恋愛不全細胞


 

 月曜の一限。ただでさえ駅から遠い理学部キャンパスの、さらに一番奥の五号館A棟の三階。一体どんな嫌がらせだ、と雨宮颯馬(あめみやそうま)は階段を昇りながらうんざりする。生命情報工学基礎論を担当する村井准教授は、まだ若いこともあって学生には気さくに接する一方、出席には滅法厳しく、遅刻は許されない。

 授業開始の二分前に教室に到着し、後ろ寄りの入り口に近いいつもの席に腰を下ろす。テキストやノートを鞄から引っ張り出していると、始業ベルが鳴り始めた。

 それと同時に、一人の男子学生が慌ただしく教室内に駆け込んできた。颯馬の右斜め前の席を占めて、「セーフ」と独り言を漏らす。三階まで階段を駆け上がってきたのか、荒い呼吸に合わせて肩が大きく上下している。

 彼だ。

「では、授業を始めます」

 村井が静かに宣言すると、それまで教室内を飛び交っていた私語が床に沈殿していくように静かになる。そんな中、颯馬の斜め前に座った彼はノートでしばらく顔を仰いでいたが、よほど暑かったのか、着ていたセーターを頭から勢いよく抜き取った。

 その拍子に、何かがこつんと颯馬の額にぶつかる。

(なんだ?)

 ノートPCのキーボードの手前に小さな群青色の光が落ちた。注意深く拾い上げて見ると、透明な青い石に銀色の金具の付いたシンプルな形のピアスだ。

 颯馬は顔を上げて、斜め前の後ろ姿に視線を投げた。明るい茶色の髪から、うっすらと上気した両耳が覗いている。右耳の裏側にきらりと光るものが見えたが、同じものが左側には見当たらない。

 その肩をつつこうと手を伸ばしかけた颯馬は、あることに気付いてどきりとした。

 毛先を無造作に遊ばせた襟足の左寄り、カットソーに隠れそうな場所に、ぽつんと赤い跡がある。

 他の学生だったら、何かが擦れた跡かと思って気にも留めなかったかもしれない。だが、他ならぬ相楽仁(さがらじん)の首筋に浮かぶ、花びらのような形にうっすらと充血した跡は、朝の大学構内には似つかわしくない艶めかしい気配を放っていた。

 その紅色に色づいた印を見ていると、昨夜は一体誰とどんな風に過ごしていたのだろうか、と、不埒な想像を掻き立てられてしまう。

「まずは先週の課題の確認から。皆、データにアクセスして」

 村井の声に、颯馬は慌てて妄想を意識の外に追いやった。月曜の一限から、こんな不謹慎なことを考えている場合じゃない。手の中のピアスの片割れを、セーターの下に着たシャツの胸ポケットに慎重にしまうと、ノートPCに自分の学生IDを打ち込む。

 バイオインフォマティクスなどとも呼ばれる生命情報工学は、遺伝子やタンパク質などの解析をするためのコンピュータ・サイエンスだ。村井准教授は、研究に関係するプログラミングは研究者自身がやるのが望ましいという考えの持ち主で、後期に入った今は実習に力を入れている。授業は、先週提出した課題プログラムについての講評から始まった。

「最高点は雨宮。シンプルで洗練されたプログラムだ。模範回答として全員が共有できる形にしておいたので、参照しておくように」

 村井の声に、何人かの学生がちらりと称賛の視線を向けるが、颯馬は眼鏡の奥の硬い表情を崩さない。こんな風に注目を浴びるのはあまり好きではなかった。

「まあ、現時点では解析の要点を押さえていれば十分だから、それほど難しく考えなくてもいい。簡単な講評は各自に送ってあるので、それと雨宮の回答を参考に、自分のプログラムの問題点を洗い出してみるといい」

 ログイン後の画面を確認し、講評を読む。満点。要修正箇所は特になし。さらに応用問題が示され、これらのより高度なプログラムが組めるなら課題点を加算する、とコメントがあった。

「先生、俺『再提出』ってなんですかー」

 そのとき、斜め前でうんざりしたような声が上がった。

「相楽…その課題、提出前にサンプルデータの解析をしてみたか?」

 村井も負けずにげんなりした調子で応じる。

「やったら、なんかエラーが出ちゃって」

「だから!エラーが出るということはプログラムが間違ってるわけなんだから、その場合は提出前にちゃんと見直せと何度言えば…」

 村井が頭を抱え、教室内に失笑が漏れる。当の仁は、飄々とした調子で頭を掻いている。

「えーだってめんどくさいんだもん」

「相楽。いくら出席率がよくてもこの分じゃ単位はやれないぞ」

「先生はそんな冷血漢じゃないって、俺信じてますから」

「私の中を流れる熱い血が、学生をこんなレベルに放置することを許さない。きちんと作成し直して、期日までに私の研究室のアドレス宛にメールで送るように。テキストと参考資料を丁寧に読めばできるはずだ」

「うへー」

 仁ががっくりと肩を落とす。村井はやれやれ、という顔で、授業に戻った。

「今日はタンパク質立体構造の解析について、前期にやった理論を復習しよう」

 教室内の照明が落とされ、前方のスクリーンにスライドが投影される。そのとき、颯馬の右側に座っている男子学生がひそひそと囁いた。

「どーせ、頭ん中はエロいことしか考えてねえんだろ」

 そう言って仁の首筋を意味ありげに指差すと、隣の学生が低い声でけけけ、と笑う。

「相手が男か女か知らねえけどな」

「女はともかく、男相手とかありえねーよな」

「単位目当てに教員を誘惑してる、ってホントかな」

 隣に座っている颯馬と、斜め前の仁にしか聞こえないくらいの小さな声だが、下品な物言いが神経に障る。

 颯馬は、机の上に置いたテキストと参考資料を、右肘でなぎ払うように押しやった。ばさばさっ、と派手な音がして、本が隣の学生に当たって床に落ちる。

「悪い」

 びくっとしたその男子学生――ろくに名前も覚えていない――の顔を、眼鏡の奥から睨みつけた。負け惜しみのような舌打ちが聞こえたが、それには構わずに本を拾い上げる。ひとまず、耳障りな私語が止みさえすれば十分だ。

 テキストを手に正面に向き直ると、こちらを振り向いた仁と目が合った。

 暗い教室の中でも、その唇が綺麗な曲線を描いて、晴れた空のような明るい笑みを作ったのが見えた。

 次の瞬間、仁はひらりと前を向く。

「構造が少し変わっただけで機能しなくなるのがタンパク質の特徴だが、ではその構造をどのように解明するかというと…」

 村井の説明を聞きながら、颯馬は内心舌打ちをする。仁を庇うつもりなんかこれっぽっちもなかったのに、まるでこちらに感謝するかのような笑顔を向けられたのが鬱陶しい。

 それなのに、なぜかあの屈託のない笑顔を、授業中も何度も思い浮かべてしまう。そんな自分が何より忌々しかった。

 

 

 その日の昼休み、颯馬はキャンパス内のカフェコーナーに立ち寄った。授業の合間にここで寛いでいるよく仁を見かけるのだ。

 コーヒーを入れたタンブラーを手に席の間を歩いていると、植木の向こうから話し声が聞こえた。

「えーマジ。俺、本気にするよ」

 軽い調子の笑い声は聞き間違えようがない。だが、植木をぐるりと迂回したところで颯馬はぎくりと立ち止まった。

 テーブルには仁と、その隣に女子学生が一人座っている。顔が小さくモデルのような体型で、ちょっとエキゾチックな雰囲気の美人。光岡彩絵(みつおかさえ)という彩り豊かな名前とは対照的に、今時珍しいくらい真っ黒なストレートの髪を背中まで長く伸ばし、全身モノトーンの装いだ。

 社会学部の学生がなんでこっちのキャンパスにいるんだ、と、目が合った一瞬に軽く睨むと、彩絵はあっさりと腰を上げた。ヒールの高いブーツを履いているせいもあるが、身長は颯馬とほとんど変わらない。

「じゃあその話よろしく、相楽君」

「ん。今度声かけるわ」

 にやりと笑って片目をつむる、そんな軽薄な仕草がここまで似合う奴もそういないな、と、颯馬はうっかり見とれそうになる。

「またね」

 彩絵はひらひらと手を振ると、颯馬の方には目もくれず、きびきびとした足取りで歩き去った。もちろん颯馬も、すれ違いざまに声をかけたりするようなことはせず、知らん顔をして仁の方に歩み寄る。

「相楽」

 声をかけると、ぱっとこちらに顔を向ける。

「おー雨宮じゃん」

 くしゃっと少しワイルドにスタイリングした、赤っぽい茶色の長めの髪。細めに整えられた少し吊り上った眉と、対照的にやや垂れ気味の人懐こそうな目が個性的だ。そして、スマイルマークのような曲線を描く口元。

 その右耳だけに、青い石のピアスが嵌っているのが見て取れた。

 テーブルにコーヒーを置き、仁の向かいの椅子を引いて腰を下ろすと、セーターの奥の胸ポケットに手を差し入れて、片方だけのピアスをつまみ出す。

「これ、さっき村井の授業で落としたろ」

 テーブルに置くと、深い青色の石が光をきらりと反射した。

「あ」

 仁が素早く左の耳朶に指を滑らせる。それから、意外そうな顔で二、三度目をしばたかせたと思うと、すぐにいつもの愛嬌たっぷりの顔に戻った。

「いやー、わざわざわりーな。でもそれ、もういらないから捨てといて」

「はあ?」

 思わず語尾を跳ね上げるような声で訊き返すが、仁はにこにこ顔のまま続ける。

「キャッチも失くしたみたいで、どうせもう着けられねーし」

 唖然とした。

 颯馬には、目の前にあるこれが高級品か安物かの区別もつかないが、金具を失くしたくらいでこんなにあっさりと、まるで使い終わった割り箸をゴミ箱に捨てるみたいに、もういらない、なんて言えるものなのか。

 わけもなく、哀しくなる。

「そんな簡単に…いらないとか、言うなよ」

 だが、仁は悪びれもせず、おどけて肩をすくめた。

「別に、そんな大事なもんでもねーんだよ。どうせもらいものだしさ」

 ぞんざいな言い方にかちんときて、颯馬はテーブルの上のピアスをつまみ上げた。

「人からもらったものなら余計に、大事にしなきゃだろ」

 仁の手首を掴んで掌を上向かせ、その上に水滴のような石を落とす。

 自分の手の上のそのピアスを何か未知の物体であるかのようにじっと見ていた仁が、ひょいと顔を上げた。

「意外。やさしーんだな、雨宮って」

 耳がかっと熱くなった。仁のへらへらした言い方のせいで、まるで莫迦にされているように感じてしまう。だが、仁はその軽い口調のまま、素早く左耳のピアスを外した。

「じゃあこれは、俺から雨宮にあげる」

「へ」

「似合いそうだし」

 仁が腰を上げて身を乗り出してきた。颯馬が反射的に背をのけ反らせるのにも構わず、距離を詰めてくる。

「穴、開けてみたら?雨宮、ぜーってえ似合うって」

「似合うわけないだろ」

 ただでさえ女顔なのを少しでもカムフラージュしようと、敢えてコンタクトにせずにいるのだ。アクセサリーの類を身に着けるなど、まっぴらだ。

 だがふと、こいつは不思議とそういうのが似合うな、と思う。

 美男子ではあるが優男というわけではない。それなのに、光る石のピアスもごついデザインの指輪もエスニックなビーズのブレスレットも、どれも仁が身に着けるとしっくりと馴染んで、独特の色気をさらに際立たせる。

