、ってどういう字を書くんだ」

 あの日、この同じ席に着くなり、直輝は少しだけ前屈みになってそう訊いてきた。

「一万二万の万に、木の葉っぱ。万葉集の」

「それで、かずはって読むのか。知らなかった」

「俺だって自分の名前じゃなきゃ知らなかったよ」

 フリガナなしで最初から正しく呼んでもらえることはあまりない。凝った名前を考えてくれた国語教師の父親を恨むつもりはないが、何かとからかいの対象にされてきたので、自己紹介のたびに少しだけ身構えてしまう。

 だが直輝は、外国語の単語を覚えるみたいに小さく「か、ず、は」と唇を動かすと、真面目な顔でこちらをじっと見た。

「下の名前で呼んでもいいか?」

「え」

「綺麗な名前だから、声に出して言ってみたくなった」

 そんなことを面と向かって言われたのは初めてだった。

「ありがと」

 引き込まれるように礼を言ってから、急に恥ずかしくなる。さらりとした口調とポーカーフェイスのせいでうっかり流してしまったが、シチュエーション次第では、そのままで完全に口説き文句じゃないか。

 かあっと一気に顔が火照る。

「それに、クラスにも一人木村がいるしさ」

 直輝の方は、気障なことを言ったという自覚はまるでないらしかった。淡々とそんな言葉を続けられて、万葉は照れた自分がますます恥ずかしくなる。

(落ち着け、俺。相手は男だぞ)

 だが、そう自分に言い聞かせればするほど、変に意識してしまう。

 結局その後も随分長いこと、直輝に名前を呼ばれるたびに反射的に心臓が跳ねてしまって、閉口したものだった。

「万葉」

 直輝の声は静かな低音で、ボールを正確に投げるように胸にすとんと届く。記憶と相まって、的(まと)と化した万葉の心臓を揺らす。

「な、何」

 声が裏返ってしまった。

「いや。久しぶりに呼ぶから、ちょっと発音の練習な」

「語学かよ!」

 間髪を入れず突っ込むと、直輝の気配がふっと柔らかくなった。

 表情はほとんど変わらないのに笑っているのがわかる。

 俺、こいつのことよく知ってるんだ、と初めて実感する。きっと、これまでに数えきれないほど同じようなやり取りをしてきたのだ。

 万葉は、はっと顔を上げた。

「直輝」

 直輝が目だけで、なんだ? と返事をする。

「あの映画、観た?」

 間違えてもう一度観ようとしてしまったニューヨークのクリスマス映画のタイトルを口にすると、直輝は表情を変えずに頷く。万葉は勢い込んだ。

「俺の部屋で?」

「ああ」

「俺がじいさんの車のカセットテープの話したら、お前、爆笑した?」

 傍で聞いていたらなんのことやらさっぱりわからないだろう。だが、直輝は口角をわずかに持ち上げて思い出し笑いの表情になった。

 やっぱりそうだったのだ。あのとき隣にいたのは直輝だった。

 春先のまだ寒い日だった。

 ポトフを作ると言ったら、どこのオシャレなカフェだよ、などと呆れるので、鍋をやるのと手間は変わんねえよ、とむきになって答えた。あれ、お前ビールいらねえの、と訊くと、酒は飲まない、と首を振った。寒くないか、とコタツの温度を上げようとすると、暑いくらいだ、と言われた。

 締めのリゾットもどきを食べながら、二人でノートPCの画面を覗き込んだ。でも正直、映画の内容なんて半分以上どうでもよかった。一緒にいて楽しいと思っていることを互いにそれとなく伝え合う、そんなやりとりができるだけで十分だった。

 頭に浮かんだその情景が記憶なのか想像なのか、今の万葉には区別がつかない。判断を置き去りにしたまま、心だけがふわりと浮き立つ。

 たとえ空想でも、直輝といるのは居心地がよかった。

「あのさ」

 頬杖をつきながら、改めて目の前でホットコーヒーを飲んでいる顔をまじまじと眺めてしまう。

「なんだ?」

 直輝が顎に少しだけ力を入れた。あ、緊張してる、と思う。注意深く見ていると、心の動きに合わせて直輝の表情もわずかずつだが変化するのがわかる。彼は決して仏頂面でもポーカーフェイスでもないのだ。

「そのうちまた一緒に映画観ようぜ。俺の部屋でも、映画館でもいいけど」

 万葉のその言葉に、直輝が急にぎくりとしたのがわかった。

(あれ?)

 万葉と目が合うと急いで無表情に戻ろうとするのだが、目元に強い緊張が感じられる。

「万葉……やっぱりあの約束、覚えてたのか」

「え。約束って、なんの」

 問い返すと、直輝は珍しく、自分からふいと視線を逸らした。

 過去の自分は、何か直輝を気まずくさせるような約束をしていたのだろうか。

「悪い。俺、なんか空気読めない誘い方しちゃった?」

 敢えてうんと明るい声で言って頭を掻いてみせると、直輝はきっぱりと首を振った。

「そうじゃない。万葉は悪くない」

「ホントか? 俺、お前のことを忘れちゃったせいで、何か無神経なこと言ったりしてねえ?」

「いや」

 コーヒーを飲み干した直輝は、遠くを見るような目をして言葉を探している。万葉はそれをじっと待つ。

 直輝はテーブルの上に静かにマグを置いた。

「万葉が俺のことを忘れてしまったのは、俺のせいかもしれない」

「……え?」

「だから、無理に思い出そうとしてくれなくていい」

 自分の言葉に句点を打つように、直輝が椅子からすっくと立ち上がる。

「ちょ、待てよ」

 そのままコーヒーマグを下げようとする直輝を、万葉は慌てて追った。

「どこ行くんだ」

「これから病院」

「病院って、隣の?」

 直輝は黙って頷いた。

 

 

 そのまま直輝と一緒にカフェを出る。

 自分ももう帰るところだから、と万葉が言うと、直輝はわざわざ大学の正門の方へと向かった。隣接する大学病院へはキャンパスの西門を出た方が近いのだが、途中まで一緒に行こうということらしい。

 目の前に、直輝の背中がある。

 モデルみたいな体型だな、などと改めて思う。痩身に見えるけれど、後ろから見ると背中が広い。肩の厚みがしっかりとあるので、フード付きのブラックのレザーブルゾンがよく似合う。腰回りは引き締まっていて、細身のジーンズがすっきりと着映えする。

 薄くて細いだけの自分の体型とは随分違う。

「お前……どこか、身体悪いの?」

 病院には患者として通院をしているのだろうか。そういえば、記憶を失くした万葉が初めて言葉を交わしたあのときも病院の入口へ向かって歩き去っていった。

 万葉より一回り大きな体格だし、見たところ怪我などをしている様子はないが、人が健康かどうかは見た目では決して判断できない。

 自分がその立場になるまでは、万葉もそれを実感できなかった。

 退院直後のまだ体力が戻っていなかった頃、電車で優先席に座ったら、目の前で年配の男性に厭味ったらしい舌打ちをされたことがある。仕方なく席を譲ったが、眩暈を起こして立っているのがつらくなり、途中下車して駅のベンチで休む羽目になった。

 健康そうに見える直輝も、何か持病などを抱えているのかもしれない。

 しかし、直輝は万葉の心配を払い落とすように首を横に振った。

「もうどこも悪くない」

 もう、ということは、前は悪かったのか。でも、果たしてそういうことを立ち入って訊いてもいいものか。以前の万葉は、直輝が病院へ行く理由を、問うまでもなく承知していたのだろうか。

 またしても、失った記憶が壁となる。

 事故に遭う前の自分を羨ましく思う。どこまで知っているべきなのかなんて悩むことなく、自然と直輝と接することができていたであろう自分を。

 その過去の自分との差を少しでも縮めたくて、万葉は訊いてみた。

「あのさ。俺が覚えていなかった一回って、いつのこと?」

「……は?」

 ああ、また日本語が崩壊している。

 万葉は慎重に言葉を選び直した。

「最初に話しかけたときに訂正されただろ。すれ違えなかったのは三度目だ、って」

 直輝が立ち止まって振り返った。形のいい切れ長の目がわずかに見開かれる。

「記憶、戻ったのか」

「いや。まだほんの少しだけ」

 あれがただの夢想ではなかったことがわかって、万葉はほっとする。

「購買部の通路と、あのカフェの前と。俺が思い出せるのはそれだけなんだけど、あと一回っていつだ?」

 ジーンズのバックポケットに手を突っ込んだまま、直輝がとん、と地面に爪先をついた。

「この前と同じだ」

「え?」

「病院の前だった。まだ入学前」

「入学前? え、俺たち、そんな前に会ってたんだ?」

 直輝が、こくりと頷く。

「東光大学病院前のバス停のところで、よける方向がかち合ってすれ違えないでいたら、大学はどこかと道を訊かれた」

「ああ……そっか」

 そういえば、と思い出す。受験の下見で訪れたとき、一人だったので駅からの道を間違えて病院の方へ行ってしまったのだ。ちょうど鉢合わせをした相手が学生っぽかったので、道を訊いた覚えがある。

