焼き立てのパンの香りほど人の心を正直にする匂いも少ないのではないだろうか。
籠に立てられた、ぱりっと切れ込みの入ったバゲット。棚に並ぶ、どっしりと迫力のあるパン・ド・カンパーニュやバタール。掌サイズの丸いシャンピニオンや、麦の穂のような形のエピ。狭い店内には、潔いほどシンプルなパンばかりが並んでいる。インテリアにも洒落っ気がまるでなく、店というより工房のようだ。それでも、陽だまりのようにふかふかとあたたかなパンの香りだけで、ここはどんなに豪華な内装のレストランよりも胃袋を刺激する空間と化す。
しかし、その「ブーランジェリー・ソレイユ」の店内で馥郁(ふくいく)たる香りに全身を包まれながら、椎名唯吹(しいないぶき)はいつものように幸せな気分を味わうどころか、冷や汗をかいていた。
「椎名さん、彼氏がいるのか?」
目を丸くしてレジカウンターの向こうから身を乗り出してくる久住陽輔(くずみようすけ)は、この愛想の欠片もない小さな店を一人で切り盛りするパン職人だ。唯吹よりひとつ下の二十七歳だというが、パリで本格的なパン作りの修行を積んだ経験もあるらしい。
短い髪を三角巾に包んだ広い額の下で、くっきりとした眉が不穏な形に寄せられている。なまじ顔立ちが整っているだけに凄みがある。少なくとも「町のパン屋さん」という言葉から連想されるほのぼのとしたイメージからは程遠い、鋭い顔だ。
「あ、いえ……今は、誰とも付き合ってませんけど」
こんなことを説明する羽目になったのも、パンの香りに油断させられたせいだ。
恋愛対象が同性だということを頑(かたく)なに秘匿しているわけではない。驚かれることが少ないのは、外見が「それっぽい」からだろうな、と思う。華奢な体つきに、ふんわりとスタイリグした少し長めの髪。陽輔とは対照的に男臭さ皆無の中性的な造りの顔。営業という仕事柄、スーツもなるべく柔らかい印象を与える着こなしを心がけている。
食品輸入会社「アルカディア」は、若い社員ばかりのオープンな雰囲気の職場で、唯吹も自分がゲイだということは隠していない。それでも、さすがに営業先でここまで堂々とカムアウトしたのは初めてだ。
いや、そもそもそんなつもりは毛頭なかったのだ。
事の発端は、唯吹が持参した発酵バターのサンプルだった。
「うちは、卵や砂糖やバターなんかを使うパンは置かないんだ」
けんもほろろにあしらわれて、唯吹は食い下がった。
「でもね、久住さん。僕は今朝もここのバタールにこの発酵バターを載せて食べたんですが、もう昇天しそうなほど美味しかったんですよ。今日ほど、久住さんが焼くクロワッサンが食べたいと思ったことはなかった」
陽輔は難しい顔のまま、唯吹がカウンターの上に置いたバターのサンプルに目をやった。フランス語のロゴが、紙の小箱に焼き印のようにデザインされている。
「こんな高級なのを使った日には、クロワッサンの単価が四百円とかになっちまうだろ」
唯吹はすかさず首を振った。そんな目先の利益で営業をしているわけじゃない。
「別にこのバターを使っていただかなくたっていいんです。ただ僕は、久住さんのパンの美味しさをもっと多くの人に知ってほしくて、何らかの形でそのお手伝いができたらと思うんです」
そう言って、改めて店内をぐるりと見回す。
「正統派のフランスパンを焼く久住さんの腕は本当に大したものだと思います。それ一本で勝負しようというお気持ちもわかります。でも客としては、もっと気軽に手に取れるパンもあればなあ、と思うんですよ」
こんな話を続けている間も、店には一人も客が入ってこない。店構えも品揃えも店主の人柄も、どれをとっても素人にはハードルが高いのだ。毎日のように仕入れに来るカフェなどもあるようだが、個人客は、よほどこだわりのある者以外はわざわざ買いに来ない。
「試しにもっと女性受けするパンも置いてみてはどうですか」
この手の提案は嫌がられそうだな、と思いながら、唯吹は敢えて虎の尾を踏む。
「女性受け?」
「ええ。あんパンやクリームパンとは言いませんけど、たとえばパン・オ・ショコラとかショソン・オ・ポムとかの本格的なヴィエノワズリがあったら、たちまち評判になると思うんですが」
陽輔ほどの男前だと、別の意味でも女性客の間で評判になりそうだ、などという不純な考えがふと頭をよぎる。
ろくに手入れをしているようにも見えないのに、ほぼ左右対称にきりっと伸びている眉。はっきりとした二重だが、甘さよりも鋭さを感じさせる切れ長の目。キスをするのに邪魔になりそうなくらい高い鼻。きちんと髭を剃った清潔感のある口元。ちょっととっつきにくそうなところが、また悪くない。
「椎名さんは」
端正な顔をあたかも美術品でも鑑賞するみたいに凝視していたところに、いきなり低い声で名前を呼ばれて、唯吹の心臓が跳ねた。
「あ、はい。なんですか」
「女性の好みに詳しいんだな」
「甘いものが好きなのは女の人だけとは限りませんよ」
なんでも好き嫌いなく食べる唯吹だが、どちらかといえば甘党だ。特に焼き菓子やペストリーの類には目がない。
「たとえば僕は、パン・オ・レザンが大好物なんです。でも、なかなか納得のいく味のものが見つからなくて」
クロワッサンと同じようなバターたっぷりの生地でカスタードとレーズンを巻いて焼き上げるパン・オ・レザンは、店によって相当に味が違う。唯吹の理想は、カスタードにコクがあって、洋酒に漬けたレーズンの味が効いていて、その上であくまで菓子ではなくパンとしての食べ応えのあるものだ。
北海道の決まった生産者の小麦しか使わず、製粉工場まで指定するほどパン生地の「素」の味わいに妥協しない彼が、そのこだわりでああいう贅沢なパンを焼いたら、一体どれほど美味なものができるだろう。
「なんだ。彼女の趣味なのかと思った」
理想のパン・オ・レザンの味を想像して気が緩んでいたのか、そんな陽輔の言葉に、つい構えずに本音を返してしまったのだ。
「違いますよ。そもそも僕の場合は『彼女』じゃなくて『彼』ですし」
「彼?」
しまった、と思った時は遅かった。
「椎名さん、彼氏がいるのか?」
それで、今のこの状況に至るというわけだ。
陽輔の眼差しは、獲物でも狙うみたいに隙がない。その迫力に唯吹はひやりとする。この話題はタブーだっただろうか。
昔より理解は深まっているとはいえ、日本社会はまだ、性的マイノリティに対して寛容とは言い難い。差別という自覚のないまま笑いのネタにする人間もいるし、「へえ、本物初めて見た」などと言われることもある。もう慣れたつもりでいても、地味に傷つく。それでも自分の性向を隠さないのは、隠しておくとさらにしんどい目に遭うからだ。
面と向かって「ホモは嫌いだ」などと言う人間は少ないが、唯吹がそうだと知らないうちは、気安く本音を口にする人間も多い。
陽輔もそういう本音の持ち主だろうか。
強面で無愛想だが、ごまかしのない、確かな味のパンを焼く。嘘のつけない人なのだろうと思う。それだけに怖い。彼に「そういう人間とは付き合いたくない」などと言われたら、しばらく引きずってしまうだろう。
「……今は、誰とも付き合ってませんけど」
ところが、陽輔は食い入るような視線で唯吹の顔を見つめたまま「それはよかった」とつぶやいたのだ。
「え?」
何かの聞き間違いかと思って、幾分引き気味にしていた身体を元に戻す。その耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「椎名さん、頼む。俺の恋人になってくれ」
「え……ええええ?」
小さな店内に、唯吹の悲鳴が響き渡った。
繁華街というほどの賑わいはないが、閑静な住宅街と呼ぶほど気取った雰囲気でもない。どことなく文化的な香りのする街並みに、古い建物がごく自然に溶け込んでいる。
唯吹は「鶺鴒亭(せきれいてい)」という店名と小鳥をデザインしたレトロな看板を見上げた。
陽輔が持ちかけてきた頼み事というのは、思いもかけないものだった。
「恋人の、ふり?」
目を白黒させる唯吹に、陽輔は悪びれもせずに頷いた。
「といっても、来月の土曜日に一晩、一緒に食事をしてくれる程度でいいんだ」
「あの、一体どうして」
「その日、俺の誕生日なんで。翌日はちょうど店の定休日だし」
「いや、日付じゃなくて……なんで男の俺に頼むんですか。久住さん、ゲイなんですか」
期待する気持ちがゼロだったといえば嘘になる。だが陽輔は、思い詰めたような顔で首を横に振った。
「違う。それなのになんでこんなことを頼むんだ、って思うだろうけど、理由は訊かないでほしい」
「ええと……」
何やら深刻な事情がありそうだ。安請け合いするのはためらわれる。しかし、続く陽輔の言葉にぐらりと心が動いた。
「その代わり、付き合ってもらえたら『アルカディア』の商品の取り扱いを検討する」
「本当ですか」
仕事が絡むのなら話はまったく別だ。一晩食事に付き合って契約がもらえるなら、接待と変わらない。
「わかりました、引き受けます」
飛びつくように頷いた後、唯吹は急いで付け加える。
「ただし、ひとつ注文をつけさせてください」
陽輔は腕組みをすると、警戒するようにわずかに首を傾げた。
「注文?」
「はい。どうせ食事をするなら、美味い店に行きましょう」
陽輔が、ぽかんと口を開ける。
「え……そこ?」
「そこです。当然です」
これだけ美味いパンを焼くのだから陽輔は舌も確かだろうが、念を入れておくに越したことはない。ふりとはいえ、デートで不味い料理を食べさせられるのだけは願い下げだ。
目の前でいきなり、陽輔が「ぶはっ」と変な音を立てた。
「そう来るとは思わなかった」
拳の甲を口に当てた陽輔の、眉間ではなく目尻に皺が寄っている。初めて見る陽輔の笑顔は、普段の仏頂面に輪をかけて武骨で不器用だ。それでいて、焼き立てのパンのようにあたたかい。
「あんた、変わってるな」
まずい、と本能的に思う。こんな笑顔を見せられて、ときめくなという方が無理だ。
「失礼な」
唯吹は急いで、心外だ、という表情を作る。顔が少し赤くなっていたとしても、笑われて気分を害したのだと思ってもらえるだろう。
陽輔は「悪い」と言いながら、しばし笑いを噛み殺している。ようやくひとつ息をつくと、改めて唯吹の方を向き直った。
「洋食屋の『鶺鴒亭』って知ってる?」
「もちろん、名前は。食べに行ったことはないですけど」
「そこに行こう。味は保証する」
会社に戻ると、唯吹は早速その鶺鴒亭について詳しく調べてみた。
戦前から続く老舗だが、支店などは出さず、頑固に創業当時の味を守っている。ハンバーグステーキや子牛のカツレツやタンシチューといった定番の洋食メニューの他に、スモークサーモン、魚介と野菜のゼリー寄せなど、ワインにも合いそうなオーソドックスな一品料理もある。エビフライは、食通としても有名な時代小説家のお気に入りだったそうだ。
メニューを眺めているうちに居ても立ってもいられなくなり、仕事を終えた後一人で立ち寄ってみたのである。