 どんなスタイルでも自分らしさを表現できるのは一種の才能だろう。他人の目を気にせず自由奔放に振る舞える資質と同じように。

「雨宮って、よく見ると繊細な感じの美形だよなー。眼鏡外して前髪上げたら、随分雰囲気変わりそう」

 こちらをじっと見つめてくる仁の視線から慌てて目を逸らしたが、油断した隙にひょいと眼鏡を外されてしまった。

「わ。睫毛ながっ」

「おい、やめろ」

 視界がぼやけた。仁の器用そうな長い指が、颯馬の癖のない、長くて黒い前髪を、するりと額の上に掻き上げる。

「色白だしさ、綺麗な色の石、結構いいと思うぜ」

 耳朶の下に指を当てられ、軽く押し上げられた。仁がピアスを颯馬の耳に当てる。

「なに…すんだ」

 思わず目を閉じてしまった。意思とは無関係に、肩がぴくりと震え、声が裏返る。

「あ…やべ」

 ぽつりと、仁がつぶやいた。

 何がやばいんだ、と、身を硬くしたまま恐るおそる目を開ける。

 至近距離からこちらを見下ろしている顔に焦点を合わせる。目が合った瞬間、耳の下に添えられていた指が離れた。

 支えを失ったピアスがこぼれて、テーブルの上で跳ね、床に落ちる。

「雨宮と、相楽?」

 自分たちを呼ぶ声にはっと我に返った。颯馬は慌てて、テーブルの上に置かれた眼鏡をかけ直す。

「あ。村井先生」

「…こんなところで何を見つめ合ってるんだ、お前らは」

 呆れたような声で背後から近づいてきたのは、通りがかったらしい村井准教授だった。

「雨宮がバイオインフォの課題見てくれるって言うんで、お礼にちゅーしようとしてたら先生に邪魔されたところでっす」

「ちょ…相楽っ」

 一体どうしてそんな話になるんだ、と颯馬は眩暈がしそうになるが、村井はなぜか安心したように頷いている。

「そうかそうか。雨宮、悪いがちょっと面倒を見てやってくれな。真面目に出席してる学生に落第点をつけるのは、さすがに忍びない」

「え?」

「じゃあ私は、今日はこの後一般教養の授業だから」

 満足そうにそう言い置いて、立ち去ってしまった。

「お前の課題を手伝ってやるなんて、一言も言ってない」

 苛立ちを隠そうという気遣いすらせずにそう言い放ったが、仁はすっとぼける。

「えーいいじゃん。その代わり、科学英語を俺が手伝うってことで、どう?」

 思いがけない提案だった。

 ほとんどの科目で優秀な成績を上げている颯馬だが、英語だけは少し苦手だ。一方の仁は英語は得意らしく、普段から海外の論文も苦もなく読みこなしているようだ。悪くない取引かもしれない、と思いかけたとき、きらりと、足元に転がっている深いブルーの光が目に入る。

 いらない、とためらいなく言い切った仁の笑顔を思い出して、苛立ちが甦った。

「断わる」

 会話を断ち切るように言うと、仁はあっさりと引き下がる。

「そうか、ざーんねん」

 荷物をまとめ、「んじゃ」と言いながら立ち去って行く。その背中が見えなくなると、颯馬はかがんで、足元に転がったままのピアスの片割れをそっと拾い上げた。

 

 

 相楽仁の噂を初めて耳にしたのはいつ頃だったろうか。

 最初は颯馬も、同じ生命科学科に派手な奴がいるな、くらいにしか思っていなかった。だが、男も女も関係ない節操なしの遊び人だ、などという不謹慎な噂を耳にして以来、彼の存在を変に意識するようになってしまった。

 大学構内で院生の男とキスしてた、とか、パンキョーの女性講師と寝たらしい、なんて話が次々と面白おかしく囁かれるが、本人はあまり気にしている風でもない。興味本位の視線と無責任な噂に取り巻かれる状況を面白がっているのか、わざと自分からネタにするようなことさえあり、その偽悪的な振る舞いが颯馬には少々鼻につく。とはいえ陰口を叩くような連中に加わる気にもなれず、喧騒を横目で見ながら、ひたすら関わり合いを持つまいとしてきた。

 だから、今回のピアスの一件はもう、不覚だったとしか言いようがない。あんなにあっさりと、いらない、などと言われるのなら、最初から親切心など起こさなければよかった。

 腹立たしい気持ちを抱えながら帰宅すると、マンションの玄関を入った途端に携帯電話が鳴る。画面を確認して、溜息を押し殺しながら電話を取った。

「はい」

「颯馬?今日うちに夕飯食べに来ないかって、母さんが言ってるけど」

 響いてきたのは、ラジオパーソナリティのように滑舌のいい彩絵の声だ。

「いい。実家から山のように野菜が届いたばっかりだから、消費しないと」

 同じ大学の社会学部に通う彩絵は、颯馬の母方の従姉妹だ。颯馬が十歳の時に母が死んで以来、母の親族との付き合いは薄れていたのだが、東京の大学に進学して一人暮らしを始めてから、近所に住む光岡家と改めて交流を持つようになった。

 颯馬の母の兄に当たる伯父とその妻の伯母は心の温かな人たちで、地元を離れて一人で暮らす颯馬を何かと気にかけてくれる。だが、颯馬はそんな彼らに対して遠慮があるせいか、光岡家に行っても今一つ寛げない。たとえ味気なくても一人で食事をする方が気楽だ。

「えーなに、一人鍋とかしちゃうわけー?さーびしー」

「うるさいな」

「まーいいけどさ。うちの両親、何かとあたしに『颯馬君どうしてる』って探り入れてくんのよね。大学でも滅多に顔を合わせないし、知らないってのに。いい加減ウザいから、たまにはあんた自身が顔を出しなさいよ」

 颯馬は同い年の彩絵が子供の頃から苦手だ。勝気で思ったことをずけずけと言う彩絵のペースに巻き込まれるのが不愉快で、大学でもできるだけ他人の顔をしている。

「そう言いながら、今日はこっちのキャンパスで何をしてたんだよ」

 昼間、彩絵が仁と親しげに会話をしていた姿を思い出す。

「ん、ちょっと相楽君に頼みごとがあってさ。颯馬、彼と知り合い?」

「同じ学科だってだけ」

「ふーん、付き合ってるとかじゃなくて?」

「切るぞ」

「だって、あたしが彼と喋ってたらすごい顔で睨んできたじゃない。嫉妬してんのかと思った」

 思わず頭を抱える。

 そうなのだ。彩絵の家族は知っているのだ。颯馬が高校時代に、よりによって男性教諭と「不適切な関係」にあったことが広く噂になり、地元に居づらくなって東京の大学に進学したことを。世間体を気にする親に都内のマンションを買い与えられ、体(てい)よく厄介払いされていることを。

「彩絵こそ、なんで相楽のこと知ってんだよ」

「へへーん、やっぱり気になるんだー?」

「そうじゃないよ。あいつ、色々と評判のよくない奴だから心配してるんだ」

「嘘ばっか。どうせ、あたしが理学部キャンパスをうろうろするのが目障りなんでしょ」

 淡々と本音を言い当てられてしまった。

「相楽君は誤解されやすいタイプかもしれないけど、本当は真面目で誠実な人だよ。本人をよく知りもしないくせに噂だけで人を判断するのって最低だよ」

 言われた瞬間、かっと頭に血が昇った。よりによって、噂だけで人を判断するな、なんてことを偉そうに彩絵から説教されたくない。

「うるさい。用が終わったならもう切る」

 舌打ちを辛うじて抑えて冷ややかにそう言うと、対照的に、彩絵の声は電話の向こうで一段と高くなる。

「なによー颯馬が話振ってきたくせに。もう、マジで感じ悪い。一人鍋で牡蠣にでも当たっちまえバカ」

 一方的な罵倒の直後に、乱暴に電話が切られた。

 思わず廊下の床に座り込む。なぜここでも仁のことでこんな風に気力を削がれなくてはならないのだろう、とうんざりした。

 へたり込んだすぐ隣に、昨日の昼に受け取ったばかりの段ボール箱がある。野菜など地元の食材がどっさり入ったその箱を見るだけで、食欲が失せる。

 うっそりと立ち上がって、リビングに向かった。夕食を用意する前に、苦手な英語論文の読解をやってしまおう。

 普段、デスクとしても食卓としても使っている長方形のコタツテーブルの上に、テキストと辞書とノートPCを広げた。

「有性生殖は一見非効率に見える。しかし、異なる個体間でDNAをやりとりすることで、親とは異なる遺伝子配列を子に受け継がせるという、一種の『離れ業』を可能にした」

 一文を読み終えるのに時間がかかりすぎてもどかしい。内容は難しくないのに、英文だとなかなかすんなりと頭に入ってこない。

「有性生殖の減数分裂では、結合した染色体の間で一部のDNA配列の乗り換えがランダムに行われる。このため、生まれる子供は親と異なる遺伝子配列を持つ」

 辞書を引きながら、颯馬の意識はともすれば、染色体の減数分裂を伴わない性行為について考えてしまいそうになる。

 生物の進化の最先端にいるはずの人類なのに、その一定数が同性に対して性的興奮を覚えるのはなぜだろう。同性間の性行為は、生殖という意味においては非効率どころか完全に無意味なのに。

 颯馬が生命科学を志したのは、ひょっとしてその答えが解明できるだろうかという期待がどこかにあったからだ。だが、大学に入ってわかったのは、そんな颯馬のような疑問を抱いて研究をしている人間は、バイオインフォマティクスはおろか生命倫理学の分野にさえ皆無だということだった。

「…なんだかなあ」

 辞書を引く手を止めて、ぽつりと独り言をつぶやく。

 この世界に、自分の遺伝子が存在する意味なんてあるのだろうか。

 ぐるぐると首を回して肩の力を抜くと、ラグの上に寝転がる。そのはずみに、胸ポケットからぽろりと硬いものが転がり落ちた。

「あ」

 仁のピアスだった。

(ぜーってえ似合うって)

(色白だしさ、綺麗な色の石、結構いいと思うぜー)

 耳の奥に甦る言葉に逆らうように、ぶんぶんと首を振った。こんなものを身に着けて女みたいだ、などと思われたくない。

 颯馬の性向を知った高校の級友たちは、遠巻きに嫌悪とも蔑みともつかない眼差しを向けながら、「何あれ、女のなり損ないかよ」などと陰口を叩いていた。

 思い出すと、今でも息苦しくなる。

 自分はきっと、生まれつき何かを決定的に間違えているのだ。だから、その間違いを正すために人より努力しないといけないのだ。

 自分の性癖を自覚してからずっと、颯馬はそんな思いを抱えてきた。それでも、どんなに「普通」になろうと努力しても、同性に惹かれてしまう気持ちを抑えることはできなかった。

 このどうしようもない罪悪感は、あの軽薄な男には理解できないだろう。あんな風に、あたかもゲームでも楽しむかのように、男女問わず自在に相手を渡り歩くような人間には。

 いらない、と言われた不憫なピアスは、生殖細胞の減数分裂の途中で、対となる相手を見つけられずに迷子になってしまった染色体のように思えた。種の存続にも個体の保持にもまったく貢献しない、文字通りの異分子。

 それは、颯馬自身の姿に他ならなかった。

 

 

 五号館B棟の生命科学科資料室は普段から利用者が少なく、颯馬のお気に入りの勉強スポットだ。

 大学図書館とは異なり、ここには各研究室の発表内容など専門性の高い資料が揃っている。持ち出しは不可だが閲覧とコピーは自由だ。実験結果のデータも参照できる。

 四方を本棚に囲まれた誰もいない部屋でレポートに使えそうな資料を漁っていると、壁の向こうから物音がした。隣接した部屋の扉が乱暴に閉められ、誰かが駆け込んでくるような足音が響く。

 隣は村井准教授の準備室だ。

「先生ってば」

 本棚に資料を戻そうとした颯馬の手がぴたりと止まる。隣から漏れ聞こえてきたその若い男の声に、聞き覚えがあった。

「そんな焦んなくてへーきだって。先生、早いからすぐ済むよ」

 間違いない。この飄々とした口ぶりは、仁だ。

「静かにしろ、この野郎」

 返事をしたのは村井のようだが、授業での落ち着いた様子とは異なり、随分と粗野な口調だ。

 がたんと、何かが壁にぶつかったような物音がする。どうも様子がおかしい。

 この資料室と隣の準備室とを隔てる壁には引き戸がある。本棚に半ば塞がれていて常に施錠されているその扉に、颯馬は足音を忍ばせて近寄り、聞き耳を立てた。

「で、どうしてほしいの」

 挑発するような仁の声が、思いがけないほど近くで聞こえる。

「…しゃぶれよ」

 その村井の返答に、颯馬は耳を疑った。だが、仁はこともなげに低く笑って切り返す。

「あーあ、もうこんなかよ…これならホントにすぐ済むって」

 二人の会話を聞きながら、颯馬のこめかみで、血管がどくどくと脈を打つ。

「う、んっ…」

「はは、せんせー、こっちは素直」

 扉の隙間から、村井の呻き声とくぐもったような仁の声、そしてくちゅくちゅという淫靡な音声が染み出してくる。颯馬は、物音を立てないように狭い空間でそろりと身体の向きを変えた。そこでしばし躊躇する。

「あっ…相楽、そこ、ん…」

 ぎしっ、と壁がきしむような音がする。思い切って顔を上げ、扉の上部に取り付けられたガラス窓から、そっと隣の部屋の様子を覗き見た。

 途端に、ぎょっとして危うく声を上げそうになる。

 今まさに颯馬が覗き込んでいる扉に背を預けるようにして、誰かがもたれている。後頭部しか見えないが、髪型から村井とわかる。ネクタイを緩めているのか、ワイシャツの襟元が少しはだけている。

「相楽…もっと、根元まで…」

 彼が仁に何をさせているのかを悟ると、颯馬の胸に、嫌悪感とはまた別の、黒い染みのような感情がじわじわと広がっていく。

 あのときと同じだ。

(雨宮、これ、口でできるか)