 あれが直輝だったのか。

「お前、俺のことなんかよく覚えてたなあ」

 目を丸くすると、直輝が自分の耳を右手の指できゅっと挟んだ。

「三度もすれ違えなかったら、さすがに覚える」

 罪悪感にちくりと胸が痛む。

「そうか。俺はどうも最近、記憶力に自信がなくてさ」

 言った途端、声に含まれる棘に自分でひやりとした。直輝のことを忘れてしまっている自分に苛立っていたのに、まるで当てつけるみたいな言い方になってしまった。

 直輝のまっすぐの眉が遠慮がちに寄せられる。そのわずかな表情の変化で、彼を困らせてしまったことを知る。

「ごめん」

 急いで謝ると、直輝が寄せていた眉をほどいた。

「なんで、そこで万葉が謝るんだ」

「いや、今の感じ悪かったな、って。そんなこと言われても答えようがないよな、ごめん」

 直輝が一重の目を見開いた。

「万葉は」

「ん」

「どうして俺の考えていることがわかるんだ」

「え。わかんないけど。でもお前今、困った顔したろ」

 直輝がまた、自分の耳を軽く引っ張った。

「よくわかるな」

「うん。直輝の表情、わかりやすいよ」

「そんなこと、万葉以外から言われたことないぞ」

「そうかあ?」

 直輝は穏やかに首を振ると、そのまま再び歩き始める。正門を抜けて、キャンパスを囲むレンガ塀沿いに病院の方へ。駅も同じ方面なので、万葉も続く。

 斜め前を行く直輝との距離は、遠ざかりそうで離れない。万葉の歩幅に、直輝が足取りを合わせてくれているのだ。

 角にある横断歩道の歩行者信号が、目の前で点滅を始める。

「渡るか?」

 振り向いた直輝が、途端に、しまった、という顔になった。

 万葉の足は、その場に釘で打ち付けたかのようにぴたりと止まってしまっていた。

「……」

 自分が事故に遭ったときのことを、万葉はまったく覚えていない。それでも無意識に刻み付けられた恐怖心なのか、交差点に差し掛かるたびに一旦立ち止まってしまう。走り出すと何か嫌なことを思い出してしまいそうな気がして、足がすくむ。

「あ」

 後ろから走ってきた男子学生が、棒立ちの万葉の背中にぶつかった。

「どけよ!」

 押し退けられて、華奢な身体がぐらりと揺れる。一歩、二歩と、大きく傾いだ身体を踏みとどまらせようとするが、歩道の幅が足りない。大学の敷地を囲むレンガ塀に肩を打ち付けそうになって、反射的に身構えた瞬間だった。

 肩と塀の隙間に、直輝の身体がすっと滑り込んできて、よろけた身体を支えてくれた。

 万葉を突き飛ばした男子学生は、赤に変わったばかりの横断歩道を走って渡っていく。腹立たしげなクラクションの音に、万葉はびくっと首をすくめた。

「あぶねーな」

 直輝が男の後姿を睨みつけて舌打ちをする。万葉は慌てて、直輝にもたれていた身体を離した。

「ごめん」

 思わず謝ると、直輝がわずかに眉を寄せた。

「違う」

「何が」

「万葉に舌打ちしたんじゃない」

「あ……うん。わかってる」

「なら、謝る必要ない」

 直輝はそう言うと、ジーンズのバックポケットに両手を突っ込んだ。その姿勢のまま、万葉を庇うかのようにすぐ隣に立って一緒に信号待ちをしてくれる。病院に向かうには、この横断歩道で立ち止まらずに角を曲がってしまえばいいはずなのに。

 肩が触れそうなくらいに近い。

 よろけた万葉の身体を支えてくれた腕の強さを思う。セーター越しに触れてくる指先の感触がまだ残っていて、鼓動を走らせる。万葉は急いで、視線を正面に戻した。

 歩行者信号の脇についている小さなランプが上から一つずつ消えていく。あれが全部消えると青に変わるのだ。

「どうしてこういうどうでもいいことは覚えてるのに、大事なことを忘れるんだろう」

 つい独り言を吐くと、直輝がきっぱりと言いきった。

「大丈夫だ。大事なことは、必ず思い出す」

 上辺だけの気休めには聞こえなかった。地中深く根を張る植物を思わせる、揺るぎない口調だ。

 なんだか、泣きそうになる。

 信号が青に変わると、直輝もなぜか一緒に横断歩道を渡ってくる。

「直輝。お前、病院行くんだろ」

「ここだけ一緒に渡る」

「なんで」

「交差点で見送るのは縁起が悪い」

「なんだそれ、初めて聞いた」

 要領を得ない会話を交わしながら、道の向こう側へと渡る。

「じゃあ、またな」

「おう」

 駅の方へと歩き出してしばらくしてから、ふと何かを言い忘れたような気がして後ろを振り向いた。

 交差点にはもう、直輝の姿はない。

 彼は、万葉が事故に遭った経緯を知っているのだろうか。

 なぜか指先が急に冷たく感じられて、万葉は両手の指を顔の前で祈るように組んだ。

 

 

 直輝とは頻繁に連絡を取り合うようになった。授業の合間には例の構内のカフェを覗き、相手がいるとなんとなく一緒に時間を潰す。そのまま二人で駅まで歩いて帰ったり、時には互いの買い物に付き合ったりする。

 この日は、大学から少し離れた大型ショッピングモールまで足を延ばした。

 ファッションフロアの店頭はもうクリスマス一色だ。プレゼント需要なのか、冬物の小物などが綺麗にディスプレイされている。その中にカラフルな手袋が並んでいる棚があって、万葉はつい足を止めてしまった。

 末端冷え性で特に手先が冷えやすい万葉にとって、手袋は冬の必需品だ。ただ、人よりも手が小さいのでメンズではサイズが合わず、不本意ながらレディースの地味なデザインを選ばざるを得ないこともある。

「手袋のSサイズ、置いてそうか?」

 肩越しに直輝が棚を覗き込んできて、万葉は思わず跳び上がりそうになった。

 間近から顔を覗き込まれてしまって焦る。すかさず、どうしてそれで焦るんだと自分で突っ込みを入れ、さらにばつが悪くなる。

「ん?」

「あ、いや、なんでも」

 思い出した。

 冷え性だなんて女子みたいだし、まして女物の手袋をしているなんて恥ずかしくて、周りの友達には隠していた。それなのに直輝にはすぐに見破られてしまった。

 梅雨時の妙に肌寒く感じられる日で、学食で直輝の隣に座ったら、エアコンの風がもろに当たる席だったのだ。時折手首を押さえるような万葉の仕草を、直輝が「どうかしたのか」と見咎めた。

 少し躊躇したが、直輝になら打ち明けてもいいと思った。

 直輝が人に接する態度は常にフラットだ。陰口なんて聞いたことがないし、逆に誰かに心酔したりしている様子もない。他人と自分を比べるということがない。まるで世界の中に自分を含めていないかのようで、少し心配になることさえある。

 そんな直輝を見ていると、些細なことでコンプレックスを感じる自分を変えたいと万葉は思うのだ。

「手足がすごく冷える体質でさ。特に、冷房の風が苦手なんだ」

「そうなのか。気付かなくて、悪かった」

 思ったとおり、直輝はそのことをからかったりしなかった。さも当然のように自分から立ち上がり、万葉と席を替わってくれた。

 予想外だったのは、座り直した後に、どれ、と手を握られたことだった。

「本当だ。手、冷たいのな」

 そう言って指をきゅっと握ってきた直輝の手の感触を、万葉ははっきりと思い出した。指が長く、掌は意外と薄く、あたたかな手。

 一緒に心まで掴まれているような気がした。

 思い出して、心臓が掌まで移動してきたかのように、指先がどきどきと震える。

「万葉、黒は着ないんだよな。そこの雪の結晶模様の紺色のとか、いいんじゃないか」

 直輝はジーンズのバックポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出して、棚の方へ手を伸ばす。

 あの手を引き寄せたい、と思う。

 掌を重ねて、指を捕まえて絡めて、力を込めて握って……。

 だめだ、と思っても、想像を止められない。

(俺たち、友達だった?)