時間も遅めだったので軽く済まそうと、田舎風パテとシーザーサラダを注文したが、予想をはるかに上回る本格的な味わいだった。材料を吟味し、手間暇をかけて作られているのがわかる。サラダに使われているマヨネーズまで手作りだろう。
特に、パンの味には驚かされた。
出来合いのバゲットなどではなく、少し柔らかめの小ぶりなテーブルロールが出てきた。料理の邪魔をしないシンプルで優しい味だが、洗練されている。オリジナルのレシピを店で焼いているのかもしれない。
なるほどこの店ならば、腕のいいパン職人が特別な日のデートで訪れるのに相応しい。
腹もほどよく満たされ、安心して店を出たときだった。
「……椎名さん?」
後ろから声をかけられた。
まさか、と思って振り向くと、肩幅の広い、長身の姿が街灯の光を遮る。
「こんなところで、何やってるんですか」
それはこちらの台詞だ。
「久住さん」
陽輔は、ダメージ加工の入ったデニムにライダーズジャケットを羽織り、頭にはキャップを被ったラフな私服姿だった。仕事が終わって、近くを通りがかったのだろうか。
「ちょっと『鶺鴒亭』の下見に来てみました。久住さんの選んだ店だけあって、さすがに美味しいですね」
「下見?」
たちまち陽輔の眉間にぎりっと皺が寄る。唯吹は何事かと笑顔を引っ込めた。
「あれ。何か、まずかったですか」
「まずかったですか、って……」
陽輔は寄せていた眉をほどくと、呆れ顔で店の入口の方を振り向いた。
「あんたは、デートに誘われると毎回そうやって、先回りして店の偵察をするのか?」
まるで唯吹に悪意があるみたいな言い方をされて、さすがにむっとする。
「そうじゃありません。ただ、仕事柄どんな店なのか気になったんです」
「だから、なんでそこで仕事を持ち出すんだ」
「なんでって、久住さんとの約束は大事な仕事ですよ。無責任なことはできません」
唯吹の答えに、陽輔はなぜか気分を害したようだ。キャップを取って、短い髪を苛立たしげに掻き混ぜる。
「やれやれ。あんたみたいな仕事人間に恋人役を頼んだのは間違いだったかな」
その言い方にかちんと来てしまったのは、図星を指されたからだ。
唯吹はこれまで恋人と長続きをした試しがない。原因はいつも同じだ。「仕事と俺とどっちが大事なんだ」という古典的な諍(いさか)い。
唯吹としては常に相手に気を遣っているつもりだった。デートの日は仕事を定時で切り上げ、連れて行かれた店の料理が口に合わなくても、「美味しかった」と笑顔で嘘をついた。だがそんなことを続けているうちに、ふと虚しくなるのだ。
仕事とあらば、多少の理不尽も笑顔でやり過ごすのが当然だろう。しかし、恋人を相手に偽の笑顔を作るのは何か違うのではないだろうか。そう思い直して取り繕うのをやめると、途端に「俺といてもつまんなそうだよな」などと言われてしまう。仕事をしているときの方が楽しそうだ、と責められる。
それの何が悪い、と唯吹は肩をすくめた。
「久住さんこそ、大丈夫ですか」
痛いところを突かれたのを悟られたくなくて、わざと挑発的な言い方で反撃する。
「何が」
「ゲイでもないのに、男と恋人のふりなんてできるんですか? そういう嘘をつくのが得意そうには見えませんけど」
褒め言葉でないことは伝わったのだろう。陽輔は男らしい眉をぎゅっと寄せ、露骨に不愉快そうな顔になった。ほら、と唯吹は内心おかしくなる。考えていることがこんなに素直に顔に出る男に、恋の演技なんて無理だ。
まあ、その不器用そうなところがいいんだけどね、という言葉を唯吹が喉の奥に呑み込んだときだった。
「確かに、あんたの言うことには一理ある」
陽輔が意を決したように顔を上げた。
「よし。本番前に予行演習をしよう」
「……は?」
「ちゃんと恋人らしく見えるよう、デートの練習をしといた方がいいよな」
「れ、練習?」
「次の日曜日、椎名さんは忙しい?」
「特に予定はありませんけど……」
あまりに予想外の展開に、嘘も方便でやり過ごすことすら思いつかなかった。
「よし、じゃあ決まり」
勝手に決めるな、と反論しかけた唯吹の目の前で、陽輔は出し抜けに、どこか安心したような人懐こい笑顔になった。
「よろしく」
いかつい構えの店に恐るおそる足を踏み入れたら、奥から極上のパンの香りが漂ってきたような笑顔だ。
これは反則だろう、と唯吹は思う。こんな顔をされたら、断りきれない。
引き込まれるように頷くと、陽輔はキャップを被り直した。そのまま立ち去りかけて、ふと何かを思い出したように立ち止まる。
「おやすみ」
そうつぶやくと、慌てて背中を向けて、今度こそ足早に立ち去っていく。
今しがたの不器用な挨拶に、自分で照れているかのようにも見えた。
翌日、陽輔から電話がかかってきた。昼休みに折り返すと、ぶっきらぼうに質問される。
「普段、デートでどういうところに行くんだ」
「最近、まともなデートなんてしてませんよ」
ふっと、電話の向こうの気配が緩んだ。
「あ。久住さん、今呆れましたね?」
「いや、昨日の口ぶりでは、なんか経験豊富そうだったから」
「最近は、仕事が忙しくてそういうことに割く時間がないだけです」
「ああ、わかる」
今度は、はっきりとした笑い声が漏れてきた。昨夜別れ際に見た飾り気のない笑顔を思い浮かべてしまう。
「俺も似たようなもんだ。休みの日も一日厨房に籠って、パンの試作してたりするから」
さもありなん、という感じだ。かく言う唯吹も、休日は語学の勉強をしたり、情報収集のために飲食店めぐりをしたり、自社の扱う新商品の味見を兼ねて料理をしたりと、結局仕事の延長のようなことばかりしている。スポーツにも映画にも興味はないし、物欲もあまりない。スーツ以外の服は量販店で済ませるし、腕時計やオーディオに凝るタイプでもない。絵に描いたような無趣味だ。
でも、なぜかそれを正直に明かす気にはなれなかった。つまらない人間だと陽輔に思われるのはなんだか癪だ。
そんな唯吹の逡巡を知ってか知らずか、陽輔は太い筆で真っ直ぐに線を引くみたいな話し方を続ける。
「男同士でデートとかどんなところに行けばいいのか、正直わからないんだ。俺が思いつくのなんて老舗の洋食屋とか、友達がやってるイタリアンとか、そうじゃなきゃホテルのレストランとかしかなくてさ」
「それはそれで構いませんけど。前も言いましたけど、不味い店でなければ歓迎です」
陽輔は今度は笑わなかった。
「でも、男二人でそういう店に行って露骨に恋人のふりさせるのって、あんたにはあんまり居心地よくないんじゃないかって思い直してさ。周りの目とか気になるだろ」
「僕は……」
唯吹は、返事の途中で絶句した。
まさか陽輔が、そんなことを気にしてくれているとは思わなかった。思わぬ気遣いに、胸がじわりとあたたかくなる。
「僕はゲイであることを割とオープンにしてますし、気にしませんよ」
唯吹よりも、むしろ陽輔の方が気になるのではないだろうか。
「久住さんは、平気なんですか」
「だって、この件を頼んでるのは俺の方だろ」
「……そうですけど」
ふと、陽輔はなぜこんな手間をかけてまで自分に恋人のふりなんてさせたいのだろうと不思議になる。
本命を口説くための練習台か何かだろうか。それともよくある、うるさくつきまとわれている相手でもいて、それを断る口実にしたいというような話だろうか。
いずれにせよ、ゲイではないという陽輔が唯吹に頼んでくる理由としては少々無理がある。最初に約束をした以上詮索はしないつもりだが、気になるものは気になる。真面目で不器用で根っから正直そうな陽輔が、どうしてこんな面倒な嘘をつく必要があるのだろう。
「じゃあ……僕の休みの日の散歩コースに付き合ってもらうんでもいいですか」
本当は出不精で、休みの日もあまり外出はしないのだが、それは伏せる。
「もちろん」
快諾した陽輔の声の、語尾がかすかに弾んだように聞こえた。
電話を切ってからもその声の響きがずっと耳の奥に残っていた。会社の近所に出ているキッチンカーに昼食を買いに行く足取りが、いつもより軽くなる。
バインミーとベトナムコーヒーをテイクアウトしてオフィスに戻ったところで、先輩社員の武藤(むとう)に声をかけられた。
「お、椎名。いいところに戻ってきた」
「え」
「午前中の外回りのついでに、『スイートトゥース』の十月限定の紅玉りんごパイを買ってきたんだよ。味見に付き合ってくれ」
武藤は、顔も体型も少し小柄な恵比寿様といった福々しい容貌の持ち主だ。ルックスの印象を裏切らない甘党でもある。
食品輸入会社だけあって、アルカディアの社員は食にこだわりのある人間が揃っている。料理の専門学校を卒業した者もいるし、社長の有川(ありかわ)やこの武藤はソムリエの資格を持っている。美味しい食べ物があると聞けば何は措いても飛んでいくような食いしん坊ばかりだ。
「今度彼女にも買っていこうかと思ってさ」
武藤には、最近結婚相談所を介して付き合い始めたという女性がいる。スイーツ好きで話が合うのだと、ことあるごとに惚気(のろけ)ている。
「そうだ」
武藤から一口サイズのパイを受け取りながら、唯吹は閃いた。
「武藤さん、最近話題のデートスポットとか、何か情報ありません?」
「は? デートスポット?」
武藤が、マシュマロのようにぷにぷにとした頬の上の目を丸くする。
「お、なんだよ椎名、出不精で振られてばかりで、いよいよ心を入れ替えたか?」
「えっなになに、聞き捨てならない! 椎名さん新しい彼氏できたんですかー?」
武藤のパイを目当てにデスクに群がってきた同僚たちが、口々に囃し立てる。唯吹は慌てて否定した。
「違う違う。えっとその、そう、仕事だよ仕事! 営業先の店主に、いい店知らないかって訊かれてさ」
周りが一斉に「なあんだ」と白ける。あっさり納得されて、改めて自分がどれだけ仕事人間と認識されているのかを痛感する。
事実だから仕方ない。今回の陽輔との擬似デートだって、要は接待の延長だ。
「そういうことなら、このパイの店の近くとか面白いレストランやカフェが多いぞ。今度ローラーかけてみようかと思ってるんだ」
ローラーとは、一帯の飲食店にしらみつぶしに飛び込み営業をかけることを指す。労力の割に直接の見返りは少ないが、利用者の生の声が聞けるのは貴重だし、後々思わぬ展開に繋がることもある。
「あ、そこって、最近話題になってる北欧雑貨の店の近くでしょ」
「モダン漆器のショールームも、駅のそっち側じゃなかったっけ」
武藤の話を聞いた他の社員も、情報交換に花を咲かせている。唯吹はコンデンスミルクの入ったベトナムコーヒーを飲みながら、それらの店名を頭にメモした。
陽輔なら、食に関係する店には興味を持つのではないか。殺風景な店内に彩りを添える雑貨なんかを勧めてみてもいい。へえ、こんなの知らなかった、と感心させてやりたい。
(毎回そうやって、先回りして店の偵察をするのか?)
