〈第三章〉
音楽の居場所
夜になって気温がぐっと下がって、雨が霙に変わった。
沖縄から来てこの天候ではさぞ堪えるだろう。田辺がそう話を向けると、真栄里真哉は駅ビルで急遽買ったというマフラーを外して、苦笑いを浮かべた。
都内の老舗ライブハウスでの単独ライブを聴きに行き、翌日インタビューを行ったのだが、その後「飲みに行かないか」と誘われたのは意外だった。
「いつぞやは、失礼な言い方をして悪かったな」
繁華街の大通りから一本細い路地に入った料理の旨い居酒屋に案内して、ビールで乾杯をすると、真哉はいきなりそんな風に切り出した。
「いえ、いい歳して配慮が足りなかったことは自覚してます」
そもそも、これだけ年齢が離れているのに高森の友達で通すのには無理があっただろう。それなのにいきなり自宅に泊めてもらったりしたのは浅はかだった。
イブに高森と二人で行ったライブ会場で、後から来た真哉に釘を差されたのだ。もしおかしな噂が立ったら、その直撃を受けるのは東京に帰るあんたじゃなく、ここに残る透なんだぞ、と。
高森と再会できたのが嬉しくて浮かれていて、そんなことにさえ頭が回らなかった自分が恥ずかしかった。
「田辺さん、あんたのことは透から聞いた」
どこまで、と確認するほどは田辺も間抜けではない。グラスから一口ビールを飲んで、続きを待つ。
「あいつは、俺にとっては血の繋がらない弟か甥っ子みたいなもんで。実際、うちは三人兄弟で兄貴二人にはガキが大勢いるんだが、お袋は、あいつも自分の孫だと思っている節がある」
放浪している父親と離れ、高校一年生のときから独り暮らしをしている高森にとっても、隣家の真栄里家は頼れる親戚のような存在らしい。真哉の両親のことを、高森はごく自然に「おじい、おばあ」と呼んでいる。
「ま、要するに俺はあんたの『小姑』みたいなもんだな。よろしく頼む」
そう言って、真哉はにやりと笑った。田辺も負けずに、わざとらしい満面の笑みを返す。
「よほど悪い虫がついたと思われているみたいですね」
「そんなことはない」
真哉は急に真面目な顔になる。
「…透の歌い方が、変わった」
いきなり音楽の話になって、田辺は少々面食らった。だが、そちらは門外漢と言っていい立場なので、とにかく口を挟まずに神妙に頷く。
「もともと音感も声の質もいい。ああ見えて練習熱心だしな。だが、どうも自信がないのか、表現が安定しないところがあった。それが、最近は歌に芯が入ってきた。と、あいつの師匠が言ってる」
「そうですか」
「しかも、時々びっくりするほど色っぽい歌い方をしやがる。ま、基本的にはいい方向だ」
「それはよかった」
真哉は喉の奥でくっくっく、と笑い声を立てた。
「まあ、そんなわけであんたには感謝してる」
「『芸の肥やし』で終わらせるつもりはありませんけどね」
目一杯図々しく言ってのけると、「ゲイ違いか」と返された。わざと泡だらけにビールを注ぎ足してやる。真哉は知らん顔で、店員を呼んで焼酎のロックを頼んでいる。
田辺は苦笑いした。いいだろう、こういう人間は嫌いじゃない。
「それで小姑さんとしては、今回は俺にどんな小言を用意してきてくれたんですか」
そろそろ本題に入っても罰は当たるまい。たとえ相手に罵倒されても、もう取材は済んでいるから仕事に支障はない。
真哉はゆっくりと足を組み替えた。そして、ちょっと逡巡する様子を見せた後、思い切ったように口を開いた。
「あいつの父親が帰ってくるらしい」
やはりそれか、と思った。
「透から聞いてます」
その件で高森からメールが入ったのは先月のことだった。すぐに電話をしたが、高森は落ち着いていた。
(帰ってくる、っていっても、ここで暮らすわけじゃなくて、一時帰国なんだ)
(一時帰国?)
(今ニュージーランドに住んでるらしくて。でも、海外じゃどうしてもできない手続きがたまってて、それを片づけがてら、俺にも会いに来るんだってさ)
淡々とそう言った。少なくとも声を聞く限りでは、冷静そのものだった。
まったくの他人事といった口調で、淡々とそう言った。少なくとも声を聞く限りでは、冷静そのものだった。
「あいつの傍に、いてやってくれないか」
真哉が言いにくそうに切り出す。田辺は用心深く聞き返した。
「親父さんと会うときに?」
「何も面談に付き添えってんじゃない。ただ、あの父親と久しぶりに対面するのは、あいつにとってしんどいんじゃないかと思ってな」
田辺は自分も同じ焼酎のロックを注文し、一口舐める。真哉は小さく首を振った。
「いや、あいつがどう思うかは知らん。ただ、俺は個人的に、あいつの親父がどうも気に食わない、ってだけなんだ」
真哉は、どこまで気付いているのだろう。
「どういうところが、ですか」
探るような気配をなるべく隠して、さりげなく聞き返す。真哉は「そうなあ」とちょっと考えてから、例の、人の悪い笑顔に戻った。
「あんたと同じような雰囲気だったところかな、田辺さん」
「…同じ?」
これにはさすがに不意を突かれた。ロックグラスの氷が、からん、と大きな音を立てる。
田辺の動揺に素知らぬ顔をして、真哉は続けた。
「保護者の顔も友達の顔もしてなかった、って意味さ」
平手打ちを食らったように、耳の奥がぼうっとする。急に、酒の味がわからなくなった。
真栄里真哉という人間は信用できる、と田辺は思っている。人好きのする性格とは言い難いが、まっとうな本音をストレートに口にする人間のようだ。何よりも、自分で言う通り、高森を本当の家族のように大事に思っているのが伝わってきた。
高森が本格的に三線を習いたいと言った時に、今の師匠の赤嶺勇一(あかみねゆういち)をを紹介したのも真哉だったらしい。「師匠」というのでつい、白髪の老人を想像してしまったのだが、まだ四十だと聞いて田辺は驚いてしまった。真哉はその父親の赤嶺勇(いさみ)の弟子だったので、赤嶺勇一とは兄弟弟子の間柄になる。しかも入門が先だったので、年齢は下だが真哉の方が兄弟子になるそうだ。