 違う。

 その瞬間、はっきりと悟った。

 自分は、直輝に恋をしていた。もうずっと前から。多分、初めて言葉を交わしたあの日から。

 男同士で、友達で。そんな言い訳の陰に隠れて、直輝のことを見つめてきた。狭い自分の部屋で映画を観ている間も、肩がかすかに触れ合うたびに心臓がオーバーヒートしそうになった。気のせいだ、と何度自分に言い聞かせても、隣に並ぶ直輝との距離が近づくごとに、胸が締めつけられそうになった。

 今、この瞬間のように。

 もしかして、直輝も気付いていたのだろうか。それで「多分」なんていう曖昧な答え方をしたのだろうか。

 ここにも、ぽかりと記憶の空欄がある。その空欄を埋めてしまうのを、万葉は初めて怖いと思った。

 再会して開口一番、直輝は万葉に「ごめん」と言った。

 あれは何に対する謝罪だったのだろう。もしかしたら、謝罪ではなく拒絶だったのではないだろうか。

 知りたいけど、知りたくない。

 直輝の隣にいられなくなるようなことは、思い出したくない。

「万葉?」

 手袋を持って振り向いた直輝が怪訝そうな顔をする。

「いや、そのデザインはなんかちょっと……可愛すぎるだろ」

 慌てて話を合わせると、直輝は自分の手にした手袋と万葉の顔とを真剣に見比べる。

「似合うと思う」

「なんだよ、それ」

 女物でもおかしくないようなデザインのものが似合うなんて言われて、普段の万葉だったら反発するところだ。でも直輝に言われると、そういうのとは違う意味で、そわそわと心が落ち着かない。

「とりあえず、今は間に合ってるからいいよ」

 胸の奥のこそばゆさを自覚すればするほど、そんな自分にいたたまれなくなって、万葉はそそくさと売り場を離れた。直輝は特に気を悪くした風でもなく、相変わらず飄々とした様子で買い物の続きに付き合ってくれる。

 その距離感が心地よくもあり、どこか焦れったくもある。

「あ、ちょっと待って」

 ドラッグストアの前で、万葉は直輝を呼び止めた。

「ん?」

「安売りしてる。買ってっていいかな」

 フロアの通路に面した棚に、使い捨てカイロの十個パックが並んでいた。これからの季節、万葉にとって手放せないお守りのようなものだ。

 レジの列に並びながら、そのパッケージをつくづくと眺める。

「なあ直輝」

「ん」

「これさ、いつも不思議なんだよな。別に大阪のメーカーとかじゃないのにさ」

「何が」

「なんで注意書きが関西弁なんだろうな。『低温やけど注意』って」

 一瞬、直輝がきょとんとした顔になった。それから急に「ぶっ」と噴き出す。

「え? あ、あああ! そっか『火傷』ね!」

 ようやく気付いた万葉の隣で、直輝は笑い声を殺して腹筋を痙攣させている。じろりと睨みつけると、それがまた可笑しかったのか、ふるふると肩を震わせる。

「お前、笑いすぎ」

「っ……悪い、ちょっと……止まんね……」

 笑い声を無理に呑み込んだのか、軽く咳込んでいる。レジ係の女性が不審者を見るような視線を投げかけてくるが、そんなのも気にならないくらい、隣で直輝が大ウケしているのが嬉しい。

 そうだ。こいつはこんな風に笑う奴だった。

 滅多なことでは全開で笑ったりしない直輝だが、時々こんな風に、万葉の言った何かがスイッチを押すらしい。一旦そうなると、声を殺しながらいつまでも笑っている。意外に笑い上戸だ、と何度か呆れたことがあった。

 あの日、万葉の部屋であのクリスマス映画を一緒に観たときもそうだった。コタツの中で足を組み替えるとぶつかってしまうくらい近くで、直輝が笑っていた。

 もう一度、あんな時間を一緒に過ごせたら。

「万葉」

 エレベーターホールで立ち止まった直輝が、階数表示を見ながら思い出したように口を開く。

「また、万葉と一緒に映画を観たい」

「え」

 同じことを考えていたことに驚いて、直輝の横顔を探るように見上げてしまう。でも、直輝はこちらには顔を向けようとしない。

「万葉が面白いって言ってたやつ、片端から観てみた。でも、一人だとあんまり面白くないんだ」

 途方に暮れたような直輝の視線を追って、エレベーターの表示を眺める。この商業施設には上位階にシネコンも併設されている。

 ここに二人で来たことがあっただろうか。思い出せないのに、なぜか心がひりっと痛む。

「うん。じゃあ、そのうち」

 そう答えると、直輝はようやく万葉の方を向いて、わずかに目を細めた。

 直輝が好きだ、と改めて思った。

 

 

 バイト先に顔を出すのはほぼ半年ぶりだった。

「おー、木村。五体満足で戻ったか」

 オフィスのドアを開けるなり、社員の岸谷(きしたに)が早速声をかけてくれる。

「どうも、ご迷惑をおかけしました」

「まったくだ。稼ぎ時の夏休みを前にいきなり音信不通になりやがって」

 この映画配給会社はまだ歴史の浅いベンチャーということもあって、全体的に社員が若く、ノリは学生の集まりに近い。岸谷もまだ二十代後半で、バイトの万葉に対して部活の先輩のような態度で接してくる。

「で、本当にもう身体は大丈夫なんだな」

 長期入院した経緯を改めて説明すると、岸谷は真面目な顔になった。事故に遭った万葉と連絡が取れなくなってしまったときは、随分と心配をかけたようだ。

「前より健康になっただろうって医者に冗談言われるくらいです」

「後遺症とかないのか」

「他人の臓器を移植するのと違って、拒否反応とかは出ないんで」

 万葉はさり気なくオフィス内を見回した。特に見覚えのない顔はなく、ほっとする。自分の記憶から消えてしまった人は、ここにはいないようだ。

「そうか。それにしても、よくそんな最先端の治療を受けられたな」

「ああ、はい。大学病院で臨床研究の協力者を募集していたので、登録しておいたんです」

 事故の場合、病院に運ばれたときには本人の意識がなかったりする。そういうときのために、事前に再生治療について説明を受け、万一のときはその治療を受けるという同意を本人から得ておくのだ。

 万葉はまさにそういうケースだったわけだ。

「一般教養で取った生物の授業の教授が、再生治療の研究にも関わってたんですよ。隣の大学病院が最先端の研究に取り組んでるって話で、学生に登録を勧めてたんです」

「そうか、命拾いしたなそりゃ」

「あ、そうだ。診断書とか必要ですか?」

「後で一応労務の担当者に確認しとく。ま、バイトだし必要ねえと思うけど」

 それより、すぐにでも仕事を手伝ってほしいと岸谷は言う。

「この件が一段落しないと、安心して夏休みに入れないからな」

「夏休みって。もう十一月じゃないですか、意味わかんないすよ」

「短期で雇ったバイトが初心者でな、かえって仕事が増えちまったんだよ」

 お前のせいだ、責任を取れ、などと言って、万葉の座ったデスクの上にどさどさと仕事を積んでいく。面と向かって褒められることは少ないが、それなりに頼りにされているのだと思うと悪い気はしない。

 早速、HTMLファイルに落とし込むデータを整える作業を手伝う。

「岸谷さん、誤字脱字は適当に直しちゃっていいですか」

「おお、任せたぞブンガクブ」

「ここに入ってる画像のデータ、指定と違ってますけど」

「ああ? 誰だ、無断で差し替えたのは。ちょっと確認する」

「このサイトいつ公開するんですか」

「明日だ」

「えええ、無茶するなー」

「クリスマスものは競争が激しいからな」

 改めて、各担当部署から集められた作品の資料データを見る。パリを舞台にしたオムニバスストーリー。少しずつ人間関係が重なっているカップルや家族が過ごすクリスマスの夜を描く、というものだ。

「なんかこれ、どこかで見た覚えのあるコンテンツなんですけど」

 思わず訊くと、向かいのデスクの岸谷はPCの画面から目を上げずに答える。

「ああ、それな。ニョーヨークを舞台にした二年前のクリスマスのオムニバスがヒットして以来、シリーズ企画になってるんだよ。毎年舞台になる都市と監督を変える趣向で、今年はパリになったらしい」

「ふーん」

「って、お前、去年のロンドン版も観に行ってただろ」

「あ、そういえば、前売りが」

 ノートに挟まっていた前売り券は、結局そのまま、なんとなく栞代わりに使っている。岸谷の話では、万葉は確かに会社経由で前売りを二枚確保したと言う。

「二枚?」

 首をひねっていると、岸谷がわざとらしく溜息をついた。

「あー悪かったな。古傷抉ったか?」

「はあ?」

「いや、ひょっとしてデートで使って玉砕したか、と踏んだんだけどな」

「違いますよ」

 多分、という言葉を呑み込む。

 反射的に直輝の顔が浮かんだ。それから慌てて、意識を白紙に戻そうとする。

 自分の消えた記憶の中心には、直輝がいる。わかっていたから、そこへ不用意に手を伸ばしたくなかった。

(万葉が俺のことを忘れてしまったのは、俺のせいかもしれない。だから、無理に思い出そうとしてくれなくていい)