 男同士でどうやるか、知りたいなら教えてやろう。そう言って、放課後の理科準備室の床に跪かせた颯馬に、あの教師はそう訊いてきた。今の村井と同じような乱れた息で。

 重くかすれたような声にひどく興奮して、成熟した大人の男のものを、夢中で舐めた。

「そういえば、ピアスはどうしたんだ」

 その村井の問いかけに、颯馬の意識は現実に引き戻された。

「なくした」

 口に含んだままの仁の返事は明瞭ではなかったが、どうもそう言ったようだ。

「しょうがない奴だ。じゃあまた、新しいのを買ってやる」

 村井が呆れたように溜息をつく。

「いらねーよ」

「着けておけば少しは虫除けになるだろう」

「んん?」

「この間も、雨宮といちゃついてたな」

 いきなり自分の名前が出て、颯馬の心臓がどくんと跳ねる。

「…るさいな」

 下の方から、不機嫌そうな声とごそごそという音がしたと思うと、不意に、窓越しにぬっと仁の顔が現れた。

「っ……!」

 すんでのところで、悲鳴を噛み殺す。

(やばい)

 覗き見をしているのは自分の方なのに、なぜか目が合った瞬間、見られた、と思ってしまう。

 背を伸ばして立つ仁の身長は、村井とほぼ同じくらい、おそらく颯馬よりも五センチほど高い。さすがに向こうも驚いたのか、軽く目を見開いている。だがすぐに、ほんの数秒前まで村井のものを口淫していたらしいその口元を、綺麗な曲線に変えて不敵な笑顔を作った。

 颯馬の下半身に、ぼんやりと熱が点る。

「おい、相楽。続けろ」

「口ん中に出されるの、好きじゃねーんだよ」

 そう言いながら、村井の顔の横に、とん、と片手を付く。まるで自分が突き飛ばされたかのように、颯馬の肩がぐらりとかしいだ。

 前かがみに村井の首筋に口を寄せてくる仁に、颯馬は自分自身が襲われているかのような錯覚を起こす。ちりちりとした感覚が背骨を伝い下り、下腹で跳ねた。

「おい…舐めろって」

「でも、手でされんのも好きでしょ」

 ガラス越しに颯馬の目を覗き込みながら、仁が自分の唇をぺろりと舐める。

「ほら…先っぽ、指でこうされんの、感じるんだよね」

 仁の声が耳を嬲っていく。その声に反応して、颯馬の股間がずくりと疼く。

「うぁ、う……相楽」

 やめろ。

 身をよじる村井の背後で、颯馬は喉の奥で声にならない叫びを上げる。

「学生にこんなことされて、こんなに感じちゃってるなんて、バレたらやばいんじゃね」

 くくく、と笑いながら、仁が手の動きをさらに速めたのがわかる。その酷薄にも見える表情から、颯馬はどうしても目が離せない。

 やめてくれ。

「お前が…誘ってきたんだろうが」

 酸素を求めて喘ぐような村井の声。

「強がっちゃって…もうイキたいんでしょ?」

 誘いかけるような仁の視線が、正面から颯馬の顔を捉え、眼鏡の奥の目を射抜く。

 中から火を点けられたみたいに身体が熱くなる。それを仁に見透かされているような気がして怖くなる。

 颯馬は、窓から視線をもぎ離して、扉の下にかがみ込んだ。

「あ、あ…ああぁっ」

 村井が細い悲鳴を上げる。

 折り曲げた腹の下、細身のデニムのフロントがきつく感じるくらい、自分の欲望が膨れ上がっているのがわかる。先ほどの挑発するような仁の表情が脳裏に焼き付いて、そんな自分を扉越しに直接見下ろされている気がしてしまう。

「あーあ、シャツ汚してるぜ。トイレで洗ってきた方がいーんじゃねーの」

 頭上から、奇妙にのんびりとした仁の声が降ってきた。反射的に自分のシャツの胸元を確認した後、颯馬ははっと我に返る。

 悪態をつく村井の声と、ばたばたと慌ただしげな物音に続いて、隣の部屋のドアが開いて誰かが足早に廊下に出ていく音がする。

 しばらく耳に神経を集中させ、隣の部屋からも廊下からも物音がしなくなったのを確かめてから、颯馬もドアの方ににじり寄った。

 部屋の外に出ると、そのまま階段を駆け下り、下の階の男子トイレに直行した。奥の個室に駆け込んで鍵を閉める。

 下半身がじりじりする。

 ジーンズとトランクスを一気にずり下ろした。はしたないほどはっきりと昂奮の証拠を示している股間のものを握ると、びりびりするような痺れが全身を駆け巡る。

「く…」

 思わず声を上げそうになるのを必死にこらえ、焦れたような手つきでしごく。

(手でされんのも好きでしょ)

 耳の奥に、からかうような仁の声が甦る。だめだ、と理性が止めても、想像せずにいられない。

 仁は、どんな風にここを触るのだろう。

(先っぽ、指でこうされんの、感じるんだよね)

 自分の指先で先端を弄ぶと、もどかしいような快感が走る。酔ったようにくらくらしてくる頭の中で、再び仁がささやく。

(もう、イキたいんでしょ?)

 限界まで硬さを増したものを、手できつく握った。

 腰の奥からマグマのような熱が一気にこみ上げてきた。急いで手にトイレットペーパーを巻き取る。

 辛うじて間に合った。欲望を吐き出す瞬間、瞼の裏にちかちかと星が散る。

「くそっ…」

 達した直後から、倦怠感と自己嫌悪が襲ってくる。学校内で何てことをしているんだ、と思う。自分も、仁も、村井も。

 その瞬間、村井が吐いていた言葉をくっきりと思い出した。

(お前が、誘ってきたんだろうが)

 石でも呑み込んだみたいに、喉の奥が重たくなる。

(まさか…あいつ)

 単位目当てに教員と寝ている、などという話は、根拠のない無責任な噂だと思っていた。だがそれならば、自分が今しがた目撃したあの光景は、何だ。

「相楽…あいつ」

 颯馬は荒い息をつきながら目を閉じた。

 普段のからっと明るい笑顔とは別人のような、先ほどの酷薄な顔を思い浮かべる。

 どちらが、仁の素顔なのだろう。そして自分は、どうしてそんなことを知りたいと思っているのだろう。

 

 

 調べ物が進まなかったので仕方なく、翌日も授業の入っていない時間に五号館の資料室に向かう。ところが、今日は扉を開けると先客がいた。

「お。なんだ雨宮かー」

「げ…相楽」

 今一番顔を合わせたら気まずい相手が、部屋の中央に置かれたPCの前の椅子に座っている。入ってきたのが颯馬だとわかると、仁は口の両端をにっと吊り上げて、例のスマイルマークのように見事な笑顔を作った。

「雨宮も調べ物?」

 昨日の今日だというのに、悪びれる気配すらない。颯馬は呆れるのを通り越して、ほとんど感嘆してしまう。

 眼鏡のフレームを鼻の上に軽く押し上げながら仁の手元を覗き込むと、バイオインフォマティクスの関連論文だった。

「なんだ、真面目に勉強する気があったのか」

 意外そうにそう言うと、へらっと笑って、「俺、根が真面目だもん」などと図々しく言ってのける。

 その様子を見ながら、颯馬は考え込んだ。そして、先日のやりとりを思い出しながら慎重に切り出す。

「ちょうどよかった。相楽に頼みがあるんだ」

「ほーい、何かなー」

「俺に英語を教えてくれ」

「にょ?」

 間抜けな声で聞き返すその締まりのない顔を、静かに見つめ返す。

「俺、再来週が輪講の発表順なんだ。英語の論文、読んでて自信がないところがあるから教えてほしい」

「にゃるほど。いいよん」

「代わりに、この前言ってたみたいにバイオインフォマティクスの課題は手伝うから」

 村井の授業の課題を再提出すれば、仁はひとまず単位を落とさずに済むはずだ。

「おお、やったラッキー」

 仁は、いつもの屈託のない笑顔で応じる。

「どうする?論文、今見よっか」

「いや、今日は持ってきてないから…」

 ふと、もてあまし気味で台所に置いたままの野菜類のことが頭に浮かんだ。

「相楽、お前鍋好き?」

「は。何を唐突に」

「一人じゃ食べきれないくらい食材があるんだ。よければうちで課題やった後、晩飯食ってけよ」

 深くも考えずにそんな風に誘ってしまったのは、先日彩絵に電話でからかわれたことが意外に尾を引いていたせいかもしれない。

「マジで?いいの?うおーやったー今日いきなり行ってもオッケー?」

 喜色満面といった様子でこちらに抱きつかんばかりになる仁に、颯馬は面食らう。

「うちはいつでも構わないけど…お前、そこまで鍋が好きか」

「鍋も好きだけど、それより雨宮に誘われたのがうれしーんだって。じゃあ今日、授業終わったら遠慮なくお邪魔するわー」

「おう…」

 なぜ自分なんかに誘われたのがそんなに嬉しいのだろう。颯馬は心底不思議に思う。逆に自分が仁に誘われたら速攻で断るだろう。

 ただ、仁とのこういった会話は意外なほど気が楽だった。颯馬は、同級生たちとの気の置けないやりとりが苦手で、いつもどんな風に話を合わせればいいのかわからずに構えてしまうのだが、仁は颯馬が何を言おうと気にする風でもなく、自分の好きなようにぽんぽん会話を進めてしまう。だから颯馬も、思ったことを遠慮なく口にできる。

 それは颯馬に、苛立ちよりも居心地の良さのようなものを感じさせた。

 

 

 その日、五限の授業が終わった後、颯馬は仁を連れて自分の部屋に向かった。

 住宅街の中の瀟洒なマンションのエントランスを入ると、仁は目を丸くする。

「すげーとこ住んでんな…ここって賃貸じゃなくて分譲だろ。ここに一人暮らし?」

「親が無駄に金持ちなんだ」

 まるでそれが恥ずべきことででもあるかのように苦々しく言うと、エレベーターに乗り込む。

 颯馬の部屋はコンパクトな2LDKだが、確かに一般的な基準で言えば学生が一人で住むような物件ではない。物が少なく殺風景だから、余計に広く感じられる。そのLDKの中央のコタツテーブルに腰を落ち着け、まずは英語を見てもらう。

「うーんと、まずこの文な。長いけど、ここで一回切る。で、ここの接続詞は『以来』じゃなくて『なので』の意味だな」

「え。…あ、そうか。だから何か意味が通じなかったんだ」

 仁はほとんど辞書も引かずに英文を読み進め、颯馬の解釈の間違っている箇所を一つずつ的確に指摘していく。一人で読んでいたときは迷路のようだった文章が、あっという間に筋道の通った明快なものに変わっていくのは、ほとんど爽快ですらあった。

「そっか。体細胞、だったっけな」

 辞書をめくっていた仁が唐突にそんなことを言い出したので、颯馬はきょとんとする。

「え?どこ?」

 そんな単語出てきたっけ、と論文に目を落とすと、仁がいたずらっぽく笑った。

「そうじゃなくて、雨宮の名前。ソーマ、って、英語で体細胞の意味じゃん」

 ぽかんとした。

 自分の名前なのに、そんなことは今まで意識したこともなかった。それ以上に、仁が自分の下の名前を知っていたことにも驚いた。

「んで、俺の名前は『遺伝子』なんだなー。ジーン」

 おどけたようにそう言って、仁は片目をつむった。

 遺伝子と体細胞。

 何か重大な答えを手にしたような予感に、胸の奥が一瞬、ぶるっと震えた。

「…それより、そっちの課題もさっさと片付けちまおうぜ」

 ぐらりと揺れた自分の心を支えるように、颯馬は急いで話題を変えた。

 仁のノートPCを開き、エディタソフトを立ち上げる。

 与えられた基本のプログラムを検証する内容に合わせて書き換えていく仁に、要所要所でアドバイスを入れる。

「こっちの分岐の後ろに括弧を入れ忘れてる」

「あーそうか、ここにも必要なのか」

「中括弧な」

「うんうん」

 仁は飲み込みが早かった。順調にプログラムを書き上げた後、サンプルデータを検証してエラーが出ないことを確認する。

「うおー、雨宮サンキュ。助かったー」

「…何言ってんだ。お前、本当はこの程度の課題に俺の助けなんて必要ないだろ」

 うーん、と伸びをする仁に、つい、苛立ったような声で言ってしまった。

 仁はプログラムを理解していないわけではない。大雑把にやるせいでケアレスミスが目立つだけだ。本人に真面目にやろうという気があれば、単位くらい楽勝だろうに。

 なぜ、やろうとしないのだろう。

 昨日目撃した準備室での情事を思い出してしまう。

「…もう、やめろよ」

「ん、なにが」

 仁はのほほんとした顔で聞き返す。

「単位が気になるなら、俺でよければいくらでも課題を手伝う。だからもう、村井とかと…その…ああいうことすんの、やめろよ」

「ああいうことって」

 仁の声は明らかに面白がっている。こちらは真剣に心配しているのに、と腹が立って、颯馬の口調が知らずきつくなる。

「単位目当てに教員を誘惑したりするのやめろ、って言ってんの」

「…雨宮、もしかしてそのために、俺の課題を手伝うなんて言い出してくれた?」

 怒るかと思いきや、仁の顔がふわりと優しい表情になって、颯馬は軽く面食らう。

「やっぱ、雨宮ってやさしーなー」

 仁の笑顔は、場違いなほど嬉しそうだ。

「ふざけんなよ、俺は真面目に…」

「うんうん、ふざけてない。素直に嬉しい。でも、雨宮が心配するようなことじゃないから大丈夫」

 仁のその言葉に、颯馬はいきなり別の可能性を思いつく。

「もしかして…お前、村井のこと好きだったりする?」

 村井は確か三十代後半だったはずだが、舞台俳優のような端正な顔立ちと、中年太りとは無縁そうなスリムな体型で、雰囲気は随分と若々しい。一回り以上年下の仁と並んでいても違和感はない。

