咲かない桜の隣には


 長い遠回りの末に辿り着いたその家には、桜の木がなかった。

 

 目印の桜の木を探して、朝倉智志(あさくらさとし)は今来たばかりの道を引き返す。

 プリントアウトしてきた地図をもう一度確認する。駅前からまっすぐに伸びている商店街は間違えようがない。そこから細い道に入る角も、昔からある古本屋が健在だった。だが、そこから先はもう自信がない。自分が曲がったのは本当にこの二つ目の角だっただろうか。道なりに進んでいるつもりで、変な脇道に入り込んでしまっていないだろうか。

 ひとまず、確実にわかる場所まで戻りたいのだが、既に駅がどちらだったかもわからなくなっている。

 乗り物酔いのように頭がくらくらする。窓の外に見えていた風景が、実はだまし絵だったと気付いたときのような、掴みどころのない空振り感。

 鼓動が速い。息が苦しい。顔からすうっと血の気が引いていく。パニック寸前なのが自分でもわかる。目を閉じて、深呼吸をして、襲ってきた底知れない不安をやり過ごそうとする。

 そのときだった。

「あの、失礼ですが」

「うわぁっ」

 すぐ後ろからいきなり声をかけられて、口から心臓が飛び出しそうになった。

「あ。ごめんなさい、そんな驚かすつもりは」

 少々間延びしたような返事をしたのは、ひょろりと背の高い男だった。身長百七十センチの智志より十センチ近く長身だ。年齢は、智志よりも少し上、三十代前半だろうか。

 それにしてもラフな格好だ。寝癖なのか、あちこち毛先の跳ねたもしゃもしゃの髪。度の強そうな丸眼鏡。襟の伸びかかったスウェットの上に厚手のフリースを羽織り、下は着古したジーンズ。靴下にサンダル履き。頭のてっぺんから爪先まで、ご近所感が満載だ。

「どこかお探しですか?」

 だが、雑な身なりとは対照的に、物腰は柔らかく、口調も紳士的だ。

「いえ、大丈夫です」

 反射的に答える。本当は何一つ大丈夫じゃないのだが。

「でも、さっきも今と同じように地図を見ながら、この道を逆方向に歩いてましたよね」

「え」

 たちまち、かっと頬が火照った。

 同じ道を行ったり来たりしていたところを見られていたのか。あの男、さっきから何やってんだ、と思われただろう。地図を片手に閑静な住宅街をうろつく不審者だと怪しまれているかもしれない。

 いたたまれなくなって目を伏せる。すると、男が手に提げている小ぶりの紙袋が目に入った。そこに印刷されたレトロなデザインの洋菓子店のロゴに見覚えがある。

 子供の頃、祖父母の家に遊びに行くと、いつもおやつにここのシュークリームを食べさせてもらった。大きなテーブルのあるダイニングルームに座って、上等なカップに入れた紅茶と一緒に出してもらうと、大人扱いをされたようで誇らしかった。

 思い出して、ふっと肩の力が抜ける。

 智志は手にしていた地図を男に見せた。

「ここへ行きたいんですが、迷ってしまって」

 その紙を一瞥するなり、男は智志の顔にひたと視線を据えた。

 初めてまともに目が合う。意外にも端正な顔立ちだった。頬のそげたような細面で、鼻梁はまっすぐで高い。そこに引っかけるようにした丸い眼鏡の奥に、少し瞼が重そうだが柔和な感じの垂れ目。その目が、驚いたように大きく見開かれている。

「この家に?」

 念を押され、智志は唇を噛んで俯いた。

 こんな近くで、ちゃんとした地図もあって、どうやって道に迷うんだ、とでも思われているに違いない。十五年ぶりに祖父母の家を訪ねようと思ったら道に迷ってしまいました、などと説明したところで、なんと頼りない男だと莫迦にされるだけだろう。ただでさえ、線の細い外見のせいで女々しい印象を与えがちなのだ。

「あの、やっぱり大丈夫ですから」

 そう言って地図を返してもらおうと思ったときだった。

「智志さん、ですか」

 いきなり名前を呼ばれて、息が止まるほど驚いた。

 男が人懐こい笑顔を作る。眼鏡の奥の垂れ目が細められて、目尻にくしゃりと皺が寄る。

「そうですよね。よかった、ようやく会えた」

 胸の前で固く握りしめていた左手の上に、大きな掌がふわりと重ねられた。手をきゅっと握られた瞬間、息苦しいくらい強かった鼓動が、不思議なほど穏やかに鎮まる。

 その手をすっと引かれて、自然と一歩を踏み出していた。

「ちょうど、俺も帰り道なんです」

 男は智志の手を引いたまま、のんびりとしたペースで歩き始める。

 智志は、はっと我に返った。

「え、あ、あの、ちょっと」

 いきなり手を繋いできたこの男は一体何者なのか。どうして自分の名前を知っているのか。ようやく会えた、というのはどういうことか。状況がまったく呑み込めない。

 男は手を繋いだまま振り向くと、にこりと笑いかけてくる。まるで昔からの知り合いのような親しげな態度に、智志はますます混乱する。どう記憶を手繰っても、この顔には見覚えがない。だが、男があまりにも当然のように道案内をしているので、「どちらさまですか」と問いただすタイミングを完全に逸してしまった。

 手を引かれるままに後をついていくと、古びた二階建ての木造アパートの前に出た。

「あ。待ってください」

 そこを左折しようとする男を、智志はためらいがちに呼び止めた。

「この道じゃありません」

 このボロアパートの前は、さっき地図を見ながら通り過ぎたばかりだ。

 男が怪訝な顔で振り返る。

「祖母の家には大きな桜の木があって、道の上までアーチのように枝が伸びていたんです」

 確認したが、目印の桜の木はなかった。花の季節とは程遠いとはいえ、あの太い枝を見落とすことはないだろう。

 男は智志の言葉を聞いて、なぜかぎくりとした表情になった。そのまま、ばつが悪そうに顔を逸らして、道の奥へと目を向ける。

「ここで合ってます」

「え、でも」

 智志の手を引いて、男が再び歩き出す。アパートの前を通り過ぎ、クラシカルなデザインの鉄の門扉の前で立ち止まる。

 大谷石を使った立派な門柱。「工藤」という表札。奥に見える、砂色の壁に深緑の鎧戸が特徴的な瀟洒な洋館。確かに、記憶の中にある祖父母の家だった。

 だが、道の上に屋根のように大きく枝を張り出して、春には訪れるたびに満開の花で迎えてくれていた桜の木だけが、魔法のように消え失せている。

 智志は、妙にぽっかりと開けた頭上の空間をしばし呆然と見上げていた。

「もう、ここに桜は咲かないんです。ごめんなさい」

 智志の視線を辿るようにして、男が言う。

 なぜこの人が謝るのだろう。何もかもが、狐か狸にでも化かされているかのようだ。

「あの」

「はい」

「どうして、僕の名前をご存知なんですか」

 男は、きょとんとした顔になった。

「だって、工藤教授と陽子先生のお孫さんですよね?」

「そうですけど……どうして……」

「目元が陽子先生にそっくりだし」

 男のその言葉に、葬儀の際、遺影で久しぶりに対面した祖母の顔を思い浮かべる。目鼻立ちがくっきりとして、若い頃はさぞかし勝気そうな美人だったのだろうと思わせる顔立ち。幾分目尻が上がり気味の丸くて大きな目が、まるで鏡を覗いているかのようだった。

「あの。亡くなった祖母のお知り合いですか」

 何やら立ち去りがたい様子で隣に立っていた男は、今曲がってきた角の古ぼけたアパートを指差す。

「俺の家、隣なんです。工藤ご夫妻は俺の大家さんでもあったんです。生前は大変お世話になりました」

 ああ、と智志はようやく合点がいった。あれが、祖父母が所有していたアパートか。

 こういう場面でなんと挨拶を返せばいいのか言葉を探していると、突然、目の前で男が長身を深々と折って頭を下げた。

「お願いがあるんです。あのアパート、なんとか取り壊さないでいただけないものでしょうか」

「は?」

「俺、あそこに住めなくなると路頭に迷うんです」

 いきなり始まった談判に面食らう。

 自宅の隣に立っている木造二階建て築四十年のアパートを、なぜ祖父の死後も祖母が処分せずに残しておいたのか、祖母の弁護士もよくわからないようだった。近くにある桜川学院大学の学生向けに貸していたようだが、老朽化していることもあり、何年も前から新たな入居者の募集はやめていたと聞く。ただ、昔からの店子の中にはそのまま借り続けている者もいたようで、確か今も一人だけ引っ越さずに残っているという話だった。それが、目の前のこの男なのだろう。

「その……十分な立ち退き料を用意する、と弁護士からは聞いているんですが」

 男は即座に首を横に振る。

「お金の問題ではなくて、とにかく、他の場所には住めないんです」

 静かな口調だが、頑なに言い切る。どうも簡単には引き下がってくれなさそうだ。

 正直なところ、相続した不動産にまつわる面倒な話には関わりたくない。とはいえ、丁寧に道案内をしてくれた相手を、こちらの用が済んだ途端に追い返すのも心苦しい。

「あの。ここで立ち話というわけにもいきませんから」

 門扉を押すと、蝶番が軋んだ音を立てる。

「中で、改めてお話を伺います」

 そう言って、智志は懐かしい洋館に男を招き入れた。

 

 分厚い木の玄関扉を開けた途端、智志は無言で立ちすくんでしまった。

 玄関は広くはないが吹き抜けになっていて、高い天井からアールデコ調のランプが下がる。ホールから続く階段は木の手すりのついた優美なデザインで、踊り場の窓には小ぶりだが美しいステンドグラスがはまっている。

 あの頃と何一つ変わっていない。玄関脇の下駄箱の上に飾られた、パリかどこかの街角を描いた小さな油絵までそのままだ。

 ただ、目に入るものすべてが、一回り縮んだかのように小ぢんまりと映る。それも当然だろう。最後にこの家を訪れたとき、智志は十二歳だった。家が小さくなったのではない。自分の方が大きくなったのだ。

 しばし感慨にふけっていた智志の後ろで、道案内をしてきた男は、まるで自宅のようにためらいなく靴を脱ぐ。

「わあ、すっかり建物が冷えてますね」

 そのまま、無垢材板張りの廊下をすたすたと進んでいく。智志は、勝手知ったる様子の男の後を慌てて追った。

 突き当りの右側が勝手口になっていて、戸口の上にブレーカーがあった。智志なら背伸びをしなければ届かないような高さのスイッチを、男は長い腕を伸ばして、ぱちんぱちんと難なく入れてしまう。

「智志さん、シュークリーム、食べますよね」

「え?」

 先程の紙袋を手に、男は勝手口の隣の台所に入っていく。型は古いが機能的なシステムキッチンの戸棚や引き出しを慣れた手つきで開け、皿やカップを取り出す。

「これ、智志さんの大好物だったんでしょう? いつも陽子先生が話を聞かせてくれたんですよ。一緒にお茶を飲みながら智志さんの話を聞かせてもらうの、すごく楽しみで。それを思い出して、今日もつい、二個買っちゃったんです」

 嬉しそうに言いながら、袋の中に入っていた紙箱からシュークリームを二つ取り出す。

「あ、これお願いしていいですか。俺、紅茶淹れますから」

 シュークリームを乗せた皿とフォークを手渡されてしまった。仕方なく、それを隣のダイニングルームに運ぶ。スイッチを探し出して明かりをつけ、閉め切られたカーテンを引き開けて、床まである大きな掃き出し窓の外に目をやる。

 庭はそう広くはない。なかなか趣のある枝ぶりの松と、葉の細かなイロハモミジ。隅の方にはドウダンツツジ。

 その隣に、黒く大きな切り株が見えて、どきりとする。毎春見事な花を咲かせていたあの桜の大木は、どうやら根元から切られてしまったらしい。

 智志はヒーターのスイッチを入れ、上品なしつらえの室内を改めてぐるりと見回した。

 濃いモスグリーンのカーペット。細かいアラベスク文様の壁紙。天井板を留める細い部材が格子状に張り巡らされた白い竿縁天井は、現代の建築よりもかなり高い。そこから重厚な樫のテーブルの上に下がるシャンデリア風の照明は、スズランの花の意匠だ。部屋の端に据えられたキャビネットは艶のあるチーク材で、どこかの美術館に展示されていても不思議はなさそうだ。