一方、高森にとっての真哉が、少なくともかつては、単なる「隣のお兄さん」を超えた存在だったであろうことくらいは、田辺にも察しがつく。それについては、穏やかならざる気持ちになることがあると認めるにやぶさかでないが、高森が過去に、どんな男とどんな関係を持ったか、詮索しようとは思わない。今の高森は真哉に対してそのような感情は抱いていないようだし、田辺の見る限り、真哉が高森を恋愛対象として見ている気配もなかった。
だが、たとえ過去の話であっても、相手が肉親となると話はまったく違ってくる。
かつて高森は、父親を恋愛対象として見そうになった、と言っていた。では、父親の側は高森をどのように見ていたのだろう。
「仲のいい親子ではあったよ。高校生にもなって父親と二人で遊びに出かけるとか、大家族で育った俺にはちょっと理解できなかったけどな」
顔色も変えずに二杯目の焼酎を口にしながら、真哉は言った。それから、ずけずけと物を言う彼には珍しく、ちょっと躊躇した後で、言いにくそうに付け加えた。
「たまに、親子というより、歳の離れた恋人同士みたいに見えるときがあった」
言いながら、鋭い視線を田辺の方に投げてくる。
田辺は目だけで相槌を打つと、氷が解けて薄まった自分のグラスの中身を慎重に口にする。
真哉は低い声で話を続ける。
「それが、何があったか知らんが、ある日突然父親だけが島を出て行った。それきり、十年近くも音沙汰がない。仕送りは十分すぎるくらいしてくるらしいが、金さえ送りゃいいってもんじゃないだろう。そんな父親、あんただったらどう思うよ」
「変わってるな、とは思いますね。それ以上のことは、俺には何ともわかりかねます」
何かを試されている気分だった。
高森と父親の間にどんなやり取りがあったか、真哉は具体的に知っているのだろうか。いずれにせよ、田辺は高森に聞いた話を真哉に明かすつもりは毛頭なかったし、真哉と腹の探り合いをするつもりもなかった。
「ただ、外国から突然帰国するという以上、何か緊急の事情があるのかな、とは思いますけど」
病気になった、などという話でなければいいと願う。もっとも、本人が飛行機を乗り継いで石垣島まで来る予定にしているようだから、もしそうだとしてもそれほど差し迫った容体ではないだろうが。
そんな田辺の想像を断ち切るように、真哉は苦々しく吐き捨てた。
「事情があるにせよ気紛れにせよ、それに振り回されるのは透の方だ」
田辺は黙って頷いた。部外者の田辺でさえ、こんなに落ち着かない気持ちになっているのだ。まして当事者の高森は、とても平静ではいられないだろう。
「透は大人だ。年齢に似合わないくらいに。多分、そうならざるを得なかった。でも、大人でも一人じゃ手に余る事態に巻き込まれることがある。振り回されたときに支えになるものが欲しいのは誰だって同じだろう」
「そうですね」
あの、閉め切った部屋の澱んだ空気を思い出す。今あの家で、高森はどんな気持ちで過ごしているのだろう。
田辺はグラスを置いた。背筋をすっと伸ばして真哉を見る。大抵の人より背が高い田辺は、そうすると相手を見下ろす感じになってしまうので、普段は猫背気味に椅子に座るのが癖になってしまっている。真哉はわずかに顎を上げてそんな田辺をじっと見ていたが、やがて、頼む、とでも言うように、小さく頭を下げた。
「高森稔さんが帰国するのは、三月上旬から約一ヶ月という話でしたね。そのつもりで、もう仕事の調整をしてます」
田辺は、フリーになって初めて大きな仕事を断る経験をした。桜前線を追いかけるウェブの企画だった。三月中旬から下旬にかけて四国での取材を担当してくれと言われたので、それはできないと伝えたのだ。
田辺クラスのライターなら、代わりはいくらでもいるのはわかっている。一度断ったら次は二度とないと思った方がいい。だが、田辺はこの案件を断るのに瞬時もためらわなかった。
「真栄里さんにこんな風に頼まれなくても、俺は最初から、その時期に透に会いに行くつもりだったんです。だから、借りを作った、とかは間違っても思わないでください」
真哉が意外そうな顔になる。そうそうあんたのペースで話を運ばれてたまるか、と思いながら、田辺はにやりと笑って付け加えた。
「まあ、こうして真栄里さんのお墨付きがいただけて、俺としては石垣島に行くのにずいぶんと気が楽になりましたけどね」
「もともと俺に遠慮なんかしてないんだろ」
憮然とした声で真哉が返す。その端正な顔に、不本意、と大書してある。田辺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
まさか、あなたの顔が、と正直に言うわけにもいくまい。田辺は誤魔化すように焼酎のおかわりを頼んで、話題を変えた。
「そういえば、透が誘われたユニット、活動を始めたんですね」
「そうそう。パーカッションが加わって三人編成になって、なかなか面白そうなことになってきた」
この人は、音楽の話となると別人のようにまっすぐな口ぶりになる、と初めて田辺は気付いた。
「ボーカルは、ギターの人と透の二人で担当するとか。張り切って報告してきましたよ」
「うん、コウキの声とは相性がよさそうだ。ギターと三線とパーカッションに乗せて、日本の唱歌を二人で歌うというレパートリーがあって、あれは悪くない」
彼らの音楽について楽しそうに話す真哉の世界に、きっと高森も住んでいるのだ。それが少しだけ羨ましかった。
汽水域環境に関する国際学会の取材。石垣島の食材を使ったマクロビオティック・レストランの取材。泡盛の蔵元へのインタビュー。サンゴ礁保護研究活動のウェブサイトの内容についての打ち合わせ。他、執筆・校閲作業。
よくもまあ、ここまで徹底して石垣島シフトを組めたものだ、と我ながら感心する。去年から「八重山関係の仕事があったら何でもいいから声をかけてくれ」と、手当たり次第に仕事の知り合いに声をかけ続けた甲斐があったというものだ。これで、三月上旬にほぼ十日間、石垣島に滞在することが可能になった。