こうして思い返してみると、あのとき陽輔が苛立った理由がなんとなくわかる気がする。自分が選んだものは当日まで秘密にしておいて、相手を驚かせたい。
陽輔の顔を思い浮かべながら、唯吹はデートの計画を練った。仕事の下調べでは味わったことのない、不思議な高揚感だった。
日曜日の待ち合わせは、武藤に教えてもらった店の最寄り駅近くの書店にした。
約束の午後五時よりも十分以上早く着いてしまった唯吹が、グルメ関係の雑誌が並ぶ棚へと足を運ぶと、立ち読みをしていた長身の男がひょいと顔を上げた。
「あ」
「あ」
同時に声を上げてしまう。
「早いですね」
そう声をかけると、陽輔は持っていた雑誌を平台に戻して、短い髪を照れたように掻き混ぜた。
「待たせたら悪いと思って」
服装にも気を遣ったのか、今日の陽輔の出で立ちは「鶺鴒亭」の前ですれ違ったときよりもシックな雰囲気だった。色落ちのないスリムなブラックデニムに生成りのセーターを重ねて、グレーのストールを巻いている。肩幅があるのでシンプルなスタイルが映える。
「気にしないでください。僕も、仕事のリサーチをするつもりで早めに来ちゃったので」
「専門書でも買って勉強するのか」
唯吹は肩をすくめた。
「それもありますけど、飛び込み営業なんかに行くときは、食べ物屋以外もあちこち覗いて回ることにしてるんです。特に本屋は、その街の雰囲気を知るのにいいので」
「そうなのか?」
陽輔は要領を得ない顔だ。
「たとえばこの本屋は、旅行ガイド本が充実してますね。国内だけじゃなくて海外の旅先も幅広く取り揃えてる」
「それがどうかしたか」
「海外旅行が好きな人は、高確率で外国の料理にも興味があるんですよ」
「あ。なるほど」
陽輔が感心したように頷いた。
「こっちの平台には、街歩きや話題のカフェ巡りなんかの本も並べてある」
出歩くのが好きで、食に関しても好奇心旺盛な読者層が思い浮かぶ。
「今久住さんが見ていたような、飲食店関係の専門誌も置いてある。客層にそういう職業の人が多いんでしょうね」
「いつも、そうやって仕事してるのか」
「そうですよ」
完全に仕事モードで頷いてから、はっと反省する。確かにこれでは仕事人間だと揶揄されても仕方がない。
「すみません。今日は仕事じゃなくて、デートの予行演習でしたよね」
陽輔を促して足早に書店を出る。
「いや、いつものあんたのペースでいいよ。その方が面白そうだから」
「面白そう、って」
「普段着のあんたと顔を合わせるのは、なんか新鮮だ、ってくらいの意味」
そう言われ、余計に複雑な気持ちで自分の私服を見下ろす。
ボーダーのカットソーに重ねたボルドー色のロングカーディガンとベージュのコットンパンツは、何を着ていくか散々迷った挙句、いつもスーツをあつらえている店に仕事帰りに寄って見立ててもらったものだ。こんな洒落た街でも浮かないような、ほどよくトレンドを抑えた私服なんて持っていないのだから仕方ない。いつも休みの日に家で着ているような冴えない服で来て、陽輔にセンスのない奴なんて思われたくなかった。
「近くのカフェでお茶でもしますか」
本当の普段着を見せる自信のない自分を少し情けなく思いながら、それでも精一杯「普段どおり」っぽい顔を作る。これから行く店も前日までに散々リサーチしたところなのだが、そんなことはおくびにも出さない。
ところが、陽輔はそこで不意に立ち止まる。
「あ、そうか。そうだよな」
気まずそうな顔で、また頭を掻く。
「どうしたんですか」
「いや、俺も気が利かねえな、って」
ことり、と首を傾げる唯吹の目の前で、陽輔は肩にかけたトートバッグから茶色の紙袋を取り出した。
「これ、今日の手土産」
「え?」
ぶっきらぼうに差し出されたそれには、見間違いようのない、「ブーランジェリー・ソレイユ」のロゴが印刷されている。
「散歩って言うから、どっかのベンチででも一緒に食べようかと思って持って来たんだけど、そうだよな、普通はどっか店に入るよな。持って帰って、明日の朝にでも食ってくれ」
ぼそぼそとした言い訳を半分聞き流しながら、唯吹は急いで紙袋の口を開けた。
「……パン・オ・レザン?」
素っ気ないグラシン紙に包まれていたのは、丸く平べったい形の小ぶりのデニッシュだ。くるりと綺麗な形に巻いた渦に、レーズンの粒が散らされている。
「これが好物だ、みたいなこと言ってたろ」
「まさか、焼いてきてくださったんですか」
「手っ取り早く手に入る材料で作ったから、口に合うかどうかわかんねえけど」
ぶっきらぼうに頷かれる。
その瞬間、頭の中に待機させていたカフェ数軒の店名が吹っ飛んだ。そんなところに行っている場合じゃない。
紙袋をしっかりと胸元に抱え込む。
「行きましょう」
「え?」
「どこかでテイクアウトのコーヒーを買って、ベンチを探しましょう」
駅の反対側には、川沿いに遊歩道が通っているはずだ。そこまで行けば腰を落ち着ける場所くらいあるだろう。
急に逆方向に歩き出した唯吹を、陽輔が足早に追ってくる。
「あんたの行きたいところでいいって」
「僕は、今すぐこのパン・オ・レザンを食べられるところへ行きたいです」
迷わず断言する。
通りすがりのコーヒースタンドでホットコーヒーを二つテイクアウトした。遊歩道をしばらく歩くと、紅く葉の色づいた桜の木の脇に古ぼけた木のベンチがある。
空はどんよりと曇っているが、幸いまだ雨は落ちてきていない。
ベンチに腰を落ち着けると、早速膝の上で紙袋を開き、パン・オ・レザンを互いにひとつずつ手に取ってかぶりつく。
「うわ……」
しばし、言葉がない。
カスタードクリームは甘すぎず重すぎず、あくまで生地の引き立て役に徹している。その生地は口当たりは軽いのに、小麦の風味とバターの贅沢な味わいがしっかりと後を引く。ブランデーのあでやかな香りをまとったレーズンの甘味とほのかな酸味がほどよいアクセントになっていて、コクのあるフレンチローストのコーヒーにもまったく負けていない。
食べ終わってしまうのが勿体ない。でも、止まらない。結局、あっという間にぺろりと平らげてしまった。膝の上にはらはらと落ちかかる枯葉のような生地の破片さえ、払い落とすのが惜しくて、ひとつずつ指でつまんで口に運んでしまう。
「はーーー美味かった」
最後にコーヒーを一口飲んで、満足の吐息をつく。
「これぞ理想のパン・オ・レザン! って感じ。あと三個くらい一気に食えそう」
「気に入ってもらえたならよかった」
隣から声をかけられて、ようやく我に返る。
「あ。す、すみません。つい夢中で」
「いや。せっかく焼いたんだから、そう言ってもらえると張り合いがある」
答える陽輔はいつものような仏頂面だが、目元の印象が少しだけ柔らかい。
「それよりさ、その堅苦しい敬語に戻るの、やめない?」
「え?」
「いつも、恋人に対してもそんな風に営業マンみたいな話し方してるわけじゃないんだろ」
「……でも」
「言ったろ。普段着のあんた、新鮮だって」
急に、変な見栄を張っている自分が恥ずかしくなった。
陽輔の焼くパンには嘘やごまかしがない。必要以上に飾り立てたり、奇を衒(てら)ったりするところがない。素材の味を誠実に伝えてくる。
それに対して、自分はどうだろう。
表面ばかり取り繕って、自分が失敗しないことばかり考えて。陽輔のように、相手はどんなものが好きかということにすら注意を向けていなかった。
こんな独りよがりなデートばかりしていたら、振られるに決まっている。
「仕事とか、そういうこと以前の問題だよな」
コーヒーを手にがっくりと肩を落とすと、陽輔が不思議そうな顔をする。よし、と唯吹は気持ちを切り替えた。
予習してきた頭の中のプランを、一旦まっさらの白紙に戻す。
「久住さん、酒は飲む?」
「まあ、そこそこ」
「赤ちょうちんみたいな店でも抵抗ない?」
「全然」
「じゃあ、少し早いけど飲み始めるか。美味い店があるんだ」
陽輔はちょっと意外そうに眼を見開いたが、黙って頷いた。
遊歩道を隣の駅まで歩き、線路の高架下にある、紺色の暖簾のかかった古ぼけた木の引き戸をからりと開ける。
「らっしゃい」
「二人なんですけど入れますか」
「お、椎名君か。久しぶりだねえ」
頭に手ぬぐいを巻いた恰幅のいい大将が、コの字型のカウンターの一角を指してくれる。
「こういう店にも飲みに来るのか」
背もたれのないビニール張りの丸椅子に腰を下ろしながら、陽輔が意表を突かれたように店内を見回す。唯吹は口元をほころばせた。壁にずらりとかけられた黄ばんだ短冊には「ねぎま」「ハツ」「レバー」「つくね」などと朱書きされている。三百六十度どこから見ても大衆的な焼鳥屋だ。
カウンターの向こうの大将に、唯吹は「例のあれ、ある?」と訊ねる。
「例の、あれ?」
怪訝そうな陽輔に、唯吹は人差し指を口に当てて秘密めかした笑顔を作った。
「何が出てくるかお楽しみ。まあここは、俺のことを信用してよ」
勿体をつけるほどのものではないのだが、陽輔が抱いているらしい自分の「普段着」のイメージを壊すのが楽しい。
「はい、おまちどお」
大将がカウンターに出してくれたのは、湯気の立つ大ぶりの蕎麦猪口だ。何気なく手に取った陽輔が、中身を二度見する。
「え。ホットワイン?」
「そう。ここの串焼きやモツ煮とホットワイン、意外と相性がいいんだよ」
大将が言い添える。
「椎名君の入れ知恵さ。この干し葡萄もね」
カウンター越しに、二人の間に小皿を置いてくれる。陽輔が切れ長の目を見開く。
「……焼鳥屋で、レーズン?」
「いきなりビールとか焼酎とかで焼鳥じゃ、せっかくのパン・オ・レザンの後味が台無しになるかと思ってさ。だから、これを置いてる店に来たんだ」
唯吹が勧めると、陽輔は不思議そうな顔をしながらも、一粒口にする。
「へえ。甘さが濃いのにくどくない」
「これはフランスのワイナリーで育てている有機栽培の葡萄を天日干ししたもので、砂糖は一切加えてないし、表面にオイルも塗ってないんだ。だから葡萄本来の味が楽しめる」
レーズン、というより干し葡萄、と呼びたくなる、アルカディアの定番人気商品だ。酒の肴にもなるのでこの店に勧めてみたところ、最近では焼き鳥の締めにちょっとつまんでいくお客さんが多いらしい。
「これで舌にワンクッション置いたら、串焼きを頼もうか」
自分も干し葡萄をつまみながら「本日のおすすめ」と書かれた黒板を眺める。
「ありがとうな」
いきなりぼそりと礼を言われて、唯吹は一瞬、それが自分に向けられた言葉だとはわからなかった。
「あんなに夢中で食べてもらって、後味までこんなに大事にしてもらって」
横を向くと、陽輔が大きな手を温めるように蕎麦猪口を持って、照れくさそうな顔でホットワインを口に運んでいる。
「考えてみたら、自分の焼いたパンを目の前で食べてもらったのは初めてだ」
がっついていたところを逐一見られていたのだと思うと、急に恥ずかしくなる。
「いや、久住さんは甘いパンとか邪道だって言いそうだからさ、意外だったんだって」
陽輔はきっぱりと首を振った。
「店に置かないってだけだ。甘いパンも総菜パンも嫌いじゃない」
「え? 惣菜パン?」
あのストイックなパンばかり焼く陽輔が?