 もちろん、片方は大学の准教授で、片方はその授業を受けている学生、しかも男同士だ。世間的には問題視されること間違いないだろう。でも、もし本当にそうだったとして、自分はそれを「不適切な関係」などと糾弾することは絶対にできない、と颯馬は思う。

 だが、仁は思いつめた表情の颯馬をぽかんと見ていたかと思うと、いきなり吹き出した。

「うわー何かもう、雨宮っていちいち発想が予想外すぎる」

「あ?なんだそれ。お前こそ、リアクションがいちいち予想外すぎるぞ」

「ははははは、だってさあ、俺が村井を、す、好きとか…うひゃー新鮮」

 本気で可笑しかったのか、仁はラグの上に倒れ込んで、けたけたと笑い転げている。

 ふいに強い怒りが込み上げてきた。

「好きでもない相手とあんなことして楽しいか」

「楽しいっていうか、単純に気持ちいいだろ」

「お前、そういう雑なこと言うなよ」

「雑?」

 床に寝そべっていた身体を起こして、仁が不思議そうな顔をする。

「心と身体が簡単に切り離せるなんて、舐めてかからない方がいいんじゃないのか」

 快楽を感じたり好意を抱いたりするのは人間の脳だ。それは肉体の一部だ。手足や生殖器を構成するのと同じ物質でできている。自分の都合に合わせて、心の一部だけを現実と切り離したところに置いておける、と考えるのは思い上がりだと颯馬は思う。

「セックスしてるうちに相手のことを好きになる、ってこと?」

 仁の口調は明らかに面白がっている。強い苛立ちを覚えて、颯馬はその顔を睨みつけた。

「好きでもない奴としてると、心に余計な負担がかかるだろ、って言ってんの」

「断言するなあ。雨宮、好きじゃない相手としたことあんの」

「あるよ」

 売り言葉に買い言葉のような切り返しをしてしまった。

「…あるんだ」

 ラグの上に座った颯馬と仁の間に、独り言のような言葉がぽとりと落とされる。

「でも、もうしてない」

 あの理科教師のことなんて、もう顔すら思い出せない。思い出したくもない。

「やっぱりまともで誠実だなあ、雨宮は」

 揶揄するような言葉と裏腹に、仁の声はなんだか寂しそうだ。何一つまともじゃない、という反論をぶつけるのをためらうほど。

「晩メシの用意するから、そこ片付けて」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って立ち上がる。

「俺、雨宮のそういうとこ、ホント好き」

 台所に向きかけた足がぴたりと止まった。そのまま振り向くと、仁は身体をこちらに向けて、立ち上がった颯馬をまっすぐ見上げていた。

 耳の奥で、好き、という一言がこだまする。

 こんなに簡単に、口にできるんだ。

 そのことがなぜだか腹立たしかった。

 

 

 酒を飲むかと訊くと、仁は意外そうな顔をしながら頷いた。

「へえ…雨宮も、日本酒なんて飲むんだ」

 吟醸酒を四合瓶からガラスの徳利に丁寧に注ぐ颯馬の手つきを見ながら、仁がつぶやく。

「実家だからな」

「実家?」

「この蔵元が」

 仁は改めて驚いた様子で、「雨宮酒造」と書いてあるラベルを見直した。

「将来は跡を継いだりすんの」

 カセットコンロにセットした土鍋の出汁の中に具材を入れている颯馬に、仁がのどかな口調で訊いてくる。

「まさか」

 顔がこわばる。自分から話題を持ち出しておきながら、この話を続けるのは嫌だな、と警戒してしまう。

 だが、仁は「ふーん」とだけ言うと、猪口に注いだ酒を一口飲んで、「美味い」とにっこり笑った。

 日本酒を飲みながら鍋をつついているうちに、自然と寛いだ雰囲気になっていく。仁が上機嫌で中高時代の話などするのが新鮮で、颯馬は相槌を打ちながら聞いていた。

「あれ、そういえば雨宮、眼鏡は」

 ふと会話が途切れると、仁がなぜかぎくりとした様子で颯馬の顔を見た。

「湯気で曇るから外した」

「ちゃんと見えんの」

「食事するくらいなら問題ない。近視と乱視だから」

「近いところなら眼鏡なしで見えるのか」

 仁がラグの上に座り直して、隣の颯馬の方にぐっと顔を近づけてくる。

 その両耳にピアスが光っている。今日のは控え目なデザインのシルバーのスタッドピアスだ。よく見ると、クロスの形の表面に細かい浮き彫りが施されているのがわかる。

「そんなに近づかなくても、ちゃんと見えてる」

 淡々と言ったつもりが、声が少しかすれてしまった。それをごまかすように、テーブルの上の徳利を持ち上げて、自分と仁の両方の猪口に注ぐ。

「相楽は、誰か好きな相手とか、いるの」

 距離感に動揺したのか、いきなりそんなことを口走ってしまった。

「おお?何なに、俺の恋バナ聞きたい?」

「なんだか聞いたら胃もたれしそうだ。その前にシメの雑炊を作った方がいいかもな」

 颯馬にしては精一杯茶化した言い方をした。

 それなのに、仁の方はにやにや笑いを急に引っ込めて、目を逸らせた。

「付き合ってる奴はいない。というか、今は誰とも付き合わないようにしてる」

 仁の横顔には不思議な表情が浮かんでいる。ぼんやりと遠くを見やるような目で、無意識なのか自分の唇を親指でなぞっている。

「俺さ。中高一貫の男子校だったんだけどさ」

「うん、それはさっき聞いた」

「高校ん時、同級生のこと好きんなって」

「……」

 咄嗟にどう応じていいのかわからずに黙り込む。だが、仁はそんな颯馬の沈黙など気にした素振りもない。

「思い切って好きだって言ったけど、見事振られた。でもそいつ、ちっこくて可愛くて泣き虫なくせに、きっぱりした性格でさ」

 先ほどとは別人のように、声音が柔らかい。

「一回でいいからキスさせて、って頼んだらその場でOKしてくれて、その代わり、その後はずっと親友でいよう、って言われた。それで本当に、卒業までずっと、それまでと変わらない態度で接してくれたんだ。俺、自分が告ったことも忘れそうなくらいだった。あの潔さには軽く感動したな」

「それ…むしろ、つらくないか」

 自分だったら、傍にいられたらいつまでも想いを断ち切れないだろう。それくらいなら、いっそ二度と顔を見ないで済む方が楽なような気がする。

「ん」

 仁の横顔に、何かを諦めたような遠い笑みが浮かんだ。

「その後もずっと友達として隣にいるうちに、最初からこれでよかったんじゃねーの、って思うようになった。そいつにも言われたんだ。恋愛は別れたらそこで終わりになっちゃうけど、友達は離れていても友情が続くって」

「でも…」

 反論しようとして口ごもる。

 本当にそうなのだろうか。恋情は友情に耐久性で負けるのだろうか。

 いずれにせよ、仁はそれを信じて受け入れたのだ。自分の気持ちの回路を切り替えてまで相手との関係を長く続けたかったのだろう。

 友達、というその相手が得た地位が、なんだかとても特別で羨ましいものに思えてくる。

 仁は、いつもの彼とは別人のような静かな口調で続ける。

「そのうち、自分の気持ちがよくわかんなくなってった。もちろん好きだったけど、それってホントに恋愛感情だったのかな、って。そもそも恋愛感情ってなんだろな」

 改めてそんな風に問われると心がざわつく。

 颯馬が、同性に対して恋愛感情を抱いていると決定的に自覚したのはいつだったろう。

「たとえば…キスしたい、とか?」

 我ながら陳腐な発想だと思った。すると、仁はいつものふにゃっとした口調に戻って、とんでもないことを言い出す。

「俺さー、えっちする相手って男でも女でも割とどっちでもいいわけ。まあ男に突っ込まれんのは、ちょっとあれだけど」

 いきなりそこへ行くか。口にした日本酒にむせそうになるが、仁の方は平気な顔で話を続けている。

「だから余計になのかな、恋愛しないでセックスだけってのも割り切れちゃうんだよなー。別に、心と身体が別物だとかそんな難しいこと考えてるわけじゃなくて、単純にもう、よくわかんねー恋愛感情なんてない方が楽じゃね、って。ずっと一緒にいたい相手なら友達でいいし、性欲満たす相手だって恋人である必要ないし」

 ない方が楽、とあっさりと言ってのける口調が、落としたピアスをもういらない、と言ったときと、そっくり同じだった。

 では、資料室から覗き見たあの村井との行為もただの性欲処理で、甘い感情とは無縁だったということなのだろうか。あのときの仁の顔つきや声を思い出してしまって、酔いのせいではなく顔が火照る。

「顔が赤いぜ、雨宮」

 そんな颯馬の顔を見て、仁はにやりと笑った。

「うるさい、ちょっと酔っただけだ」

「いやいや純情だなー雨宮ってば。ここまでビビッドに照れる相手だと、こういう話すんの恥ずかしくなってくるな」

「莫迦野郎、恥ずかしいのが普通だ。お前には恥じらいってもんがなさすぎる」

「うぉう、『恥じらい』ときたか。なんかそそる響きー。雨宮が言うと特に」

 ふざけた調子で、またじわりと距離を詰めてくる。

「雨宮ってさ、眼鏡取るとすげー色っぽい顔になんのな。酔ってると特にやばい」

「なっ…」

 仁の顔を睨みつけようとしたが、逆に、こちらに絡み付くような視線が返ってきた。

「キスしたくなる」

 仁の目は笑っていなかった。前に颯馬の眼鏡を外してピアスを耳に当てたときと同じ目つき。準備室で村井の肩ごしに目が合ったときと同様、そのまま目が離せなくなってしまいそうだ。

 颯馬は思わず後ずさる。

 仁がふっと自嘲気味に笑った。

「そんなびびんなって。だーいじょーぶ、いくら見境のない俺でも、いきなりノンケを襲ったりしないから」

「あ…違う、そんなんじゃ」

 どこから否定していいのかわからず、颯馬は咄嗟に顔をそむけて俯いてしまった。

 自分はノンケじゃない。仁のようなバイでもなく、完全なホモセクシャルだ。ずっと認めたくなかったけれど、何度も否定しようとしたけれど、それでも自分の性愛の対象が同性に限られているのは動かしがたい事実だ。

 だが、今の話の流れでそれを告白するのは、逆に誘いをかけているみたいになりそうでためらわれた。そのためらいに、昨日の仁と村井の行為を覗き見して欲情してしまったという後ろめたさが拍車をかける。

「え。雨宮、怒った?」

 仁は、顔を伏せて黙り込んでしまった颯馬の様子を誤解したらしい。

「なーなー怒んないで。冗談だってば」

「お前、冗談きっついぞ」

 今頃になって、颯馬の鼓動が速くなる。それをごまかすようにわざと語気を強めると、仁がうろたえた。

「わりー、ちょっと悪ノリしすぎた。謝る。こんなことで友達失いたくねーわ」

 友達?