 直輝のあの言葉は、どういう意味だったのだろう。

 万葉の不安そうな表情をどのように解釈したのかはわからないが、岸谷は肩をすくめて、それきり口をつぐんでしまった。

 その後は黙々と作業に励んだ。勤務時間を一時間だけ延長して、どうにか作品情報をサイトで公開できる状態に整える。

「なあ木村」

「はい」

 仕事を終えてタイムカードを押そうとしたところを、岸谷に呼び止められた。

「お前さ、就職とか、どうした」

「あー。結局四年生ダブりが決まったんで。就活もやり直しですね」

「それなら、卒業したらウチに来るか」

「え」

 それは、考えてもみなかった選択肢だった。

 この会社は、基本的に新卒採用はしていない。社員は会社設立当初からのメンバーか、広告代理店やIT企業などから転職してきた人たちばかりだ。だが、岸谷が言うには。

「見てわかるだろ、最近人が足んねえんだよ。使える学生バイトがいたら押さえとけ、って社長にも言われててさ。十一月まで夏休みが取れないような職場だけど、人が増えればそれも少しはましになるだろ」

「……俺、『使えるバイト』枠なんですか」

 岸谷はにやりと笑って、「とにかく、考えといてくれ」と言っただけだった。

 社員として雇ってもらえる話はありがたい。ざっくばらんとした職場の雰囲気は以前から気に入っていたし、映画という好きなものに関わる仕事も楽しかった。将来はどうするんだと、何かと心配をしている両親も安心するだろう。

 独り暮らしの自分の部屋までは、電車で小一時間かかる。車内は勤め帰りの人で混み合っている。

 万葉は鞄からスマートフォンを取り出した。

「バイト先でスカウトされた。就職決まるかも」

 早速直輝にメッセージを送ってみる。

「よかったな」

 絵文字も何もない短い言葉だが、すぐに反応が返ってくるのがくすぐったい。まるで万葉からの連絡を待っていてくれたみたいだ。

「就職祝い、何がいい」

「いいよそんなの」

 それから先日のやりとりを思い出して、思いきって一文を付け加える。

「じゃあ、一緒に映画観たい」

 すかさず「いつでも声かけてくれ」と返信が来る。吊革に掴まりながら、頬が緩む。

「そういえば、直輝は就職先決まってんの」

 そういう話はしたことがなかったな、と思いつつメッセージを打つ。

「まだ考えてない」

「えっ。だってもう、来年三月卒業だろ?」

 テンポよく続いていたやり取りが、そこでふつっと途切れた。

(あれ)

 返信の来ない液晶画面をじっと見ているうちに、何か得体の知れない不安に襲われる。

 以前も、こんなことがあった気がする。

 直輝の気配が急に遠ざかっていく。置き去りにされる感覚に、全身が硬く冷えていく。

 息が苦しい。自分の心音がにわかに大きく聴こえだす。

 退院直後に電車で席を譲ったときのように軽い眩暈がして、思わずその場にしゃがみ込みそうになったとき、ようやく手の中のスマートフォンが震えた。

 メッセージの内容よりも、まず差出人を確認してしまう。直輝の名前を見て、心から安堵する。

 それから、文面を見て目を丸くした。

「俺、留年したからまだ三年なんだ」

「そうだったのか。知らなかった」

 咄嗟にメッセージを返しながら、強い違和感を覚えた。

 直輝とはまったく学部が違うし、成績がどのくらいよかったかなんて知らない。だが、ごく真面目な学生だというのは普段の彼を見ていればわかる。授業をサボったりはしないし、万葉にはよくわからない免疫反応だかなんだかについての研究の話もしてくれる。

 そんな彼が、どうして留年したのだろう。

 そこまで考えて、万葉は自分の思考に急ブレーキをかけた。記憶の底に何か途轍(とてつ)もなく嫌なものが横たわっている気配がする。

 これ以上、思い出したくない。

 顔を上げると、通勤電車の窓の暗闇に反射して、怯えたような顔の万葉がこちらをじっと見ている。まるで、記憶を失う前の自分がガラスの箱の中に閉じ込められているのを見ているような気にさせられて、万葉はぶるっと身を震わせた。

 

 

 その日は、大学の例のカフェで待ち合わせた後、直輝が独り暮らしをしている部屋で一緒に映画を観ることになった。

 万葉のところと比べると駅前が賑やかだ。風景に見覚えがないので、直輝の部屋を訪ねるのは初めてなのだろう。

 ロータリーを抜け、幹線道路を渡った先には、スーパーや家電量販店などの大型店舗が並んでいる。その一角のDVDのレンタルショップに立ち寄る。

「今日は万葉の内定祝いだし、映画は万葉が好きなのを選んでくれ」

「お、いいのか?」

「ああ。もうアクションでもホラーでもなんでも観られるから」

 そう言われたが、万葉はホラーのコーナーではなく洋画の旧作の棚に足を向けた。クリスマス特集が組まれていて、例のオムニバスのシリーズも取り上げられている。

 第一作が、二年前に公開されたニューヨーク版。万葉の手元に前売り券が残っていたのが、去年のロンドン版だ。そして今年、パリ版が劇場公開間近、と店員の手書きによる作品紹介がある。

「決まったか?」

 別の棚を眺めていたらしい直輝が、万葉の後ろから声をかけてくる。

「なあ、直輝」

 万葉は振り向いた。

「俺、この映画、直輝と観る約束してた?」

 ロンドン版のパッケージを見せると、直輝は息を呑んだ。口を真一文字に結んで、探るような目で顎を引く。

「万葉、それ……思い出したのか」

 直輝の慄(おのの)くような声を聞いた瞬間、万葉の脳裏に稲妻が走った。

 真っ暗なスクリーンに画像を投影するように、忘れていた場面が甦る。

 半券の切られていない前売り券。

 返事の来ないメッセージ。

「思い出した」

 記憶の蓋がこじ開けられていく。巻き戻した映像を早送りで再生するみたいに、記憶がほどけていく。

 万葉は手にしていたパッケージを慎重に棚に戻した。ラックに触れた指先が震える。

 ヒューマンドラマにはそれほど興味がなかった万葉がこの映画を観たきっかけは、直輝だった。ホラーもアクションも観ないというので、自分のバイト先の映画で評判がよかったものを試してみたのだ。

 直輝が気に入ったようだったので、十二月にロンドン版が公開になったとき、映画館に観に行かないかと誘ってみた。

「二十四日なら実験も一段落するけど」

 直輝の返事に、万葉は密かに怯んだ。クリスマスイブに男二人で観に行くような映画じゃない。

 しかし、直輝が躊躇したのはもっと意外な理由だった。

「映画館って行ったことないんだよな」

「ええ? 一度も?」

「うん」

「えーもったいねー。大きなスクリーンで観た方が、ずっと迫力があって面白いぜ」

「迫力があればあるほど、ダメなんだ。突然大きな音がするのとかも苦手だし」

「いやでもこれ、そういう映画じゃないし。前のやつも観たからわかるだろ?」

 ホラーやサスペンスならともかく、しっとりとしたヒューマンドラマでそんな心配はいらないと請け合う。

「それでも怖かったら、手を繋いでてやるからさ」

 思いきり冗談めかした口調で言ったが、本音を隠しきれていなかったかもしれない。

 顔を上げた直輝と目が合って、しまった、と思った。万葉の真意を測るかのように目がすっと細められる。静かな視線だが、心の奥まで見透かされたような気がした。

「万葉がそこまで言うなら、行くか」

 それでも、直輝が穏やかな口調で頷いてくれたので、万葉はほっとした。

 本当に映画館で直輝の手を握ってみたらどうなるだろうと、想像せずにはいられなかった。冗談で済まされてしまうだろうか。もしも直輝がそれを受け入れてくれたなら、勇気を振り絞って自分の想いを告げることができるだろうか。

 だが当日、待ち合わせ場所のショッピングモールに直輝は現れなかった。

 メールにもSNSのメッセージにも返事がない。電話をかけてみたが繋がらない。電車が止まったりしているのかと検索してみたが、それらしきニュースもヒットしない。

 神経をやすりで削られていくような思いで、万葉はシネコンの入口で待ち続けた。だが、一時間経っても二時間経っても連絡は来なかった。律儀な直輝がこんな風に約束をすっぽかすとはとても信じられなくて、でも、どうしたらいいのかわからなかった。

 映画を観終わった観客がぞろぞろとエレベーターに向かうのに合わせて、ようやく万葉もその場を離れた。

 きっと何か不測の事態が起きたんだろう。いくら自分にそう言い聞かせても、その夜は不安で眠れなかった。明日の朝になれば何かしら連絡があるだろうと、無理やり自分をなだめた。