「いや食うだろ普通。パリで修業中、なんでか無性に焼きそばパンが食いたくなって困ったことがあったな」
「焼きそばパン! まさか、作った?」
陽輔が憮然とした顔で白状する。
「ある日どうしても我慢できなくなって、ほとんど出来心で、自分で焼いたクーペにトマトソースパスタ挟んでみた」
「……で?」
「食った瞬間、激しく後悔した。自分はパン職人の道を断念すべきか悩むレベルだったな」
「うわーやばいそれ。食ってみたかったー」
爆笑する唯吹を、陽輔が恨めしそうに睨む。
「海外に長くいると、日本の変なものが恋しくなって、ちょっとおかしくなんだよ」
「いや、わかるよ。俺だって社長の買い付け旅行に同行するときは、お守り代わりに日本のチョコレート菓子持って行くもん」
「それそれ。ショコラなんてあっちが本場なのに、食べ慣れてる味が欲しくなるんだよな」
妙に意気投合して、フランスの食事情の話などでひとしきり盛り上がってしまう。
「トウモロコシあんまり食わないんだよな。『あんなの家畜のエサだ』とか言って」
「日本みたいに甘い品種がないしね。コーンマヨネーズパンとか、向こうで作ってみた?」
「蒸し返すなって。その手の失敗は二度とすまいと俺は心に誓ったんだ」
焼鳥の串にかぶりつきながら、陽輔が呻く。
「いやでも真面目に、久住さんがパン職人を断念しないでくれてよかったな」
二杯目のホットワインを頼むと、唯吹は心から安堵して言った。
「パン・オ・レザンも、店に置けばいいのに。あれ、売り物にしないの勿体ないよ」
陽輔が、急に真面目な職人の顔に戻った。
「俺は、自分の焼くパンは主役じゃなくていいと思ってる」
「え」
「料理にさりげなく添えて、他の食材を引き立てるパン。そういうのが理想なんだ」
そう言い切る精悍な顔に思わず見惚れそうになった。
「でも、久住さんのパンはそのままでも食べたくなるよ。うるさく主張しないけどちゃんと素材の味がする」
唯吹は力説する。
「気取ってなくて、嘘がなくて、安心する。今日のパン・オ・レザンも本当に、普段着で、散歩の途中のベンチみたいな場所で食べたくなる味だった。あんなパンがあれば、休みの日に知らない街へ出かけるのも悪くない、って思える」
夢想するように言いながら、唯吹は添えられてきたシナモンスティックでホットワインを掻き混ぜる。甘くてスパイシーでどこか懐かしい香りが、ふんわりと立ち上る。
シナモンを持ち上げると、先端から赤ワインの滴が伝い落ちる。慌てて舌先で受け止め、そのまま先端を口に含んだ。
軽く吸うと、甘い香りとほのかな辛味が口の中に広がる。
横顔に、食い入るような視線を感じた。
そろりとそちらに目を向ける。気のせいではなかった。居心地が悪くなるほど鋭い陽輔の眼差しが、唯吹の口元に向けられている。
どきりとした。
陽輔の視線は、彼の心と同じ方向に真っ直ぐに向けられる。言葉が語らない分を補って余りあるほど、能弁で率直だ。
左右対称の眉の下のきりっと鋭い二重の目に、スパイスの香りをまとった唇をじっと見つめられる。あの高い鼻はキスするとき不便そうだ、などと性懲りもなく考えている自分に気付いて、唯吹の鼓動が跳ねる。
「シナモンて」
胸の内の動揺を悟られないように、咄嗟に口を開いた。
「舐めると、意外と甘くないんだよな」
陽輔が、沈黙を破る前触れのような瞬きをした。長くはないけど、黒く濃い睫毛だ。
「当たり前だろ」
「そうなんだけどさ。アップルパイとかシナモンロールとか食べてると『シナモン、イコール、甘い』って脳に刷り込まれるんだよ」
陽輔が、口の端をひねるみたいな笑い方をした。男らしい顎のラインが引き立って、分厚い色気が滲み出る。
「子供みたいだな」
骨太な手が伸びてきたと思うと、唯吹の手からシナモンスティックを抜き取った。
「あ」
陽輔の指は、爪が平べったい形をしている。毎日パン生地をこねている職人の手だ。その手が、棒状に巻いたシナモンを迷いなく口元まで運んでいく。
わずかに赤紫色に染まったそれを、陽輔の舌がぺろりと舐めた。
「甘い」
ぶるっと、唯吹の体内で官能が震える。
「嘘だ」
甘いのは、陽輔の声だ。ぶっきらぼうな彼の声には、肩が触れ合うほどの距離まで近づいて初めて聴き取れる甘さがある。
「甘味は、舌の先端で一番強く感じるんだ」
「そんなの知ってるよ」
隣に座る陽輔の声の近さに、心臓が共鳴しそうになる。それをなだめようと、ホットワインを一口飲んだ。
シナモンを舐めたせいか、さっきよりも甘味を強く感じる。舌の、先端に。
「まあ、味覚なんて人それぞれだけどな」
「俺、久住さんとは舌の相性がいい気がする」
「なんだかエロい言い方だ」
淡々とそんなことを言うのが憎たらしい。
「エロいことなんて考えてないくせに」
「そんなことない」
「嘘だ」
間髪を入れず否定すると、蕎麦猪口を口元に運んでいた陽輔の手が止まった。
「嘘じゃない」
陽輔は少し顎を引くようにして、視線を唯吹の唇に向けてくる。
嘘がつけないはずの眼差しを。
どうしてこんなことになったんだろう、とホテルの一室でカーディガンを脱ぎながらぼんやりと考える。
今日はあくまでもデートの予行演習のはずじゃなかったのか。それとも、これも「練習」の一環なのだろうか。
「お先に」
シャワーから出てきた陽輔は、白いバスタオルを無造作に腰に巻き付けているだけだった。肩にも胸にも脚にも、無駄のないかっちりとした筋肉がついている。その身体から無理やり視線を引き剥がすと、唯吹は入れ替わりでバスルームに入った。
セックスしたい、とずばり言われたわけではない。でも、焼鳥屋を出た後で「泊まっていかないか」と言ってきたときの陽輔の声は、間違いなく欲情の色を帯びていた。
何の準備もなしにノンケに突っ込まれるのは、さすがに避けたい。身体を丁寧に洗って、後ろも入念にほぐす。熱いシャワーを頭から浴びて目を閉じると、さっき見た陽輔の裸の胸が瞼の裏にちらついて、洗ったばかりの箇所がはしたなく反応しそうになる。
火照った身体にタオルだけを羽織り、敢えて前は隠さずにバスルームの外に出た。
いっそ酔っ払って寝てしまっていればいいのに、などと、ちらりと思う。そうすれば、振り回されたことに一方的に腹を立てて、この状況から逃げ出してしまえる。
しかし、唯吹の密かな期待を裏切って、陽輔は横になっていたツインのベッドの片方から機敏に立ち上がった。
「あ」
肩にかけたタオル以外は裸の唯吹を見て、陽輔は何度か瞬きを繰り返す。男を抱くなんて正気の沙汰じゃないと我に返ったか。思わず溜息をつきそうになったときだった。
「唯吹」
名前を呼ばれて、睫毛の先端まで震えそうになるなんて、初めての経験だ。
「なんで……下の名前で、呼ぶんだ」
「俺は、付き合ってる相手のことはそう呼びたいんだけど。そういうの、駄目か」
新しいレシピを試すかのように慎重で生真面目な口調が、一度高く鳴った唯吹の鼓動を沈ませる。やっぱり、練習台か。
試しに自分も頭の中で陽輔、とつぶやいてみてから、もうずっと、心の中では彼にそう呼びかけていたことに気付く。
莫迦だな俺は、と密かに自分を嗤(わら)う。
「俺は呼ばない」
俯くと、ちゃんと乾かしていない前髪から滴がぽたりと落ちる。肩にかけたタオルを取り上げて、陽輔が唯吹の毛先を拭ってくれる。
タオルごと、頭をそっと上向かされた。優しい手つきとは裏腹に、黒目の濃い陽輔の眼差しは腹を空かせた肉食獣のようだ。
本当に正直な奴、と唯吹は苦笑する。
「男と、やったことある?」
「え」
「ないなら、やり方教えるけど」
陽輔が息を詰めた。
「……いいのか」
唯吹は陽輔の手から引ったくったタオルをベッドの上に放り投げた。一度くらい好奇心に付き合ってやったっていいだろう、と自分に言い聞かせる。
真剣な交際を長く続けるのは自分には向かないらしいと悟ってからは、特定の恋人は作っていない。ナンパされた相手と気が向いたら何度か寝て、その後はフェードアウトする、というパターンを意図的に繰り返している。そういった行きずりの関係と大した違いがあるわけじゃない。
「いいよ」
経験豊富で後腐れのない、恋人の代役としては申し分のない相手。そんな男の顔が上手く作れているだろうか。
「唯吹……」
陽輔の強い眼差しが、とろりと揺れた。白と黒のコントラストのくっきりとした目が、さらに近づいてくる。
その顔の下半分を、唯吹は手で遮った。
「でも、キスは本気で好きになった相手としかしない」
口を唯吹の手でマスクのように塞がれた陽輔が、抗議するみたいに目元を険しくする。冗談じゃない、と唯吹は内心でつぶやいた。
今キスなんかされたら、あっさり落ちる自信がある。こんなことで一方的に好きにならされてはたまらない。
「ちゃんと、気持ちよくするから」
笑顔を顔に貼り付けたまま、陽輔を片方のベッドに座らせた。唯吹自身はその正面の床の上に膝をつく。
「え、何」
「口でされるならハードル低いだろ。気になるなら目を瞑ってればいい」
広げた股の間で、陽輔のものは既に硬くなりかけていた。身体の大きさに見合う立派な持ち物だ。その先端に、挨拶代わりにひとつキスを落とす。
「うわっ」
ぺろり、と舐めると、陽輔がびくりと身体を震わせる。すかさず口に含んで、わざと卑猥な音を立ててしゃぶると、呻き声の一歩手前の荒い息が頭上から降ってきた。
(あ、反応してる)
すぐに口の中が窮屈になってくる。一度離して、尖らせた舌先で裏筋を擦ってやる。辿り上げた先の亀頭を唇の間にきつめに押し込むと、陽輔がよじれるような声を漏らした。
「くそっ、なんだこれ……すげえ……」
ごつごつした手に、少し乱暴に髪を掻き混ぜられるのが気持ちいい。唯吹は急いで目を閉じた。陽輔の身体を欲している自分の顔を、剥き出しで晒したくない。
硬く張った陽輔の性器の先端に、じわりと蜜が滲む。舌の表面を押し付けると、うっすらと苦く背徳的な味がする。
「やめろ……これ以上は……」
陽輔の両手に後頭部を強く掴まれて、唯吹は口を離した。
そろりと目を開けると、弾ける寸前にまでそそり立ったそれが目に入る。そのまま顔を仰向けると、息を乱した陽輔と目が合った。
手を引かれて、吸い寄せられるように腰を上げる。陽輔は片方の膝の上に唯吹を座らせると、乱れた唯吹の前髪を梳き上げた。
(あ)
高い鼻が目の前に迫って、わずかに斜めに傾けられる。だが、触れ合う寸前で、陽輔がはっと気付いたように息を呑んだ。
「唯吹」
囁き声だけが唇の上を撫でていく。
背中を強く引き寄せられ、反動で顔が仰(あお)のいた。その頬をかすめていくように、陽輔の顔が伏せられる。
「ここなら、いいか」
苦しげにさえ聞こえる声が耳の後ろを伝ったと思うと、首筋に熱く濡れた唇が押し当てられた。
「あ……だめ……」
「じゃあ、どうすればいいか、言ってくれ」
陽輔の声が、肩の上で低く震えた。
今すぐ奪ってくれ、と、すんでのところで声に出して言ってしまいそうになる。
キスを封じた意味なんてなかった。もう既に、全身を明け渡してしまいたくてたまらなくなっている。
いや、駄目だ。
一度きつく目を閉じて、開く。陽輔の背中にしがみつきたがっている腕を無理やり離して、唯吹は立ち上がった。
「これ、着けてて」
行きがけにドラッグストアで買ってきたコンドームの箱を、陽輔の座るベッドの脇に放り投げる。その隙に一緒に買ったローションの封を切ろうとするのだが、指先に上手く力が入らない。
もたついているのをごまかすために、慣れた風を装って訊いた。
「体位、何がいい」
「え?」
「後背位と、騎乗位と、正常位」
敢えて直截的な言い方をしたのに、陽輔はためらう様子すら見せない。
「選ばせてもらえるのか」
「初心者に譲ってやる」
なかなか開けられないローションのボトルを、伸ばされてきた手に取り上げられる。
「あ」
手首を掴まれて引き寄せられたと思うと、瞬く間に仰向けに押し倒されていた。
「唯吹の顔が見えれば、なんでもいい」
逃げ場を奪うように上から肩を押さえつけてくる。
「……知らないぞ」
「何が」
「正面から見て、やってる最中に萎えても」
投げやりに言うと、陽輔は組み敷いた唯吹の全身を真顔でじっくりと眺め回す。
「萎えるとは思えない」
「……っ」
「触ってもいいか」
伸ばされてくる指先に、全身の産毛がざわりと反応する。
触って。
舐めて。
挿れて、突いて、掻き回して。泣くほど乱して、溢れるまで満たして。
そんな、心の中の叫びが聞こえてしまうのではないかと怖くなる。それなのに、食い入るように唯吹の顔を見つめてくる陽輔の瞳から目を離せない。
嘘をつかない、強い瞳。
このまま真っ直ぐに求められたら、何もかもすべて差し出してしまいそうだ。
抜け出せなくなるほど蠱惑的な、それでいて胸をかきむしられるほど切ない、そんな夢を見ていたような気がする。
唯吹がそっと目を開けると、薄ぼんやりとした光が目の前の白い壁を浮かび上がらせている。見慣れない様子に、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
ああそうだった、と、怠さの残る身体で寝返りを打つと、隣のベッドが目に入った。
青いカーテン越しの早朝の光が、生活感の欠けた室内を水槽の中のように見せている。水底に、昨夜自分を貪るように抱いた男が、背中をこちらに向けて横になっていた。
シーツと毛布から片腕を出して、少し角張った肩が剥き出しになっている。それが規則正しく上下しているのを見る限り、どうやらまだ深い眠りの中にいるらしい。
背中の窪みに青灰色の影を落とす肩甲骨をじっと見つめているうちに、そこにうっすらと引っ掻き傷が浮いているのに気付いた。
(そんな……あ、深い……っ)
膝の上に座らされて奥まで抉るように貫かれ、たまらずに爪を立てた。理性を翳らせるほど強い快感に翻弄されていて、あのときはこんな痕跡を遺す羽目になることにすら思い至らなかった。
十本の指ですがりついた証拠を突きつけられて、唯吹は恐怖にも近い焦燥を覚える。
陽輔が目を覚ます前に、ここを出なくては。
できる限り音を立てないようにしてベッドから滑り出た。昨夜コンビニで買った下着と、昨日のカットソーとコットンパンツを手に、バスルームに忍び込む。水音がしないように蛇口に当てて濡らしたタオルで、全身を拭く。
身体中どこもかしこも、陽輔に触れられた記憶しかない。指で、唇で、舌で、焦らすように辿られた。
(あ、そこ……あんっ……)
(ここが、好きか?)