 その一言に、颯馬は顔を上げた。

「ホントごめん」

 逆に仁は、神妙な顔つきで頭を垂れる。

「や、そんな怒ってないって…とりあえず、雑炊作るか」

 気まずい流れを断ち切ろうと、無理やり話の方向転換を図ったが、鼓動は強くなる一方だ。それを仁には悟られまいと、颯馬は急いで脇に置いていた眼鏡をかけ直した。

 

 

 仁にとって自分はどんな「友達」なのだろうか、と、あの日以来颯馬は繰り返し考えるようになってしまった。

 明るく屈託のない性格の仁は、颯馬と違って人付き合いもいい。一部の人間からはその性癖や軽薄な言動が毛嫌いされているようだが、大学で見かける仁は、男女や学年を問わず誰かと楽しげに談笑していることが多かった。

 その様子が、最近少し変わりつつある。いや、仁の愛想がいいのは相変わらずなのだが、誰かと盛り上がっているところを颯馬が通りがかると、そちらの話を中断して声をかけてくるようになった。

 今日も、例のカフェスペースで話し込んでいる仁と彩絵を見かけ、そのまま通り過ぎようと思ったところを見つかってしまった。

「雨宮ー」

 例のスマイルマークのような満面の笑みで手を振ってくる。それに対してぎこちなく手を振り返すと、コーヒータンブラーを手に表に出る。

 だが。

「雨宮ってば、なんだよー」

 仁が息を切らして追いかけてきたので、驚いた。

「え。相楽こそ、なんだよ」

「だって、手ぇ振ってんのにそのまま行っちまうんだもん」

「いや…だってお前」

 彩絵、という名前を慌てて飲み込む。

「…なんか、美人と話し込んでたろ。邪魔しちゃ悪いかと思って」

「あ、何なに?ひょっとしてヤキモチ妬いてくれた?」

「莫迦か」

 この手の仁の冗談には、鼻を鳴らして取り合わないに限る。なまじ図星を指されているだけに。

 いや、嫉妬するほど思い上がってはいないつもりだ。それでも、仁が彩絵を放り出して自分を追いかけてきてくれたことが、颯馬には何か特別なことのように感じられてしまう。

「あ、そうだ。雨宮さあ、二十三日って何か予定ある?」

「今月の?」

「そ、祝日。ちょっと面白いとこ、飲みに行かね?」

 十二月二十三日。クリスマスイブの前日。

 それって、なんだかまるで。

「そーれーとーも、雨宮は誰かとデートの予定が入ってたり?」

 デート、とあっけらかんと言われて、颯馬は一瞬動揺したのが莫迦らしくなった。

「あーはいはい。お察しの通り、俺はその日はなーんも予定入ってねーよ。いくらでも相楽に付き合ってやる」

「まじ?やったー」

 大袈裟にバンザイをすると、仁は笑顔のまま「じゃ、また後でな」と言って小走りに室内に戻っていく。そのとき初めて、彼がセーター姿だったことに気付いた。コートも羽織らずに飛び出して来たらしい。

「…調子狂う」

 わざと不機嫌な声で独り言をつぶやく。

 仁のほとんど馴れ馴れしいくらいの人懐こさが、颯馬には新鮮だし嬉しかった。その一方で戸惑いもある。友達づきあいってこういうものなのだろうか、と考えてしまう。

 仁のように、扉も窓もすべて開け放して相手を招き入れるような真似は、颯馬には到底無理だ。でも、仁と同じようにはできなくても仁の友人ではいたかった。

 自分の中に芽生え始めた仁への好意に、純粋な友情とは違うものも含まれていることは自覚していた。それでも、友達の方が長く関係を続けられるのなら、少なくとも仁がそう信じているのなら、颯馬は仁の前ではノンケの友人でいたかったのだ。

 ペンケースの中に大事にしまってある、夜空の破片のように青く光る石のピアスを思い浮かべる。

 一度は彼の耳を飾ったピアスだ。でも、どれほど綺麗なものだろうと、必要ないと判断されたらさっさと捨てられてしまう。それくらいだったら、捨てられるような関係を最初から望まない方がずっといい。

 そう自分に言い聞かせているつもりだったのに、やはり、こんな約束をされると心が浮き立ってしまう。気付けば指折り数えるようにして二十三日を待ち焦がれている自分がいた。

 どんな店に行くのかと何度聞いても、仁は「ひみつ」と教えてくれない。普段着でいい、と言われたので、夜景の見える高層階レストランでディナー、などという話ではなさそうだ。もちろん颯馬だってそんなものを期待していたわけではないが、あまりみすぼらしい服装で外食するのも嫌なので、下はデニムだが、上はカジュアルなジャケットに袖を通した。

 夕方、ターミナル駅構内のカフェで待ち合わせる。大学の外で仁と待ち合わせるなんて初めてのことで、妙に緊張してしまう。おまけに、普段あまり利用しない駅なので改札を間違え、時間に少し遅れてしまった。

 ようやく目当ての店の看板を見つけて歩を速めようとした矢先、颯馬はぴたりと立ち止まった。

 窓際の席に仁が座っている。だが彼は一人ではなかった。学内でこの前見た光景の再現のように、彼の前にロングヘアの女性が嬉しそうな顔で腰かけていたのだ。

 彩絵だった。

 颯馬は咄嗟に柱の陰に身を隠した。

 そういえば、二人だけだなんて仁は一言も言っていなかった。でも、まさか彩絵が一緒だとは予想もしていなかった。

(嫉妬してんのかと思った)

 電話での彩絵の澄ましたような声を思い出して、浮かれていた頭がすうっと冷えていく。

 無理だ、と思った。三人で一緒に飲みになど行けるわけがない。そんなことをしたら、少なくとも彩絵には絶対に、仁に対する自分の気持ちを見破られてしまう。

 そっと振り返り、二人が自分の姿に気付いていないのを確認してその場を離れた。視界に入らないところまで移動して、急いでポケットからスマートフォンを取り出す。

「ごめん今日行けない。急に体調悪くなった」

 仁にメッセージを送ると、数秒後には「既読」になった。

「え、マジ?大丈夫?今どこ、家?」

 即座に返事が返ってくる。

「大丈夫。ホントごめん。誰か他に行く奴いたら、そいつ誘って行って」

 かすかな皮肉をこめてそう返信を打つ。これまた、たちどころに既読になったかと思うと、いきなり手の中の電話が鳴り始めた。

 慌てて周囲に気を配りながら着信音のボリュームを絞る。画面には「相楽」の文字。

 颯馬は逃げるように駆け出した。駅構内の通路を戻り、改札を抜けて、ホームに来た電車に飛び乗る。

 閉まったドアの脇で大きく息をついた。震える手で、とっくに鳴りやんでいるスマートフォンをコートの下のジャケットのポケットに押し込む。

 車両の中はしっかり暖房が効いているのに、氷の塊でも呑み込んだみたいに胃の底が冷たい。

 仁がどんなつもりで二人を誘ったのかはわからない。颯馬と彩絵の血縁関係に仁が気付いている素振りはなかった。だがいずれにせよ、仁が颯馬のことだけを特別扱いしているなどというのは、颯馬の浮かれた思い込みに過ぎなかったわけだ。

 電車の窓の外にちらりと目をやる。既にとっぷりと暮れた街を背景に、滑稽なほど情けない顔つきの自分の姿が映り込んでいた。

 仁と彩絵は、今頃二人並んでこの街を歩いているだろうか、と、その姿を想像する。目を引く華やかな容姿と明るく人懐こい雰囲気の持ち主で、それなのにどこか飄然としている仁と、言うことはきついが、媚びとは無縁の美しさと芯の強さを感じさせる彩絵とは、傍から見たら似合いのカップルだろう。

 彼らの住む世界は、行き止まりの染色体が淀んでいるような自分の居る場所とは違う。暗い窓の向こうからこちらを恨めし気に見つめ返す自分の顔を見ながら、颯馬は思った。

 ぼんやりしながら家に帰る。ジャケットを脱いでハンガーにかけると、ポケットに入れてあったスマートフォンが再び鳴り出した。

 ぎょっとして跳び退いてしまったが、気を取り直して、こわごわと表示を覗き込む。

「なん…だ」

 思わず床にへたり込んだ。表示されていたのは、実家の電話番号だった。

 留守番電話に切り替わると、父の声がスピーカーから漏れてくる。

「颯馬。年末年始は家に帰ってくるんだろう。予定を連絡してきなさい」

 それから、一拍ほど間が空いて。

「母さんも、心配してる」

 それだけ言うと、電話は切れた。

「…誰だよ『母さん』て」

 吐き捨てるようにつぶやくと、颯馬はのろのろと立ち上がった。

 

 

 身体の芯が冷えるような感覚はいつまでも消えなかった。仁への言い訳はただの出まかせだったが、本当に体調が悪くなりそうだ。

(もう、寝てやれ)

 スマートフォンは新規メッセージ着信を告げる光の点滅を続けていたが、颯馬はそれを無視して寝室に向かった。

 ベッドに潜り込みながら、先ほどの父の伝言を思い出す。帰省のことを考えると、一層身体が重たく感じられる。

 実家の雨宮酒造は老舗の造り酒屋だが、颯馬の母が他界するのと相前後して、会社の経営が傾きかけた。焼酎ブームで日本酒全体の売り上げは右肩下がりだった。

 だが、社長である颯馬の父が県内で広く事業をやっている資産家の一人娘と再婚した縁で、事業への大型融資を取り付ける。それをきっかけに思い切って高品質路線に切り換えたのが功を奏し、見事経営難を乗り越えた。今では、県内でも指折りの上質な地酒を作る蔵として名を馳せている。

 しかし家庭内では、若い継母と颯馬との関係は会社経営のように順調にはいかなかった。颯馬は、表面上優しく接してくる「母」の態度に偽善的な気配を感じ、心を開くことができなかった。継母の方も、自分に懐かない颯馬を内心疎んじていたらしい。

 やがて弟が生まれた。颯馬は会社を継ぐつもりはなかったので、腹違いの幼い弟が当然のように跡取りとして扱われ始めたことに特に不満はなかった。むしろ、継母の関心が弟に集中したことで息苦しさが少し和らいだくらいだった。

 そんな風に、冷ややかではあったが一種の均衡を保っていた家庭内に激震が走ったのは、颯馬と高校の教諭との「不適切な関係」が明るみに出たからだった。

 あのとき継母は、いかにも悄然とした態度で「同性愛に走るなんて、私の育て方が悪かったのかしら」と父に言ったのだ。それを思い出すたび、全身の血が逆流するような思いがする。自分の人格をあそこまで軽んじられたことはなかった。俺はあんたなんかの失敗作になった覚えはない、と、大声で叫んでしまいたかった。

(ああ、もうやめよう)

 ごろりと寝返りを打つ。

 これ以上嫌なことを思い出すと、仁の件でただでさえ沈んでいた気持ちが、果てしなく落ち込んでいく気がする。

 毛布と布団を鼻の上までずり上げているのに、一人潜り込むベッドの温もりは、心の中にまでは届かない。

 生まれてきた場所を間違えたような孤独感は、颯馬には馴染みのものではあった。ただ今夜はいつもよりも、おそらく仁に惹かれている心の分だけ、切なさが募る。焦がれても手に入らないものが、また一つ増えていく。

 往生際が悪いぞ、と、心の中でつぶやいて、ぎゅっと目を閉じた。だが、そのまま寝てしまおうと思ったとき、マンションのエントランスに来客を告げるチャイムが響いた。

 はっと身を起こす。部屋の冷気にぶるっと身体が震えるが、構わずにパジャマに裸足のまま廊下に出た。

 再度、チャイムが鳴る。

 もしかして、という期待と、そんなはずはない、という諦めの狭間で、ほんの一瞬躊躇した後、颯馬はインターホンを取った。

「…はい」

「雨宮?お前、平気?」

 前向きにつんのめるような仁の声がスピーカーから聞こえてくる。

「相楽。なんで」

「あれきり音信不通になっちまったからさ。もう寝たかとも思ったんだけど、雨宮、一人だろ。万一倒れてたりしたらヤバいな、って」

 颯馬が返事したことで、仁の声が明らかに安堵する。

「…とりあえず、上がって」

 今日のことをきちんと謝らなければ。

 エントランスのロックを解除するボタンを押し、寝室からフリースを取ってきて羽織ると、やがて玄関のチャイムが控え目に鳴った。

 ドアを開くと、仁が心配そうな顔つきで、ダウンのポケットに手を突っ込んだまま立っている。中に招き入れ、戸口から吹き込んでくる冷たい風を遮るように急いでドアを閉めた。

 仁の服から乾いた冬の街の匂いがする。

「ごめんな。寝てた?」

 眼鏡をしていない顔を覗き込まれ、心拍数が跳ね上がった。動揺を悟られないように、なるべくさりげなく視線を外す。

「…横になってただけ」

「大丈夫か?何か困ってねえ?買い物とか頼まれてやるよ」

「平気だって」

 謝ろうと思っていたのに、嘘をついた後ろめたさと、思いがけないほど優しい仁の態度のせいで、逆に素直になれない自分がいる。

 仁の手が、颯馬の前髪を払って額を撫でた。それがびっくりするほど冷たくて、一瞬本当に自分は熱を出しているのかと錯覚した。

 外は、よほど冷えているらしい。

「なんか、あったかい飲み物でも用意する」

 そう言ってその場を逃がれようとしたが、強く腕を掴まれて引き止められた。

「俺のことは構わなくていい。それより、必要なものがあったら言えよ」

「いや。もう寝るし…何もいらない」

「じゃあ待機してるから、なんかあったら呼んで」

「へ?」

 何を言われたのか一瞬理解できなくて、目を丸くする。

「体調良くなるまでついててやる。邪魔しないようにこっちの部屋にいるからさ」

 ようやく颯馬の腕を離してそう言うと、リビングの方へと歩いて行こうとする。

「おい待てよ」

 自分でも驚くほど尖った声だった。

「俺なんかのところに来てる場合じゃないだろ。すぐ帰れよ」

 本当はずっと傍にいてほしかった。でもそれは、颯馬が口にしていい言葉ではなかった。

「彼女放ったらかしかよ、嫌われるぞ」

 困ったような笑みを見せていた仁が、それを聞いて眉をしかめた。

「彼女、って」

「今日、俺以外にも女子誘ってたろ」

 言いながら、胸の奥がずきりと痛む。

「なんで、それ…」

「光岡彩絵。あれ、俺の従姉妹」

 仁が息を呑む。本当に知らなかったのだろう。こんなことで芝居をするのが上手いタイプとも思えない。

「付き合ってんの?」

 なるべく明るい調子で言いながら、今日の二人の様子を思い浮かべて、颯馬の胸が刃物で刺されたように痛む。

「付き合ってねーよ。そういうの面倒臭いんだって」

「試してみろよ。友情がそのうち恋愛感情に発展していくことだって、あるかもしれない」

 見ろ、俺が証拠だよ、と、颯馬は胸の奥で投げやりに付け加える。

「なんで今更そんなこと試さなきゃいけねーんだ」

 仁は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「だって…お前、男しかダメなわけじゃない、って言ってたろ。もし女の子を好きになれるなら、その方が絶対いいって」