 この家を丸ごと自分が相続したなんて、まだ実感がない。

 近くの桜川学院大学で長く建築を教えていただけあって、祖母は実務的な人だった。同じ大学の数学教授だった祖父と死別してからは、毎年のように遺言状を書き換えて弁護士に渡していたそうだ。心臓発作による急逝だったが、相続手続きに混乱は生じなかった。

 不動産は、祖父の死後にほとんど処分されていた。唯一残されていたのがこの家と、隣の木造アパートである。その二つは孫の智志に遺された。智志の両親は今は海外在住なので、都内の不動産を相続しても持て余すだろうという配慮だったのかもしれない。

「工藤さんは、このご自宅をなるべくそのままの形で残してもらえるよう、お孫さんに託したいと言われていました」

 祖母の弁護士からは、葬儀や相続の件で何度か顔を合わせたときに、そう説明された。

 この古い洋館をできるだけ長く守っていく手助けがしたいということは、智志もいつも心のどこかで思っていた。大学では建築学部に進んだし、卒業後は、古い建物の保全とリフォームに定評のある建設会社に就職した。

 それでも、こんな形でこの家が自分に託されるとは思ってもみなかった。自分にはもう、この家に住む資格はないと諦めていたから。

 微かな罪悪感に溜息をついたときだった。

「お待たせしました」

 見覚えのあるティーポットとカップを男がテーブルまで運んできた。智志はむしろ自分の方が余所者のような気にさせられてしまう。

「さ、どうぞどうぞ」

 勧められて今更固辞するわけにもいかず、皿の上のシュークリームを一口かじった。さくっと軽いシュー生地の中から、とろりとしたクリームが溢れ出す。バニラがふんわりと上品に香る。この家のこの椅子の上で、幾度も味わった優しい甘さに、胸がじんわりとぬくもっていく。

 一方、もしゃもしゃ頭の男は、テーブルの向かい側でそんな智志の様子を満足そうに眺めている。

「いやあ、嬉しいなあ。本物の智志さんと、このシュークリームを一緒に食べられる日が来るなんて」

 正体のわからない相手にそんなことを言われて、紅茶にむせそうになった。

「あの……どこかでお会いしてましたっけ……どうしてもお名前が思い出せないんですが」

「あ、そうか。よく考えてみたら、初対面でしたね。忘れてました」

 男は初めて気付いたという表情になって、椅子の上で姿勢を正した。

「申し遅れました。隣のサニーサイド・コーポの部屋をお借りしている天野尚道(あまのなおみち)と申します」

 そう言って、テーブルの上にひれ伏すように低く頭を下げる。

「あ、はい」

「本当に、工藤教授ご夫妻にはよくしていただいて。その上厚かましいお願いですが、どうか人助けだと思って、俺の住む場所を残しておいていただけませんか」

「そう言われましても、取り壊しは既に決まったことで……」

 智志の側にだって簡単には譲れない事情がある。隣の土地を売却しないと、相続税や家の維持費を工面できないのだ。

 その言葉に、天野はきっぱりと顔を上げた。

「それでは、代わりにこちらに下宿させていただくことはできませんか」

「は……?」

「こちらの家は取り壊さずに残されると聞きました。相応の家賃はお支払いしますので、置いていただけないでしょうか」

 一瞬何を言われたかわからず、ぽかんとしてしまった。

 この家に、住む? この男が?

 智志は慌てて首を振る。

「この家には、僕自身が越してきて住むことにしているんです。人にお貸しする予定はありません」

 ところが何を思ったか、天野はそれを聞くなり満面の笑みを浮かべた。

「本当ですか? それならちょうどいい、一緒に住みましょう」

「一緒に……って、はあぁ?」

「二階の部屋はもう使ってないって話でしたから、俺はその一部屋を間借りできれば十分です。こう見えて、掃除も料理も得意ですよ。陽子先生がお一人になられてからはよく手伝いに来てたので、家の様子もわかりますし」

 一気に畳みかけられる。異論を唱えようにも、そもそもどこから突っ込めばいいのかわからず、智志は呆気にとられるばかりだ。

「この家に、智志さんと一緒に住めるなんて夢みたいだなあ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 これはさすがに相手に遠慮している場合ではない、と遅まきながら気付く。

「そもそもあなた、僕がどんな人間か知りもしないで、いきなり同居って」

 すると、天野がにっこりと微笑んだ。

「俺は、智志さんのことならよく知ってます」

「え?」

「工藤教授も陽子先生も、いつも自慢されてましたから。女の子に間違われることもあるくらい可愛らしくて、少し大人しいけれど聡明で、とても優しい子なんだ、って」

 智志は思わず俯いてしまった。

 今の自分は、祖父母が可愛がってくれた、優等生の孫とは程遠い。

「小さい頃は毎週のように遊びに来てたって。どうして今はいらっしゃらないんですか、って訊いたら、中学と高校はお父様のお仕事の関係でずっと海外で、大学は北海道で、就職したら今度は関西の会社で、なかなか会えないんだ、って」

 自分がいかに薄情な孫だったかを改めて人の口から聞かされているようで、智志は顔を上げることができない。

「でも、この古い家がとても好きだったから、いつかここに戻ってくると思う、って言われてました」

 俯いたまま、智志はきゅっと唇を噛んだ。幼い頃、祖母に言われた言葉が甦る。

「智志ちゃん、そんなにこのおうちが好きなら、大人になったらここに住みなさい」

「いいの?」

 目を輝かせた智志に、祖母はくっきりとした顔をほころばせて言った。

「もちろん。いいお嫁さんをもらって、この家で仲良く暮らしてね」

 おとぎ話の締めくくりのような言葉に、少しだけ居心地が悪くなった。その違和感がなんだったのか、はっきりと自覚したのはもう少し後だったけれど。

 自分が周りと違うということに気付き始めたのはいつ頃だっただろうか。おそらく、父親の海外赴任に伴って香港のインターナショナルスクールに転入した頃からだ。中学生にしてはませたイギリス人やアメリカ人の男子生徒たちの、ガールフレンドの話題にさっぱりついていけなかった。疎外感を感じると同時に、そんな彼らに対してどこか、熱っぽいような落ち着かない気持ちを抱くようになっていった。

 やがてそれが、男性が女性に、あるいは女性が男性に対して抱く恋愛感情に近いものだと気付いた。そして、ひどく怖くなった。

 自分はどこかおかしいのかもしれない。こんな自分のことを周りに気付かれたら、どうなってしまうのだろう。

 そんな怯えを抱えたまま、友達と打ち解けられるはずもなかった。英語力は上達しても、学校にはいつまでも馴染めなかった。勉強はよくできたが一人で家に閉じこもりがちな息子のことを、両親は心配していたようだが、親に打ち明ける勇気はなかった。

 まして、幼い頃から両親以上に自分を溺愛してくれた祖父母には言えなかった。本当の自分を知って失望されてしまったら、と思うと、会うのが怖くて、帰国後もこの家からは足が遠のいてしまった。

 心の中で祖父母に手を合わせる。おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんね。せっかく家を遺してくれたのに、ここにお嫁さんを連れてくることはできなかったよ。

「俺、智志さんに会える日をずっと楽しみにしてたんです。しかも、本当に教授と陽子先生が言われていたとおりの人だったから、つい嬉しくなっちゃって」

 智志は伏せていた顔を上げた。

 目の前の男は、さっきから子供のように無邪気な笑顔を見せている。お世辞などではなく、心からそう思っているらしい。

 祖父母への申し訳なさと、自分に対する情けなさ。それがおかしな風にねじ曲がって、目の前の能天気な男に向かう。何も知らないくせに、と腹立たしくなる。

「祖父母が言っていたとおりの人間だなんて、あなたにどうしてわかるんですか」

「え」

「僕はそんな人間じゃない。それとも、うちの孫は無愛想で暗くて人付き合いが悪くて、優柔不断で方向音痴で、おまけに、ホモだ、なんて話を聞いてたんですか」

  初対面の相手を前にしても、自分を貶めるような言葉なら、するするといくらでも出てくるのが不思議だ。

 大学でも前の職場でも、何度も言われた。

 朝倉さんって付き合い悪い。意見があるならはっきり言えよ。表情が暗いぞ。もっとリラックスして、雰囲気が悪くなるから。

 いや、そんなのはましな方だった。

 聞いた? あいつホモだって。いつもむっつり黙ってて、何考えてるのかと思ったらさ。うわ、やべえ、俺狙われちゃう。やだあ、やめてよ、気持ち悪い。でも確かに、あの人、あんまり男らしくないよね。

 面と向かっては言われていないはずなのに、そんな言葉はなぜか必ず本人の耳に入る。

 もともと引っ込み思案で人と関わるのが苦手だった智志にとって、そんな風に好奇と軽侮の視線に晒されるのは耐え難かった。精神的に疲弊しきって、ついに会社に辞表を出した。人間不信になりかけて、わらにもすがるような思いで、唯一の温かい思い出の場所であるこの家に戻ってきたのだ。

 しかもその家にさえ、自力では辿り着けなかった。

 智志は、膝の上で両手を固く握りしめた。

「え。智志さん、無愛想で暗くて人付き合いが悪くて、優柔不断で方向音痴のホモなんですか?」

 だが、呑気な口調でおうむ返しにされて、思わずテーブルの上に突っ伏してしまう。

「そうは見えないけどなあ。あ、方向音痴ってのだけは、一目瞭然でしたけど」

 もう、勘弁してほしい。

 樫のテーブルに額を押し当てて、智志は絶望の溜息をつく。この男の突拍子もなさは、自分の乏しい対人スキルで対応できる範囲をはるかに逸脱している。そもそも掛かり合いになったのが間違いなのだ。

 この件は、弁護士に丸投げしよう。そう心に決めて、智志はすっくと椅子から立ち上がった。

「帰ります」

「え?」

「今日は家の様子を見に来ただけで、長居をするつもりはなかったんです。新幹線の時間もありますので、そろそろ行かないと」

 空になった皿とカップとポットを盆に載せながら淡々と告げると、天野も椅子から立ち上がった。

「でも、智志さん、一人で帰れますか?」

 そう言われて、ぎくりと手が止まる。

「駅まで、送りますよ」

 大丈夫です、と反射的に出かかった言葉を呑み込む。何一つ大丈夫じゃない。天野に案内してもらった道順がまるで思い出せない。余計なことばかり考えていたせいで、ろくに周りを見ていなかったのだ。門を出てどちらに行けばいいのかすら、記憶が曖昧だ。

 仕方なく、唇を噛んで頭を下げる。

「お忙しいところ恐縮ですが、お願いします」

「いいんです、ちょうど俺も駅前の本屋に行こうと思ってたんで」

 天野はいそいそと立ち上がると、支度をしてくるのでちょっと待っててくださいね、と言い置いて、サンダルをつっかけて玄関から小走りに出て行った。

 

 簡単に家の中の点検をして大きな問題がないことを確認する。入念に戸締りをして玄関の外に出ると、アパートから戻ってきた天野に、紙を何枚か手渡された。

「ネットの地図より見やすいと思いますよ」

 この付近の住宅地図のコピーらしい。赤いペンで、家から駅までの道順が示してある。

「こんな詳しい地図をお持ちだなんて、用意がいいんですね」

 細かい路地まで記された地図に感心しながら、天野の後についてアパートの角を曲がる。

「工藤教授と陽子先生にいただいたんです」

「え」

「この地図には本当に助けられたんですよ」

「もしかして、あなたも方向音痴ですか」

 うっかり親近感を抱きそうになる。だが、天野は苦笑いをして首を振った。

「いえ。そうなら、よかったんですけどね」

「よくありません。道に迷ってばかりの、どこがいいんですか」

「でも、道に迷ったら周りの人に教えてもらえばいいだけの話じゃないですか」

 簡単に言うなあ、と、智志はがっくり肩を落とす。まあ、この男なら、相手が誰だろうと遠慮なく道を訊いて回るだろうが。

「僕は、ただ出かけるだけで人に頼らなくてはいけないのが嫌なんです」

 見知らぬ人を呼び止め、頭を下げ、警戒されたり迷惑がられたり見下されたりしながら道順を教えてもらわなくてはならない人間の気苦労など、この男には一生わかるまい。

 曲がり角で立ち止まって地図を確認する智志を待ちながら、天野がのんびりとした口調で言った。

「でも、人に親切にするのって、気分のいいものでしょう」

「え」

 思わず地図から目を上げると、眼鏡の奥の柔和な目がにっこりとほほ笑む。

「智志さんが道を訊いて『ありがとう』ってお礼を言うたびに、『あ、今日はいいことしたな』って嬉しくなる人が一人増える」

「はあ」

「そう考えると、道に迷うのって、小さな慈善事業のようなものかもしれませんね」

「慈善事業?」

 どれだけおめでたいんだ、と呆れる。だが、そのおめでたさに引っ張られて、少しだけ心の重荷が外れるのが不思議だ。天野の桁違いの天然っぷりを見ていると、自分の抱えている悩みの深刻さが相対的に薄れていくような気にさせられてしまうのだ。