だが、メールでスケジュールを伝えると、愛しい恋人からは不満そうな声で電話がかかってきた。
「なんでウィークリーマンションなんか借りるんだよ」
「ホテルに泊まるよりも安く上がるだろ」
「うちに泊まってくれればもっと安上がりじゃないか」
田辺は溜息をついた。予想された反応ではあった。
「前回のことを、俺は大いに反省しているんだ。十日も居候していたら、さすがに近所の人に怪しまれる」
普段の高森の生活を乱すような真似は、間違ってもしたくなかった。だが高森は、なんだそんなこと、と笑った。
「気にしないよ。訊かれたらちゃんと説明するから。『真面目にお付き合いしてる人です』ってさ」
「おいおい」
最近、高森は田辺とのことを、徐々にオープンにし始めている。
ユニットを組むギターの伊波航希とパーカッションの上原純に真っ先に打ち明けたところ、二人ともまるで当たり前のように受け止めてくれたという。職場でのカミングアウトは難しいようだが、学生時代の友達などには少しずつ話をしているらしい。もっとも真栄里家では、田辺とのことを知っているのは真哉一人だけだ。
「でも、正面切って堂々と言うと、意外と皆『気持ち悪い』とか言わないもんだよね。隠そうとしてびくびくしている方がよほど、陰であれこれ言われるんじゃないかな」
その勇気を、田辺は愛しく思う。だが同時に、高森が不必要に傷つかなければいいがと、彼より色々と経験してきた大人としては少しだけ心配になってしまうのだ。
田辺は、携帯を耳に押し当てながら、ゆっくりと首を振った。
「話を戻そう。そもそも君の親父さんがいる」
「うちには泊めない」
即答だ。
「透、気持ちはわかるが、そこは高森稔さんの家なんだろ」
「俺がずっと住んでる家だよ。家に入れたい人は俺が決める」
「家族を入れないわけにはいかないだろう」
たしなめるような口調になってしまうのが自分でも腹立たしい。
「じゃあ、篤志さんはそれでいいの。俺が、親父と同じ家で何日も一緒に過ごして、それで篤志さんは平気で…」
「透」
ぴしりと割って入る。だが、すぐに口をつぐんだ高森の気まずそうな気配を察して、心の中で舌打ちした。
「…ごめん」
高森の声がしおれている。こんな声を出させるために電話しているのじゃない。
今隣にいたら、うんと甘いキスで黙らせてやれたのに。
「今のは嘘。そんなこと全然思ってない。ただ、篤志さんに平気な顔してほしくなかっただけなんだ」
「ちなみに、今俺は猛烈に動揺したぞ」
「本当にごめん。最低だ、俺」
今すぐ石垣島に飛んでいけたら、息が詰まるほど強く抱きしめてやれるのに。
「わかった。じゃあ、何日かは泊めてくれ。なるべく迷惑をかけないようにする」
「迷惑なことなんてない。ずっといてくれていいよ」
それから、小さく付け加えた。
「…篤志さんにとって迷惑じゃなければ」
はっとする。
高森には、自分を振り回すくらいわがままを言ってほしい、と田辺は思っていた。だがいつもこうして、最後のところでどこか遠慮させてしまうのだ。それは、田辺の側にも原因があるのかもしれない。高森に対して、どこかで踏み込んでいくことをためらっている自分がいる。自分の方にはいくらでも踏み込んできてほしいと望みながら。
「それなら条件がある」
「条件?」
「俺が着いた日の翌日の夜に外泊をすること。できればそのさらに翌日に休みを取ること」
「…何それ」
その二日間は、石垣島のリゾートホテルで国際学会があり、田辺はその一部を取材することになっていた。
「いま思いついた。俺も一部屋予約してあるんだが、そこに一緒に泊まろう。ダブルの部屋にアップグレードしてもらう」
「そんな高級リゾート、宿泊費払えないよ」
「俺が払う。君んちに泊めてもらう家賃代わりだ」
たまにはそういうのもいいだろう、というと、高森は素直に嬉しそうな声を上げた。
「リゾートホテルって初めてだ。あれかな、花びら浮かべた風呂とかあるのかな」
「…透、そんなの入りたいのか?」
そういう趣味があるとは思えないが。
「そりゃ、あったら試すでしょ。篤志さんも一緒に入って、中でやらしいことする?」
「業務に支障を来す恐れがあるため、大変遺憾ながらご辞退申し上げます」
「そこ、思いっきり棒読みするかなー」
「本音だよ。今日はまだこれからゲラチェックがあるんだ、変な想像させるな」
憮然として言うと、電話の向こうからいたずらっぽく笑う声が返ってきた。最近歌い方にも色気が出てきた、と真哉が言っていたのを思い出す。あまり認めたくないが、どうやら本当らしい。
南西へと飛ぶ飛行機の中で、田辺はもう何度も読み返した文庫本の表紙を再度開いた。『豆電球の読書灯』と題されたその本は、高森と出逢った昨年九月の取材旅行に出発する際、羽田空港内の書店で買ったものだ。
高森稔が文芸誌に連載していた、海外の児童文学に題材をとったエッセイ。『星の王子さま』『十五少年漂流記』『ツバメ号とアマゾン号』『ハックルベリー・フィンの冒険』『長くつ下のピッピ』『飛ぶ教室』『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』…エトセトラ、エトセトラ。
本の最後は、書き下ろしの長めのあとがきとなっていて、読者に宛てた手紙の体裁を取っていた。
「子供の頃にこれらの本を夢中になって読んだあなたと、もう一度一緒にページをめくって、語り合いたかった」
その何の変哲もない一文がなぜ、まるで恋文のように読めてしまうのだろうか。何だか落ち着かなくて、いつもその部分に来ると本を閉じてしまう。
座席の前のポケットに文庫本を挟むと、田辺は背もたれを倒し、石垣島に到着するまで少し眠ることにした。
仕事帰りに空港で出迎えてくれた高森は、田辺を見るなり「おかえり」と口を開いた。だが、田辺を驚かせたのは、その言葉ではなかった。