「はあ?」

「とにかく、同性はやめとけ。不毛だから」

 異性のことも好きになれるなら同性と恋愛をする必要はない、と颯馬は思ってしまう。

 敢えて恋愛感情を封じ込めているらしい仁には、ぴんとこないかもしれない。でも颯馬にとっては、恋愛は常に罪悪感と表裏一体だ。

 相手を求めてしまうこの自分の気持ちは間違っているんじゃないか、と身構えてしまう。セックスだって、生殖とはどこまでも無縁の非生産的な行為だ。自分は世間の常識にも自然の摂理にも反したことをしているのではないか、と怯えながらする恋愛なんて、しなくて済むならその方がいいに決まっている。

 仁には、自分みたいになってほしくない。彼のようにおおらかに誰かを受け入れられる人間なら、村井なんかと後ろ暗い行為に耽ったりせずとも、心も身体も寄り添えるちゃんとした相手を見つけられるはずだ。

「お前それ、本気で言ってんの」

 突然、ひび割れたような声が降ってきた。

「え」

「なんだよ不毛って。お前今まで、俺のことそんな風に見てたのかよ」

 仁の、こんな愕然とした表情は初めて見る。

「…ま、そうだよな。雨宮から見たら、男とえっちするなんて不毛なだけだよな」

 棒読みのような口ぶりに、はっとした。

 仁は颯馬のことをノンケだと思っているのだ。ノンケに「同性愛は不毛」などと言われたら、それはさも侮蔑のように響くだろう。

「違うんだ」

 咄嗟にそう声を上げてはみたものの、何と続ければいいのか言葉を探しあぐねる。

 男とも寝ているという仁のことを責めたつもりはない。だが、自分の言葉が、仁の心のありようを否定するものだったことは確かだ。自分がホモセクシャルだからといって、そのことで苦しい思いをしているからといって、そんなものは何の言い訳にもならない。

「いいって」

 硬い表情で颯馬の顔をじっと見ていた仁の顔が、ふい、と離れた。

「俺がいても迷惑みたいだし、帰るよ」

 身を翻して玄関へと向かうその背中に、はっきりと拒絶の気配があった。

「…ちゃんと寝ろよ」

 それでも、ドアを開けて出ていく直前に苦々しげな口調で残した一言は、颯馬の身体を気遣うものだった。

 ばたん、と、短く冷酷な音を立てて、玄関ドアが閉まる。

 冷えきった玄関で、颯馬は今すぐここを走り出て仁の後を追いかけたくなるのを、必死にこらえていた。

 自分は卑怯だ、と思う。仁を独占したいとどこかで思いながら、それをごまかして友達の仮面をかぶって。あたかも彼のためを思うような言い方で、自分の価値観を押し付けたりして。

 こんな自分には、彼の友達でいる資格すらない。そう思うと、ただひたすら哀しかった。

 

 

 寒風が一際強く吹き付けるキャンパスを速足で五号館B棟へと向かう。少しだけ躊躇した後、村井の研究準備室のドアをノックする。

「ああ、雨宮、待ってたよ」

 返事を待ってから一礼して入った颯馬を、村井はにこやかに迎え入れた。

 あれ以来、村井の顔を見るたびにあの日のことを思い出してしまって、気まずいことこの上ない。

「お忙しいところすみません」

 しかし、特別に見てもらっている応用問題について、どうしても冬休み前に確認したい箇所があった。

 颯馬が書いたプログラムを一通り確かめて、村井は感心したように頷いた。

「よくできてる。このレベルのアセンブラが組めるようなら、大学院でも即戦力だな。雨宮みたいな優秀な学生が、うちの研究室に来てくれると嬉しいんだがなあ」

 そう言って、端正な顔をほころばせる。

 颯馬は曖昧に笑った。生命情報工学には興味がある。だが、今後も研究室で村井と顔を合わせることになるのは、さすがにためらわれる。

「そうそう、年明けに研究の経過報告の学内発表があるから、見学に来ないか」

「それは興味あります。いつですか?」

 ノートにメモを取ろうと、ペンを取り出す。

「あ」

 その拍子に、中に入れていたピアスがこぼれ出て、デスクの下に転がった。村井が身をかがめて足元からそれを拾い上げる。

「あ、すみません」

 慌てて手を差し出すが、村井はふと、何かに気付いたように手にした小さなピアスをしげしげと眺める。

 その目がにわかに鋭くなったような気がして、颯馬の背筋に緊張が走った。

「ピアスか。雨宮、普段こんなもの着けていないだろう」

「…落し物です。前に、先生の授業の教室で拾ったんです」

「やはりそうか。持ち主に心当たりがあるから、私から返しておこう」

 村井は涼しい顔で言うと、手の中のピアスを自分の上着のポケットにしまい込もうとする。

「待ってください」

 眼鏡越しに、村井の顔をきっと睨んだ。その強い視線に驚いたように、村井がぴくりと眉を持ち上げる。

(じゃあこれは、俺から雨宮にあげる)

 渡したくない、と思った。

「それは返してください」

 きっぱりと言いながら、手を伸ばす。

 諦めたつもりだった。でも、仁が自分にくれたこれだけは、譲りたくなかった。

 村井は眉根を寄せ、とげのある視線を颯馬に投げる。

「雨宮。人のものを勝手に横取りするのはよくないぞ」

 颯馬の耳朶が、かっと熱くなった。

「相楽は先生のものなんですか」

「なんだって」

「先生はどんなつもりで、相楽とあんなことをしてるんですか」

 きゅっと唇を結んで、村井の顔を見据えた。

「相楽がどうしたって?」

 とぼける気なのだろうが、そうはさせない。

「先生、シャツに染みがついてますよ」

 村井がはっと顔色を変えて、自分のワイシャツの胸元を見下ろした。だが、すぐに颯馬が鎌をかけたのだと悟り、舌打ちをして颯馬をぎろりと睨みつけた。

「大学構内で迂闊なことをするのはやめてください。相楽のためにも」

「どうした、随分とあいつに入れ込んでるな」

 村井は、ピアスを指の間でわざとらしく弄ぶ。まるで、颯馬に見せつけるかのように。

「あいつ、誰にでもいい顔するからなあ。真面目な雨宮をたぶらかすのは簡単だろう」

 たぶらかす?

 その毒のある言い方には、仁に対する明らかな侮蔑が含まれている。自分が見下されたこと以上に、颯馬はそのことが頭にきた。

「…そういう言い方をするなら、もう二度とあいつには関わらないでください」

 怒りに震えそうな声を懸命に落ち着かせながら言う。仁が、こんな男の薄汚い欲望のはけ口になってやる必要はどこにもない。

「相楽はあんたのものじゃない」

 村井は、口の端から嘲りの笑いを漏らした。

「あいつが進級できるのは俺のおかげだ」

 傲然とそう言い放ち、手にしたピアスをデスクの上に置く。

「雨宮も優等生のままで卒業したかったら、教員に妙な言いがかりをつけない方がいぞ」

 颯馬はぎりっと奥歯を噛んで、卑劣な笑顔を浮かべる村井に対峙する。

「先生こそ、学内で男子学生と淫行に耽ってた、なんてばらされたら、立場上まずいことになるんじゃないですか」

 ふん、と莫迦にしたように村井が鼻を鳴らす。

「そんなことをばらしたら、君がかばおうとしている相楽の大学生活も台無しになるだろうな」

「相手が相楽だなんて誰も言ってない」

 怒りを押し殺しながら、颯馬は言った。

「なんだと」

「男にフェラされるのがそんなに好きなら、俺がやってやりますよ」

 椅子の前の床に膝をつき、村井の明らかに不意を突かれた顔を見上げながら、そのスラックスのベルトに手をかける。

「雨宮っ…おい、何を」

「結構上手いって言われるんですよ、俺」

 精一杯虚勢を張って、皮肉な笑顔を作る。

 颯馬に淫らな舌の使い方を教え込んだあの高校教師は、そのことが学校側に知られるや、すぐに自己都合での退職に追い込まれた。

「ばらされたくなかったら、今後は成績を盾に相楽に関係を迫るのはやめてください」

 村井を、あの教師と同じ目に逢わせることだってできる。もちろんそうなれば颯馬もまた同じように嫌悪と侮蔑の視線に晒されるだろうが、それで仁が村井から解放されるのならば、そんなことは何でもなかった。

「あめ、みや…」

 ジッパーを下げ、下着に手をかけた。颯馬を見下ろす村井の目が淫蕩な気配を帯びる。こんな奴のものをこれから咥えるのだと思うと、軽く吐き気がした。

 そのとき。

「はーい。淫行の現場押さえたー」

 ドアを無造作に開けて、誰かが準備室内にずかずかと入ってきた。

「相楽っ」

 思わず腰を浮かせた颯馬の肩を仁が掴んで、その身体を村井から引き剥がす。そのまま颯馬を後ろにかばうように立ちはだかると、いきなり村井の胸倉を掴んだ。

「あんたもいい加減クズ野郎だな」

「何をっ…離せ、相楽!雨宮も、お前らこんなことをして、ただで済むと思うな」

 明らかに取り乱した様子の村井に、仁は軽蔑の視線を向ける。

「ただで済まないのはあんただよ、村井准教授。学生にやらせた課題を無断で自分の論文に転用するのは、大学の倫理規定の明確な違反だって、知ってた?」

「は?」

 蒼白になって黙り込んだ村井の代わりに、颯馬が声を上げてしまう。

 無断転用?

「俺が聞いた限り、自分の書いたプログラムがあんたの名前で使われることを承知してた奴は一人もいなかったぜ。証言付きでいつでも学校側に報告できる。他にも、海外論文からの盗用が何件かありそうだよな」

「なっ…何の、証拠が…」

「お楽しみの前には、自分の研究用PCはログオフしておいた方がいいぜー。パスワードなしでも、席を外した隙に誰かに中身を確認されるからな」

 呆然としていた村井が、ぎょっとしたように自分のデスクを振り返る。

「貴様…あのとき、わざと俺にシャツを洗いに行かせたな」

「今頃気付いたかよ、この色ボケ」

 吐き捨てるように言うと、仁はデスクの上に、ばん、と片手を叩きつけた。

 その迫力に、村井だけでなく、颯馬までもがびくりと身体を震わせる。

「てめえ、雨宮に書かせたプログラムも自分の手柄に横取りしようとしてただろ」

 仁が村井のワイシャツの襟元をねじ上げる。村井がひっ、と情けない悲鳴を上げた。

「おまけに、こいつにまで卑猥なことさせようとして…ぜってー許さねえ」

「相楽、待て」

 慌ててその背中に取り付き、仁を羽交い絞めにする。

「暴力はやめろ。お前の立場が悪くなる。村井の不正が立証できるなら、それで十分だろ」

「雨宮」

 仁の双眸に燃え上がる怒りの焔が、颯馬の方を振り返ると、かすかに和らぐ。

「でもこいつ…お前に…」

「俺は何もされてないから。むしろ、俺が無理やりしようとしたんだ」

 言いながら、自分の稚拙な発想が今更ながら恥ずかしくなる。

「相楽がこいつに関係を強要されてるんだと思ったんだ。それをやめさせようとしただけなんだよ」

「雨宮」

「もう行こう。俺、色々と相楽に謝らなきゃいけないことがある」

 デスクの上にぽつんと置かれた青い石のピアスをつまみ上げると、仁の腕を取って促す。

 村井の方をもう一度強烈な目つきで睨みつけた後、仁はしぶしぶといった様子で颯馬の後に続いて準備室を後にした。

 

 