 程なく駅前の商店街に出た。買い物袋を提げてせかせかと行き交う人々の足元を、街灯の光が照らしている。

 駅前のロータリーで、今通ってきたと道を確認していた智志は、そこで初めて地図の隅の書き込みに気付いた。

「桜?」

 見覚えのある祖母の字は確かにそう読めた。

 この界隈は、桜川というだけあって桜が多い。駅の反対側の公園は桜の名所だし、庭にも桜の木を植えている家が多い。それらの桜のある場所を示しているのか、よく見ると、住宅地図のあちこちにバツ印とともに「桜」の文字が書き込んである。

 だが、ここまで辿ってきた道沿いには、その桜の文字がない。赤線の出発点の、祖父母の家のところにも何も書き込まれていない。

――もう、ここに桜は咲かないんです。

「あの」

 地図から顔を上げ、自分より十センチ近く高いところにある天野の顔をじっと見上げた。端正な顔が、あのとき、ひどくばつが悪そうに歪められたのを思い出す。

「祖父母の家にあったあの桜の木は、どうして切られてしまったか、ご存知ですか」

 天野は、またしても気まずそうに目を逸らした。

「ごめんなさい。俺のせいなんです」

「何か、あったんですか」

 天野は黙って、哀しそうに首を振る。

 不意に、理不尽な怒りが湧いてきた。

 身勝手な言い分だというのは承知している。それでも、赤の他人であるこの素っ頓狂な男のために、自分の温かな思い出の一部が永遠に取り去られてしまったのだと思うと、ショックを抑えることができない。

 やりきれなさをぶつけるように、智志は冷淡な声で言い放った。

「さっきの下宿の話は、正式にお断りします」

 天野がすがりつくような目を向けてくる。道案内してくれた人に申し訳ないと思わなくもないが、それとこれとは話の次元が違う。

「そもそも僕には、家族とか恋人とかの特別な関係ならともかく、よく知らない他人と一つ屋根の下で暮らすなんて無理ですから」

 お嫁さんと仲良くこの家で暮らしてね、と言っていた祖母の声を振り切るように、改札の方へと向き直った。

 だが。

「そうかあ、よかった」

 心から安堵したような声に、つい立ち止まって振り返ってしまった。

「何がよかったんですか」

 天野は、丸い眼鏡の奥で嬉しそうに目を細めた。目尻に柔和な皺が寄る。

「そういう特別な関係なら、一緒に住んでもらえるんですね」

「……?」

「俺は智志さんと、恋人同士になりたいです」

 唖然とした。

 ひょっとして、さっき自分がホモだと言ったことをおちょくっているのだろうか。さすがに堪忍袋の緒が切れた。

「人を莫迦にするのも、いい加減にしてください」

 吐き捨てるようにそう言ってきびすを返す。

「あ、智志さん、待ってください」

 背後からの声を無視して改札を足早に通り抜け、階段を大股に駆け上がる。ホームに滑り込んできた電車に乗って、そのままドアの脇の手すりにもたれる。

 散々振り回された後の脱力感がどっと襲ってくる。

――俺は智志さんと、恋人同士になりたいです。

 どうして、あんな無神経な冗談でからかわれるような仕打ちを受けなきゃいけないのだろうか。自分が何をしたというのか。

 何も知らないくせに、と、さっきと同じ言葉を胸の内で繰り返す。

 思春期の頃からゲイの自覚はあった智志だが、まともな恋愛はしたことがなかった。比較的親しい友人に心惹かれることもあったし、ほとんど話したこともないような相手に遠くから憧れの視線を注ぐこともあったが、相手の目に自分が恋愛対象として映っていないことは明らかだった。だから、そういう相手からは慎重に距離を置いた。それでも何度かは失敗して、自分の気持ちを知られてしまうことがあった。

 戸惑いながらも気にしないふりをする相手もいた。露骨な嫌悪の目を向ける者もいた。いずれにせよ、智志が同性愛者だと知ると皆少しずつ態度を変え、さりげなく、あるいはあからさまに、智志から遠ざかっていった。

 あんな風に、冗談でも距離を縮めてこようとした相手は、天野が初めてだった。

 いや違う。過去にもう一人いた。

 不意に寒気が襲ってくる。車内は暖房が効いているはずなのに、膝が細かく震え始める。智志は自分の肩をぎゅっと抱いて、目をきつく閉じた。

 あんな目に遭うくらいなら、もう二度と、誰にも、距離なんて縮めてきてほしくない。

 

 溜まっていた有給と年末年始の休みは、引越しの準備ですべて潰れた。前の会社の独身寮から洋館への引越しを慌ただしく済ませると、すぐに正月休み明けの出勤日だ。

 住宅地図のコピーを片手に、駅までの道を慎重に辿る。

 天野のこともその後気にはなっていたが、当面自分のことで手一杯で、弁護士にも連絡を取っていなかった。アパートの前を通りがかってさすがに気になったが、どうなりましたか、と自分から訪ねる気にはなれない。

 無事駅前に辿りつき、ロータリーからバスに乗って、桜川学院大学正門前で降りる。正門で守衛に教えてもらって、事務棟の設備課に向かう。

「あの、本日付でこちらの職員となりました、朝倉です」

「やあやあ、お待ちしてました、朝倉さん」

 出迎えてくれた設備課の吉岡課長は、話好きの四十代半ばの人物だった。

 早速、春に改修工事を予定しているという大学の四号館に案内される。広い構内の東端に位置する地上五階建てのその建物は、理学科の研究棟らしい。

「ご覧のとおり、古い建物でしてね。やはり防災面が心配なんですよ」

 まずは、ぐるりと外側を一周する。南北に細長い建物の西側南寄りに出入口がある。渡された図面によると、内部は片側に並んだ各部屋をまっすぐな廊下が繋ぐ単純な構造で、階段とエレベーターがそれぞれ一箇所ずつ。

「非常階段も一箇所ありますね」

「ああ、はい。普段は使用禁止にしてます」

 建物の北端に回ると、外壁に沿って、鉄製の階段がジグザグに走っている。

「いやあ、即戦力になる人に入ってもらえて助かります。防災設計の専門家が転職してきてくれるなんて、心強いですよ」

 吉岡課長が隣で安堵したように言うので、智志は恐縮してしまう。

「いえ、現場の経験が乏しいので、色々と一から教えていただくことになると思います」

 人とあまり会話せずに済む設計の仕事は気楽だったが、ここではそうもいかないはずだ、と気を引き締める。

「いやいや、澤井建設にお勤めだったって聞きましたよ。古い建物の耐震工事で有名なところじゃないですか。今回の改修工事も、そこに施工を依頼しようという話になっているんです」

「え」

 図面をめくっていた智志の手が止まった。

 澤井建設の東京支社。

 二度と会いたくない顔を思い出してしまう。こちらを縛り付けようとしているかのような表情や声が脳裏に甦る。

 肺の底が凍りついて、息が上手く吸えなくなる。呼吸をしようと顔を上げたときだった。

 非常階段に通じる三階の扉が開いて、人影がぬっと踊り場に姿を現した。そのまま平然と鉄のステップを下りてくる。

 ひょろりと背の高いシルエット。眼鏡をかけた細面の顔と、もしゃもしゃの頭。

 智志はぎょっとした。

「あーまた!」

 吉岡が声を上げると、首をすくめるように会釈をする。だが、隣に立つ智志の方に目を向けた途端に、眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。

「ええ? 智志さん?」

 まずい。

「あれ。天野先生、朝倉さんとお知り合い?」

 吉岡が意外そうな顔で、二人の顔に交互に目をやる。天野が相好を崩した。

「そうなんですよー。この前、家の近くで智志さんが迷子になっちゃってたとき、道案内させてもらったんです」

「わあぁっ」

 口を挟む間もなかった。智志は思わず頭を抱えた。

 よりによって転職初日に、直属の上司に、自分の最大の欠点のひとつをあっさりと暴露されてしまった。

「おや、朝倉さん、人を見る目がありますね」

 だが、吉岡はむしろ感心したように頷いている。

「天野先生、確か迷路の専門家でしたでしょ。なんだっけ、ナントカ理論っていう」

「グラフ理論です」

 へえ、と智志は聞き耳を立てた。祖父も確か、グラフ理論が専門ではなかったか。一筆書きや路線図など、点とそれを結ぶ線についての理論だ。迷路の専門家とは言い得て妙だ。

 智志も数学は嫌いではない。海外でまだ英語が不自由だった頃も、数学だけはテストで満点が取れた。大学時代も、建築学科が工学部だったのをいいことに、卒業に必要な単位は数学を中心に取得したくらいだ。丁寧に理論を追っていけば必ず解に辿り着く明快さが、現実の世界で迷ってばかりの智志には福音のようにさえ思えることがある。

 グラフ理論なんかを専門にしていれば、日常生活でも遠回りをせずに済むのだろうか。

「そういえば、智志さん、今日は学校まで一人で辿り着けました?」

 その迷路の専門家に心配そうに言われて、智志の頬がさっと赤くなった。

「いくら僕でも、目の前のバス停からここまで迷ったりしません!」

 つい、むきになってしまう。どうも、天野が相手だと調子を狂わされる。

 そこへ吉岡が割って入った。

「それより天野先生、非常階段は平時は立入禁止だっていつも言っているでしょ。ちゃんと正面の出入口を使ってくださいよ」

 天野は苦笑して首をすくめる。

「割と、非常事態でして。見逃してください」

 飄然とそう言うと、「それでは、失礼します」と会釈をして、校舎の裏側の方へ立ち去っていく。

「どう考えてもあの階段の方が、正面の出入口より遠回りで不便だと思うんだけどなあ」

 吉岡はぶつぶつとそんなことを言っている。

 再度、四号館の正面入口へと回り込む。すぐ脇に、かなりの樹齢を経たと見られる大木がそびえていた。花が咲いていなくても、すぐにわかる。

「桜だ」

 陽射しが枝に遮られるかのように、ふと何かが心の隅をかすめた。智志は思わず立ち止まる。

「朝倉さん?」

「ああ、すみません」

 急いで吉岡の後を追いながら、智志は改めて、切られてしまった家の桜の木のことを思い出していた。そして、天野にとっての「非常事態」とはなんだろう、と考えていた。

 

 天野は桜川学院大学の卒業生で、智志の祖父である工藤教授の教え子だったという。大学入学時に入居して以来、かれこれ十四年もあの古いアパートに住み続けていたそうだ。

「工藤教授が亡くなったのが十年前でしたっけ。陽子先生が独り暮らしになられて、あれこれ家のことにも手が回らなくなってきたみたいだったので、まずは庭掃除をお手伝いさせていただくことにしたんですよ」

 庭を竹箒で掃きながら天野が言う。

 結局、天野との同居を受け入れる羽目になった。あの調子では自分が同性愛者であることも簡単にばらされてしまうと心配になって、あの後すぐに口止めをした。そうしたら、黙っている代わりに下宿の件を了承してください、と、にこやかに押し切られたのだ。智志としては一生の不覚である。

 早い春の訪れを予感させる穏やかな日曜日だった。ダイニングの掃き出し窓のところに気持ちのよい陽だまりができている。キャビネットの上に置いたラジオから、今年の桜の開花はいつ頃になるでしょう、なんて気の早いアナウンサーの声が聞こえてくる。

 一通り掃除の終わった天野に、たっぷりコーヒーを注いだマグカップを手渡す。

「あれ。コーヒー、珍しいですね」

 智志も天野も、紅茶党だ。

「紅茶の葉、切らしちゃって。インスタントです、すみません」

「智志さんが淹れてくれたものなら、なんでも嬉しいですよ。いただきます」

 天野は丁寧に頭を下げて、掃き出し窓の日向に腰を下した。

「見慣れない缶でしたけど、あの紅茶、どこのでしょう」

「駅の向こうに紅茶専門店があるみたいなんです。郵便局の隣だったかな」

「じゃあ、後で買いに行ってみます」

「一人で行けますか?」

「大丈夫です」

 素っ気なく言ってはみたものの、あまり自信はない。それを見抜かれたのか、天野が可笑しそうに笑う。

「智志さんて、陽子先生に似てますね」

「顔がそっくりだって、小さい頃はよく言われました」

「いや、顔だけじゃなくて」

「そうですか?」

 天野の脇に立って自分もコーヒーを飲みながら、智志は不思議に思って聞き返す。

 あの世代の女性には珍しく一級建築士の資格を持ち、研究者として大学で教えたりもしていた祖母は、子供の目にも、何事も決断の早いさばさばとした人物に映った。どうして自分は祖母の顔ではなく性格の方を受け継がなかったのだろう、と思う。