陽輔の愛撫は、率直でありながら巧みだった。指示に従うように見せておいて、すぐに唯吹の弱い箇所を探し当て、翻弄し始めた。
(や、あああっ、だめぇっ)
(だめ? 嘘つくなよ……いいんだろ)
最後の方はもう、甘ったるい声で形ばかりの拒絶の言葉を繰り返すばかりだった。
思い出してしまって、全身がざわざわと騒ぐ。せっかく着た服を今すぐ全部むしり取って、陽輔の眠るベッドにもぐり込んで昨夜の続きをねだってしまいたくなる。
だが、鏡に映る自分の姿を見て、唯吹はようやく現実に立ち返った。
自分は男だ。そして、陽輔はゲイじゃない。
目を覚まして、酒の勢いで男を抱いてしまったことを後悔して頭を抱える、そんな陽輔を目の当たりにしたくない。あの嘘のつけない目が、昨夜痴態を晒した唯吹に改めてどんな風に向けられるのか想像すると、身体が芯から震える。
必要最低限の身支度を整え、逃げるようにホテルをチェックアウトして早朝の街に出た。一度家に帰り、シャワーを浴びて着替えてから出社する。
朝食は会社近くのコーヒーショップで簡単に済ませた。いつもは買い置きして冷凍してある「ソレイユ」のパンをトースターで温めて食べるのだが、そこまでの時間はない。それに、今朝はなるべく早く陽輔の気配を身体から追い出したかった。
しかし、それは成功したとは言い難かった。
「椎名。おい、椎名」
月曜の朝は定例の社内ミーティングがある。来週のパリ出張の打ち合わせを終えて皆が席を立っても、唯吹はぼんやりと座ったままでいたので、武藤に肩を叩かれた。
「うわあっ、す、すみません」
弾かれたように椅子から立ち上がると、武藤が呆れ顔になる。
「いや、そうじゃなくて。電話鳴ってるぞ」
「え」
長机の端に置いていた唯吹のスマートフォンが振動していた。画面に「ソレイユ 久住さん」と表示されている。
「うわ。最悪」
思わず頭を抱える。ミーティングルームの戸口で、武藤が怪訝そうに振り返った。
唯吹は、大丈夫です、と首を振ると、覚悟を決めるようにひとつ深呼吸をして電話を取った。
「はい、椎名です」
「今朝は悪かった」
開口一番、謝られてしまった。
なんと返していいのかわからずに黙っていると、陽輔は幾分早口に続ける。
「爆睡してて、あんたが帰ったのにも気付かなかった。ホテル代も立て替えてくれたんだな。精算したいから、後でうちの店に寄ってもらえるか」
「久住さん」
「それと……無理させたんじゃないかと気になって。体調、大丈夫か」
陽輔はそう言って、気まずそうに小さく鼻を鳴らした。高い鼻を至近距離で斜めに傾ける仕草を思い出してしまって、唯吹は焦る。
「体調は大丈夫です。宿泊費もどうかお気になさらず」
早く、取引先と話をする礼儀正しい営業マンに戻らなくては。
「そうはいかないだろ」
「いいんです。僕からのお詫びです」
「お詫びってなんだよ」
今、ここで、言わなくては。
「ごめんなさい。久住さんからお願いされた件、やっぱりお断りします」
繋がっているはずの回線に、重たい沈黙が横たわった。
電話口の向こうで、陽輔が何度か口を開こうとして躊躇しているのがわかった。ようやく、奇妙に遠く響く声が聞こえてくる。
「それは、恋人のふりをしてもらう話か」
「そうです」
「どうして」
「僕には無理だとわかったので」
彼の偽物の恋人になんて、なれない。
「どうして」
壊れた録音機器みたいに、陽輔が同じ問いを繰り返す。唯吹は今度こそ返答に詰まる。
本当に好きになってしまいそうだからなんて、言えるわけがない。
「……予行演習で、不合格だったってわけか」
苦々しい陽輔の声に、即座に否定してしまいそうになって、思いとどまる。
そう誤解されるなら、それでもいい。本当の理由を知られるよりましだ。
唯吹が否定しないのを確認して、陽輔はち、とかすかな舌打ちをした。
「なら、しょうがねえな」
「すみません」
腰を深く折って、目の前にはいない相手に詫びる。武藤に見られたら、仕事でトラブルになったのかと心配をかけそうだ。
「いや、変なことを頼んだ俺が悪かったんだ。せめて、ホテル代は割り勘にさせてくれ」
きっと今、あの短い髪をがりがりと掻いているのだろうと思う。
「わかりました」
これ以上彼を困らせるのは本意じゃない。
「それと、あんたの会社の商品、試しに店に置いてみるからいくつか持ってきてくれよ」
「え?」
「取り扱いを考えるって言っただろ。パンの材料として使わなくても、店に並べておいたら買っていく客がいるかもしれない。冷蔵ケースがないから発酵バターは難しいけど、常温で置いておけるコンフィチュールとか、スプレッドとかなら」
唯吹はスマートフォンを握り直した。
「でも。僕の方は約束を反故にしようとしてるんですから、無理にそんなことをしていただかなくても」
「それとこれとは話が別だ。たとえあんたが俺のくだらない頼みをきいてくれたとしても、商品の質に納得がいかなかったら店に置いたりはしない」
ああ、それはそうだろうな、と思う。陽輔の、嘘をつかない真っ直ぐな視線を思う。
「わかりました。では、近日中にまたサンプルをご用意して伺います」
「うん。よろしく」
「ありがとうございます」
丁寧な礼には、沈黙しか返ってこなかった。仕事上の儀礼的な挨拶だと思われたのだろう。
電話を切って、これでよかったんだ、と自分に言い聞かせる。
嘘のつけないノンケになんて惚れたら、ろくなことにならない。この辺で踏みとどまらないと、手遅れになる。
ウイスキー入りのオレンジマーマレード。ラズベリー風味のチョコレートスプレッド。エクストラバージンオリーブオイル。ドライいちじく。そんな商品のサンプルを紙袋に詰めて、会社を出る。
これが赤ずきんの童話なら、訪問先で待ち構えているのは腹を空かせたオオカミなのだが、唯吹を待っているのは舌の肥えたパン職人だ。残念ながら自分を食べてくれるほど悪食ではなさそうだ。既に味見済みなのだから、なおさらだろう。
いつもと変わらない営業スマイルを顔に貼りつけて、「ブーランジェリー・ソレイユ」の扉を開けようと取っ手を引いた。
「陽輔。私、どうすればいいの」
あたたかなパンの香りと一緒に、扉の隙間から女性の尖った声が聞こえてくる。
「どうして結婚してくれないの」
まずい、と思った。すぐに回れ右をしようとするが、結婚という言葉に気が動転してしまう。
「私たち、付き合って何年経つと思ってるの」
苛立ちを隠そうともしない女性の声に、陽輔の答えが被さる。
「わかってるって」
その声に、唯吹は戸口で凍りついた。
陽輔の返答が、短くぶっきらぼうなのはいつものことだ。それでも、今の返事はあまりにもぞんざいだった。相手への特別な愛情は欠片も含まれていない、他人事のように突き放した言い方だ。
どれほど素っ気ない言葉を使おうが、陽輔はその気になれば、ほとんど「優しい」と形容したくなるような喋り方ができる。そのことを、唯吹の耳はもう知っている。
(唯吹)
肌が息遣いを拾うくらいの距離で聞いた、抑えきれないような囁きが甦る。鼓膜をすっ飛ばして、直接心臓が震える。
「ねえ、私たちもうダメなの? 別れた方がいいの? それならそうと、はっきり言ってほしいんだけど」
レジカウンターの上に身を乗り出して陽輔に詰め寄る女性を、陽輔が遮った。
「マユカ。お客さん」
そう言って戸口の方を向いた陽輔の表情が、ぎくりとこわばる。
唯吹は、なるべく嫌味に聞こえないように咳払いをした。
「すみません、お取込み中でしたか」
さっと顔を紅潮させたマユカという女性に、申し訳ないと頭を下げる。
「出直してきますね」
「待ってくれ」
陽輔がカウンターの奥から飛び出してきて、唯吹の腕を取る。
「唯吹」
空耳ではない、どこか甘い響き。
なぜ、今ここで、そんな声で、その呼び方をするのだろう。
「陽輔……ごめん。やっぱり私の方が出直すから」
マユカはさっきとは打って変わってしおらしい声で言うと、唯吹にも「すみません」と頭を下げる。色白で少しぽっちゃりとした、とても可愛らしい顔立ちの女性だ。さっき陽輔を問い詰めていた声の印象よりも、ずっと優しい雰囲気の人だった。結婚、という言葉がしっくりと馴染む佇まい。
そのまま店を出ていくマユカに、陽輔は「また連絡する」と言葉をかけるが、彼女の後を追おうとはしない。
ああそういうことね、と唯吹は奇妙に醒めた心で納得する。
詳しい理由は知らないが、陽輔は彼女との関係をほどいてしまいたいのだろう。そのために唯吹と想い合っているという嘘をでっち上げるつもりだったのだ。
意外に残酷な仕打ちをするな、と思った瞬間、頭の中で、さっきのマユカの姿が自分とすり変わる。
偽物の恋人なんて嫌だ、と陽輔に詰め寄る自分。「わかってるって」と冷たく言いながら顔をそむける陽輔。自分を見ようとしない、嘘をつけない真っ直ぐな目。
その想像は、現実としか思えないほどの生々しさで唯吹を打ちのめす。だめだ、と心の中で急ブレーキを踏む。
「久住さん」
唯吹は自分を叱咤するように、わざとらしいほど明るい声を作った。
「お約束のサンプル、お持ちしました」
紙袋を陽輔の胸元に突きつける。
「今シーズンの商品のカタログと価格表も入れておきました。お取扱いいただける商品がありましたら、弊社までご連絡ください」
「唯吹」
その呼び方を拒むように、唯吹は首を振る。
「例の話なら、もうお断りしましたよね」
にっこりと笑いかけると、陽輔が怯んだように半歩後ろに下がった。
「今後、こちらのお店には弊社の別の担当者がお伺いさせていただきます」
「別の、担当者?」
この店は武藤にでも担当してもらおう。彼になら安心して任せられる。自分と違って女性の意見を取り入れた提案もできるだろうし、営業先の不器用なパン屋にうっかり片想いしたりする心配もいらない。
「至らない営業でしたが、色々と勉強させていただき、ありがとうございました」
息を呑む陽輔に、唯吹は丁寧に頭を下げた。狂言に付き合う余裕がなくてごめん、と心の中で謝る。
「失礼します」
「唯吹!」
陽輔の声を振り払うように、唯吹は店を飛び出した。
パンの香りが、背中から遠ざかっていく。
今ならまだ、嘘がつける。
「どうした、椎名。このところぼんやりしてることが多いな」
定例の月曜日のミーティングが終わったところで、社長の有川に直接声をかけられた。
「あ。すみません……ちょっと、先週の出張の疲れが出てるかもしれません」
パリでオーガニックフードの国際見本市があったので、有川と二人で行ってきたばかりである。
「そうか。それならいいんだが、武藤も『最近椎名が落ち込んでる』って心配してたから」
罪悪感で、胸の奥がちくりと痛む。
武藤には「ブーランジェリー・ソレイユ」の仕事を引き継いでもらっていた。自分の代わりに営業に行ってほしい先がある、と相談すると、「ひょっとして、この前の電話の件か?」とずばり言い当てられてしまった。
「俺がヘマをやらかして店主の不興を買っちゃって。でもうちの商品は高く評価してくれていて、引き続き店頭での取り扱いを検討していただけるみたいです」
仕方なくそんな風に説明したが、「人当たりのいい椎名がそういう失敗をやらかすのは珍しいな」と怪訝な顔をされた。あれからもう二週間経つが、余計な心配をかけたかな、と反省する。
とはいえ、武藤にも有川にも、本当のことを明かすわけにもいかない。
「休むときは、切り替えてしっかり休めよ。書入れどきを前に、うちの精鋭の一人に倒れられたら困るからな」
そう言って唯吹を気遣ってくれる有川自身は、今年確か四十二になるはずだが、年に十回以上も海外出張をこなしながら国内の大口営業先もきちんとフォローするタフさだ。少しは見習わないといけない、と唯吹は気を引き締める。
カレンダーはもう十一月だ。アルカディアではシーズンイベントに合わせて取扱商品を入れ替えるようなことはしていないが、クリスマスや年末年始、そして二月のバレンタインデーに向けて、やはり自然と輸入食材の需要は高まる。
「よし、ちょっと気合い入れるか」
ミーティングのある月曜日は内勤日と決めている。たまっていた事務仕事を一気に片付け、すっきりした気持ちで会社を出る。このところ新規店の開拓をする気分になれずにいたのだが、いつまでもそんな甘ったれたことを言っているわけにもいかない。
「あそこに行ってみるか」
食事を兼ねて「鶺鴒亭」に足を向けてみる。例の約束はもうなくなったのだから、堂々と営業に行っても構わないだろう。中途半端に募らせてしまった陽輔への気持ちにけじめをつけるためにも、ちょうどいい。
驚いたことに、フロア担当の女性は前に一度だけ来店した唯吹のことを覚えていた。「とても丁寧な召し上がり方をされるお客様だったので、印象的だったんですよ」と言われ、実は、と彼女に名刺を差し出した。時間のあるときに食材の仕入れの担当者と話をさせてもらえたら嬉しい、と率直に伝える。
すると、食べ終わって会計をするタイミングで、厨房からコックコート姿の男性が挨拶にやってきた。
「椎名さま。本日はお料理をお楽しみいただけましたでしょうか」
名刺を手に、コック帽を取る。
「当店のソース担当係をしております。食材の仕入れの窓口も任されていますので」
へえ、と感心する。ソース係といえば、西洋料理の厨房ではキーマンだ。目の前に立つ中肉中背の男性は唯吹とほとんど変わらない年齢に見えるが、老舗洋食店でそんな重要な役割を任されているとは、よほど腕がいいに違いない。
差し出された名詞に何気なく目を落として、唯吹は息が止まるほど驚いた。
そこには「久住晃輔(くずみこうすけ)」と記されている。
挨拶を返すのも忘れて呆然と手渡された名刺を見ている唯吹に、晃輔が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、どうかされましたか」
はっとする。
「あ……失礼しました。よく似た名前の知り合いがいるので、ちょっと驚いてしまって」
すると、晃輔がおや、という顔をする。
「ひょっとして、弟をご存知ですか」
「……久住陽輔さんのお兄さんでいらっしゃいますか?」
陽輔の名前を出すと、晃輔は途端に笑顔になった。
「陽輔の紹介でご来店いただいたんですか? いやあ失礼しました、言ってくださればデザートくらいサービスいたしましたのに」
「いえ、あの、違うんです。すみません、陽輔君のご家族がこちらにいらっしゃるとは存じ上げなくて」
「え?」
不思議そうな顔をする晃輔を見ながら、似ていない兄弟だな、と思う。目の前の晃輔の方がずっと優しくおっとりとした顔立ちだ。あまり彫りの深くない顔も、丸い目も、陽輔の鋭い顔立ちとは対照的だ。
しかしその晃輔は、穏やかな顔に少し戸惑ったような表情を浮かべて、驚くべきことを訊いてきた。
「ここが陽輔の実家だと聞いていらしたわけでないのですか?」
「え、ええ?」
実家? 陽輔の?