「透…その声どうしたんだ、風邪でも引いたのか」
完全にかすれてしまって、ほとんど聞き取れない。高森は喉をひゅうひゅう言わせながら「大丈夫」と言い、曖昧に笑った。
三日ほど前から急に声がおかしくなったらしい。風邪の症状はまったくなく、喉にも痛みはない。ただ声だけが、このようにかすれてしまって出ないのだという。
それでか、と思い至る。ここ数日、高森は田辺の電話に一度も出なかったのだ。留守電にメッセージを吹き込んでも、返事は必ずメールで帰ってくる。何か怒らせでもしたかと気を揉んでいたのだが、謎が解けた。
田辺が心配すると思って、黙っていたのだろう。
「医者には行ったんだよな」
「うん、原因がよくわからないから少し様子を見ましょうって」
「どうせ『ストレスでしょう』とか言われたんだろ。医者は、診断がつかないと必ずそう言うんだ」
軽口を叩いたつもりだったが、もろに図星を指されたという表情の高森を見て、軽率な発言を後悔した。この場合、精神的ストレスの他に原因など考えられないではないか。しかも高森自身がそのことに気付いていて、なおかつ田辺に心配をかけまいとしているというのに、冗談のネタなんかにするべきじゃなかった。
「これじゃ店で接客もできないし、有給もたまってたから、明日から丸々三日間仕事を休んじゃった。だから、ホテルには朝から一緒に行けるよ」
自宅まで車を走らせながら、高森は囁くようなかすれ声でそう言って笑った。その横顔が、心なしか少しやつれたように見える。
「色々、大変だったな」
気付いてやれなくてごめん、と思いながら、なるべく運転の邪魔をしないように、その頬に指を滑らせる。高森は黙って笑顔を作った。
家に着くと、高森は前回と同じように、二階の和室に田辺を案内した。
「ビールでも飲もうか?」
「そうだな、機内で軽く食べたんだが、せっかくだからオリオンを飲みたい気分だな」
「じゃあ、荷物片付けたらリビングに降りてきて。海ぶどう買っておいたから、それを肴にしよう」
かすれ声でそう言い置いて、高森は階段を降りて行った。
東京から着てきた、この島の気候にはもはや暑すぎるマウンテンパーカをハンガーにかけ、室内を見渡す。年末に訪れたときとほとんど何も変わっていない。部屋の隅に置かれた小さな本棚もそのままだ。
改めて、そこに収められた本の背表紙を眺める。中には古びて退色しているものもあるが、どれも大切そうにきちんと並べられている。田辺は鞄からもう一度文庫本を取り出して、目次に目をやった。記憶していた通り、この本に取り上げられているタイトルはすべてこの棚に揃っていた。
そして、前回田辺が買って置いていった文庫本も、カバーをかけられたまま一番端に置かれている。
高森はあの「あとがき」を読んだだろうか。
田辺は、狭い飛行機の座席に座り続けて凝った肩をほぐすように、ぐるりと首を回した。
長年没交渉だった父親から日本に帰国したという連絡があったと、高森が例によって淡々と田辺に報告してきたのは、一週間ほど前のことだった。東京であれこれ用事を済ませた後、石垣島へ来るらしい。だが結局高森は、父親と一度、平日の夜に一緒に食事をすることに同意した以外は、この家に入れることさえも一切承知しなかったようだ。
高森には、一度引いた線を消して書き直すのを潔しとしないような、奇妙に潔癖な一面がある。父親に対しては、その面が一際強く出るようだ。やはりまだ、強張った心を解きほぐすに至っていないのだろう。
その引きつれを和らげる手助けが自分にできるのか、田辺にはわからなかった。そもそも、自分が口を出していい問題なのかどうかすら判断がつきかねる。
本棚に向かって軽く肩をすくめて、田辺は部屋を出た。高森が待つ階下へと降りて行く。
声が出なくなるほど自分の心を追い詰めている高森に、今自分がしてやれることはあまりない。ただ、仕事以外の時間はできるだけ一緒にいて、うんと甘やかしてやろう、と田辺は心に決めた。
南国リゾートに相応しく、ホテルの部屋は贅沢だが寛いだ空間だった。開放的な造り、滑らかなフローリング、随所に沖縄のモチーフを配したモダンなテイストの調度。ドアを開けるなり、高森が「わあ」と歓声を上げた。
「お、海が見える」
バルコニーに出ると、その眺望に田辺も目をみはる。早速高森が隣にやってきて、広々とした風景をクリスマスに田辺が贈ったカメラに収めている。
「すごい。こんなところに泊まれるなんて、なんか新婚旅行みたいだ」
「え」
思わず横を向く。目が合うと「冗談」と笑う。そして、バルコニーの手すりに両手を乗せたまま、伸び上がって田辺の頬に小さくキスをした。
「外から見えるぞ」
「誰も見てないよ」
今度は身体ごと田辺の方を向いて唇を合わせてくる。甘えるような仕草につられて、田辺もその背中に両手を回した。
最初は互いについばみ合うようにしていた唇を、少しずつ深く重ねていく。舌の絡み合う濡れた音を立てながら、互いの熱を存分に味わう。
ようやく顔を離すと、田辺はありったけの理性をかき集めて宣言した。
「なあ透、俺は先に仕事を片付けないといけないんだ」
これ以上続けると、国際学会の取材には不穏当すぎる状態に下半身が突入してしまう。
「何より『先に』?」
無邪気を装ってにこりと笑った高森の額を指で弾く。
「後でじっくり教えてやる」
時計を見て時間を確認すると、メモやカメラやノートパソコンなどを取材用のバッグに手早く準備する。
「多分夕方までかかるから、ゆっくりしててくれ」
ドアまで見送りに来た高森に言うと、高森は耳元に口を寄せて囁いた。
「うん。あのさ…仕事なのに、連れてきてくれてありがとう」
聞き慣れないかすれ声が、一瞬どきりとするほど色っぽい。
「いや、透に礼を言われることじゃない。俺が一緒に来たかったから、強引に誘ったんだ」
その髪の毛を片手でくしゃりと掻き混ぜると、首をちょっと傾げて、はにかんだように笑った。