 しかし、翌日になっても万葉のスマートフォンに直輝からの連絡は入らなかった。

 その後、年末年始も直輝からの音信は途絶えたままだった。帰省先の実家から「あけおめ」メールを送っても、なしのつぶてだった。

 冬休み明け、万葉はいつも直輝がいる時間帯を狙って構内のカフェに向かった。

 いつものテーブルに直輝の姿はなかった。万葉はカフェラテのマグカップを手に、しばらくぼんやりとテーブルの前に立ち尽くしていた。

「直輝……なんで」

 自分の記憶に欺かれているかのようだった。まるで、直輝という人間が初めからこの世界に存在していなかったみたいだ。

 へたり込むように椅子に腰を下ろし、直輝が何も言わずに自分の前から姿を消してしまった理由を必死に考える。嫌われたのだろうか。怒らせたのだろうか。

 最後に交わした会話を改めて思い出す。手を繋いでやる、と万葉が言うと、直輝は戸惑ったような顔をした。その後の同意も、ややためらいがちだった。

 ひょっとして直輝は、万葉の気持ちに気付いてしまったのだろうか。それに嫌悪感を抱いて、万葉を避けることにしたのか。

 思考が、悪い方へ悪い方へとスピンしていくのを止められない。注文したカフェラテはマグカップの中ですっかり冷めてしまって、もう指先を温めることもできなかった。

 それきり、あのカフェに足を向けるのはやめてしまった。

 いつまで待っても、直輝からはなんの音沙汰もなかった。無言の拒絶に耐えきれなくて、万葉はとうとう、直輝の連絡先をすべて消してしまった。

 そうすれば、心にぽっかりと開いたこの暗い穴に無理やりにでも蓋をできるかと思ったのだ。あの日告げるはずだった片想いを、その穴に投げ込んだまま。

 でも、そんな虚しい努力も、その後直輝と構内でばったり出くわすまでのことだった。

 年度も変わってすっかり新緑の季節になっていた。学生課に向かおうと廊下を曲がると、目の前に背の高い黒っぽい服装の男子学生が立っていたのだ。

 すぐに脇によけようとしたが、向こうも同じ方向によけてきた。足を逆に踏み替えると、そのタイミングがまた被った。

 黒いスニーカー。細身のブラックジーンズ。長い脚。

 目を上げなくても、誰だかわかった。

 忘れたつもりになっていたけど、まだこんなにも直輝のことが好きだったのだと自覚して、胸が潰れそうになった。どうしても顔を上げる勇気がなくて、そのまま回れ右をした。今目が合ったら、今度こそ自分の気持ちを知られてしまう。そして、改めて決定的に振られてしまうのだろう。それが怖かったのだ。

 あのときの恐怖が甦って、万葉の全身の血が凍りつく。自分が今立っているのが、DVDが並ぶ棚の間の通路ではなく、あのクリスマスイブの日のシネコンの入口や、初夏の日の学生課の前の廊下に変わってしまったような気がする。

「ごめん」

 万葉はようやく絞り出すように言うと、急いで直輝に背を向けた。

「万葉……?」

「俺、用事思い出したから」

 息を止めて、大股に店の外へと向かう。

「万葉!」

 背後から直輝の声が追いかけてくる。それを振り払って、万葉は小走りになった。

 どうして、思い出してしまったのだろう。

 どうして、すれ違えなかったのだろう。

 直輝のことを忘れてしまった万葉に、直輝はあくまでも優しかった。冷え性の万葉を気遣って席を替わってくれたり、事故のことを心配して横断歩道を一緒に渡ってくれたり、万葉に似合う手袋を選ぼうとしたり。こうして一緒に映画を観ようとまで言ってくれた。

 そのまっすぐな優しさにはなんの作為もない。万葉が惹かれた、あの頃のままの直輝だった。

 このまま、「多分」の入る余地のない純粋な友達としてなら、直輝の隣にいることを許されたのだろうか。

 でも、そんなのは無理だった。たとえ記憶をすべて失くしても、直輝のことは好きにしかなれない。

「万葉……待ってくれ!」

 通ってきたばかりの歩道を駅の方へと辿る万葉の後ろから、直輝の声が追いすがる。その声から逃れようと前のめりにスピードを速める。ほとんど全力疾走になる。

 そうだった、と思い出す。

 あのときもこんな風に、学生課の前で鉢合わせをした直輝から走って逃げた。行き交う学生たちを突き飛ばすような勢いで建物の外に飛び出し、そのまま大学の正門を駆け抜けた。今みたいに歩道を全力疾走して、そして。

「あ」

 派手にクラクションを鳴らされて、万葉は我に返った。

 気が付いたら、ロータリー手前の交差点まで来ていた。横断歩道の歩行者用信号は既に赤に変わっている。

 目の前の道路を、トラックが唸りを上げて通り過ぎていく。万葉はびくりと半歩後ろに身を引いた。

 そのときだった。

「万葉!」

 悲鳴のような声と共に伸びてきた手に、肩を強く掴まれた。

「直輝」

 振り返る間もなかった。そのまま、背中から抱きすくめられてしまう。

 走って追いかけてきたのだろう。直輝の息が荒い。

「この、莫迦。お前、また同じような事故に遭う気か」

 鬼気迫るその声に、万葉は身体を硬くした。スローモーションでのリプレイのように、事故に遭う直前の光景が脳裏に甦る。

「そうか……俺、あのとき」

 学生課の前で直輝に背を向けて。大学の正門を走り出て、歩道を全力疾走して。そして、信号を確かめもせずに横断歩道に走り出たのだ。すぐそこに大型トラックが迫っていたことにも気付かずに。

「万葉」

 その瞬間の恐怖から引き戻すかのように、直輝が万葉の身体に回した腕に力を込めて、ぎゅっと抱きしめた。

「頼む。逃げないでくれ」

 直輝の声が背中から覆い被さってくる。

「ごめん。俺が卑怯だった」

「直輝?」

「万葉が思い出さなければ、このままずっと隣にいても許されるかと思ったんだ」

 その言葉は、万葉をたじろがせる。

「どうして……」

 どうして直輝がそんなことを言うのだ。それは、万葉の台詞ではないのか。

 歩行者信号の脇についている小さなランプがひとつずつ減っていって、ついにすべて消えた。信号が青に変わる。信号待ちをしていた人々が動き出す。

 万葉と直輝だけが、交差点の手前で立ち止まったままだ。

「万葉」

 背中越しに回された腕が、ためらいがちに緩められる。

「万葉が好きだ。ずっと前から、好きだった」

 直輝の両手がゆっくりと下ろされて、万葉の小さく冷えた手を温かく包み込んだ。

 

 

「映画を観に行く約束をしたあのクリスマスイブの前の日に、俺は発作を起こしたんだ」

 交差点を後にして再び一緒に直輝の部屋へと向かう道すがら、直輝は思いもかけぬ話を始めた。

「発作?」

「俺、心臓に先天的な欠陥があったから」

「……知らなかった」

 住宅街を抜けながら、直輝はまるで他人事のように淡々と説明する。子供の頃は身体が弱く、学校を休みがちで友達ができなかったこと。高校のときに手術をしたが、その後も不整脈などの症状は改善されなかったこと。

 万葉は答え合わせをするように、甦った直輝の記憶を「心臓疾患」という視点から辿り直していた。

 いつも物静かで落ち着いていて、大声を出したり慌てたりする姿は見たことがなかった。コーヒーは好きだったがアルコールは口にしなかった。時々薬を飲んでいるところを見かけたが、「軽い頭痛だから心配いらない」と言われた。

 どんなに勧めても、映画はホラーやハードなアクションには手を出そうとしなかった。スポーツは、見るのは嫌いではないようだが自分ではやらず、バッティングセンターにすら行こうとしなかった。遊園地の絶叫マシンには乗ったことがないと言っていた。