「父の久住大輔が当店の三代目でして、現在は料理長として毎日厨房に立っています」
そうだったのか。
「聞いていませんでした……いえ、僕は、陽輔君の焼くパンのファンに過ぎないので」
何の説明にもなっていないが、晃輔はああ、と頷く。
「あいつのパンはうちのパン担当も褒めてました。あの腕なら、いつうちの店に戻ってきてくれても安心だと」
心臓がいきなり素手で鷲掴みにされたように、どくん、と震える。
「……陽輔君は、いずれこのお店に戻る予定なんですか」
「ええ。ここは陽輔が継ぐことになっていますから」
晃輔の言葉に、唯吹は店内の様子をぐるりと見回してしまう。
石造りの建物は、空襲を免れたと聞く。建設当時の雰囲気を伝える内装も、この店の売りのひとつだ。タイル張りの床の上にはどっしりとした木の椅子とテーブルが並び、ウェッジウッド・ブルーのカーテンがかかる出窓には古伊万里の皿が飾られている。
ダイニングフロアの隅の、両開きの扉の向こうが厨房らしい。皿を手にしたフロア担当者が、せわしなく出たり入ったりしている。コックコートを着てその奥に立つ陽輔の姿を想像する。
「そうですか」
頭が真っ白になってしまって、それ以外の言葉が出てこない。
「アルカディアさんのお名前は、同業者からもお聞きしています。うちのように長年やっている店では仕入れ先を変更しづらい食材もあるんですが、なるべく新しいことにも挑戦していきたいと思っていますので、よければ今度カタログを持ってきてください」
「ありがとうございます」
近いうちに再訪する約束をして、唯吹は店を辞した。
老舗の飲食店への飛込み営業としては、異例なほどの好感触と言っていいだろう。しかし、唯吹の気持ちは高揚とは程遠かった。
(ここは陽輔が継ぐ予定になっています)
ということは、陽輔はいずれ「ブーランジェリー・ソレイユ」を閉めて、鶺鴒亭でパンを焼くことになるのだろうか。自分の焼くパンは主役にならなくてもいい、と言っていたのは、洋食屋で出すパンを想定していたからなのか。
あの日、川沿いの遊歩道のベンチで夢中で食べたパン・オ・レザンの味を、唯吹の舌は今もしっかりと覚えている。この先も忘れることはないだろうと思う。
でも、どれほど鮮明に記憶していても、あれはもう二度と食べられない幻の味なのだ。あれは陽輔のふとした気まぐれがもたらしてくれた、一度きりの幸せな出逢いだったのだ。
俺は莫迦だ、と唯吹は悔やむ。
こんなに簡単に失ってしまえるものだなんて、思わなかった。そうと知っていたら、もっと大切にしたのに。
晩秋の冷たく乾いた風が通りを吹き抜けてくる。唯吹はぶるっと肩を震わせながら、駅までの道を辿る足を速めた。
陽輔の店の営業時間は午前十時から午後七時までだ。とうに閉店時間を過ぎていたが、どうしてもこのまま帰宅する気になれなくて、途中の乗換駅で引き返してきてしまった。
素っ気ない店の外観を久しぶりの思いで眺める。窓にはブラインドが下ろされ、目立たない看板を照らす灯りは落とされている。生真面目な字で「ブーランジェリー・ソレイユ」と書かれた小さな黒板も、もう店の中にしまわれているようだ。
それでも、パンを焼く香ばしい匂いが店の外にまで漂っている。
木の扉の取っ手に手をかける。ここを訪れるのはマユカと鉢合わせて以来だな、と思う。緊張しながらその取っ手を少しだけ引くと、きい、とかすかな音を立てて開いた。人の話し声は聞こえてこない。
思い切って中に足を踏み入れる。売り場は灯りが消されて薄暗いが、レジカウンターの奥の厨房から光が漏れている。
あそこに、陽輔がいる。
彼に会いに来たはずなのに、いざここまで来て、唯吹はどうしていいかわからなくなる。何度も陽輔と言葉を交わしたカウンター越しに、厨房に続くスイングドアをじっと眺める。
人の気配に気づいたのか、胸ほどの高さのその扉から長身の人影がこちらを覗いた。
「すいません、カギ閉めるの忘れてて。今日はもう閉店してます」
いつものぶっきらぼうな陽輔の声を聞いただけで、唯吹は胸が一杯になってしまう。震えるような息をそっと吐いた直後、ばたん、とスイングドアが勢いよく開く音がした。
「い……椎名、さん?」
コックコートを着た陽輔が、切れ長の目を目一杯見開いて、カウンターの向こうからこちらを凝視している。
嘘をつけない視線と目が合うと、もう他のことは何も考えられなくなった。
「陽輔君」
鶺鴒亭で晃輔と話をしていたさっきからの流れで、つい、彼の下の名前を呼んでしまう。だが、唯吹自身はそのことに気付いてもいなかった。
「陽輔君。この店、やめないで」
鶺鴒亭を出てからここまで、ずっと抱えてきた祈りが自然と口をついて出てくる。
「……え?」
「俺、陽輔君の焼くパンが好きだ。パリで有名ブーランジェリーのパン・オ・レザンも食べたけど、全然夢中になれなかった」
出張中、陽輔のことばかり考えていた。朝食のクロワッサンも、いつもなら日本で食べるものより断然美味しくて感動するのに、今回は陽輔のバゲットが恋しくなるばかりだった。見本市でトマトソースの瓶詰めを試食したときは、焼きそばパンを連想して吹き出してしまって有川に変な顔をされた。
ホテルの部屋に戻ってシングルベッドに横になると、陽輔の肩に自分が付けた引っ掻き傷を思い出して、どうしようもなく切なくなった。
「『鶺鴒亭』は素晴らしい店だけど、でも、あの店のどんな料理にも負けないくらい、陽輔君の焼くパンは主役になれると思う。少なくとも俺にとっては、どんな店のどんなメインディッシュより特別だ」
鶺鴒亭の名前を出すと、陽輔の目の色が変わった。
「あの店で、何か聞いたのか?」
カウンター越しに肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。唯吹は睫毛を伏せた。
「お兄さんに聞いたよ。跡継ぎなんだってね」
「……晃輔に会ったのか」
陽輔は唯吹の肩を掴んだまま、がっくりと頭を垂れた。そのまま首を横に振る。
「俺は跡継ぎじゃない」
「え? でも」
「あれは晃輔が勝手に言ってるだけだ。俺はパン屋をやめるつもりはない」
そのとき、厨房で何かのタイマーがピリリ、と鳴った。陽輔が、はっと振り返る。
「悪い。ちょっと待ってて」
「あ……うん」
「いや、やっぱりこっち入って。説明する」
「え」
肩から滑り落ちた手が、唯吹の掌に重ねられた。そのままきゅっと握られ、カウンターの中、さらにスイングドアの向こうまで引っ張って行かれる。
厨房まで入って、ようやく気付いた。
バターの香りだ。
これまで「ブーランジェリー・ソレイユ」の店内では嗅いだことのなかった芳醇な香りが、八畳間ほどの空間を満たしている。
陽輔はタイマーを止めると、大きなオーブンの耐熱ガラスの窓から中を覗き込んだ。ひとつ頷いて、またタイマーをセットし直す。
「パンの味にこだわりのある洋食屋で育ったせいか、俺は子供の頃からパン屋に憧れてた」
隅に置いてあった折り畳み椅子に唯吹を座らせ、陽輔は厨房の中央を占める大きな作業台の上を丁寧に拭き始める。
「でも、俺と違って晃輔は最初から料理人の道を目指してた。同じように親父の手ほどきを受けてもやる気が違うから、兄貴の方がよほど呑み込みが早かった。中学の頃から店を手伝ってたし、調理師専門学校の西洋料理のコースを首席で卒業しても、店に入ったら下働きから始めた。だから、あいつの方がよっぽどあの店の跡継ぎに相応しいんだ」
「ならどうして、お兄さんはあんなことを?」
作業台を拭いた布巾を流しで洗いながら、陽輔はぼそりと言う。
「兄貴は養子だから、俺に気兼ねしてるんだ」
「……養子?」
鶺鴒亭の三代目の久住大輔の夫妻には長く子供ができなかったという。ところが、身寄りのない赤ん坊を跡取りとして引き取り、晃輔と名付けた直後に、母が陽輔を身ごもった。
「親父はずっと長男は晃輔だって言ってるし、料理人としても自分の後継者はあいつだって考えてる。でも、親戚の中には頭の固いのもいてな。九十年近い歴史のある鶺鴒亭は久住の血を引く人間が継ぐべきだなんて、時代錯誤なことを言われたりするんだよ。それで、晃輔は段々と俺に遠慮するようになった。いや違うな、俺があいつに遠慮してるんじゃないかって変な誤解をするようになった」
陽輔自身が店の跡を継ぐつもりはないといくら言っても、自分に気を遣う必要はないから、いつでも店に戻ってきてくれ、と言ってくるという。
「俺より先に子供でもできた日には話が余計ややこしくなると思ってるんだか、長く付き合っている彼女がいるのに結婚にも踏み切れないでいるんだ、あいつは」
どうしようもない兄貴だよ、と言う陽輔の口調は、それでもどこか優しい。
「埒が明かないから、俺は子供どころか当分結婚する気もないんだって思い知らせてやらないと、と思って、それであんたにした変な頼み事を思いついたんだ」
「……え? 例の、恋人のふりってやつ?」
「そうだよ」
弟が男の恋人を連れて行けば、さすがに自分の結婚に関しては踏ん切りがつくだろうと考えたのだという。
「それはまた……すごい力技を思いついたもんだな」
呆れて言うと、陽輔は三角巾の上から自分の頭を掻く。
「こっちも参ってたんだよ。晃輔の彼女の繭香(まゆか)ってのが俺の元同級生でさ、直接晃輔に言えない愚痴を俺にぶつけてくるもんだから」
「繭香さんて……あ」
唯吹は目を見開く。
あのとき、どうして結婚してくれないの、と陽輔に迫っていたあの女性。
「陽輔君と付き合ってたわけじゃなかったのか……」
「だから説明しようとしたのに、あんたが逃げるからさ。なんか色々と誤解されてるな、とは思ったけど、どうも嫌われたような気がしたから、変に追いかけたりしても迷惑なんだろうなって」
「いや、あの、あのときは」
「それっきり担当も変わっちまうし」
「だって……その……」
「椎名さん」
「はい」
生真面目に名前を呼ばれて、折り畳み椅子の上でぴんと背筋を伸ばしてしまう。
「俺、そんなに下手だった?」
「何が?」
「セックス」
「せっ……はああ?」
椅子から跳び上がりそうになる。
「がっつきすぎた、って反省はしてるよ。でもさ、あんたが色っぽすぎるのも悪いんだぜ」
「い、い、色っぽい、って」
「膝ついて見上げてきた顔見ただけで、理性吹っ飛ぶかと思ったし。身体もすげえ綺麗でいい匂いするし、あのときの声も、乱れて掠れるのが強烈に可愛いし……」
「待って待ってやめて」
唯吹は手の前で両手を交差させてバツ印を作る。何を思い出させてくれるつもりだ。
ちょうどそのとき、再びタイマーが鳴った。陽輔が言葉を切って、トレイを引き出すための金属製の取っ手を握る。
オーブンの扉が開く。焼き上がったパンの香りが、一際濃く渦巻く。
「下手じゃなかったよ」
唯吹は、浮かせかけた腰を再び椅子の上に下ろした。
「というか、嫌いになったりしてない。逆だ」
「逆?」
唯吹は目を閉じて、あたたかく香ばしい空気を吸い込む。この香りは駄目だ。嘘がつけなくなる。
「でも、それこそ迷惑だろ。君が頼んできたのは、恋人の『ふり』だったんだから」