仕事は仕事できっちり割り切る自信があったが、今回ばかりは後ろ髪を引かれること甚だしかった。事前に読み込んだ資料を手に研究発表に耳を傾けながらも、ふとした瞬間に高森の笑顔を思い浮かべてしまって、慌てて気を引き締める、ということを田辺は何度か繰り返した。
それでもどうにか発表を聴き終え、今回の取材対象である、マングローブ林の生態系調査を専門とする若手研究者に話を聞いた。以前田辺が編集部で働いていた科学雑誌の連載で、色々な大学のユニークな研究室を紹介するシリーズなのだ。なかなか好評で、そのうち書籍化されるかもしれないという話を担当の編集者から聞かされている。
やはり自然科学や環境に関わる仕事は気合が入る。今年は少し腰を据えて沖縄の自然環境の勉強をしよう、などと考えながら、荷物を置きに部屋に戻ると、高森はキングサイズのベッドの上に胡坐をかいて、膝の上に三線を抱えていた。
その隣に自分も腰をおろす。
「まさか、歌ってたのか」
ベッドの上に、楽譜のコピーらしき紙が散らばっている。
「ううん、三線だけ。来月までに少しでも練習しておかないと」
高森が伊波と上原と組むユニット「PALM」は、四月の最初の週末、石垣市内のライブハウスでのイベントに出演が決まったらしい。田辺は東京に一度帰った後、できれば一晩だけでも、彼らのそのデビューライブを見届けにこちらへ戻ってきたいと考えていた。
「でも、どちらかというとボーカルの方が心配なんだけどね」
相変わらず、呼吸にちょっと色を付けました、といった感じの声がつらそうだ。唄三線を習い始めてから毎日の練習を欠かしたことがないという高森にとって、歌えないというのはどれほど不安なことだろう、と想像する。
高森は楽譜と三線を片付けると、サイドテーブルに置いてあったカメラを取って、写真を見せてくれた。
「敷地内を散歩してみたけど、屋外プールが大きくて綺麗だったよ。さすがに、まだ泳いでいる人は少なかったけど。プライベートビーチも、寝転がってのんびりするにはよさそうだった」
「のんびりしててくれてよかったのに」
「だって、一人じゃつまらないし」
そう言いながら、ベッドの上に横になって伸びをする。
「誘っておいて、ごめんな」
高森の癖のある毛先に指を絡ませるように、その頭を撫でた。すると高森がその手を取って、ぐっと引っぱる。
田辺も倒れ込むように横になる。その首元に高森が顔を埋めてくる。
「晩御飯まで、このまま少し寝ててもいい?」
「疲れたか?」
高森は小さく欠伸をした。
「篤志さんの顔見たら、眠かったの思い出した」
「なんだそれ」
笑いながら、手を背中の方へ滑らせていく。ただでさえ細い身体が、さらに少し痩せたような気がして心配になる。
そんなことは一言も言わないが、おそらく、このところよく眠れていないのだろう。空港に迎えに来たときも、目の下にうっすらと隈を作っていた。
「篤志さんの隣は、寝心地がいいんだ」
かすれた声でそんなことを言う。
そういえば、昨夜もこうして田辺の腕の中で、子供のようにすとんと眠りに落ちてしまったのだ。
「じゃあ、少し眠るといい」
前髪を撫で上げて、額に小さくキスをする。
「おやすみ」
目の前の相手を抱きしめてそう囁くこと。それがどんなに贅沢なことか、高森に出逢う前の田辺は知らなかった。
日が落ちたホテルの中庭には、何かの花の甘い香りが漂っていた。海からの風が、たっぷりの食事と酒に火照った身体に心地よい。
「ふう、美味かったあ」
高森が隣でうーん、と伸びをする。夕食はホテル内の鉄板焼きレストランを予約したのだが、高森は見ていて爽快なほどの食欲を発揮し、魚介と石垣牛のコースをぺろりと平らげた上にデザートまで堪能して、田辺を少し安心させた。
「俺は食い過ぎた」
「えー、俺あのステーキならまだ食える」
十歳の年齢差がこういうところに如実に表れるな、と、田辺は胃をさすりながら痛感した。何にせよ、高森がこんな風に明るい笑顔を見せてくれるなら、田辺としては満足だった。
「プールの方、行ってみようか」
このまま中庭を突っ切ると、屋外プールに出る。夜間は泳げないし、そもそも泳ぐにはさすがに気温が低いが、プールサイドから海に向けて開けた空に星が綺麗に見えるのではないかと高森は言う。そんなところ、きっと周りはカップルだらけだぞ、と思いながらも、田辺はおとなしく高森の後について行った。
案の定、プールの方へと抜ける小道の端、大きな鉢に植えられた背の高いブーゲンビリアの葉陰に、ぴたりと寄り添う二人の人影があった。ちらりと目をやって、おや、お仲間か、と思う。どうも男性二人連れのようだ。なかなか大胆なことだ。
引き止めようとして高森の肘に手を伸ばしたとき、足音に気付いたのか、その二人連れがこちらを振り向いた。
田辺と目が合った背の高い男性は、四十代半ばと見えるブロンドの西洋人だった。その顔に見覚えがある。確か、今日の学会で発表をしていた研究者の一人だ。
一方、彼が腕をしっかりと腰に回している男性は日本人のようだった。年齢はもう一人と同じくらいだろうか。肩の薄い華奢な体型だ。長い前髪が庭の照明からの光で細面の上に影を作って、どこか危うげな雰囲気を醸し出していた。
高森が隣で鋭く息を呑んだ。ひっ、と喉の奥で笛の鳴るような音が田辺の耳を刺す。
「透?」
声をかけるなり、高森はぐるりと回れ右をして、今歩いてきた道を建物の方へ走り出した。
「ま、待てよ、透っ」
邪魔したことを二人に詫びる暇はなかった。慌てて高森の後を追う。庭を突っ切り、ロビーに駆け込んで、ぎょっとする客の間をすり抜ける。エレベーターの前でようやく追いついた。
「どうしたんだ」
荒い息をつくその肩を掴んで、顔を覗きこむ。先ほどまでの寛いだ様子とは一変して、目が大きく見開かれ、驚愕というよりもほとんど恐怖の表情を浮かべていた。
「…大丈夫か」
高森は首を振って、立ちくらみでも起こしたように、その場にしゃがみ込もうとする。
「おい、とりあえず、部屋に戻ろう」