「智志さん、『大丈夫』が口癖でしょ」

「へ」

 そんなことを指摘されたのは初めてだ。

「陽子先生もね、いつも言ってたんですよ。『大丈夫よ、一人でできるから』って。庭の掃除も買い物も電球の交換も、自分からは絶対に俺のところに頼みに来ないんです」

 天野はなんでもないような顔でコーヒーを飲んでいるが、智志はちょっと意外な思いで、高い鼻に眼鏡を引っ掛けた横顔を眺めてしまった。

 単なる空気の読めないお節介かと思ったが、一人では困ること必至の祖母を見かねて、そうやって強引にでも世話を焼いてくれていたのかもしれない。

 実際、天野は家事をこまめにやってくれる。服や持ち物には無頓着なようだが、だらしないというわけではない。一方、家事と食事以外の時間はほとんど、自室である二階の洋室にこもっていて、こちらの生活ペースを乱されるようなこともない。同居人としては意外にも楽な相手だ。

 ただ、いくつか戸惑うことはある。

「そういえば先生の部屋、雨漏りとかしてませんか」

 声をかけると、こうしてこちらの目をまっすぐに見つめ返してくるところとか。

「家で『先生』はやめてくださいってば」

「先生こそ、職場でも僕のことを下の名前で呼ぶのはやめてください」

「あ、俺の下の名前、『尚道』です」

「知ってます」

 こんな風に、こちらの言うことにいちいち律儀に反応してくるのに、なぜか会話が噛み合わないところとか。

「智志さんの部屋は、雨漏りするんですか?」

「この前の雨の後、窓際の角の天井の染みが少し大きくなったようなので、気になって」

「天井はあまり気にしたことなかったなあ。直接ご覧になります?」

 こんな風に、自分のプライベートの空間にもためらいなく人を立ち入らせるところとか。

「いえ。入居前に確かめた限りではそういう跡はなかったんですが、念のためと思っただけで」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「……何か、お礼を言われる文脈でしたか」

「智志さんは優しいから、雨漏りのない方の部屋を俺に譲ってくれたのかと思って」

 こんな風に、天然で人と感覚がずれているようでいて、妙に察しがいいところとか。

「早めに修繕を頼もうと思うんで、他にも隙間風とか、気になることがあったら教えてください」

 努めて事務的に言った後、もうひとつ確認しなくてはならなかったことを思い出す。

「先生、この春休み中に帰省したり旅行したりする予定があれば、教えておいていただけますか」

 大学の春休みは長い。二月初めに後期試験が終われば、四月の新学期まで授業はない。もちろん教職員は新年度の準備などの業務がいくらでもあるが、それでも授業のある時期と比べて休暇は取りやすい。

 天野はかぶりを振った。

「帰省するような家もないんで」

 そういえば、家族の話などは一度も聞いたことがなかった。どんな家庭で育ったらこんなに人とずれた感覚になるのだろう、と思わないでもなかったが、なんだかそれ以上踏み込んではいけないような雰囲気だ。

「三月になると大学の改修工事が始まるんで、仕事が忙しくなると思うんです。家の修繕はその前に頼まないと、と思って」

 説明しながら、気が重くなる。結局施工業者は澤井建設に決まり、大学側の窓口は智志が担当することになった。まさか、痴情のもつれで辞めた職場なので担当を外してください、とは言えなかった。

「そういえば四号館にも工事の案内が出てました。壁を張り替えるんでしたっけ」

「そう。壁材を難燃性のものに交換して、防災設備も一新します」

 空になったマグカップを手に、天野が立ち上がって、部屋の中へ入ってくる。

「何か、心配事でも?」

 思い切り眉間に皺を寄せていた顔を隣から覗き込まれて、智志は慌てた。

「大丈夫です」

 つい言ってしまってから、口癖だと指摘されたばかりなのを思い出す。

「智志さん」

 からかわれるかと思いきや、天野は真顔のままだ。

「大丈夫じゃないときは、一人で無理しないでくださいね」

「無理なんて……」

「してるでしょう。最初に会ったときも、どう見ても大丈夫じゃなさそうなのに、『大丈夫です』って言い張ってたし」

 何も言い返せない。なんだか逃げ道を封じられたような思いで、唇を噛む。

「ほら。そうやって、唇を噛んで俯いて。道に迷ってたときも、同じ顔してましたよ」

 思わず、口元に手をやってしまった。

 大丈夫じゃない、と打ち明けてしまったら、どうなるだろう。このマイペースで天然で、いつもどこかしら会話が噛み合わない人なら、他の人とは違う反応をするだろうか。

 きつく結んでいた唇を、恐るおそるほどいてみる。

「じゃあ……道案内、頼んでもいいですか。さっき言ってた、紅茶専門店まで」

 遠慮がちに頼むと、天野がにこりと笑った。

「もちろん」

 天野は、ダイニングルームのキャビネットから、自分が持ち込んだ住宅地図を取り出し、テーブルの上で開く。智志が持ってきた紅茶の缶に記されていた住所を確認する。

「多分、ここですね」

 智志は天野の手元を覗き込んだ。駅の反対側で、天野が言っていたとおり隣は郵便局のようだ。道を挟んだ向かいに、例のバツ印と桜の文字の書き込みがある。

「あ」

 突然、静電気でも走ったかのように、天野がぱっと地図から指を離した。

「ごめんなさい、智志さん。俺、その店には一緒に行けないんだった」

「え」

「紅茶、別の銘柄でもよければ、今度俺がどこかで買ってきますから」

 落ち着かなげに立ち上がると、飲み終わったマグカップをそそくさと台所へと下げていく。智志は、住宅地図を開いたままのテーブルの脇に、一人ぽつんと取り残された。

 大きな窓から燦々と日が降り注ぐダイニングルームが、急に寒々しい空間に様変わりしてしまったように感じられる。

 今の天野の不自然な態度は、なんだったのだろう。自分は何か、天野に避けられるようなことをしただろうか。

 知らないうちに間違った道に入り込んでしまったような心もとなさに、小さく身を震わせる。地図のとおりに歩けないように、自分は誰かとの距離の縮め方もわからない。

 掃き出し窓から差し込む日差しが、スリッパの爪先をかすめている。こんな天気のいい日に、天野と二人で散歩できたら楽しかっただろうな、と想像してしまう。

 智志は諦めたように首を振ると、住宅地図をキャビネットに戻した。

 

 翌週から、改修工事業者との本格的な打ち合わせが始まった。

「やはり、実際に研究室を使われている方々に直接ご意見を伺った方がいいですね」

 施行会社の営業担当者に言われて、課長の吉岡が頷く。

「朝倉君、案内をお願いできるかな」

「はい」

 智志は、鉛を呑んだように重たい胃を抱えながら、資料のファイルを手に席を立つ。その表情を誤解したのか、吉岡がまぜっかえす。

「迷子になったら、電話するんですよ」

 智志はなんとか笑顔を返した。今の職場はこうして、智志の方向音痴をあっけらかんとネタにしてくれる。気の重い仕事を担当する中で、その明るい雰囲気だけが救いだ。

「相変わらず道に迷ってんのか」

 事務棟のエレベーター内で二人きりになるなり、智志の胃痛の原因が馴れ馴れしく声をかけてきた。澤井建設の営業担当者の葛木秀文(かつらぎひでふみ)だ。

「校内で迷ったりはしないので、ご心配なく」

 智志が生真面目に返事をすると、葛木はにやにやと笑って肩をすくめる。

 葛木は、智志が澤井建設で最初に配属になった関西本社の先輩だった。そして、智志が初めて関係を持った男でもある。

「朝倉って、時々すげー色っぽい顔でこっち見るなって思ってたんだ」

 ある日、葛木に頼まれた英語の資料の翻訳のために二人で残業していたとき、耳元でそんなことを囁かれた。咄嗟にごまかすことができず、耳まで赤くなってしまった。

「ほら、その顔だよ。くそ、可愛いなお前」

 そんな智志を、葛木はキスひとつであっさりと落とした。

 葛木は、本社の若手営業社員の中でも特に優秀だという評価を受けていた。仕事ができるだけでなく、ちょっと野生的だが人目を引く容姿で、社内の女性社員たちからも熱い視線を注がれている一人だった。そんな葛木が自分を選んでくれたことが、智志には信じられないような幸運に思えた。

 だが、舞い上がっているのは自分だけだと気付くのに時間はかからなかった。

 智志の他にも相手がいることを、葛木は隠そうともしなかった。目の前で電話に出られて、あけすけな会話を聞かされたこともある。恨めし気な顔をすると、なだめるような甘いキスをされて、強引に抱かれる。そんなことの繰り返しだった。

 振り回されて傷ついて、でも捨てられるのが怖くて、求められると拒絶できなくて。そんな自分が嫌になって、自信を失くして、それでますます葛木に何も言い返せなくなって。恋愛ってなんてしんどいんだろう、と思っていた。

 だから、葛木の東京支社への転勤が決まったときは、寂しいよりもむしろほっとした。もう二度とあの人に振り回されなくていいのだと思うと、繋がれていた鎖がほどけたような安堵を覚えた。

 それなのに、こんなところでまた捕まってしまうなんて。

 現況の確認のために、四号館の主な研究室を葛木と回りながら、智志は永遠に出口の見つからない迷路の中に閉じ込められてしまったような気がしてくる。

 息が苦しく、軽い眩暈まで感じる。立ち止まって深呼吸をしようとしたときだった。

「智志さーん」

 天野の声だった。

 振り向くと、半開きの扉から廊下に身を乗り出すようにして、天野が手を振っている。

 ここが三階の天野の研究室の前だということさえ、すっかり意識から飛んでいた。

「職場では苗字で呼んでくださいってば」

 慌てて戸口まで引き返すが、天野はお構いなしだ。

「今日、一緒に帰りませんか」

「は? なんで先生と」

「だって、帰る家一緒じゃないですか」

「そういう話をしてるんじゃなくて」

 天野本人は、理路整然と会話を進めているつもりなのだろう。

「智志さん、駅前からバスでここまで通勤してるでしょう」

「それが何か?」

「うちからだと、直接歩いた方が早いですよ」

 それは知っていたが、自力で辿り着ける自信がなくて、いつもバスを利用していたのだ。

「道順、教えます。そんなに難しくないですから。終バスも早いですし、仕事が遅くなって間に合わないと困るんじゃないですか」

 三月になったら残業が続くかもしれない、と言ったことを気にしてくれていたのか。

「この前、紅茶の店に案内できなかったから、そのお詫びです」

 どうやらあのときの態度も、距離を置かれたというわけではないらしい。智志は少し安心する。

「……それじゃ、お言葉に甘えて」

 天野の顔が、ぱあっと明るくなった。

「よかった。智志さんの仕事が終わったら、携帯に電話ください。設備課まで出向きます」

「ちょ、それはやめてください」

 智志は慌てた。

 何しろ天野がこの調子で、大学でもやたらと声をかけてくるので、その度に吉岡や設備課の同僚に「天野先生に気に入られてますね」とからかわれるのだ。今の職場の雰囲気が気に入っているだけに、変な噂になって気まずくたりしないかと、神経を尖らせてしまう。

「僕がこっちまで来ますから」

「じゃあ、ここの非常階段の下で」

 天野はにこにこ顔で手を振る。

「お仕事頑張ってくださいねー」

 呑気な声に、ひととき、憂鬱な仕事のことを忘れそうになる。

 天野と噛み合わない会話を交わしていると、仕事のストレスが簡単にどこかへ行ってしまう。彼と呑気にお喋りをしながら一緒に歩いて帰れたら、見知らぬ住宅街の道も迷路には思えなくなるのだろう。あの洋菓子店は夜遅くまでやっているようだから、間に合うようなら寄り道してもいい。シュークリームを二つ買って、食後のデザートに、天野と二人で食べるのだ。