ついに、本音を白状してしまった。
「迷惑なわけ、ないだろ」
ごとり、と鉄製のトレイが作業台に置かれる音がする。
あれ、と思った。バターだけじゃない。いつもの陽輔のパンにはない甘い香りが、花が開くようにぱっと広がる。
恐るおそる目を開いた。
「……え」
作業台の上に、まるで魔法で出現したかのように、丸いパンがいくつも並んでいる。
「パン・オ・レザン?」
甘い香りの正体は、これだったのか。
陽輔は焼き立てのそれをひとつペーパーナプキンでくるんだ。それを手に、唯吹の座っている折り畳み椅子の前にひざまずく。
まるで花束でも捧げるようにパンを差し出され、唯吹は目をしばたいた。
「これ……」
「あんたがこれを食べるところをもう一度見たくて、試作してたんだ。商品化したら、食べに来てくれ、って連絡しようと思ってた」
紙ナプキン越しに、焼き立てのパンの熱が唯吹の指先をじんわりと温めていく。
「バターはちょっと手が出なかったけど、レーズンはアルカディアのを使ってる」
まだ湯気を立てているそれに、おずおずと口をつける。一口かじると、しっかりとした小麦の風味とバターのコクが口の中に広がる。カスタードの優しい甘さが舌を滑り落ち、葡萄の素直な味のするレーズンが、ブランデーの香りと共に弾ける。
「……美味い」
涙が出そうだ。
パリにも、世界のどこにもなかった、唯吹の理想のパン・オ・レザン。
陽輔が、今日初めて笑顔になった。
「本当だな」
「何?」
「俺たち、舌の相性がものすごくいいって」
たちまち、舌の先端がじんと甘くなる。
「……なんだかエロい言い方だ」
「エロいこと、考えてるのか?」
膝をついたまま、陽輔が視線を真っ直ぐに唯吹の唇に向けてくる。隠す気なんて最初からない目つきだ。
「陽輔君、ゲイじゃないって言ってたろ」
「あんたとデートするまでは、違ったんだよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
陽輔の手が、唯吹の後頭部に回される。食べかけのパン・オ・レザンを手にしたまま、コックコートの胸元に引き寄せられる。
「なあ。改めてひとつ、頼み事をきいてくれないか」
「……何」
「俺の恋人になってくれ」
睫毛の先が震える。
「『ふり』じゃないなら……いいよ」
爪の平たい指が、唯吹の細い顎を掴んですくい上げた。
「唯吹」
甘い声が、今にも泣き出しそうにわななく唇を撫でていく。
高い鼻がわずかに斜めに傾けられて、唯吹は目を閉じた。
店の二階は陽輔の暮らす部屋だった。手を引かれて、厨房の奥から階段を上がる。室内へ続く扉を入って、靴を脱ぐのもそこそこに、腕の中にさらわれるように抱きしめられる。
「ま、待って」
吐息が触れ合う距離にまで迫った陽輔の唇を、慌てて遮った。
「さっきのパン・オ・レザンで舌火傷した」
「火傷?」
陽輔が急に心配顔になる。
「焼き立てだったもんな。ごめんな」
「いや、陽輔のせいじゃ……」
あまりにも性急な展開が恥ずかしくなって、苦し紛れに言い訳をしたのだが、こんな殊勝な顔をされるとは思わなかった。
「痛むか? 赤くなってるかな。見せてみろ」
「ん。大したことない。先のところ」
ぺろっと舌を出してみせる。
「いただき」
「ん、あっ?」
と、突き出した先端をすかさず、ちろり、と舐められた。
「あ、ちょっ……ふあ」
あっさりと唇を重ねられて、じっくりと口の中を味わわれる。火傷した箇所が一瞬だけひりっとしたが、たちまち、とろけるような感覚に包み込まれてしまう。慰撫するふりをして隅々まで確かめていこうとする陽輔の舌が、不届きで、憎たらしくて、気持ちいい。
背中に陽輔の腕が添えられると、足から力が抜けそうになる。
騙し討ちのようにして奪われたキスなのに、陽輔が離れていこうとすると、自分から唇を追いかけてしまう。こんなの、好きな相手としかできないに決まってる。
「悪い。やっぱり待てない」
ようやく顔を離した陽輔はそう言うと、唯吹の身体を肩の上まで担ぎ上げた。
「わぁっ?」
その体勢のまま、部屋の奥のベッドまで運ばれる。スプリングの効いたマットの上にどさり、と下ろされて、跳ね返ろうとしたところを上からのしかかられる。
仰向けになった唯吹の腹の上を跨ぐようにしながら、陽輔は階下から着たままだったコックコートをばさりと脱いだ。
「直接、触りたい」
黒のTシャツ姿になった陽輔の身体は、オーブンの余熱を身にまとっているみたいに熱い。その熱が唯吹にも流れ込んでくる。服なんて着ていられない。
ネクタイの結び目をほどく。ジャケットの袖を抜いてベッドの下に落とす。皺になろうが構うものか。
「俺に、させて」
胸元に戻した手を、ぱしりと掴まれた。
「え」
「脱がせたいな、って思ってた」
陽輔の指が、唯吹のワイシャツの一番上のボタンを外した。そのまま、金庫の鍵を開けるみたいに前をはだけられていく。
自分を隠すものを一枚ずつ奪われていく行為が、こんなにも、狂おしいほど甘美なものだなんて知らなかった。
「あ……」
下着もすべて剥ぎ取られた。陽輔の視線に晒されて、無防備な素肌がじわりと熱を持つ。
「ここ」
自分もTシャツを脱ぎ捨てた陽輔が、裸の上半身を唯吹の腰の上に屈めてきた。
「舐めさせて」
「え……いや、いきなりそれは」
「唯吹だって、いきなり咥えたくせに」
既に反応し始めているそこに、陽輔が手を沿える。
「されんのは、嫌いか?」
「き、嫌いじゃないけど……ふ、あっ」
ちょん、と味を見るように舌先でつつかれ、喉が仰け反った。
こちらを見上げて、陽輔が意味深に言う。
「甘い」
口元だけで笑う表情が、逃れられなくなりそうなほど魅惑的で、無駄に抵抗したくなる。
「嘘だ」
「嘘じゃない。唯吹の身体は、どこもかしこも甘い。唇も、舌も、ここも」
「そういう恥ずかしいこと、言うな」
「恥ずかしいんだ?」
「この……あっ、やあっ」
一気に呑み込まれて、強がりを言う余裕は皆無になった。
下から絞り上げるみたいに吸われたと思うと、張り出した傘の部分をくるりと舐められる。丸まっていた神経の先端を研ぎ直されるみたいに、息つく間もなく快感を探り当てられていく。
「だめ、だって……もう……」
陽輔の髪を両手で鷲掴みにした。
これ以上、されたら。
「あとちょっと」
「あ、そんな……陽輔っ」
その手を引き剥がされ、腰の脇でシーツの上に押さえつけられてしまう。身動きの取れない体勢のまま、再び口に含まれた。
「は、あああっ」
細かく震えるほど昂ぶらされているそこを、さらに追い立てるように刺激される。感じやすい先端を集中的に攻められて、欲望が一気に沸点に達する。
「あっ、ひぁあっ……」
両手首をベッドの上でがっちりと固定されてしまっていて、あられもない声を上げる口を塞ぐこともできない。
こんなにも濃密な責め苦に、長く耐えきれるはずがなかった。
「いや、だっ……て……離して……あ、ああ」
限界まで圧力を高められた性感が、シャンパンのコルクを抜くみたいに一気に噴き出す。
「や、あ、ああああっ」
押しとどめるすべはなかった。すすり泣くような声を上げ、腰をがくがくと震わせながら、陽輔の口の中に放ってしまう。
残らず吐き出してしまうと、濡れそぼった感触を残して陽輔が口を離す。ごく、とその喉仏が上下した。
「な……」
驚愕のあまり、うっすらと涙の膜で覆われた目を見開く。
「飲んだのかよっ……」
陽輔は掌の底で自分の唇を拭った。
「さすがに、これは甘くはないな」
「当たり前、だろ」
「でも、唯吹が興奮してるんだと思うと、俺も興奮する」
底光りするような瞳にじっと見据えられると、一度空っぽにされた身体が、満たしてくれるものを求めて疼く。
「陽輔……」
自分の声が掠れているのがわかる。きっと、陽輔も気付いている。
陽輔の指に、頬をそっと撫でられる。そこだけひんやりと冷たく感じるのは、自分の顔が火照っているせいだ。
「唯吹」
「ん」
「体位、何がいい」
「え?」
「今日は俺じゃなくて、唯吹がどうしたいかを教えてくれ」
「どう、って……」
咄嗟に、顔が見たいという言葉が浮かんだ。
陽輔の目を見ながら、したい。
それが、この前の陽輔の答えと一致していることに気付く。あたかも何かの答え合わせであるかのように。
唯吹は思わず目を上げた。
陽輔は視線を逸らすことなく、心の矢印の向くままに、唯吹の顔を見つめてくる。あの夜も、今この瞬間も、それは変わらない。
この、嘘のつけない目が好きだ。お前が欲しいとあからさまに訴えかけてくるこの目が好きだ。そういう目を臆することなく向けてくる陽輔のことが好きだ。
あのとき陽輔も、今の自分と同じことを思ったのだろうか。
(あんたとデートするまでは、違ったんだよ)
「嘘じゃなかったんだな」
「何が」
「なんでもない」
こんなときに自然と笑みが浮かんでしまうことを、今まで作り物の笑顔ばかりでやり過ごしてきた唯吹は知らなかった。
「俺は、陽輔とキスしたい」
首の後ろに腕を回して囁くと、陽輔はなぜか難しい顔をする。
「困ったな」
「何が」
「今すると、多分……不味いぞ」
そう言って、さっき唯吹のものを飲んだばかりの舌を、べろっと出してみせる。
「莫迦」
「あとそれ、体位じゃないよな」
「もう黙れ」
腕を引き寄せて、手っ取り早く陽輔の口を塞ぐ。
たちまち、味覚として感じるものとは別次元の甘さが広がって、唯吹の全身を満たしていった。
惚れた弱みって、怖い。
なんでも許してしまいそうだ。いや、それどころか、なんでも許してもらえると信じ込まされてしまいそうだ。
「くぅ……っん」
鎖骨の上を強く吸われて、唯吹は反射的に、覆い被さってくる肩に爪を立ててしまった。
「唯吹、可愛い」
「どこがっ」
さっきからこの男に、散々自分の中の我儘を引きずり出されている。どうしてほしい、としつこく訊かれて、降参して何か答えるたびに、陽輔はこんな風に満足そうな顔をする。
「感度のいいところが」
「だから、そういうこと……ひ、あんっ」
陽輔の唇が胸元に落ちた。
「ここも、感じるんだよな」
平坦な胸の先端に、そこだけ特別な感覚が埋もれていることを知らせる目印がある。そこに、くちゅ、と吸い付かれて、肌がざわりと粟立った。
「感じ、ないっ……」
「こういうときの唯吹は、嘘つきだな」
「あ」
「パン食ってるときの舌は、正直なのに」
両手を頭の上でひとまとめにされて、片手で押さえつけられる。
「ほら。もう、こんなに硬くなってる」
唯吹自身にそれを確かめさせるように、もう片方の手の指先でぴん、と弾かれた。そのまま周囲をゆるりと撫でられて、小さな尖りが強調される。
「あ、ああっ……」
唇で挟まれ、舌でこね回される。指先で弾かれ、くにゅりと押し潰され、細かく円を描くように転がされる。
「それ、あ……やっ」
「こりこりしてる」
「言う、なっ……あ……」
抵抗する自由を奪われた上で与えられる快感は、逃げ場のないぶん、身体の中で何倍にも膨れ上がる。
「ふあああっ」
薄く歯を立てられたところで、たまらず、腰をびくりと跳ね上げてしまう。
「唯吹。気持ちいいか?」