その身体を抱きかかえるようにしてエレベーターに乗り込んだ。
部屋まで戻ると、高森はドアを入ったところで、膝を折ってへたり込んでしまった。それを何とかもう一度立たせて、ベッドまで連れて行こうとするが、その手を振りほどかれた。
「うっ…」
苦しそうな息で、高森がトイレに駆け込む。扉の向こうから漏れてくる、明らかに嘔吐している音を、田辺は半ば呆然と聞いていた。
急に、どうしたのだろう。さっき食べたものに当たった、などということではなさそうだ。
あの男性二人連れを目撃したときの高森の反応を思い出して、背筋を不吉な予感が走る。
トイレを流す音が聞こえてきた。少し様子を窺ってから、田辺は控えめにドアをノックする。
「透、落ち着いたか」
長い沈黙があって、それからゆっくりとドアが開いた。思ったよりもしっかりした足取りで、高森が出てくる。
「口、ゆすいでくる」
顔を伏せたままそう言って、バスルームの方に消えた。田辺は部屋に備え付けのグラスを取り出してミネラルウォーターを注いだが、情けないことに手が震えてしまって、テーブルの上にグラスを倒しそうになる。
「急にごめん」
その背中に、洗面所から戻ってきた高森がこつん、と額を当てた。まだ呼吸が荒い。
「水を飲むといい。喉も楽になるから」
向き直って、その手にグラスを握らせた。高森は素直に頷くと、錠剤でも飲むみたいに、グラスを傾けて細い喉に水を注ぎ込む。目尻にうっすらと涙が滲んでいた。
飲み終わったグラスを受け取ると、ベッドに座らせた。
「まだ気持ち悪いか」
高森が小さく首を振る。
「大丈夫。ちょっと…驚いただけ」
何にそこまでショックを受けたのか。嘔吐するほど透を動揺させる原因として、思い当たることといえば一つしかない。
首筋にじわりと嫌な汗をかく。
高森が引きつれたかすれ声を上げた。笑ったつもりらしかった。
「親父と、こんなところで鉢合わせするなんて」
「…なんだって」
「あの人、十年前と全然変わってねえんだもん」
ある程度、予想していた答えではあった。それでも、田辺はやはり、絶句するしかなかった。
その場で凍りついたように立ち止まったまま、自分たちの方を見ていた、あの華奢な男性の姿を思い出す。
高森稔か。あの男が。
田辺自身も相当に動揺していたが、何の心の準備もなくいきなり父親が男と抱き合っているところを目撃した高森のショックは察するに余りある。しかも高森自身が、その父親に対して長年複雑な感情を抱き続けてきたとあっては、なおさらだ。
「あの人こんなところで何してるんだ」
今にも呼吸困難になりそうな高森の声だ。だがそれはむしろ、向こうがこちらに対して言いたい台詞だろう、と、田辺は思った。
取材資料の中から、今日配られたプログラムを引っ張り出して確認する。
「ナイジェル・ミルバンク教授か」
「誰」
君の父親の恋人、とは、さすがに言えなかった。
「一緒にいた金髪の男性。今日の学会で発表していた一人だ」
ニュージーランドの大学で、島嶼部の生態系について主に海洋からの影響を中心に研究している、とある。
国際学会にパートナーを同伴するのは、別にルール違反というわけではない。特にこういうリゾートで開催される場合は、家族と一緒に訪れる研究者も多い。海外では、食事などの際に配偶者が同席するのはむしろ当然と考えられているようだ。同性カップルを見かけることはさすがにほとんどないが。
高森稔がゲイだったとは知らなかった。いや、息子がいるのだから、少なくともずっとそうだったわけではないはずだ。
「それにしても、君の親父さんは一体いくつだ」
薄暗い中で一瞬見た顔を頭の中で再現しようとする。詳細には思い出せないが、高森の父親の世代には見えなかった。
「四十八、じゃない、九か」
「なんか…想像してたのと全然違った」
「どんなの想像してたのさ」
かすれた声に込められた皮肉なトーンは、誰に向けられたものか。
高森稔は、メディアに素顔で登場するタイプの作家ではない。著作にも著者近影すら載せていない。長年の読者である田辺も、彼がどんな外見をしているのかは知らなかった。
それにしても、先ほど恋人に細い身体をもたせかけていた人物は、ワイルドライフを愛する放浪の作家のイメージとは程遠く、どこか儚げにさえ見えた。
「俺と似ているかと、ちょっとだけ期待してたかな」
自嘲気味につぶやく。
高森のただ一人の肉親。そして、彼が恋愛感情に近いものを抱かずにはいられなかった相手。
身代わりでも構わないと思っていた。その人の影が自分の上に落ちることで、高森が自分への執着を強くしてくれるのなら。
「全然似てないよ」
高森は断定した。
「あの人、すげえ頼りないんだ。なんかこう、実用的な人間じゃないんだよ」
ベッドに腰掛けた高森の足が、落ち着かなげに前後に揺すられる。
「危なっかしくて家事は任せらないし、事務的なことにも無頓着で、編集者さんがいつも苦労してた」
高森は、田辺の方を見ずにかすれ声で喋り続ける。
「何かに夢中になると周りのことは目に入らなくなっちゃうし、自分が他人にどう見られているかとか、どんな迷惑をかけてるかとか、そんなことにはまったく頭が回らないんだ」
その苦々しげな口調が、どこかわざとらしく聞こえるのは、田辺の思い込みだろうか。
「気をつけてないと、食事したり顔を洗ったりさえ忘れるし。俺が傍にいて面倒を見てやらないとダメだったんだ」
(親子というより、歳の離れた恋人同士みたいに見えるときがあった)
いつかの真哉の言葉を思い出した瞬間、田辺は後先も考えずに、高森の言葉を遮っていた。
「俺は、違う?」
「違うよ…全然」
さっきほど断定的な口調ではない。
「つまり俺のことは、一人で放っておいても構わないってことか」
「え」
「普段は離れているんじゃ、いつも傍にいて面倒を見るわけにいかないもんな」
ひどい八つ当たりだと自分でも思うが、妬むような言葉を押しとどめられなかった。
「まだあの人を好きか」
ぶらぶらと揺れていた高森の足が、ぴたりと止まった。