 想像して、沈んでいた心が、ふわりと軽くなっていく。

 だが、そんなほんわりと温かな想像を、隣にいる葛木の含み笑いに掻き消された。

「同棲中の彼氏と、職場で堂々といちゃつかれるとはな。朝倉も隅に置けないな」

 棘を含んだ声だ。切れ長の目が、獲物を狙うようにこちらに向けられている。

「あれはただの下宿人です。祖母の家を相続したら、おまけでついてきたんです」

「ああ、なんでも、昭和初期の貴重な建築らしいな」

 智志はぎくっとした。

「そう驚くなよ。工藤邸って言ったら、うちの支店の管内じゃ有名だぞ」

「でも、どうして僕がそこを相続したと……」

「お前がここで長年教えてた工藤教授の孫で、今はその跡を継いで古い洋館に住んでるって、課長さんが言ってたからな」

 思わず頭を抱えそうになった。吉岡は面倒見のいい気さくな上司だが、秘密主義とは無縁の人物だ。抜け目ない葛木がその気になれば、ここでの智志の日常について聞き出すのは造作もないだろう。

「担当するだけでステイタスになりそうな物件だよな。なあ朝倉、俺が住宅リフォーム課に異動になったら、俺にあの家の修繕、担当させろよ」

「お断りします」

 即答した。

 葛木の眉が、意外そうに持ち上げられる。

「おい、つれないな」

 軽口めいた口調と裏腹に、自分が耳にしたことが信じられない、という顔だ。それはそうだろう。こんな風に葛木の要求を撥ねつけたことなんて、かつて一度もなかった。

 今となってはむしろ、この人に嫌われたくないという一心で言うことをきいていた自分が不思議に思える。

「僕と仕事で関わるとろくなことにならない、って言ったのは、葛木さんですよ」

 あの言葉に自分がどれだけ傷ついたか、この人は知っているのだろう。相手を傷つけて、それでも自分から離れていかないことを確認して、満足する。そういう人だ。

「……ふうん。お前、変わったな」

 葛木の低い声には、どこか剣呑な響きがあった。

 不穏な予感に背筋がぞくりと冷えたが、智志は敢えてそれに気付かないふりをした。

 

 七時過ぎに仕事を終え、四号館へと向かっていると、後ろから声をかけられた。

「朝倉」

「……葛木さん」

 葛木は、その後も一日、工事の詳細を詰めるのを手伝ってくれた。少なくとも仕事の上では、非常に頼りになる相手だ。ほとんどの研究室は春休み中も何かしら稼動しているので、その合間を縫って工程を調整するだけでも一苦労だったのだが、現場仕事を担当した経験のない智志では気付かないような部分を細かく指摘してもらった。

「今日は、ありがとうございました」

 そう頭を下げてそのまま別れようとしたのだが、葛木は、営業車が停めてあるはずの駐車場の方へは向かわず、四号館まで智志についてくる。

「例の彼氏と待ち合わせか」

「だから、そんなんじゃありませんって」

「ということは、遠慮する必要はないんだな」

 葛木が、喉の奥で小さく笑う。

 首筋の毛がちりちりと逆立つような気がする。そこをいきなり冷たい指先で撫でられ、細い髪をさらさらと掻き上げられた。

 智志は鋭く息を呑んで、その手を振り払う。

「何するんですか」

 葛木は、そんな智志の反応を面白がっているような表情だ。

「なあ、今からホテル行くか」

 智志は耳を疑った。

「お前の抱き心地が、忘れられなくてさ」

「悪趣味な冗談はやめてください」

 顔色を変えた智志を見て、葛木は唇の端にいびつな笑みを浮かべる。

「ああ、お前の家でもいいな。噂の洋館を拝ませてくれよ」

 寒さのせいではなく、鳥肌が立った。

 隅々まで温かな思い出が詰まったあの家。まだ自分を嫌いになる前の自分を思い出せる、唯一の居場所。そんな大切な場所を、この人に土足で踏み荒らされるのかと想像すると、吐き気がした。

「下宿人がいるって言ったでしょう」

「別に、そういう関係じゃねえんだろ。見せつけてやりゃいい」

 天野に? この人といるところを?

 丸い眼鏡の奥で垂れ目をくしゃりと細めて、智志さん、と笑いかける柔和な顔を思い浮かべる。智志がこんな相手と関係を持っていると知ったら、あのおおらかな笑顔も、軽蔑や嘲笑の表情に変わるのだろうか。

「ああ、そうか。お前、周りには隠してんだったな。男と寝てるってこと」

 非常階段の下に立って、葛木は取り出した煙草に火をつけた。わざとらしくゆっくりと煙を吐いてから、智志の顔を覗き込む。

「前の職場でゲイバレして居づらくなってやめたとか、噂になったら困るよな、そりゃ。まして今、男と同棲してるんじゃ、申し開きもできないよなあ」

「やめてください」

 顔から血の気が引いた。

 前の職場で経験した悪夢が甦る。

「ほら、お前はそんな風に、怯えた顔をしてる方が可愛いぜ」

 煙草を持っていない方の手で、顎の下をぐっと掴まれた。舌なめずりでもしそうな葛木の顔が近づいてきて、身の内を悪寒が走る。

 そのときだった。

「智志さん、お待たせ」

 いきなり肩を掴まれ、葛木の手から引き剥がされた。

「せ、先生?」

 いつの間に非常階段を下りてきたのか、後ろに天野が立っていた。

「おい、なんだお前は」

 不満そうな声を上げる葛木を無視して、天野は智志の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫です」

 智志は、唇を噛んで俯いた。

 どこから話を聞かれていたのだろう。

「おい、朝倉。行くぞ」

 葛木が苛々と声をかけてくる。智志はびくりと身体を引き攣らせた。無言の圧力に屈して、声の方へと踏み出しそうになる。

 そのこわばった上体を、ぐいと引き寄せられた。

「智志さん」

 天野の腕だった。

 智志の身体を支えるように背中に回され、肩を包み込まれる。

 どくん、と心臓が震えた。

「煙草は喫煙所でお願いします」

 天野は片腕で智志の肩を抱き寄せたまま、葛木の方に顔を向ける。

「大学構内は原則禁煙です。喫煙所は、学食の裏と七号館の端にあるんで、吸うなら今すぐそちらに移動していただけますか」

 つけつけと言いながら、まだ火のついたままの葛木の手元の煙草に目をやる。

「な」

 二の句が継げずにいた葛木だが、天野が智志の身体を庇うようにして離そうとしないのを見ると、ち、と腹立たしげに舌打ちをした。

 吸いさしの煙草を足元に落とし、革靴の先でぐりっと踏みにじる。

「何がただの下宿人だ。莫迦にしやがって」

 吐き捨てるように言うと、そのままきびすを返して大股に立ち去っていく。

「智志さん。帰ろう」

 肩に回された天野の手に、きゅっと力が込められる。

――男と同棲してるんじゃ、申し開きもできないよなあ。

 さっきの葛木の嘲笑うような声が耳の奥に甦って、智志はぞっとした。

 無理やり、天野の腕から身を離す。

「すみません。やることを思い出したので、やっぱり先に帰っててください」

「え」

 もしも今の職場で、智志が同性愛者であると噂になったら、天野が巻き添えを食う。あの家に一緒に住んでいることが知れて、ホモの大学職員と同棲している教員だなどと陰口を叩かれるようになったら、大学での天野の立場も危うくなるかもしれない。

 足元から震えが這い上がってくる。

「智志さん、寒いんじゃないですか」

「大丈夫です」

 再度肩に伸ばされてきた天野の手を、ぱしりとはたく。既に辺りは真っ暗だ。特に、この校舎の北端は外灯もなく、暗がりになっている。それでも、もし誰かに見られたらと思うと気が気ではない。

 震える足を、急いで事務棟の方へ向けた。天野がその後を追ってくる。

「ま、待ってください。何か怒ってますか」

「怒ってません」

 四号館の西側に出た。入口のところに立つ桜の木が、外灯に照らされているのが見える。

 その瞬間、背後で、天野の足がぴたりと止まる気配がした。

「わかりました」

 諦めたような小さな溜息が聞こえる。

「でも、あんまり無理しないでください」

 そのまま、足音が遠ざかっていく。

 非常階段のある四号館の北端からは、大学の東門が一番近い。バスを使わないで帰るなら、そこから出るのだろう。一緒に行けなくてごめんなさい、と、心の中で詫びながら、智志は正面にそびえる桜の木の梢をぼんやりと見上げた。そろそろ蕾が膨らんできた枝の先が、風に揺すられている。

 そういえばバス停のある正門にも、ここと同じような、大きな桜の木があった。

 何か天野に確かめたいことがあったような気がして、智志は非常階段の方を振り返った。こちらに背を向けたままの天野の後姿が、ちょうど校舎の陰へ消えていくところだった。

 

 最終のバスで大学から駅まで帰りながら、智志の心は重たく沈んでいた。

 先程葛木の携帯に電話をした。どうか変な噂を流すことだけはやめてほしい、と歯を食いしばって懇願すると、電話の向こうから満足そうな声が聞こえた。

「朝倉。お前、やっぱり可愛いな」

 すぐにも呼び出されそうになるところを、せめて今度の改修工事が終わるまでは待ってくれ、とようやく頼み込んだ。

 駅前でバスを降り、家までの道を辿る。商店街をまっすぐ。既にシャッターの閉まった古本屋を左折。

 重い足取りで細い道を辿りながら、以前住宅街の真ん中で迷って、パニックになったときのことを思い出してしまう。

 あれは、葛木に通訳代わりを頼まれたときのことだった。人気女性キャスターがイギリス人実業家と結婚し、古い日本家屋を買い取って住むことになって、リフォームの見積を数社に依頼している件だった。現況を見ながらの説明に同行してほしいと言われていたのだが、当日、葛木は緊急の別件が入ってしまい、急遽先に一人で向かうことになった。

 ところが、初めて訪れる住宅街で智志は迷いに迷ってしまった。約束の時間に大幅に遅刻して先方に迷惑をかけ、結局、その件は他の業者に決まった。

 話題性のある仕事に気合を入れていた葛木からは、えげつないほどの軽蔑のまなざしを向けられた。朝倉のせいで恥をかいた、お前と仕事で関わるとろくなことにならない、と、大勢の同僚の前でなじられた。

 防災設計科の朝倉智志はホモらしい、という噂が立ったのは、葛木がその後東京支社に異動になった直後だった。噂の出処がどこかは察せられたけれど、既にどうすることもできなかった。

 男性社員に話しかけると、周りから意味ありげな視線を何度も向けられ、次からはその相手に露骨に避けられた。上司にも、もっとコミュニケーションに気を遣え、などと嫌味を言われた。何をしても、周囲から侮蔑と嫌悪の目を向けられるような気がした。ストレスで眠れなくなり、仕事にも影響が出て、それがまた不安を煽るという悪循環で、結局会社を辞める羽目になった。

 道に迷うことへの恐怖心は一層強くなった。

 自分はどこで間違えたのだろう。どこでおかしな脇道に入り込んでしまったのだろう。何度考え直しても、いつもわからない。

 家の門の前で鍵を取り出そうとした拍子に、鞄の中からひらりと紙が落ちる。慌てて拾い上げると、最初に天野が渡してくれた住宅地図のコピーだった。

 ところどころに書き込まれた「桜」の文字に目が吸い寄せられる。

「……そうか」

 薄々察していたことが確信に変わる。

 天野は桜を避けている。

 いつも非常階段を使うのも、バスで通勤しないのも、地図に桜の木が示してある場所に行かれないのも、すべて、桜のあるところを通らないで済むようにするためだ。

 智志は門の脇に立ったまま顔を上げた。屋根越しに空を遮る枝は、もうそこにはない。

――もう、ここに桜は咲かないんです。

 祖母は知っていたのだろうか。だから、天野のために桜の木を切ったのだろうか。

 玄関には明かりがともっていた。靴を脱ぎながら、下駄箱の上に置いてあるメモに目を留める。

「遅くまでお疲れさまでした。買っておいたシュークリームが冷蔵庫にあるので、夜食にどうぞ」

 天野の字を目にするのは初めてだ。達筆ではないが、一文字ずつ丁寧に書かれた、角の取れた優しい字だ。

 手にしたメモを何度も何度も目で辿っていると、吹き抜けの上から声が降ってきた。

「智志さん、おかえり」

 階段の上から、天野がこちらを覗き下ろしている。

 智志は、重たい足を一歩ずつ持ち上げるようにして階段を上がっていく。

「先生」

 二階の短い廊下で、天野と向き合った。

「どうして、ここから引っ越せないんですか」

「え」

「庭の桜の木を切ったことと、何か関係があるんですか」

 眼鏡の奥の、少し瞼の重たそうな目をじっと見据える。天野はしばらく黙っていたが、観念したように溜息をついた。

「そうです。俺は、桜が駄目なんです」

「アレルギーか何かですか」

 あまり聞いたことがないが。

 天野は首を横に振る。

「そうじゃなくて、とにかく桜が怖いんです。花が咲いていなければまだ何とかなるんですが、それでも下を通ったりすると、頭痛がしたり気分が悪くなったりする。満開のソメイヨシノなんて、見ただけで動けなくなります」