さっきからこうだ。取り繕うための仮面をかぶろうとするたびに、それを剥がされる。言い訳のできないところまで追い込まれて、快楽の在処を白状させられる。
「気持ち……いい」
観念して認めると、ようやく両手首の戒めを解かれた。すかさず、両腕を額の上で交差させて顔を隠す。
「それは駄目」
「あ」
その腕をあっさりとほどかれてしまう。目盛りを読むような真剣な顔で覗き込んでくる陽輔と目が合って、顔が火を噴く。
「そんな、まじまじと見んな」
「どうして」
ふい、と顔をそむける。
「やらしい顔見られて、幻滅されたら困る」
「莫迦言うなよ」
顎を手ですくい上げられるようにされて、陽輔の正面に顔の向きを戻された。
「俺はあんたの、こういう顔にやられたんだ」
「やられた、って」
「甘く見てた。自分が本気で男と恋愛するわけないって高をくくってた。でも、あれからずっと唯吹の顔が頭から離れなくて、あ、これはもう逃げられない、って思った」
切れ長の目の奥で、黒々とした瞳が情慾に濡れている。
「いつも店に来てるあんたと全然違う顔してるのが、なんか……たまんなかった。目が離せなかった」
睫毛の先の震えまで、その視線に掴まってしまいそうだ。
「俺の腕の中で可愛い顔をする唯吹をもっと見たい、ってずっと思ってたんだ。幻滅なんてしない」
欲望を露わにした目で、それでも陽輔はただじっと唯吹の目を見つめてくるだけだ。強引に奪おうとするのではなく、唯吹の方から扉を開くのを待ってくれている。
閉店した店の奥で、密かに、唯吹のためにパンを焼いていてくれたように。
「陽輔」
「ん」
「陽輔が、好きだ」
彼に対してだけは、自分も嘘のつけない人間になりたい。だから、正直に明かす。
「もっと……陽輔が、欲しい」
ほどかれた両腕で、端正な顔を引き寄せる。陽輔が口の端をひねって、ぞくぞくするほど色っぽい笑いを浮かべた。
その二の腕に、硬い筋肉がくっと寄る。
「え……あっ」
膝の裏を掴んで持ち上げられた。足の指が空に弧を描いて、身体の中の一番嘘をつけない箇所が陽輔の目に晒される。
「どこに、欲しい?」
耳の脇にあやすようなキスと、意地悪な声が降ってくる。
わざとだ。わかってる。でもこんな声で訊かれたら、まんまと術中に落ちるしかない。
シーツの上に下ろした爪先を立てて、唯吹は腰を浅く持ち上げた。狭い谷間の奥で、そこが物欲しそうにひくついている。
「ここ……」
羞恥心を凌ぐ渇望が、唯吹の声を濡らす。
「挿れて」
陽輔が押し殺したような息をついた。
「やばい」
「何、が」
「あんまり可愛くて、泣かせたくなる」
ベッド脇の棚に、陽輔が手を伸ばした。見覚えのあるボトルと箱は、あの日、唯吹がホテルに置き忘れていったものだ。
「んくぅ……っ」
濡らした指に窪みを抉られて、唯吹は息を詰める。
「狭いな……大丈夫か」
陽輔の指が、少しずつ探るように奥へと進んでくる。もどかしさがうねりとなって、唯吹の腰をゆらめかせる。
「あ……そこ、は」
ちょうど指の第二関節くらいまで呑み込んだところで、痺れるような感覚がかすめた。
「ここ?」
「ああっ」
中でわずかに膨らんでいるそこを指の腹でつつかれ、神経が発火するような刺激が走る。
「や……そこっ、ぐりぐり、すんの……」
「ああ……だいぶ、とろけてきたな」
指の動きに合わせて、陽輔の声も揺れる。その響きがますます、唯吹の熱を煽り立てる。
「よ……すけ……もう、はやくっ……」
かつて一度与えられたことのある熱の形を、身体の奥ではっきりと思い出す。
「だから……あんたのその顔、やばいんだって。抑えらんなくなる」
引き絞るような陽輔の声に、唯吹は叫び返しそうになる。
抑えないで。解き放って。このまま、俺を奥まで犯して。
「来てっ……もう、待てない」
これ以上、自分の中だけに留めておけない。
「くっそ……知らねえぞ……」
「いっ……あ、ああああっ」
待ち望んだそれに貫かれた瞬間、唯吹の中で何かが砕け散った。自分を覆っていた殻のようなものが裂けて剥がれ落ちる。
「う、あぅんっ」
さっき指先で探り当てられた箇所を、比べ物にならないくらい太く、熱いもので擦り上げられた。反射的に逃げようとした腰を掴まれて引き戻され、繰り返し穿たれる。
「ひぅっ……う……ぁっ……」
ずん、と強く突き込まれたと思うと、ゆるりと引かれて先端まで抜き取られそうになる。あ、と落胆した次の瞬間、また重たい熱を奥まで埋め込まれ、悲鳴を上げる。
「あっ、ああっ……よう、すけ……」
「唯吹……中、うねってて……すげ……」
「んんっ、ぁ……」
ぐいっと片足を抱え上げられ、そのまま最奥まで捻じ込まれた。
「ふ、かいっ……あっ、はっ……」
抜き差しされ、掻き回され、入口から奥までぐずぐずにとろかされていく。
「唯吹……こっちも、また硬くなってる」
陽輔の手が、揺すり上げていた腰の前方へと伸ばされた。
「やああっ、それだめっ」
さっき陽輔の口で一度達したはずなのに、そこは再びきつく張り詰め、反り返って天を仰いでいる。先端から濃い蜜を滴らせているそれを絞るように握りしめられて、もがくような喘ぎ声を上げてしまう。
「あああっ……い、やあぁ」
欲望の出口を握られ、後ろも愉悦に塞がれて、唯吹は背を思い切り仰け反らせた。
「唯吹……イクときの顔、見せて」
「や、あ、あああ、ああっーーー」
掌で軽く擦り上げられただけで、そのまま溶け崩れるのではないかと怖くなるほどの絶頂が訪れる。瞼の裏でぱちぱちと炎がはぜる。
「あ、くそ……唯吹、可愛い……」
陽輔の声が重たく掠れる。唯吹の中に入ったまま、その背が、ぶるりと震えた。
「あ……あ、よう……すけ……」
陽輔の熱で自分の中を溢れさせる。それが目尻から零れて、頬を伝う。
その雫を、陽輔の唇に吸い取られた。
「甘い」
耳元で囁かれて、唯吹は泣きながら笑う。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
濡れた唇が、その笑みの形に重ねられる。
(あ。本当、だ)
汗ばんだ身体を絡み合わせるようにして交わすキスは、シナモンよりも、カスタードよりも、レーズンよりも甘かった。
焼き立てのパンの香りほど人を正直にさせる匂いも少ないだろう。バターのふくよかな香りが加わればなおさらだ。
バゲット、パン・ド・カンパーニュ、バタール。シャンピニオンにエピ。潔いほどシンプルないつもの顔ぶれが並ぶ棚の真ん中に全粒粉のクロワッサンとパン・ソレイユ・レザンが加わると、「ブーランジェリー・ソレイユ」の飾り気のない店内がいきなり華やかになる。
焼き立てをひとつずつトレイに載せ、唯吹はレジカウンターで陽輔と向かい合った。
「一番乗り」
そう宣言すると、陽輔が不器用に笑う。
「まいど」
土曜日の朝十時。店内にはまだ他に誰もいない。今日発売のこの二種類のパンを一刻も早く手に入れたくて、開店前から待っていたのだ。いや、正確には昨夜からずっと、二階の陽輔の部屋にいたのだが。
「ここで食べてもいいかな」
唯吹と武藤の提案で、売り場の隅には小さなテーブルひとつと椅子が二脚置かれた。今は唯吹の指定席のようになっているが、今後は買い食いをしていく客も増えるだろう。
「もちろん」
木の椅子を引いて腰を下ろす。早速クロワッサンにかぶりつく唯吹を、レジカウンターに両手をついた陽輔がじっと眺める。
「そんな、まじまじと見んな」
落ち着かないから、と抗議すると、陽輔が目元だけで笑う。
「いつ見ても、幸せそうに食うなあ、って」
「実際、幸せなんだから仕方ないだろ」
口元についたクロワッサンの破片を、指でつまんで唇に挟む。その行方を陽輔の視線が追う。嘘をつけない、真っ直ぐな目。
「今晩のことだけどさ」
クロワッサンを瞬殺し、パン・オ・レザンに取りかかる前に、唯吹は切り出した。
「ん?」
「やっぱり、いきなり俺を恋人だって家族に紹介するのはやめといた方がいいと思う」
今日は陽輔の誕生日だ。「ブーランジェリー・ソレイユ」の閉店後に、二人で「鶺鴒亭」へディナーを食べに行くことにしている。
「なんで」
陽輔はレジカウンターの外に出てきて、唯吹の向かいの椅子に腰を下ろした。
「嘘じゃないんだから、いいだろ」
「嘘じゃなきゃ、なんでもいいってもんじゃないんだよ。なんの前触れもなくいきなり弟に男の恋人を紹介されるお兄さんの身にもなってみろって」
唯吹の場合、実家の両親は息子が女性に興味がないとなんとなく察していたようだが、それでもはっきり打ち明けたときはそれなりにショックを受けていた。晃輔にとっては、青天の霹靂以外の何者でもないだろう。
「焦んなくていいって。時間をかけて少しずつ、認めてもらおう」
半ば自分に言い聞かせるように言う。老舗洋食店を納得させられるだけの仕事をしている自信がつけば、いずれ、陽輔の恋人だと堂々と自己紹介できるようになるだろうか。
険しい顔をしていた陽輔が、ふっと眉間の皺をほどいた。
「それって、これからも長いこと一緒にやっていこう、って意味でいいんだよな」
「……当たり前だろ」
「唯吹。顔、赤い」
「あ、莫迦。表から見える」
テーブル越しに身を乗り出して顔を近づけてくる陽輔を、慌てて遮る。
「ちぇ」
「ちぇ、じゃない。ちゃんと仕事しろよ」
「客いないんだからいいだろ」
「俺だって客なんだけど」
渋々立ち上がる陽輔に、追加の注文を出す。
「夕方でいいから、パン・オ・レザンを持ち帰りで十個くらい用意しておいて」
その言葉に、カウンターに向かおうとしていた陽輔が呆れ顔で振り返った。
「……太るぞ」
「莫迦、自分用じゃないよ。『鶺鴒亭』に手土産で持っていくんだって」
陽輔が目を見開く。唯吹は手に持ったパン・オ・レザンを誇らしげに掲げてみせた。
「これを食べさせれば、陽輔が本気でパン屋しかやるつもりがないって伝わるよ」
陽輔のパンの威力は絶大だ。嘘やごまかしは一切通用しない。
「料理の脇役だなんて、言わせない」
「唯吹」
一度立ち上がった陽輔が椅子に座り直した。
「あ」
かぶりつこうとしていたパン・オ・レザンを取り上げられる。
「唯吹は、俺と俺の焼いたパンと、どっちが好きなんだ」
「……は?」
何かの冗談かと思ったが、陽輔は至って真剣な眼差しで唯吹の顔を睨んでくる。
「なあ、どっち」
思わず、「ぶはっ」と吹き出してしまった。
「その二者択一で来るとは思わなかった」
拳を手に当てて、笑い声をこらえる。
(仕事と俺と、どっちが大事なんだ)
そんな風に責められて倦んでいた日々が、はるか遠い昔に思える。
陽輔がむっとした顔になった。
「しょうがないだろ。俺のパン食ってるときの唯吹があんまり可愛い顔するから、ときどき心配になるんだよ」
顔を隠していた手を陽輔の手に捉えられて、きゅっと握られる。高い鼻が、唯吹の鼻先をかすめるように傾けられる。
(あ)
押し切られたキスは、焼き立てのパン・オ・レザンよりもずっと、舌に甘い。
もう二度と、この舌で嘘なんてつけなくなりそうだ。
(了)
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