言った瞬間からもう、田辺は後悔していた。自分の心が真っ黒に塗りつぶされるような自己嫌悪に陥る。
それを訊いてどうするのだ。高森がそれを否定すれば満足するのか。
「すまん、大人げなかった。今のは忘れてくれ」
押し黙ってしまった高森から逃げるように、田辺はベッドの脇を離れた。そのまま窓の方へと向かい、バルコニーに出ると、椅子に力なく腰を下ろす。風が海の匂いを運んでくる。
もし高森が、心の底では再び父親と一緒に暮らすことを望んでいるとしたら、自分はどうすればいいのだろうか。彼の父親が帰国するという話を聞いてからずっと考え続けてきたこの問題に、田辺はまだ答えを出せずにいた。
本当は、力ずくでも奪ってしまいたい。君をずっと一人で放っておいた奴なんかよりも俺の傍にいてくれ、と、なりふり構わず本心をぶちまけてしまいたい。しかも相手は実の親じゃないか。そんな歪んだ関係に閉じ込められてしまったら、高森はますます苦悩するだろう。想像するだけで、息が苦しくなる。
だが、もしそれが本当に彼の望んでいることだとしたら、田辺にそれを止めるすべはない。人の心も、過ぎ去った時間も、自分の望みどおりに変えることはできない。
本棚にきちんと収められていた児童書の背表紙を思い出す。二人が共に過ごした歳月の中で、交わされた無数の言葉と共有された思い出を想像する。その重みと比べたら、自分などただの通行人でしかないと思う。
感情があちこちでもつれ、腹の底で固い結び目を作っていた。それが心臓に合わせてどくどく脈打っている。
動揺している高森を支えてやりたい、という気持ちに偽りはない。だが同時に田辺は、高森の心をここまで激しくかき乱すことのできる存在を、どこかで羨ましく思っていた。
少しして、高森がほとんど足音も立てずにバルコニーへ出てきた。田辺の沈黙の外側を回り込むように、手すりの方へ歩み寄ってその上に上半身をもたせかける。
遠い波の音や木々の葉が揺れる音を経て、ここまで到着した風が、高森のシャツの裾をはためかせていく。
「…悪かった」
その風に促されるように、ようやく重い口を開くことができた。
高森はそのまま、バルコニーの向こうの海を見つめている。
「篤志さんは悪くない。ちゃんと答えられない俺がいけないんだ」
ささやくような声が、風に吹かれて田辺のところまで流れてくる。
「答えなくていいんだ。そこは、俺が強引に立ち入っていいところじゃない」
田辺の言葉に、高森が小さく首を振った。
「俺はもうあの人のことなんて何とも思っていない。そう思ってたのに、さっきの二人を見たとき、一瞬逆上して殴りかかりそうになった」
その言葉に驚いて、椅子から身を起こす。
「でも、親父と、その隣にいた人の、どちらに怒りを向けていいのかわからなかった。そして、気付いたんだ。二人とも何も悪くない、全部、俺が悪いんじゃないか、って」
かすれたその声が、やけに遠いところから聞こえてくるような気がする。
「実の父親を相手に邪なことを考えてたのも、その父親を追い出したのも、全部俺だ。そんな自分の汚い部分は誤魔化して、平気な顔で誰か他の人を好きになったりして、俺はなんてずるいんだろう。そう思ったら、吐き気がした」
「透。声が苦しそうだ。もう喋るな」
椅子から立ち上がって、高森の背後に立った。その背中を守るように、自分の腕の中に抱き込む。
高森が小さく身をよじった。
「俺、さっき、その、吐いたりしたし…汚いよ」
「綺麗だよ」
腕に力を込めて、そのこめかみに唇を寄せる。だが、それを振り払うように、高森は首を振った。
「俺は、汚い。篤志さんに優しくしてもらえるような人間じゃない」
そのまま、田辺の腕の中から抜け出そうとする。
「だめだ。透、こっちを向いて」
肩を掴んで、無理やり自分の方を向かせる。
「俺は、透が好きだ。君が誰なのかを知る前から惹かれていた。そして、知るたびにもっと好きになる」
「…親父のことを、知っても?」
「隠さずに打ち明けてくれて、俺は嬉しかった。少しでも透に近づけたような気がしたから」
うつむいた顔を両手の中に挟んで上を向かせ、視線を合わせる。
「透が好きだよ。君が誰のことを好きでも」
それだけが、自分の中で揺るぎない。
「…俺は、篤志さんが、好きだよ」
「じゃあ、何も悩む必要はない」
泣きそうな顔を胸元に引き寄せ、高森の肩ごしに、目の前に大きく開けた夜空を眺める。
「あ」
思わず声を上げた。海の上に広がる空の低いところに、見慣れない星がひとつ。
「カノープスが見える」
「え、どれ」
高森がぱっと後ろを振り向く。
「あそこ、空の低いところに明るい星が見えるだろ」
「あれが、アガスティーアか」
この時期が一番、南の空に高く昇るのだ。
バルコニーの手すりにもたれた高森が、可聴域ぎりぎりの小さな声で囁いた。
「一緒に見たかったんだ」
高森の肩から離した両腕を、彼の身体を囲むように伸ばして、手すりの上に置く。
そのまま二人で、無言で、ただじっと祈るようにカノープスを眺めていた。
「許したりとか受け入れたりとか、そういうの、意外と時間がかかるもんだな」
しばらくしてから、田辺は星に遠慮するようにそっと口を開いた。
「そうだね」
「俺も今痛感してる。透を困らせるだけだってわかってても、どうしても君にとって特別な存在に嫉妬してしまう。でも、時間をかけて、少しずつ乗り越えていけると思う」
「…うん」
南の一等星に向かって手を伸ばす。
「カノープスって、見ると長生きできるって言い伝えがあるらしい」
「そうなの?」
「そう。なあ透、一緒にゆっくり時間をかけよう。壊すのはいつでもできる。でも俺は、透と二人でこれからいろんなことを積み上げていきたい」
同じ星空を見て、同じ歌に耳を傾けて、違う本を読んで、それらについて語り合って。並んで写真を撮ってもらって。食べて、飲んで、笑って、抱き合って。そうして、高森が一緒に過ごしてきた他の誰よりも多くの時間を共に過ごすのだ。