 万葉の冷え性に効くかも、と血行のよくなるツボを教えてくれたりもした。なぜそんなことを知ってるんだ、と訊くと、ただの健康オタク、と笑っていた。

 世の中から一歩引いたような達観したところがあるくせに、人には優しかった。自分が不自由な身体を抱えている分、人の弱さにも気付きやすかったのかもしれない。

「投薬は所詮対症療法でしかない。それなのに油断してた。風邪を引いて、一気に症状が悪化した」

 自分で救急車を呼ぶのが精一杯だったらしい。大学病院に搬送される途中で意識を失ったと聞かされて、万葉は自分の心臓が止まる思いだった。

「そのまま数カ月、人工的な昏睡状態に置かれて、以前から検討してた再生治療を受けた」

「……もしかして、留年したっていうのも」

「ああ。半年間休学したから」

 そのおかげで直輝は一命をとりとめ、自己細胞増殖で健康な心臓を再生できたという。

「でも、後遺症で部分的に記憶を失くした」

 そこはもう直輝の住むアパートの前だった。部屋は一階らしく、直輝は万葉を伴って廊下を進む。そういえば、構内の移動もあまり階段を使わず、エレベーターが多かった。

「最後に連絡をくれてた奴のことを何も思い出せないことに気付いたのは、意識が戻ってリハビリを開始してからだった」

 直輝はジーンズのポケットから取り出した鍵で部屋の扉を解錠する。だが、そのまま扉は開こうとせず、そこにじっと立ち尽くしたままだ。

「そのときの俺には、万葉、っていう名前の読み方すらわからなかったんだ」

 万葉の胸に、きん、とガラスが欠けるような痛みが走った。

(綺麗な名前だから、声に出して言ってみたくなった)

「万葉」

 玄関の扉の前で、直輝が振り向く。

「ごめん」

 万葉はようやく、その「ごめん」に対して首を横に振ることができた。

「謝るなよ。直輝のせいじゃない」

 自分がもしそのときの直輝だったら、と、今の万葉には容易に想像ができる。

 名前の読み方すら知らない。顔も思い出せない。自分とどんな関係だったかもわからない。そんな相手に、いきなりメールなどで自分の置かれた状況を説明できるとは思えない。しかも、最後に連絡があったのは何カ月も前のことだ。今さらそれに返事をしたところで、互いに混乱するだけだと考えるのが普通だ。

 カウンセラーだってそのように助言したかもしれない。

「ああ、そうか」

 あのカウンセラーが言っていた、友人のことが思い出せなかった大学生の症例というのは、直輝のことだったのか。

「直輝は……いつ、どうやって、俺のことを思い出したんだ?」

 自分の部屋の扉に背を預けるようにして腕を組んでいる直輝の顔を見上げる。一見静かに見えるその顔に、どこか苦い後悔の気配を感じてしまう。

「あの日、学生課の前で万葉とすれ違えなかったとき」

「え」

「四度目だ、って言葉が浮かんだ」

「あ……」

 かけ違っていたボタンを、ひとつずつ外してまたかけ直すように、万葉は改めて直輝とすれ違えなかった回数を数える。

 最初は病院の前。二度目は購買部の通路。三度目が構内のカフェの脇。

 手術を終えて万葉のことを忘れた直輝とも、そうやって学生課の前で鉢合わせをした。その後万葉が記憶を失くしても、やっぱり、病院の前ですれ違えなかった。

 何度でもここに戻ってきた。直輝の正面に。

「あのとき回れ右をして走り出した奴の後姿を見て、追いかけなきゃ、って咄嗟に思ったんだ。走りながら、かずは、って名前が浮かんだ」

(万葉)

 生真面目なくせに優しい直輝の声が、耳の奥でいつまでもこだまする。

「自分でもわけがわからないまま、半分本能で追いかけた。でも、間に合わなかった」

「直輝……まさか、俺が事故に遭ったとき」

 直輝が苦しそうな顔で頷く。

「俺が現場で救急車を呼んだ。病院にも付き添った。なぜかわからないけど、俺のせいで事故に遭わせたような気がして仕方なかったんだ」

 万葉は息を呑んだ。

「何度も何度も夢を見た。万葉が俺から走り去って、赤信号の横断歩道を渡って、トラックにはねられる夢。さっきはあの夢がまた現実になるんじゃないかと思って、せっかく治った心臓がいかれそうになった」

 ぐらり、と傾きそうになる身体を、万葉は必死に踏ん張って支えた。

「直輝」

「ん」

「とりあえず、部屋の中に入れてもらってもいいか」

「あ、そうだな」

 直輝が初めて気付いたように、振り返って扉を開ける。その後に続いて玄関に入り、扉が閉まった瞬間、背の高い後姿を突き飛ばしそうな勢いで抱きついた。

「うわっ?」

「くそう。全部、お前に先に言われた」

「万葉?」

 レザーブルゾンを羽織ったままの背中に額を押し当てる。

「ごめん、直輝。俺の事故は、お前のせいなんかじゃない」

 自分の弱さを呪う。あのとき逃げ出したりしなければ、事故に遭わずに済んだだろう。そうすれば、直輝にこんな十字架を背負わせることもなかった。

 万葉が入院していた間ずっと、直輝は一人、万葉を忘れたことを悔いていたのだろうか。

「俺も、思い出した。大事なこと」

 こんな自分が告げていい言葉かどうか、少しだけ躊躇する。その心を、大事なことは必ず思い出す、という直輝の言葉が後押しする。

「俺も、直輝が、好きだ。ずっと……好きだった」

 この気持ちを忘れることなんて、できなかった。

 しがみつくように直輝の身体に回していた腕を、そっとほどかれる。

「あのさ、万葉」

 その場でぐるりと身体を回した直輝が、万葉の顔をじっと見下ろしてくる。

「な……なんだよ」

「それって、俺の『好き』と同じで合ってるか」

「は? 直輝の、って」

「キスしたい、とか、そういう『好き』なんだけど」

 直輝らしい、なんの駆け引きもてらいもない、まっすぐな言葉。

 万葉の顔が一気に熱くなった。

「莫迦……お前……」

「やっぱり、違ったか?」

 直輝の眉が心配そうにひそめられる。

「ああもう、そうじゃないって!」

 一歩後ろに身を引こうとする直輝を、急いで引き止めた。

「なんのために、部屋に入れろって言ったと思ってんだよ」

 少しだけ背伸びをして、その首の後ろに手を回す。

「え、万葉」

「目、閉じろって。恥ずかしいから」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返していた直輝の目が、優しげに細められた。

「そうか。よかった」

 火照った頬を、直輝が指の背でするりと撫でる。

「好きだよ、万葉」

「あ。直輝……」

 またしても、先を越されてしまった。自分からしてやろうと思った矢先に、優しいキスが万葉のそれ以上の言葉を塞いだ。

 

 

 触れ合わせるだけのキスから静かに顔が離れたと思うと、直輝は確かめるように万葉の身体を腕の中に抱き寄せた。

「大学のカフェでコーヒーを飲むたびに変な感じがした。フレンチトーストを一人で食べてて、ああ、前は一緒に食べる奴がいたんだ、って思い出した」

 最初にカフェで話をしたあの日以来、直輝は万葉と一緒に店に入ると必ず甘いものを注文して、それを半分万葉に分けてくれた。一人では食べきれないから、と見え透いた言い訳まで用意してくれて。

「俺、基本的に黒っぽい服ばっかり着てるだろ。違う色を試す気持ちの余裕がなかっただけなのに、それを褒められたのが嬉しかったことも思い出した」

 今日直輝が着ている黒に近いグレーのシャツには見覚えがあった。確か一緒に買い物に行ったときに、「直輝に似合いそうだ」と万葉が勧めたのだ。黒が似合うのが羨ましいと言うと、大きな耳をきゅっと引っ張って苦笑いをしていた。あ、耳を触るのは照れたときの癖なのか、と、そのときに気付いた。

 直輝の言葉に合わせて、万葉の中にも小さな思い出の断片が降り積もっていく。万葉の知っていた直輝と、直輝を知っていた万葉が、同時に少しずつ甦る。

 今の万葉にはわかる。

 表面的には忘れてしまっていても、直輝は万葉のことを、心の深いところではずっと覚えていてくれたのだと。

「電車で無意識のうちに弱冷房車を選んで乗ってたり、学食ではなるべくエアコンの風の当たらない席を探したりしてた」

 壊れ物でも扱うように、直輝が万葉の手をそっと握る。

「手が小さいから合うサイズの手袋がなかなかないんだ、って言ってたことも思い出した」

「直輝」

「寒そうに手をこすり合わせるのを見るたびに、あっためてやりたいな、って思ってたことも」

 握った万葉の手をゆっくりと持ち上げて、直輝はその指に唇を押し当てた。

 それだけで、手だけでなく全身がかっと熱くなる。

「そうやって少しずつ万葉のことを思い出すうちに、万葉のことを忘れた自分を許せなくなった。取り返しのつかないことをしたと思った」

 懺悔をするように、直輝が万葉の肩の上に顔を伏せた。万葉は、ほどいた指先を短くて硬い髪の間に埋める。

「どうして、言ってくれなかったんだ」

「何を」

「心臓が悪かったこと」

「万葉には知られたくなかった」

「なんで」

「それでも傍にいてほしい、って言える自信がなかったから」

「そんなことで、友達をやめたりしない」

「友達じゃ満足できなかったんだ。万葉は……俺にとって特別だったから」

 直輝が顔を上げた。切れ長の目に、怖いくらい真剣な光がある。

「ずっと、特定の誰かと深く関わらないようにしてきた。この心臓に何かあったときに、自分も相手も辛い思いをするのは嫌だったから。俺はいつこの世界からいなくなってもおかしくない人間だから、って心のどこかで常に考えてた」