 一種の恐怖症だろうか。それでは、桜のあるところには住めないだろう。

「実はここからは、駅にも、スーパーにも、銀行にも、そして大学にも、一度も桜の木を視界に入れずに歩いて行けるんです。だからここでなら、何とか生活ができます」

 そういうことだったのか。まさか、引っ越せないのが桜のせいだとは想像もしなかった。

「それなら、僕が出て行きます」

 きっぱりと断言すると、天野は一瞬、虚を突かれた顔になる。

「……どうして」

「先生と一緒には住めないから」

 呆然とした様子の天野の前を通り過ぎて、廊下の奥の自分の部屋に向かおうとしたが、引きとめるように手を握られた。

「俺、何か智志さんを怒らせるようなこと、しましたか」

 天野の手は大きくてあたたかい。振りほどくのがつらくなるほど。

「先生は悪くない。僕の問題です。だから、僕の方が出て行きます」

「俺じゃないなら、あの人が原因ですか」

「え」

「今日、あの人に、何か言われたんですか」

 智志は、俯いて唇を噛んだ。忘れていた。天野は変なところで察しがいいのだった。

「何も言われてません。大丈夫です」

 握っていない方の天野の手がそっと伸ばされ、頬に触れてくる。

 丸い眼鏡の奥からまっすぐに見つめてくる目に、今日は怖いほど真剣な光がある。

「こんな風に唇を噛んで『大丈夫』って言い張る人が、大丈夫なわけないじゃないですか」

 きつく結んだ唇を、天野の指先がそっと撫でていく。

「どうして俺とは住めないのか、教えてください」

 智志は、見えない手で肺を握り潰されていくような溜息をついた。

「ごめんなさい。教えられません」

 指を一本ずつもぎ離すように、握られた手をほどく。

「智志さん……!」

 廊下の奥の、艶の出た真鍮のドアノブのついた扉を開け、自分の部屋の中へと身体を滑り込ませた。

「やっぱり俺じゃ、あなたの特別な相手にはなれませんか」

 戸の向こうの天野の声が、背中越しに胸を抉る。

 そんなの、もう、とっくになっている。

 この家のダイニングテーブルで向かい合って食事をしたり。掃除を終えた庭を眺めながらコーヒーを飲んだり。一緒に外を散歩して、お気に入りの店でシュークリームを買ったり。そんなことをしたいと思える相手は、他にいない。

 道がわからなくて困っている智志のことを莫迦にするどころか、自ら道案内を申し出てくれた。迷路に迷い込んだように苦しくなったときは、いつもどこからともなく現れて助け出してくれた。

 本当は大丈夫じゃない、と気付いてくれた。

 そんな人は、他には誰一人としていなかった。

 そんな人に、自分が経験したような嫌な思いはしてほしくない。

 今の自分は、この家の桜の木と同じく、天野の平穏な生活を乱す存在だ。

 非常事態、と言って引き返していく天野の背中を思い浮かべる。彼の桜にだけは、なりたくなかった。

 

 引越し先を探そうと決意はしたものの、三月に入って四号館の改修工事が本格的に始まると、智志は仕事に忙殺されるようになった。

 どれほど入念に練ろうとも、計画はあくまでも机上の理屈に過ぎないと思い知らされる。毎日何かしら予想外のことが起きる。だが、澤井建設の現場担当者は智志のことを明らかに軽んじていて、細かい申し入れなどをなかなかすんなりと聞き入れてくれない。かといって、些細なことで課長の吉岡の手を煩わせるのも気が咎め、結局智志は余計な仕事を背負い込む羽目に陥っていた。

 その日も、春休み中の土曜日だが四号館の工事が大詰めなので、朝から大学へ行くことになっていた。

 一人で簡単な朝食を済ませて家を出る。天野も、授業がない間は研究がはかどると言って、このところは連日早朝から深夜まで大学の研究室に籠っている。

 正門前のバス停を降りると、智志は敷地をぐるりと回り込んで東門に向かった。今日の作業が始まる前に、現場の四号館の状況を確認しておこうと思ったのだ。

 異変に気付いたのは、門を入ってすぐだった。

 柔らかい春の朝の空気の中に、鼻を鋭く刺すような匂いが混じっている。急ぎ足で四号館の北端に向かった智志は、息を呑んでその場で棒立ちになった。

「火事……?」

 非常階段の下で、火が燃えている。

 階段下は工事の臨時資材置き場になっていて、取り外された古い壁材などが乱雑に積み上げられていた。その合間から炎と煙が上がり、ぱちぱちと何かが爆ぜる音が聞こえる。

 辺りに人影はない。まだ作業前で、職人も全員、プレハブの仮設詰所の方に引き払っているようだ。

 半ば無意識のうちに、非常階段の三階の扉を見上げたときだった。

 腹の底まで響く轟音と共に、燃えていた廃材の向こうから大きな火柱が上がった。

「っ!」

 智志は咄嗟に地面にしゃがみ込んだ。その体勢のまま振り向くと、校舎北端の一階の窓の奥で火の手が上がっているのが見える。あの教室は実習室だっただろうか。何か可燃性のガスでも置かれていたかもしれない。

 震える手でジャケットのポケットから携帯を取り出し、吉岡課長の番号を押す。

「やあ朝倉君、週末なのに朝からご苦労さま」

「吉岡さん、四号館が火事です」

「火事?」

 吉岡の声が一気に緊迫する。

「工事中なので、警報やスプリンクラーが正常に作動しないかもしれません。すぐに消防署に通報してください」

 既に智志は、四号館の正面入口に向かって走り出していた。

 一階と二階は、昨日から壁の張り替えが始まっていたので使用禁止となっているが、三階から上は普通に人が出入りしているはずだ。

 智志は建物内に駆け込んだ。壁に設置してある火災報知機のプラスチック板を割ってスイッチを押す。幸いこれは稼働していたようで、たちまち建物中に警報が鳴り響く。

「火事だ! 逃げろ!」

 大声で叫びながら、階段を一気に三階まで駆け上がる。何人かばたばたと廊下を走って来るのとすれ違いながら、天野の研究室へと向かう。

「先生!」

 研究室の扉から天野が顔を出したのを見た瞬間、安堵でその場にしゃがみ込みそうになった。

「え、智志さん? 大丈夫ですか?」

「先生、早く逃げて!」

「こんなところで何してるんですか」

「この建物の一階が燃えてるんですよ!」

 いつものような噛み合わない会話を面白がっている余裕は、今はない。

「ごちゃごちゃ言ってないで、早く」

 突っ立ったままの天野の手を掴んだ。警報がけたたましく鳴り響く中、今昇ってきた階段を早足で駆け下りる。

「すみません、智志さん」

 だが、二階まで下りたところで天野が急に立ち止まった。掴んでいた智志の手をするりと離してしまう。

「俺は一緒に行くわけにいきません」

「はい?」

「桜の下は、通れないから」

 どこか他人事のようなその言い方に、智志は愕然とした。

 正面入口の桜の手前で、天野が足を止めて引き返したことを思い出す。今年の春は気候が穏やかで連日気温も高く、ここの木も、三月末だが既に三分咲きくらいにはなっている。

 だが。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」

 遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる中、天野は頑固に首を横に振る。

「お願いです、智志さんは一人で避難してください。俺はそっちには行かれない」

「だって、先生はどうするんですか。燃えてるのは非常階段の下なんですよ?」

「それなら、俺はこの建物からは出られない」

 淡々とそう言うと、天野はあろうことか、階段を再び上がって行こうとする。

「ちょっと、何考えてるんですか! 焼け死にたいんですか」

 引き留めようと掴んだ手を振り払われる。

「智志さんは、早く逃げて」

「先生!」

「俺が桜のせいで死ぬのは仕方ないんです」

 口調はいつもの呑気な天野のままだ。だが、言っていることはとても正気とは思えない。

 智志は咳き込んだ。気付かないうちに、煙が二階の廊下にも回ってきていた。

 火事では炎よりも煙が怖い、というどこかで読んだ知識が頭をかすめる。智志はポケットから取り出したハンカチを、鼻と口の上から結んだ。続いてジャケットを脱ぐ。

 もう一刻も猶予はない。そのジャケットを手に階段を二、三段駆け上がると、長身の天野の頭の上からすっぽりと被せた。

「うわ、何を」

「桜が見えなければ、いいんでしょう」

 そのままジャケットで彼の頭部を覆い、袖の部分を回して結んだ。

「いいですか、僕の手を絶対に離さないでください」

「智志、さん?」

「早く!」

 巻きつけられたジャケットに視界を完全に奪われた天野の手を引いて、智志は階段を一階へと下りる。転ばないように慎重に、でもできるだけ素早く。

「次で最後の段です」

 一階には既に煙が充満していたが、幸い、階段のすぐ前が正面玄関だ。廊下を突っ切るだけで外に出られる。

「息止めて、姿勢低くして!」

 天野とともに、建物の外に飛び出した。

 出口のところで盛大に咳き込む。だが、まだここで立ち止まるわけにはいかない。すぐ脇にそびえている桜のごつごつとした木の肌が、妙に不吉なものに感じられた。

――俺が桜のせいで死ぬのは仕方ないんです。

「冗談じゃない」

「智志、さん?」

 天野の手を、もう一度、強く握り直す。

「あなたを死なせるくらいなら、桜なんて一本残らず切り倒してやる」

 涙声になっているのは、煙が目に滲みたせいだ。

「あの……智志さん……」

「僕がいいって言うまで、絶対に手を離さないでください」

 断固として言い渡すと、桜が視界に入らなくなるところまで天野の手を引いていった。

 

 二人とほとんど入れ違いのように消防車が到着し、火は無事に消し止められた。建物の一階の隅が激しく焼けたが、幸い、逃げ遅れたり怪我をしたりした人間はいなかった。

 事務棟は大混乱に陥った。吉岡や設備課の職員とともに、智志も対応に追われる。どうせ研究室は使えないからと、天野も事務方の仕事を手伝ってくれる。

 四号館は全館立ち入り禁止となり、周囲にはカラーコーンが置かれてテープが張られた。現場検証によれば、煙草の不始末が直接の原因ではないかとのことだった。

 そんな中、事故の報告を受けたらしい営業担当の葛木が、泡を食った様子で大学までやってきた。設備課の部屋の前の廊下で鉢合わせをした智志の腕を掴んで、すごい剣幕で端の方まで引きずっていく。