 大学を出て颯馬の家に向かう道すがら、仁から聞いたところによると、きっかけは彩絵だったらしい。

「彩絵ちゃんの研究テーマに協力を頼まれてたんだけど、パンキョーで村井の授業を履修してるって言うから、面白半分にそのノートも見せてもらったんだ。そしたら、たまたま前に読んだ英語の論文と同じ図を使っててさ。調べたら、無断転用っぽくて。盗用する奴って、もう癖になってることが多いんだよね」

「資料室で、そんなことを調べてたのか」

「そう。んで、今日も立ち寄ってみたら隣から声がするからさ、雨宮の真似をして間仕切りのドアのところで立ち聞きさせてもらった」

 あの日の光景がまた脳裏に甦りそうになって、颯馬は慌てて話題を変えた。

「…そもそも、彩絵の研究テーマってなんだよ。あいつ社会学部だろ」

「あー、うん。彼女さあ、性的マイノリティに対する差別の問題を研究してるらしくてさ」

「…え」

「俺の噂を聞いて、当事者の意見を聞きたいからフィールドワークに協力してくれ、って頼まれたの。正面切って『バイなんですか?』とか訊かれたのは、さっすがに初めてよ。面白れー子だよな」

 いきなり直球で切り込む彩絵と、呆気にとられる仁の図が、ありありと目に浮かぶ。

「面白いだけじゃなくて、正義感も強いよね。性的指向が違うってだけで相手を見下すなんて許せないって、随分腹を立ててたぜー」

 颯馬は思わず黙り込んだ。

 まさか、彩絵がそんなことを考えていたなんて。

 鞄のポケットから自宅の鍵を取り出そうとすると、寒さにかじかんだ指先に、何か小さくて硬いものが触れる。

 仁のピアスだ。

 仁がいなかったら、颯馬は彩絵のことを誤解したままだっただろう。逆に村井のことも、表に見える顔だけで判断して、その卑劣さに気づかないままでいたに違いない。

 今日こそ、仁に何か温かい飲み物を振る舞おう。

 そして、きちんと謝ろう。

 部屋の中に招き入れた仁をスイッチを入れたコタツに座らせ、颯馬はキッチンに向かった。直接顔を見ていない方が、多少なりとも気安く話を切り出せる。

「相楽。色々と、ごめん」

「なにがー」

 先ほど村井に詰め寄ったときとは別人のように呑気な声がリビングから聞こえてくる。

「結果的に嘘つくことになっちゃったけど、俺、ノンケじゃないんだ」

「ん。実は、そーかなー、ってちょっとだけ期待してたけどさ」

 コーヒーメーカーを準備する手が止まりそうになる。

 期待ってなんだ。いやそれより、自分では上手くごまかしたつもりが、そんなに露骨に態度に出ていたのだろうかと、颯馬は今更のようにひやりとした。だがここで話を終わらせてしまうわけにはいかない。

「女の子を好きになれるならその方がいい、って言ったのも、俺の経験からそう思ったってだけで、相楽を責めるつもりじゃなかった」

「うん…あんときは、俺も動揺しちゃってさ。体調の悪い雨宮を放ったらかして帰っちゃったりしてごめんな」

「体調が悪かったってのも、嘘なんだ」

 コーヒーの粉と水をセットして、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。

「待ち合わせ場所まで行ったら、相楽が彩絵と一緒にいるのが見えて…咄嗟に嘘をついて引き返した」

 戸棚の奥のコーヒーカップを探る手が、緊張で少し震える。

「俺、お前と二人で出かけるんだと思い込んでて、浮かれてて。それを裏切られたような気がして、勝手に拗ねてたんだ」

 リビングの方を振り向く勇気がない。でも、これだけはちゃんと伝えておきたい。

「ごめん、相楽。俺やっぱり、友達としてじゃなくて、お前のことが好きなんだ」

 声が細かく震えてひどく情けない告白になったが、それでも颯馬は、その言葉を口にできただけで嬉しかった。

 こんな風に、自分の気持ちを好きな相手に伝えることができる日が来るとは思ってもいなかった。

「雨宮」

 すぐ背後で仁の声がした。いつの間にかキッチンに入って来ていたらしい。

 振り向きざま、仁の腕が伸びてきて、ふわりとセーターの胸元に抱きすくめられた。

「え」

 何が起きたのかわからずに戸惑っている颯馬の頭を、仁の長い指がそっと撫でていく。

「謝んないで」

「相楽?」

「俺のこと好きだってことは、謝らないで。何も悪いことしてないだろ」

「でも」

 友達でいる方がよかったのではないのか、と問い返そうとした声を途中で呑み込んだ。背中に回された仁の腕がぎゅっと強く絞られる。

「俺だって、本当は雨宮と二人で行きたかったんだよ」

 颯馬のこめかみがどきどきと脈を打つ。

「知り合いのやってる、その、そういう…ゲイの客とか多い店でさ、クリスマスイベントやるから友達連れて来ていいって言われて。でも、さすがに雨宮だけ誘ったら下心ばればれだよなーって思って…彩絵ちゃんがそういうの興味あるって言うから、一緒に来てもらうことにしたんだ」

「下心?」

 声が裏返ってしまう。

「そう。雨宮のこと口説きたくて、でも嫌われると思ったから、冗談でごまかしてた」

 口説く、って。

 自分の耳にしたことがまだ信じられなくて、颯馬は呆然と仁の顔を見上げる。

「…今からでも、口説いていい?」

 仁の手が颯馬のこめかみの髪を掻き上げ、眼鏡の弦をつまんだ。外された眼鏡をカウンターの上に置かれる。視界がぼやけると同時に、はっと身を固くした。

「待って」

 頬の下に沿えられた手を掴む。

「あのさ。俺は、お前の高校の同級生みたいに潔くないんだ。後でもう一度友達に戻ろう、って言われても、絶対に無理」

「え」

「だから…友情の方が長続きするって相楽が思うなら、今日はコーヒーだけ飲んで帰って」

「うわ。いてぇ」

 急に仁が胸元を押さえたので、颯馬は一瞬ぎくりとする。だが心配そうに見上げると、仁は目だけで笑い返してくる。

「痛いとこ突くよなー。そういうとこが、好きなんだけどさ」

「な…」

 仁は、赤くなった颯馬の頬を指の背で優しく撫でる。

「だから、友達なんかじゃなくて、もっとずっと特別な関係になりたい」

 その囁きにほだされそうになりながらも、颯馬は問いたださずにいられない。

「けどお前、恋愛感情なんてない方が楽だって言ってただろ」

 仁は突然、颯馬の肩を強い力でぐい、と引いた。

「誰も、雨宮相手に楽がしたいなんて言ってない」

 颯馬の頭が仁の胸元に抱え込まれる。

「さっき隣の部屋で立ち聞きしてて、もし村井の野郎が雨宮に指一本でも触れたら、って考えただけで逆上しそうになった」

 言いながら思い出したのか、仁は本当にぶるっと身体を震わせる。

「で、村井だけじゃなくて、他の誰とだろうと雨宮がそんなことしてるところ想像したら、ぞっとして鳥肌が立った。だからこれは村井のせいじゃなくて、雨宮が俺にとって特別だからだ、ってわかった」

「お前…勝手だぞ」

 仁の両腕に力が込められるのに反比例するかのように、颯馬の身体からは徐々に力が抜けていく。

「想像どころじゃなくて、実際にお前が村井とああいうことするの目撃した俺の身にもなってみろよ」

 拳で軽く仁の背を叩く。

「うん、ごめん。もう絶対、雨宮以外とはあんなことしないからさ、怒んないで」

「俺以外と、って何だ。どさくさに紛れて」

「じゃあ、ちゃんとお願いする」

 顎に手を当てがわれて、無理やり作った不機嫌な顔を仰向かせられた。眼鏡がなくても、こちらを見つめる目の奥の強い光がはっきりとわかるくらい、仁の顔が近くにある。

「雨宮。好きだ。俺と付き合って」

 囁きが、もうほんの数センチしか離れていない。

 そこに届かせるには、仁の肩に手を沿えて背筋を伸ばすだけで十分だった。

 唇同士を軽く触れ合わせ、すぐに離れると、仁が意外そうに目を見開く。

 颯馬の顔がさっと紅潮した。

 すかさず、その顔を両手で挟み込まれ、唇を荒々しく塞がれる。

「!」

 颯馬の、唇がわずかに触れるだけのキスとは比べ物にならない、激しい口付けだった。

 押し当てたまま顔をわずかにずらし、下唇を挟み込んで、引っ張るように吸われる。つられて唇をほどくと、それを待ち構えていたかのように舌が素早く差し入れられた。

「んっ…」

 反射的に引っ込めようとした舌を巧みに絡め取られ、強く吸われた。そのまま口腔内を蹂躙される。唇の裏をくすぐり、舌の表面を舐め取り、上あごに先端を擦りつけていく。

「はあっ…あ」

 わずかに唇が離れた隙に、弾む息を整える。息苦しさのせいで、目尻に涙が滲む。

 潤んだ目をそっと開くと、食い入るようにこちらを見ている仁の視線にぶつかった。

「どうしよ…完全に呼び水になっちまった」

「なに、が」

「なあ。これ以上したら、怒る?」

 困ったような、それでいて甘えるような目つき。こんな顔をされたら逆らえない。

「お前…どうして俺がいちいち怒るって決めつけるんだよ」

「だって俺、なんかいつも雨宮を怒らせてるから」

 不意に、颯馬の中で何かがすとんと腑に落ちた。

「違うよ」

 仁の背中におずおずと腕を回して、ぎこちなく抱きしめ返す。

「相楽のことは…いい加減にあしらえないだけだよ」

 最初からそうだった。

 仁がそこにいるだけで、颯馬は心も身体も丸ごとそちらに引き寄せられてしまう。彼の言葉に、行動に、ひとつひとつむきになってしまう自分がいる。

 自分はこんなにも、彼と真剣に向き合うことを望んでいたのだと、ようやく颯馬は気付いた。そんな相手は初めてだ。

「雨宮」

「コーヒーは明日の朝までお預けだな」

 颯馬は仁の胸からそろりと身体を離すと、とっくに二人分の用意ができていたコーヒーメーカーのスイッチを切った。

 

 

 全身が細かく震えてしまうのは、寒さのせいではなかった。寝室のエアコンは十分に効いている。セーターとシャツを脱がされた肌を晒していても、むしろ身体はますます火照っていく。

「あっ…待って、相楽っ…」

 制止の声を無視して、仁の指が颯馬のジーンズのウエストのボタンを外す。明らかな予兆を下着越しに撫で上げられて、颯馬は羞恥に身をすくませた。

「待てない」

 耳元に吹き込まれる仁の声に、いつもの余裕の響きはない。

 身をよじると、その動きを封じるように、両肩をベッドの上に押し付けられた。

「あの下衆野郎のをしゃぶってやったとき、雨宮と目が合って、俺が何を考えたと思う?」

 あの日のガラス越しの視線よりもさらに熱を帯びた目で、仁が覗き下ろしてくる。

「同じことを雨宮にしたらどうなるんだろう、って想像してた」

 仁はそう言いながら、颯馬の細い腰を解放するように、ジーンズとトランクスをずり下ろす。

「さ、相楽っ」

 片膝をすくい上げるように持ち上げられた。仁の顔が伏せられたと思うと、脚の付け根の敏感なところを舌が這う。

「教えて。雨宮、どんな風になんの」

「や、ちょっ…」

 半勃ちになっているものの根元に、吸い付くようにキスをされた。

「やめ…っ……」

 舌が、芯を持ち始めたものの輪郭を確かめるように辿っていく。上まで達すると、今度は唇でついばむように先端を咥えられた。

 ちゅく、という音を立てて、仁の口が欲望を中へ引きずり込む。強く吸われた一点を目がけて、血流が殺到する。

 奥まで呑み込まれた後、上下の唇で強く挟み込むように、一気に先端までしごかれた。既に硬くなっているそれが、びん、と大きくしなる。

「ん…くぅっ」

 亀頭のくびれを舌先で辿られ、双球をやわやわと手で揉まれる。尖らせた舌先で先端の小さな孔をこじ開けられ、中から溢れ出した滴を花の蜜のように吸われる。

 たまらずに仁の髪の毛を掻きむしるが、仁は颯馬の両脚を押さえつけるようにして行為を続ける。

「相楽…っ…はな…して」

 腰の奥からせり上がってくる熱を押しとどめきれず、颯馬はせがむような声を上げてしまった。だが、仁は聞き入れてくれない。

「離したくない」

 先を口に含んだまま、仁の指が、屹立を上下に強く扱く。

「ああっ…あ…あ……っ」

 唇を噛んで耐えることすらできなかった。語尾が溶けるような悲鳴と共に、熱が弾ける。

「はぁ、は…っ…あ、ご…ごめん」

 シーツを握りしめる指の先まで張り詰めていた身体の力が、一気にくたりと抜ける。

「何を謝ってんの」

 仁が口元を掌でぬぐった。

「だって、お前…口の中、嫌いだって…」

「雨宮のは嫌じゃない」

 しれっと言ってのけると、颯馬の放ったもので濡らした指で、奥の割れ目をつうっ、と辿る。

「ひ、ぅっ…?」

 これまで感じたことのない異様な感覚に、反射的に脚を閉じようとするが、仁が膝の間に身体を割り込ませてきてそれを阻む。

「ちょっとじっとしてて」

「なに、して…わあ、やめろっ」

 脚を大きく開かされた恥ずかしい格好のまま、後ろの窪みまで指が滑って行く。颯馬は焦って足をばたつかせた。

「だって、ほぐさないと入らないだろ」

「やっぱり…そこ、入れるんだ」

 確かめる声が、どうしても怯えたように震えてしまう。

 知識はあった。自分の指で試してみたこともある。でも、実際に他人のものを受け入れたことは、これまでなかった。

 生理的な恐怖に身を固くする颯馬に、仁がふと気付いたように顔を上げる。

「え。もしかして…初めて?」

「…っ」

 ぱっと顔を逸らしたが、紅潮した顔を見られてしまった。

「うそ」

「嘘、じゃない」

「だって…雨宮、したことあるって言ってたろ」

「あれは、その」

 あの場では仁への対抗心もあってあんな言い方になったが、実際には口や手でしたことがあるだけだ。と、今更説明するのも気後れがして、颯馬は唇を噛む。

「マジかよ……も、勘弁して…」

 呆気にとられたような仁の声に、颯馬は身をすくませた。

 幻滅されただろうか。

 考えてみたら、颯馬は仁に嘘ばかり言っている。自分に自信がないから、そうやって本当の姿をごまかしてばかりいる。

 せっかく好きだと言ってもらえたのに。自分は仁が思っているような人間じゃない。誠実でも優しくもない。それを知られたらがっかりされるだろうか。そんな奴いらない、と不用になったピアスのように捨てられてしまうだろうか。