 万葉はしばし言葉を失う。周りから一歩引いたような姿勢の裏に、直輝がそんな思いを隠していただなんて。

「人から距離を置く癖がついてたから、何を考えてるかわからない、ってよく言われた。でも万葉は一度もそんなこと言わなかった」

 それは自分がずっと直輝のことばかり見てたからだ、と今さらのように万葉は気付く。

「皆、自分の人生を素通りしてくだけだと思ってた。でも万葉だけは違った」

「……直輝」

「どうしてもすれ違えなかった。忘れても思い出した。ずっと傍にいたいって思った」

「そんなの、俺も同じだ」

 直輝の顔を両手で包んで、その目を覗き込んだ。黒い瞳に万葉自身の姿が小さく映っている。きっと、万葉の鳶色の目の中にも、同じように直輝の姿がある。

「結局俺たち、どうやってもすれ違えないんだろうな」

 直輝が万葉を忘れてしまっても、万葉が直輝の記憶を失くしても。

「そうだといいな」

 直輝が気配だけで笑った。口元も眉もぴくりとも動かなくても、万葉にはわかる。

 直輝の目の中で、万葉も笑う。その影を引き寄せるように、今度は自分からキスをした。

 直輝の唇の表面は、乾いた北風に晒されたせいか少しだけかさついている。それを潤すように、舌先でそろりと舐める。

「……っ」

 その舌を、吸い込むようについばまれた。

 背中にあった直輝の手が、万葉の後頭部に回される。

「万葉」

 直接触れ合わせる距離で囁かれる自分の名前は、どこか背徳的な響きを帯びる。

「あ……直輝……」

 つぶやいた名前の語尾をかっさらわれ、そのまま唇を吸われた。

「っ……ふ……」

 背中が玄関ドアに当たると、直輝が庇うように片手を突っ張ってくる。ドアと直輝の身体との間に許されたわずかな空間で、万葉は与えられるキスを貪る。

 ほどいた結び目をさらにこじ開けるようにして、直輝の舌が侵入してきた。

「んんっ」

 呼吸ごと呑み込まれる。足の先から力が抜けていく。気が付いたら、すがりつくような格好で直輝のレザーブルゾンの袖を握りしめていた。

 それでも直輝は容赦してくれない。

「なっ……な、に」

 セーターとインナーの裾を一度にたくし上げられた。冷たい空気に直に晒された素肌の上を、直輝のあたたかな指先が滑っていく。自分の体温のありかを強く意識させられる。

 直輝が万葉の前に膝をついた。

「見せて」

 有無を言わさぬような声。

「な……お、き?」

 直輝は万葉の腰を抱きかかえるようにして、ベルトのバックルとジーンズの前ボタンを器用に外す。

「ちょ、なにっ」

 臍の脇に手術の跡がすうっと斜めに伸びている。万葉は色白なので、引っ掻いたような赤い線が目立つ。

 その線を直輝の指がなぞる。

「万葉。ごめん」

「……お前のせいじゃないって」

 直輝は小さく首を振ったと思うと、万葉の手術跡に崇めるようなキスを落とした。

「え」

 唇がゆっくりと傷の線を辿り下ろしていく。

「ひあっ……」

 人に、そんな風に触れられたりすることのない箇所だ。初めての感覚に、甘い戦慄が背筋を駆け抜けた。

「やめ……直輝……」

 ボクサーパンツのすぐ際まで直輝の唇が滑り落ちる。膝から下が震えて、立っているのも覚束なくなっていく。

「万葉」

 不安定に揺れる腰を、直輝に両手で鷲掴みにされた。

「ちょ、待て、このやろ」

 直輝のブルゾンの襟元を掴んで、渾身の力で引っ張り上げる。

「ずるいぞ。直輝のも、見せろ」

「俺の?」

「お前の手術の跡にも、同じことさせろって」

 立ち上がった直輝のシャツの裾を掴んでまくり上げようとすると、その手をやんわりと止められた。

「おい、直輝っ」

「万葉」

 耳元で囁かれる声が、いつもと違う熱を帯びている。

「俺はいいんだけど、万葉はここでこのまま続けて、いいのか」

 押し殺したような声には、妙な迫力があった。直輝は万葉の背中をドアに押し当てるようにして、ぐい、と身体を寄せてくる。

「っ」

 腰に何かが当たった。直輝のそこが硬く張り詰めているのがわかって、万葉は焦る。

 触れ合った箇所から伝わる欲情が、万葉の身体を煽っていく。腹の下で熱が一気に膨れ上がった気がした。

「万葉」

「な、に」

「靴、脱いで」

 別に何ひとついやらしいことを言われたわけではないのに、「脱いで」の響きに身体がぞくりと反応してしまう。

 息を乱しながら、革のスニーカーを脱ぎ捨てる。直輝がもどかしそうにエンジニアブーツから足を引き抜く。

 揃って足をもつれさせるようにして、奥の部屋に向かった。

 

 

 自分が見立ててやったシャツだというだけで、ボタンを外す緊張感が倍増する。

「万葉。指、震えてる」

「お前、そういうのは見て見ぬふりをしろよ」

 文句を言っても、直輝はなぜか嬉しそうに笑うだけだ。

 ベッドに座ったまま不器用に服を脱がすと、直輝の引き締まった上半身が露わになった。

 筋骨隆々というのではないが、肩幅がしっかりあって胸板も厚い、男らしい体型だ。しかし、しなやかな筋肉に覆われた胸元には、はっきりそうとわかる手術痕がある。

 おずおずと手を伸ばして、その上に指を滑らせた。引き攣れたようないくつかの傷を辿りながら、直輝の心と身体が耐えてきた痛みを想像する。

 掌を当てて鼓動を感じ取る。この心臓が一度止まりかけたのかと思うとたまらない気持ちになる。

 すれ違ったきり二度と再会できなかった可能性だってあったのだ。

 心臓の上に走る傷跡に唇を寄せた。さっきの仕返しとばかりに唇でなぞると、直輝が喉の奥で笑い声を立てる。

「万葉。くすぐったいから」

 肩を掴まれたと思うと、そのままベッドの上に仰向けに押し倒された。

「あっ」

 上からのしかかってきた直輝に、セーターとカットソーを一気に脱がされてしまう。素肌に直接触れる直輝の指先の感覚に、ぞくっと身体が震えた。

「寒いか?」

 急に直輝が心配そうな顔になるので可笑しくなる。万葉は直輝のうなじに腕を回した。

「冷え性なんだからな、責任取ってあっためろよ」

 引き寄せた耳元に、内緒話のように囁く。

「万葉」

 囁き返してくる直輝の声が耳の奥で溶ける。

「そういうこと言うと、知らないぞ」

 声が首筋をつうっと伝い落ちる。舌が鎖骨の窪みをくすぐる。

 体内にわだかまっていた熱がほどかれて、直輝が触れてくるところに殺到する。

「……っ」

 胸の小さな突起に唇が触れて、万葉は鋭く息を呑んだ。

「万葉のここ、可愛い色してる」

「んなわけ、な……ぁ」

 舌先でつん、とつつかれると、くすぐったいだけではない感覚がじわりと広がっていく。

「は……ぁんっ」

 片方を唇でつままれ、もう片方も指先でこりこりと転がされ、さざ波のような震えが走った。

「尖ってきた」

「そういうこと、いう、な」

 与えられる刺激に反応して、ぷつりと硬くなってきたのが自分でもわかる。そうなるとますます意識してしまって、感覚がさらに鋭くなる。

「こっちは?」

 中途半端に下ろされたままだったジーンズの前立てを直輝の指先がつい、と撫で上げた。

「っ」

 ファスナーの隙間から直輝の長い指が滑り込んでくる。既に萌(きざ)し始めていたものを探り当てられ、下着の上からゆっくりと上下に擦られる。

「あ……なお、き……っ」

 直輝の指にそこをまさぐられていると思うと、ほんのわずかな動きもやりすごせない。

「やっ……ぁ、あ……」

 仰け反らせた喉から、自分でも恥ずかしくなるほど甘ったるい声が漏れる。くすぐるような優しい愛撫に、もっと強い刺激を求めて腰が揺れてしまう。

 下着と素肌の間に滑り込んだ掌に尻をきゅっと掴まれて、脱がされるというより服から引っ張り出された。

「万葉。腰、細すぎ」

「うる、さい……」

 直輝は万葉の腰を抱えたまま、その上に屈み込む。

「……え」

 下腹部で不埒な熱をため込んでいたそこを、いきなり咥えられた。

「ひぁっ……ん……っ」

 散々焦らされたそこに熱い舌を這わされ、濡れた唇でしごかれ、万葉の欲望はあっという間に追い詰められていく。

「ぁ……やめろ……だめっ」

 すぐにも達してしまいそうになって、慌てて直輝の頭をもぎ離す。熱く濡れた口腔から放出された屹立が、ふるり、と震えた。

「やめろって……お前、いきなりっ……」

 口調だけは抗議だが、声がこんなに甘く揺れてしまっては意味がない。

「いきなりじゃない」

「直輝……?」

「ずっと、万葉としたいと思ってた」

 はしたないほどはっきりと昂奮している万葉の身体を、直輝が視線だけで撫でていく。 なだらかな胸のカーブの頂で、小さな突起が快感に芽吹いている。浅い呼吸に合わせて腹筋が上下し、色白の肌に浮き上がる手術の跡を生き物のようにうねらせる。その下で剥き出しにされた切っ先は、唾液だけではないものにとろりと濡れ、色濃く張り詰めている。