「朝倉、また俺の仕事を台無しにしてくれたな。お前がちゃんと現場を監督していたら、こんなことにはならなかったんだぞ」

 今にも自分に掴みかからんばかりの葛木を、智志は冷ややかに見返した。

「また、噂を流して僕に仕返しをしますか」

「な」

 鼻白んだ様子で、葛木が一歩後ろに下がる。それを追い詰めるように、智志は足を踏み出した。

「構いませんよ。好きなだけ卑怯な陰口を叩けばいい」

 葛木が引き攣った笑顔を作る。

「随分と強気だな。ゲイの職員が同じ大学の教員といかがわしいことになってるなんて話が広まったら、大学側も困るんじゃないのか」

 その顔を睨みつける。

「彼は僕がゲイだと知って、誤解を招く恐れがあるから同居を解消したい、って言ってきました。近々、僕はあの家から引っ越します」

 そういうことにしておけば、何か自分のことが噂になったとき、少なくとも天野は蚊帳の外にいられる。

 そう思ったのだが。

「なるほど、そういうことだったんですか」

 背後から声がしたと思うと、廊下の角を曲がってきた長身の男が、智志と葛木との間にすっと立ちはだかった。

「先生!」

 天野は葛木よりもさらに四、五センチ背が高い。その顔を見下ろしながら、天野が口を開く。

「あなた、工事会社の営業の人でしょう。この前、今日の火事の火元になったところで、煙草を吸ってましたよね」

 その言葉に、葛木が即座に噛みつく。

「言いがかりをつける気か。俺は今朝は仕事が休みで、ここには来ていない。煙草を吸ってたのは、現場の作業員か誰かだろう」

「現場検証をしてた警察は、必ずしもそうは考えないかもしれませんけどね」

 葛木がさっと顔色を変えた。天野が畳みかける。

「現場作業員だって言い分があるでしょうね。営業担当者がルールを守っていないのに、自分たちだけ厳しく罰せられるのか、って言われたら、会社だって困りますよね」

「くそ……俺に罪を被せようってのか」

 怒りか怯えか、葛木の声が震えている。

「罪を被せようとしてるのはあなたでしょう」

 天野は、智志が見たこともないような険しい顔になった。

「自分が失敗した腹いせにこの人のことを傷つけるのは、俺が許さない」

 そう言い放つと、智志の肩に手を回して、ぐっと自分の方に引き寄せる。

「二度とこの人に手を出すな」

 鈍く光る刃物のような凄みのある声だった。その迫力に圧倒されて何も言えずにいる葛木の顔に、天野が指を突き付ける。

「この人に関しておかしな噂が流れたりしたら、煙草の件を警察と会社に証言する」

 青ざめた顔で天野と智志を見ていた葛木が、諦めたようにがくりとうなだれた。天野はそんな葛木にはもう目もくれず、智志の肩を抱いたまま設備課の部屋の方へと戻っていく。

「あ、あの、先生」

 智志が恐るおそる声をかけると、部屋に入る直前に手を離した。

「智志さん」

「はい」

 離した手で、もしゃもしゃの髪をがりがりと掻く。

「俺、同居を解消したいなんて一言も言ってません」

「あの、あれは」

「今日は、智志さんの仕事が終わるまで待ってます。バスがなくなっても」

 智志を見下ろす天野の目が、ゆっくりと細められていく。目尻に皺が寄る。

「俺と一緒に帰ってください。あの家に」

 智志は黙って頷いた。

 

 結局、仕事から解放されたのは夜の十時過ぎだった。

 ずっと事務の仕事を手伝ってくれた天野とともに、四号館の北を回って東門へと向かう。黒焦げになった廃材や、無残に焼け爛れた壁や非常階段が目に入って、葛木の非難もあながち的外れではない、と落ち込んでしまう。

「僕がもっとしっかり現場を監督できていたら、こんな事故は起きなかったかもしれない」

 後悔しても、もう遅いのだが。

「智志さんて、自分を責めるばかりで、絶対に他人(ひと)のせいにしないですよね」

 そう言いながら、天野が紙を一枚手渡してくる。ネットからプリントアウトしたらしい地図に、手書きで赤い線が引いてある。大学から家までの道のりだ。

「大丈夫じゃないときほど『大丈夫』って言っちゃう人って、そうですよね。どんなに辛いことがあっても、全部自分で引き受けようとするから」

 天野は、東門を出て右方向に歩き出す。地図を確認しながら、智志は慎重に返事をした。

「そんなカッコいいもんじゃないです」

 自分はただ単に、人に疎ましく思われるのが怖いだけの臆病者だ。

「でも、子供の死を自分の家族のせいにするような人間だっている」

 死という言葉の重みに驚いて、智志は思わず、隣を歩く長身の男を見上げた。

 天野は、何かを決意したような顔だ。

「五歳違いの弟がいたんです」

 それは初耳だ。五歳下ということは、自分と同い年か。

「俺が小学校六年生のときに死にましたけど」

「え」

 ゆっくりと歩を進めながら、天野は静かに語り始めた。

 弟が小学校に上がったばかりの春だったこと。学校からの帰り道、弟にせがまれて、桜の綺麗な川辺まで寄り道したこと。遊びに夢中で、目を離した隙に弟は雨上がりで増水していた川に落ち、助からなかったこと。

「弟の死を、父は、子供二人を迎えに行かずに寄り道させた母のせいにした。父に責められた母は、言いつけどおりに弟の手を繋いでいなかった俺のせいにした」

「そんな……ひどい」

 思わず声を上げてしまう。天野は悔しそうな顔を、無理に笑顔に変える。

「俺は、誰のせいにもできなかった。だから桜のせいにした」

 天野は足を止めずに、淡々とした口調で語り続ける。

「桜さえ咲いていなければ、あの川まで行くこともなかったし、その川に弟が落ちることもなかった。そんな風に自分に言い聞かせないと、罪悪感に押し潰されそうだった」

 道なりに家の方へと歩を進める天野の足取りは、あくまでもゆったりと優しい。

「俺の桜恐怖症が判明すると、両親は今度は互いに相手を責め合った。結局、俺の高校卒業直後に離婚しましたよ。その後は一度も顔も見ていない」

 智志はなんと声をかけたらよいかすらわからず、ただ黙って天野の隣を歩いていた。

「桜を見るたびに、弟のことを思い出す。怖かったろうな、苦しかったろうな、って思う。罵り合ってた両親の顔も浮かぶ。忘れたいのに、どうしても忘れられない。この罪から俺は一生逃れられないんだ、って思い知る」

 長い脚が大きな歩幅で、それよりも狭い智志の歩幅を守るように前後する。優しい歩調とあまりにも不釣り合いな、自分を追い詰めていくような言葉に、胸が詰まる。

「でも、そんな俺を救ってくれたのが、工藤教授夫妻だった」

 天野の口調が一転して柔らかくなった。

「俺、最初にあのアパートに越してきたとき、隣の家の満開の桜を見てパニック発作で倒れたんです」

「あの庭の、あの桜?」

 道の上に大きく張り出していた桜の枝を思い出して、智志は驚く。

「そう。そうしたら、陽子先生は何も事情を聞かないまま、即座に桜の木を切る手配をしてくださった。工藤教授には、君はこの学問に向いてる、なんて励まされて、桜を避ける最短距離のルートを探索するプログラムなんかを一緒に書かせていただいた。お二人は近所を散歩しては、桜を見つけると住宅地図に書き込んでいってくださった。こうしてこの道を帰れるのも、お二人のおかげなんです」

 天野が、四つ角のところで立ち止まった。

「俺はいつもここで右折するんですが、智志さんは直進してください」

 そう言いながら、智志が見ている地図の上の一点を指差す。

「この先の、ここの十字路のところで待っててください。すぐ追いつきます」

 なるほど。直進した先に桜の木があって、そこを迂回するのだろう。

 角を曲がる天野と、道を直進する自分を想像する。たった一人で弟の死を引き受け、桜に背を向ける天野の背中と、それを見送って、見知らぬ住宅街の真ん中にぽつりと取り残される自分の姿を思い浮かべる。

 智志はぞくっと身震いをした。

「駄目だ」

 そのまま二人とも、どこへも辿り着けなくなるだろうと思った。

「僕も、先生と一緒に行きます」

 智志は鞄から素早くペンを取り出し、地図に「右折」と書き込んだ。それを見て、天野が目を二度、三度と瞬かせる。

「いや、今説明しましたけど、それは遠回りですよ?」

 智志は天野の顔を見上げ、眼鏡の奥の戸惑ったような目を正面から見据えた。

「先生と一緒なら、どれだけ遠回りでも構わない」

 道に迷うのだって怖くない。この人が一緒なら。

「右ですね?」

 本来なら曲がる必要のない角を、智志は勢いよく右折した。

「待って、智志さん」

 慌てたように天野が後を追ってくる。

「俺は、智志さんにこんな風に回り道をしてほしくない」

「どうして」

「あの日寄り道をしなければ、弟を死なせなくて済んだんだ。俺はもう二度と、自分のせいで大事な人に遠回りなんてさせたくない」

 智志は足を止めて振り向いた。

「先生、桜のせいになんてしてないじゃないですか」

「え」

「弟さんのことで、ずっと自分を責め続けてる。全然大丈夫じゃなくても、大丈夫そうな顔をしながら」

 どんなに辛いことがあっても、全部自分で引き受ける。それは天野自身のことだと思う。

「一人で無理をしないでください、って僕に言ったのは、先生だ。最初に会った日も、僕が道を訊いて礼を言うと、嬉しくなる人が一人増える、って言ってくれた。あのときは、なんて呑気なことを言うんだろうって思ったけど、今は、先生が言っていたことがわかる」

 相手を信じていなければ弱みなんて見せられない。だから、助けを求められるのが嬉しいのかもしれない。信じてもらえた、という証拠だから。

「好きな人には信じてもらいたいし、頼られたい。今日みたいなときに先生が僕を頼ってくれたら、僕はなんだってする」

 煙の中、一人で階段を上って行こうとしていた姿が、目の前の天野と二重写しになる。それを引き留めるように、智志は天野の手を握った。

「だから、お願いです。もう二度と、あんな風に一人で行かないでください」

 そこは小さな児童公園の脇だった。暗い公園には既に人影はなく、脇にぽつりとともった街灯が、朧月のような光を二人の上に投げかけ、足元に影を作る。

「智志さん……今、好きな人、って言いました?」

 天野の声が、微かにかすれている。

 足元の二つの影を、智志はじっと見つめた。

「言いました」

 天野が、握ったままの智志の手を引く。

 街灯の落とす丸い光の外へ一歩踏み出すように、天野の腕の中にすっぽりと収まった。煙臭くて皺だらけのジャケット越しに、優しい体温が智志の身体を包む。

「智志さん。俺も、あなたが好きです。多分、あなたと会う前から好きでした。陽子先生に話を聞きながら、いつも、いつか、あなたに会いたいって思ってた」

 天野の手が智志の頬を包み込む。

「俺は智志さんと、恋人同士になりたい」

 初めて会った日に同じことを言われたのを思い出して、智志ははっと顔を上げた。

 天野が息を詰めるような表情で智志を見つめている。

 この人は、あの日からずっと、こんな風に自分を見てくれていたのだ。

 なんだか、泣きそうになる。

「先生」

「はい」

「眼鏡、外して」

 天野が、細面の顔から黒フレームの丸い眼鏡を外した。智志は背伸びをして、両手を天野のうなじに回す。

「目、閉じて」

 睫毛の先がかすめ合う。

 回り道の角を曲るように、慎重に、でもためらいなく、唇を重ねた。

 