 その想像に、絶望の淵へと突き落とされそうになったときだった。

「颯馬」

 初めて、苗字ではなく名前を呼ばれた。

「え」

 驚いて正面を向くと、困ったような顔で笑う仁と目が合う。

「お前、俺を殺す気かよ」

「…へ」

「いちいち可愛すぎんだろ。おまけに、こんなエロい顔と身体しといて実はバージンとか、もう…」

 言葉の途中で額にキスが落とされる。

「どんだけ、俺を煽ってくれんの」

「煽ってなんか」

「ごめん。最後まで、させて。ちゃんと颯馬のことも気持ちよくするから」

「え……っ」

 もう片方の手で、胸元をそろりと撫で上げられた。触れられて初めて、その先端がしこったように硬くなっていることに気付く。

「ここも、感じる?」

 指先で引っ張るようにつままれる。

「そんな、わけ……っ」

 すると、電気のような刺激がちりりと走って、なぜこんなところが、という疑問を覆してしまう。

「ぁ…んっ」

 指の動きに合わせて声がうねる。尖った先をちろりと舐められると、今度は腰が小さく跳ねた。

「やっぱ、反則レベルでエロいよ、お前」

「どっちが…ん、それ、やだっ…」

 胸を交互に舌で愛撫され、颯馬は喉をのけ反らせて喘ぐ。

「やめ、ろっ…て…あぁっ…」

 粒の先端に舌先をねっとりと絡ませられ、唇の間に挟まれて吸われる。そのたびに、足の指先まで熱に浮かされたような震えが走る。

「ここ舐めると、下がひくひくってなる」

 仁の言うとおりだった。

 蓋をするように親指の先を押し当てられている後孔が、胸元への刺激に呼応するかのように痙攣するのが自分でもわかる。

「あーもーやばい」

「さが、ら……?」

 身体をくるりと裏返され、うつ伏せの状態から腰を持ち上げられた。

「もうちょっと、濡らすね」

「…やっ……」

 やんわりと押し広げられたそこに、今まで触れていた指とは違う柔らかいものが押し当てられた。それが何であるか気付いた瞬間、思考が止まる。

「そん、なっ」

 無防備に晒された穴の周囲を、仁の舌が丹念に濡らしていく。こんなところを舐められるなんて、死にそうに恥ずかしい。なのに、二の腕がぞわりと粟立つのは嫌悪感のせいではなかった。

 ぴちゃぴちゃといやらしい音が背後から響いてくるたびに、危うい震えが腰から背中へと駆け上る。

「んくぅ……」

 喘ぎ声を漏らしそうになって、顔を枕に押し付ける。膝から力が抜けていきそうだ。

「っと、危ない」

 ぐらりと揺れた腰を支えられた。仁がそのまま上体を起こして、颯馬の背後に膝立ちになる。

「颯馬。脚、こうやって…閉じてみて?」

「え」

 股の間に硬いものを押し付けられた。それを挟むような格好で脚を閉じるよう促される。

「うん、そう…ん、いい感じ」

「あっ…な……ああぁ…っ」

 ずるっ、と腰が前後に動くと同時に、挟み込んだ仁の屹立が颯馬自身のものに下から擦り付けられる。。

「なんだ、これっ……ん、くぅ…」

 硬く張り詰めた陰茎を袋の間にごりごりと押し付けられるのは、たまらない感覚だった。先ほど解き放ったばかりのはずなのに、颯馬のものも再び硬く勃ち上がり始める。

「ん、は、あぅ」

「う、あ。颯馬…これ、いい」

 腰をゆっくりと前後に動かし続けながら、仁が颯馬の後ろの窄まりに指で触れた。

「あ…!」

 すっかり潤ったその入り口に指先が差し入れられる。

「うん、大丈夫…そのまま、感じてて」

 柔襞になじませるように、中で指を小刻みに動かされると、たまらずに颯馬は背をよじった。

「やあぁ、さがら、それ……んっ…」

 外側を擦り合わせる刺激を追いかけて、内側からもかきむしるような感覚が襲ってくる。どろりとした熱が身体の奥で滲んで溶けて、違和感と快感の境目が徐々に曖昧になっていく。

「そろそろ、いいかな」

「…っ?」

 股の間から、仁のものがずるりと抜かれた。と同時に、中からも指が出て行く。

 高められたまま突然置き去りにされたような感覚も、一瞬のことだった。

 すっかりほころびたところをさらにこじ開けるように、仁の先端が中に入ってきた。

「んーーーーっ!」

 強烈な圧迫感に、呼吸を失う。

「颯馬…ごめん、少しだけ、力抜いて」

「んな…む、りっ…」

「お願い。お前の中に、全部入りたい」

 仁の唇がうなじに優しく触れた。こわばった背中にも掌がそっと当てられる。

「なあ、颯馬。俺の名前、呼んで」

「さが、ら」

「ううん。下の名前。仁、って」

 甘い囁きが、颯馬の内耳を蜜のように溶かしていく。息も絶えだえになりながら、ただ仁の望むようにしてやりたい一心で口を開く。

「じ、ん…っ」

 だが、口にした途端、それが何か特別な呪文だったかのように、颯馬の身体からふわりと力が抜けた。

 あたかもその隙を突くかのように、ずん、と奥を一気に抉られる。

「あ、あ、あああ」

 自由落下で内臓が浮くときにも似た感覚に、全身の皮膚にざわっと鳥肌が立つ。

「颯馬っ…ごめん、もう俺、だめ」

 打ち込まれた楔が前後に激しく動く。そのたびに内側の敏感な粘膜が擦れ、焼けつくような刺激が颯馬を翻弄する。

 身体の中に呑み込んだ焔は、瞬く間に全身を席巻していく。

「…う、んっ、もっと……」

 気が付けば、貪るようなよがり声を上げていた。

「それ…あぁっ……そこ…ん…」

「あ…颯馬、ここ…?気持ち、いい?」

「ん、い…いい…」

 激しさを増す仁の抽挿に合わせて、颯馬も大きく腰を動かす。既に限界まで硬く張り詰めたものが自分の腹を打つ。

「仁…仁、じ…んっ…」

 その名を呼ぶたびに、心と身体が加速度的に昂ぶっていく。仁の熱さが、そのまま颯馬の全身の体細胞を満たしていく。

「っ…颯馬、すげ…」

「あ、ああ…仁……いく……!」

「くそ…俺、もっ…」

 一際強く奥を穿たれた瞬間、膨らんだ風船が割れるように、颯馬は絶頂に達していた。

 

 

 颯馬が目を開くと、目の前に仁の背中があった。肩が上下する規則正しいリズムから、まだまどろみの中にいるのが察せられる。

 布団の端からうなじが覗いている。すんなりと綺麗な曲面を描く滑らかな肌に、颯馬の目が吸い寄せられる。

 仁を起こさないように慎重に身体を寄せ、首の左寄り、服を着たらぎりぎり襟首に隠れそうな場所に、唇で触れた。

 仁がピアスを落としたあの日、ここに残っていた跡は誰のものだったのだろう。そんなことを思いながら、唇を押し当てるようにして少し強く吸う。

 びくり、と仁の背中が震えたと思うと、その顔がぱっと振り向いた。

「ひゃ、びっくりした…あ、颯馬か」

 颯馬と目が合うと、子供のような顔で、とろんと笑う。

 寝返りを打ってこちらを向いた仁の胸元に掌を滑らせる。驚いたような顔をされるが、そのまま手を離したくなかった。

「お前に触るのって、気持ちいいな」

 思い切って言ってみると、仁は一瞬虚を突かれたような顔をした後、照れたように笑って頷いた。

「俺も、颯馬に触るの、好き」

 布団の中で背中を撫で上げられ、颯馬はくすぐったさに身をよじって笑った。

「なあ…気持ちいい、って、いいことだったんだな」

「何、言ってんの」

 不思議そうな表情の仁の頬にそっと掌を置く。寝乱れた長めの茶色い髪を、指で挟んで軽く引っ張ってみる。

「俺、こういうことして気持ちいいって感じるの、いけないことだと思ってたんだ」

 仁の顔を引き寄せ、確かめるように唇を重ね合わせた。

 顔を離すと、仁が首を傾げる。

「どして」

「どうしてだろう。男に対してしかこうしたいって思えないのは、間違ってるって思ってたからかな」

 布団の下から伸びてきた仁の腕が、颯馬の肩に回される。

「俺は、間違ってるとは思わない」

 いつもの茶化したような言い方ではなく、時折覗かせる怖いほど真剣な表情でもなく、あくまでもゆったりと穏やかな声だ。

「颯馬が言ってたこと、合ってたもん。なんだか俺、心と身体はつながってる、って初めてわかった気がする」

「仁」

「本当に好きだと思える相手なら、こうして身体をくっつけてるだけで心まで幸せになるんだ。颯馬が教えてくれた」

 仁の言葉と表情が、これまでずっと颯馬を縛っていた鎖を魔法のように外していく。

「うん。俺もやっと、わかった」

 颯馬の細胞は有性生殖を行なわない。染色体が結合して、遺伝子が混じり合って、新たな生命を生むようなことはない。でも、それが不毛だなんて今は全然思わない。

 溶け合って、一つになって、自分の一部と相手の一部が混じり合うことの喜びに、性別なんて関係なかった。

 抱き寄せられるままに仁の首筋に顔を埋める。肩のカーブに自分の顎を沿わせながら、心まですっぽりと仁の隣に収まっていくのを感じる。

「颯馬」

「何?」

「正月休み、実家に帰っちゃうの」

「帰らないよ」

 自分でも驚くほどすんなりと結論が出た。自分が生まれ育った土地ではあるが、あそこにいる限り、颯馬はどこまでも迷子の染色体でしかない。

 自分の居場所は、仁の隣にしかない。

「年末年始もここにいるからさ、いつでも鍋食いに来いよ」

 そう言って鼻先を肩に擦りつけると、仁はくすぐったそうに笑う。

「そしたらさ、初詣とか一緒に行っちゃう?」

「いいね」

「その後、デパートの初売りも行こうぜ」

「はは、デートみたいだ」

「ばあか、デートに誘ってんの」

 仁の手が颯馬の髪を掻き上げ、耳元を探る。そこにふわりと吐息がかかる。

「お揃いのピアス、買いに行こ」

「んー、穴開けるのは…ちょっと」

 仁と同じものなんて自分には似合わない気がして、颯馬は少しだけためらう。

「じゃあ、お揃いの指輪でもいい」

「え」

 仁が自分の額をこつん、と颯馬の額に当てた。

「ダメ?」

 甘い声が颯馬の耳をとろかしていく。

 心の一番奥で最後まで迷っていた細胞が、ようやく見つけた居場所。この場所だけは、誰にも譲りたくない。

「…すぐなくしたり、簡単に捨てたりしたら許さない」

 手を伸ばして仁の鼻を軽くつまむと、すかさずその手を掴まれた。

「大丈夫。一生大事にするから」

 そう言ってスマイルマークのような綺麗な笑顔を作ると、仁は颯馬の指に優しくキスをした。

 


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