「すげ……万葉、やらしー」

 うっとりした声で言われて、火を放たれたみたいに全身が熱くなった。

「のやろ……直輝、お前こそ」

 こんな、怖いほど艶っぽい視線を向けてくる直輝の顔は知らない。

 現実が記憶を追い越していく。この甘美な熱は、今の二人しか知らない。

「っ?」

 腰に両腕を回されたと思うと、ぐるりと身体を裏返された。うつ伏せになった背中の上に、直輝の体温が重なってくる。

「万葉。最後まで、抱いていい?」

「な、直輝」

「ごめん。もう、我慢できそうにない」

 背中に硬いものが当たる。マッチを擦るみたいに、そこからぼっと火が点いて、万葉の全身を舐めていく。

「……うん」

 直輝がベッド脇に置いてあったハンドクリームに手を伸ばした。

「力、抜いててくれ……痛くしたくない」

「ん、あぅっ」

 クリームに潤された直輝の指が、会陰を辿っていく。狭い谷をなぞり、窪みの入口に押し当て、小刻みに揺する。

「んくっ……ふ、あぁっ……」

 身悶えするほどの羞恥心とかすかな恐怖心を、未知の快楽の予感が上書きしていく。

「ひ、ぁっ」

 丹念にほぐされて押し広げられたところに、滑りのよくなった指先が分け入ってきた。万葉のそこは、待ちわびていたかのように直輝の長い指を呑み込んでいく。

「ここらへん?」

「や、ああっ……」

 ぐりっと指先を押し当てられた箇所から、痺れるような感覚が身体の芯を貫いた。

「それ……んくっ……あ……っ」

 中からそこを繰り返し刺激されると、腰から下が融け崩れるのではないかと怖くなるほど、感じてしまう。

「万葉……これ、気持ちいい?」

 よくないわけがなかった。だって、他の誰でもない、直輝の指に触られているのだから。

「は、あぁっ……なお、き……やめ……」

 それでも、こんな恥ずかしいところで感じているなんて知られたくなくて、万葉は必死に首を振った。

「やっぱり、やめた方がいいか?」

 ぬるり、と指が抜かれる。

「やだっ」

 自分が涙目になっているのはわかっていたが、首をねじって振り向かずにはいられなかった。

「こんな……中途半端で、やめるな、よ……」

 身体の内側で、今まで弄られていたところがじくじくと疼く。空隙を埋めるものを欲しがって、窄まりがひくつく。

 斜めに顔を覗き下ろしてきた直輝は、目を合わせるなり呻いた。

「万葉、お前ってなんでそんなに……」

 感極まったような声が耳の後ろまで下りてくる。

「なんで、そんなに……可愛いの」

 肩甲骨の間に小さくキスを落とされて、ぞくぞくっと不穏な熱が背筋を走り抜けた。

「っあ」

 突き上げた腰を、直輝の両手が鷲掴みにする。割り開かれたそこに、灼熱の尖端が押し当てられた。

「あ、ぁああっ」

 密路に快楽をねじ込まれる。

 反射的に奥がぎゅっと締まる。そんな万葉の身体をそそのかすかのように、直輝がゆっくりと腰を揺すってくる。

「ひあぁっ、あ、ぅ……」

「す、げ……これ、くる……」

 背中越しに降ってくる直輝の息も、万葉のそれに負けず劣らず荒い。その息遣いで「万葉」と繰り返し名前を呼ばれるのが、直接触れられるのと同じくらい、肌をぞわぞわと刺激する。

「ん、ああっ……く、ぁ」

 緩急をつけて抜き差しを繰り返される。深く抉られ、浅くこすり上げられるたび、万葉の体内で欲望がのたうつ。

 腰から背中へと伸ばされた手が胸元まで滑り落ち、万葉の乳首を探り当てた。

「あっ、あああ、やっ」

 極限まで感じやすくなっている粒をこりこりと指先で転がされ、全身に火花が散る。

「やああぁ、だめっ、直輝、そこ……」

「く……万葉、あんま……きつく、すんな」

「む、りっ……」

「こんなんじゃ、俺、長くもたない」

「そんな、の」

 そんなの、万葉だってそうだ。万葉のそれは瀬戸際まで昂(たかぶ)らされ、直輝に突き入れられるたびに、先端からぽたり、ぽたりと滴がシーツの上に落ちる。まだだめだ、とこらえようとすればするほど、強い快感がじりじりと神経を焙っていく。

 身体の奥に埋め込まれた火種が今にも爆発しそうだ。自分で触れて達してしまいたいが、うつ伏せの上体を両肘で支えているので、それもままならない。

「直輝っ……いき、たい……」

 仕方なく、涙声で懇願した。

「ああ……万葉……」

 直輝の手が前を辿り、先走りの滴る軸をしごく。その手に赦されて、万葉は感覚を解き放った。

「あ、あ、あああっ……なお、き……」

 びくん、びくんと間欠的に精が吐き出されるのに合わせて、直輝を呑み込んでいる箇所が、絞るようにきつく収縮する。

「く、っ……」

 直輝は万葉の腰骨を両手で掴むと、一際強く引き寄せた。

「かず、はっ……」

 押し殺すような声とともに、直輝が中で爆ぜたのが感じられた。繋がっているところから直輝の絶頂が感じられて、万葉を恍惚とさせる。

「はっ、は、ぁ……」

 中からそろりと直輝が出ていく。芯を抜き取られたみたいに脱力してしまって、そのままベッドに倒れ伏した。

 直輝も大きく息を乱したまま、隣に身体を沿わせるように横たわる。

「万葉」

「……ん」

「戻ってきてくれて、ありがとう」

 それは俺の台詞だ、とまたしても思う。

 直輝の片手が伸ばされてきて、万葉の髪を柔らかく梳き上げた。繰り返しそうやって髪を撫でられているうちに、全力疾走直後のようだった呼吸が少しずつ鎮まっていく。

「あのさ、直輝」

「ん」

「一緒に観たい映画があるんだ」

「知ってる」

「え。なんで」

 直輝がいつものように、目だけで笑う。

「パリのクリスマスのやつだろ。万葉のバイト先の会社のウェブサイトで見た」

「うん……それ」

「クリスマスイブにでも、行こうか」

 時間がぐるりと円を描いて、スタート地点に戻ってくる。三度目の冬へと、二人を巻き戻す。

「俺、まだ映画館に行ったことないんだ」

「え、そこは相変らずかよ」

「最初は万葉と行くって約束したから」

「……律儀な奴」

 手を伸ばして、直輝の耳をそっと引っ張る。直輝がくすぐったそうな顔をする。

 耳を引っ張った万葉の片手の上に、直輝の手が重ねられた。指の長い、掌の薄い手が、小さな万葉の手をすっぽりと覆う。

「なあ。この前見かけたあの手袋、万葉へのクリスマスプレゼントに買ってもいいか?」

「お前な、そういうのはサプライズにするもんだろ、普通」

「え? あ、じゃあ今の一旦忘れてくれ」

「やだよ」

 万葉は直輝の手を強く握り返した。

「もう二度と、お前のことは忘れてやらない」

 拗ねたようにそう言うと、直輝の肩に額を押し当てた。

「万葉」

 繋いでいない方の直輝の手が、すくい上げるようにして万葉の顔を傾けさせる。

「キスしていい?」

「いちいち訊くなって、もう」

 尖らせた唇に、ふわりと、約束の続きのようなキスが降ってくる。すれ違えなかった記憶が、ひとつに重なる。

 映画館の椅子に並んで座ったら手を繋ごう、と万葉はこっそりと決意した。

 ずっと、繋ぎたいと思っていた手。心まで包み込むような直輝の手。

 もう二度と、離さない。

 

 

(了)

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