 家に帰り、テーブルに二人で向かい合って簡単な夜食を食べ、沸かした風呂に交替で入る。すすけてよれよれになっていた身体が、どうにか息を吹き返す。

 タオルで髪を乾かしながら、踊り場でふと目を上げると、二階の廊下の手すりにもたれて、天野がこちらを見下ろしていた。

 階段を一段ずつ上がっていく。一歩ごとに鼓動が強くなる。一番上まで上がりきると、正面から抱きすくめられた。

「智志さん」

「……はい」

「引っ越すなんて、もう言わないで」

 まだ少しだけ濡れている智志の髪に、天野の鼻先が押し当てられる。

「もう、どこへも、行きません」

 長い遠回りをした末に、ようやくここに辿り着いたのだ。天野と、一緒に。

 天野が、自分の眼鏡を顔から剥ぎ取るように外す。性急な仕草で引き寄せられ、唇を奪われる。

「ふ……ぁ、んっ」

 ほどいて息を継いで、またすかさず塞がれる。角度を変えて、ぐっと深く口づけられる。歯列を割って忍び込んできた舌に、吐息まで吸い取られていく。

「はっ……」

 ようやく顔を離す頃には、全身が甘く痺れたようになっていた。膝から力が抜けそうになって、智志は天野の肘にしがみつく。

 ちゅ、と頬を吸われて初めて、涙を零していたことに気付いた。恥ずかしくて、慌てて掌で拭う。その手を取られて、濡れた指先にもキスをされた。

「ああもう、困ったなー」

 天野が、智志の額にこつんと自分の額を当ててくる。

「え」

「智志さんが可愛くて、泣かせるようなこともっとしちゃいそうで」

 間近で見下ろしてくる天野の表情は、眼鏡がないせいか、いつもと印象が違う。とろんとしているのに、まなざしだけが、見つめる先を焦がしてしまいそうなほど熱い。

「……して」

「え」

「僕も、もっと、したい」

 意外に広い天野の背中にそっと腕を回す。

「いいの?」

 こくりと頷く。

 天野の片手がTシャツの裾から滑り込んでくる。脊椎の谷間を撫で上げられて、智志は背を軽く仰け反らせた。

「ぁ……」

 腰に回された腕に、反った背を支えられる。

「智志さん」

「うん」

「あなたが……欲しい」

 囁き声が、甘くて、熱くて、耳から溶けていってしまいそうだ。

「……うん」

 さらわれるように、天野の部屋の中へ引き入れられる。

 身体を覆っているものが取り去られるごとに、その下に閉じ込められていた熱が解き放たれていく。その感覚をずっと待ちわびていたような気がする。

 心臓が、自らの拍動で壊れてしまいそうなほど強く脈打っている。

 もう立っていられなくなって、天野のベッドに倒れ込んだ。仰向けになると、天野が上から覆い被さってくる。

「こんな可愛い人が、どんな風に男の人とするんだろうって、ずっと想像してた」

 天野の手が智志の脇腹をさすり上げていく。

「ずっと、見たくて、知りたくて……触りたくて」

 そのまま胸元へと移動した指先が、ぷつんと尖り始めた突起に触れた。

「ぁ……」

 先端をくにゅりと押し潰されると、快楽を感じる神経に火花が走る。

「は、ぅっ」

 指の先で引っ掻くように弄られ、鼻にかかった声が漏れた。

 天野の触れ方は控え目で、もどかしいほど優しい。それがむしろ、快楽の火種を煽る。体中の細胞が、天野の体温を恋しがって震え出す。

「も……っと」

 ふるふると首を振りながら、思わず口走っていた。

「もっと?」

 問い返されて、智志ははっと唇を噛む。

 一度体内にともってしまった火は、小さくてもすぐには消えてくれない。さらなる刺激を求めて、智志の欲望をじりじりと焦がす。

 でも、もっと触ってほしいなどと言ったら、天野が引くんじゃないかと心配になる。

 どうしていいかわからずにきつく噛んだままの唇に、そっと天野の指が触れた。

「また、噛んでる」

 長い指の先で、固く結んだ合わせ目をなぞられる。その指に、自分の感覚をすべて委ねてしまいたくなる。

 唇をほどいて、また噛んで、と何度か繰り返した後、ついに智志は口を開いた。

「もっと……触って」

「智志さん……」

「あなたの手が、気持ちよくて……もっと、全身で感じたい」

 ごくりと、天野の喉が鳴った。

 スウェットの下を引き下ろされ、天野の指が中に滑り込んでくる。

「は……あぅ」

 ボクサーブリーフの隆起の上から手の甲が触れただけで、びりびりと痺れるような快感が背骨を駆け上がる。

「ん……く……ぅ」

 布越しにやわやわと揉まれる。先送りされる快感に急き立てられて、智志は息を乱しながら、せがんだ。

「それ……脱がせて。直接、触って」

「うん」

 天野の息遣いも、どんどん荒くなっていく。触れたい、と彼も思っているのが伝わってくる。この人の前では、心と身体の鍵をすべて外してしまっても大丈夫だと思える。

 下着まですべて剥ぎ取られ、露にされた屹立に天野の指が巻き付くと、身体の奥に埋もれていた熱の塊から、めらっと炎が上がる。

「ん、はぁっ、それ、あっ」

 天野の指が、軸を上下に滑り、先端の小さな窪みを探る。

「もう濡れてるね」

「ひ、あぁん」

 ねばつく液体を塗り込めるように指先をこすりつけられると、にちゃ、と湿った音がする。腰をよじっても、背中を天野の片腕に抱き寄せられて、快感から逃げる先を封じられてしまう。

「智志さん、すごい」

「あ、ぁっ……そんな……ぁ」

「どこもかしこも色っぽくて……俺、おかしくなりそう」

 触れられるたびに全身の感覚が鋭敏になっていく。肌の上に落ちる天野の息さえも、快感として拾い上げてしまう。

「あのさ、智志さん。こっちも……いい?」

 天野の手が、背中から腰へと滑り下りていき、指先が尻の割れ目へと伸びる。

「や、あっ」

 中指の先が窪みに押し当てられ、智志の腰がびくりと浮いた。

「今日は我慢しようと思ってたけど、智志さんが予想以上に可愛すぎて……もう、色々と、無理」

 天野はそう言いながら、ベッドの上で上体を起こして、もどかしげに服を脱いでいく。Tシャツを頭から抜き取り、着古したジーンズの前ボタンをもぎ取るように外し、トランクスごと引っぱり下ろす。

 ひょろりと痩せ型に見えるが、裸になると、意外にもしっかりした筋肉が目立つ。既に腹につきそうなくらい硬く反り返っているそれも、智志のものよりも一回り長くて太い。それが自分を貫くところを想像して、智志の肌にさざなみのような震えが走った。

 天野が、ベッドサイドの引き出しからハンドクリームを引っ張り出し、指先を潤す。

「脚、開いて?」

「っ……」

 仰向けに横たわったまま、智志は立てた両膝をおずおずと開いていく。

 食い入るような天野の視線に、全身がぼうっと上気する。屹立が硬く勃ち上がっているのも、その先端から零れた滴が茎を根元まで伝っているのも、すべて見られてしまっている。死にそうに恥ずかしい。

「ああもう……見てるだけで、くらくらくる」

 なのに、酔ったような天野の声で彼も昂奮しているのを知って、嬉しいと思ってしまう。

「あ……っ」

 早くもひくついている一番奥の窄まりに、指先をぴたりとあてがわれた。

「あぅんっ」

 押し広げられたところに、滑りをよくした指先がつぷりと入ってくる。智志のそこは、待ちきれないと訴えるかのように、震えながら天野の指を呑み込んでいく。

「ん……ああ……っ」

 天野の長い指が中を行き来する。逃れようのない快感に内側から追い立てられ、背が大きく弓なりに反った。

「ひ、ぃ、あああっ」

 反らせた胸の蕾を口に含まれ、悲鳴のような声を上げてしまう。

「ここ、気持ちいい?」

「は、うっ……ん、あっ」

 桜色に染まった尖りを強調するように、唇の先でつままれ、うっすらと歯を立てられ、舌でこりこりと転がされる。

「あ。今、中がひくひく、ってなった」

「や、あっ、そこ、もっ」

 口で弄ばれる胸先から、指で掻き混ぜられる後孔から、淫らな炎が全身を舐めていく。

「やあぁっ……だめ……っ」

 上下から身体を走り抜ける快感に、張り詰めた花茎がぶるりと揺れる。その先端を優しく撫でられて、智志はすすり泣きのような喘ぎを漏らす。

「もう……お願い……」

「ん?」

「挿れて……奥で、感じたい」

 はしたなく腰を揺らして、淫らな言葉を口にしてしまう。それだけ、切羽詰まっている。

 もう一秒だって待てない。

 こんなにも激しい情欲が自分の中にひそんでいたのか、と思う。

「智志さんっ……」

 膝の裏を抱え上げられ、さらに大きく脚を割り開かれる。智志はぐっと息を詰めた。

「んぅ、く……ああああっ」

 苦痛と快楽の境目に楔を打ち込まれ、瞼の裏に白い星が散る。

「智志さん……苦しく、ない?」

「ない、ぃっ……気持ち、い……あ、ああ、ぁ……」

 指では届かないところまで、蜜路を深く穿たれる。

「やぁっ……せん……せい……」

 狭いところをこじ開けられる感覚に、智志は夢中で天野の背中にしがみついた。

「智志さん」

「は……ん」

「俺の下の名前、尚道です」

 天野の囁きが、鼓膜から雫のように伝って、智志の心臓を震わせる。

 身体の表面で感じるのとは明らかに違う重たい熱が、智志の中の空隙を埋めていく。心に一番近いところを触られている。

「尚……さ、ん」

「うん」

「キス、して」

 どこまでも切れ目なく、ひとつに繋がってしまいたい、と思った。

 与えられた天野の唇を夢中で貪る。混ぜ合わされた快感が渦を巻いて、高みへと一気に押し寄せる。

 むき出しの欲望を、天野の手の中に包み込まれた。触れられただけで、びくびくっ、と屹立が震える。

「ああっ、や、あ……い、く」

 握り込まれてこすられて、腰が灼けつく。もはや抵抗のしようもなく、ただされるがままに、天野の掌に放った。

「う、あ……智志さん、それ……」

 智志の奥がきゅうっと痙攣するように締まった。声を押し殺しながら、天野が腰を引こうとする。達した直後で一際感じやすくなっている身体が、その感覚にがくがくと軋んだ。

「だめっ……なお、さん……出て、いかないで」

「でもっ」

「いいから……中でっ」

 必死に足を絡めて、天野を引き止める。

「あ、くぅっ……ああっ……」

 どくん、どくん、と、智志の中で天野のそれが脈打って、奥に放たれたのがわかった。

 内側から充たされていく悦びに、震えがいつまでも止まらない。

「智志さん」

 力の入らない身体をしっかりと抱き寄せられ、再び唇を塞がれた。

 苦しいほどのぬくもりに、髪の毛から爪先まで溶かし尽くされてしまいそうだった。

 

 目が覚めると、もう部屋の中は薄明るかった。カーテン越しに差し込む光の角度がいつもと違っていて、智志は自分が天野のベッドで寝ていたことを思い出した。

 だが、隣に天野の姿はない。

 情事の余韻がまだ身体のあちこちに残る中、昨夜の記憶を辿る。あの後くたくたになりながら二人でもう一度風呂に入り、一緒にベッドに潜り込む頃には、もうとっくに日付が変わっていたはずだ。

 部屋の壁を見回すと、背の高い本棚の脇に掛けられた時計の針は、七時を指している。智志は慌てて身体を起こした。

 自室に戻って服を着て、天野の気配を探しながら階段を下りる。台所を抜けてダイニングルームを覗くと、掃き出し窓が開いていた。蕾を付けたドウダンツツジの枝が朝日を浴びているのが見える。

 その手前に天野の姿もあった。こちらに背を向け、桜の切株のところに佇んでいる。

「おはようございます。朝ごはん作りますね」

 声をかけると、天野がぱっと振り向いた。その手に、じょうろが握られている。

「あ、智志さんおはよう」

「水やりですか?」

「はは、見られちゃった」

 天野が照れたようにじょうろを身体の後ろに隠した。智志は首を傾げる。

「まさか、その切株に?」

 祖母が切らせたという桜の切株の周りの地面が黒く湿っている。

「今更水をやったところで芽なんて出ないんでしょうけど」

「え、本当に水をやってたんですか?」

 相変らず、この人の行動はどうにも掴みどころがない。

 天野は濡れた切株の上にじょうろを置き、智志の立つ窓際まで歩いてきた。

「最初に智志さんをこの家に案内したとき、桜がなくてショックを受けてたでしょ。なんだか申し訳なくて」

 そう言いながら、智志の足元に腰を下ろす。

「僕は……桜を切ってくれた祖母に、感謝してますよ」

 祖母がその決断をしてくれなかったら、天野は今ここにいなかった。

 天野は窓際に座ったまま、広くはないが手入れの行き届いた庭を見回す。

「俺は、いつかこの庭にまた桜が咲いたらいいな、って思えるようになりました」

「どうして」

 この庭に桜が咲かないからこそ、智志は天野と出逢えたのに。

「智志さんのおかげです。この人がいれば、俺はもう桜のせいで死ぬことはないんだ、ってわかったから」

 晴れやかな笑顔だ。

「桜恐怖症を直して、紅茶も一緒に買いに行けるようになりたいですしね」

 智志は自分も窓際に腰を下ろした。

 いつも智志を庇ってくれようとするその肩に、そっと頭を預ける。

「尚さん」

 昨夜、睦み合いながら思わず口にしたその呼び方の、甘えた響きに改めて照れる。

「はい」

 でも、天野が当たり前のように返事をすると、心にぱっと花が咲く。

 甘える自分を許してもらえる。二度と咲かない桜の切り株にも水をやるように、優しく、おおらかに。

「桜、苦手なままでも大丈夫ですから」

 天野の心が負った深い傷が、いつか癒える日が来るといいと思う。彼の心にもいつか満開の花が咲くようになればいいと、心から願う。でも、たとえその日が来なくても、ずっとこうして隣にいたい、という想いは変わらない。

「少なくとも、尚さんがずっとこの家に住む理由ができる」

 庭の隅の切り株に目をやる。咲かない桜だからこそ、自分にとってはかけがえのない存在だ。

「理由なんて、とっくにここにあるじゃないですか」

 天野は、高い鼻に引っかけていた眼鏡を外すと、首をひねって智志の方を振り向いた。目が合うと、柔和な二重の目が細められる。知らない道へ一歩踏み出すように、智志はその顔を引き寄せた。

 

 長い遠回りの末に辿り着いたこの家に、桜の木はない。その代わり、誰よりも大切な人が、隣にいる。

 

 

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