「俺…昔から、ずっと一人きりのような気がしてたんだ」
夜風の一部になったような高森の声。
「小さい頃から、ずっと。親父と二人でいても、なぜかいつも一人でいるような感じだった」
「うん」
その孤独を知っていたような気がするのは、思い上がりだろうか。あの台風の日から。いや、多分、最初に歌声を耳にしたあの時から。
「でも今は、篤志さんといないときも、いつも一人じゃないような気がしてる」
どれほどかすれていても、高森の声はあくまでも甘く、歌声のように田辺の耳に響く。
ずっと、君の傍にいる。その言葉を胸にしまったまま、田辺は高森の背中をすっぽりと自分の腕の中に包み込んだ。
約束の不確かさを埋め合わせるように。
「…透。もう、中に入ろう。冷えると喉によくない」
海からの風が、少し強くなっていた。
高森の身体が、魚のようにつるりとシーツの間に滑り込んできた。田辺はすかさず、その首の後ろにキスをする。
「ずいぶん長湯だったな」
あと五分待たされたらバスルームに侵入してやろう、と思っていたところだった。
高森の首筋に顔を埋めて、深く息を吸った。シャンプーとボディソープと、そして高森自身の匂いが鼻腔をくすぐる。ぶかぶかのルームウェアの下から手を差し込んで、風呂上がりのしっとりとした肌の感触を味わった。
「…ちょっと、考え事をしてたから」
だが、高森はその手から逃げるように身体を返すと、そのまま起き上がった。
「篤志さん」
ベッドの上に正座をして、高森は田辺と向かい合う。
「篤志さんのことを、親父に紹介してもいいかな」
驚いて目を上げると、高森の真面目な顔と視線が合う。まっすぐな、どこかにぶつかることを少しも恐れていないかのように本当にまっすぐな視線。
「さっきから、考えてたんだ」
こういう視線を向けられることには慣れていない。自分も少しずつ変わらないといけない、と思いながら、田辺はどうしても、その想いをストレートに返せない。つい、唇の端をちょっと歪めた、人の悪い笑顔を作ってしまう。
「『息子さんを俺にください』って、言ってやるか」
高森はひるまなかった。逆に、怖いほど真剣に田辺の顔を見つめながら言う。
「それ、あの人の許可が必要なこと?」
長い睫毛の奥から、南の島の夜空のような瞳が見つめている。
「許可をもらうんじゃない。宣戦布告」
「そんなの最初から勝負はついてる」
頬をうっすらと紅潮させて昂然と言い放つ。その瞳は、地上から見上げるどんな星よりも美しい。
「どっちの勝ち?」
「言わなきゃわかんないとか、言うなよ」
少し怒ったようなそんな表情にまで見とれそうだ。
「わかってる。でも答えが聞きたい」
高森の両手を揃えて、自分の両の掌の中に包み込む。
「親父さんじゃなくて、透の許可がほしい」
瞬きもせずに田辺を見つめ返す、この視線の前に跪いてしまいたくなる。
「許可って…そんなの、もう必要ないだろ」
「そうかな」
「信じてよ」
困ったような顔で笑うと、高森はベッドを降りて、静かに服を脱いだ。
「どうぞ。全部篤志さんのだよ。好きにして」
一糸纏わぬ全身を、田辺の目に惜しげもなく晒す。手足も、胴も、若木のようにしなやかで繊細だ。身体のラインはむしろ直線的で、肉感的とは言い難い。それなのに、どこか匂い立つような色香がある。
その美しい裸身を目にして、突然、触れるのが怖いような奇妙な戸惑いを覚えた。
この身体をこの手に抱くことを許されるほどの、どんな功績が自分にあるというのだろう。恋人の戸惑いや悩みを前に、あれほど狭量で大人げないふるまいをしてしまう自分に。
手を中途半端に伸ばしたままためらっていると、高森は軽く肩を落とした。
「やっぱり、今日はやめておいた方がいいのかな」
「え」
落胆したようなかすれ声と表情が、田辺を狼狽させる。
「声が、まだこんなだから」
「体、きついか?」
心配になって訊くと、首を振る。
「そうじゃない。ただ、篤志さんが、その…」
そこまで言うと、急にぱっと顔をそむけた。
「俺の声が好きだって言ってたから…こんなじゃ、したくないかと思って」
田辺は一瞬唖然として、それからその首根っこを掴むように、顔を引き寄せた。
「この莫迦」
形のいい耳に軽く歯を立てると、高森が小さな悲鳴を上げる。
「そんな色っぽい声を出されて、やりたいに決まってるだろ」
「あつし…さん」
そのまま、赤く染まった耳全体を息で愛撫するように、言葉を吹きかける。
「透。今は、余計なことを考えずに俺だけ見てろ。そうしたら、声なんてすぐに元に戻るから」
豪語したものだな、と内心首をすくめる。だが、少しでも高森を安心させるためなら、いくらだって不遜になれる。
抱き寄せていた顔を一度離して、改めて正面から見つめる。癖のある柔らかい髪、適度に整えられた眉、仔犬のようなくりっとした目。小さめの鼻。頬から顎にかけての意外にシャープな輪郭、そして、誘うように薄く色づいた唇。
いつまでも見ていたい。でもやっぱり、見ているだけじゃ足りない。
手を伸ばして、その頬に触れる。もう何度も触れているはずなのに、いつも初めてのような気がする。そのまま引き寄せて、小さな果実を摘み取るように、唇にキスをした。
触れて、離れて、唇をとろかすように舌でくすぐる。そのまま顎から頬にかけて点々とキスを落としながら辿り、耳の後ろ側から熱い息を吹きかける。甘い吐息を飲み込んだ高森の喉にも、ゆっくりと唇を這わせる。
高森の指が田辺に触れてくる。固く締まった田辺の二の腕の表面を撫で上げていき、そこから首の後ろを通って、背骨に沿って滑り下りていく。
その細く滑らかな腕の内側にキスをすると、高森がくすぐったそうに喉の奥で笑い声を立てた。
室内の灯りを消した。カーテンを開け放した窓から、小さくカノープスが見えた気がした。
窓越しの星晴れの空を背景に、田辺の上に跨った高森のほっそりしたシルエットが浮かぶ。
薄い筋肉に包まれた腹部に手を当て、そっと表面を滑らせる。火照った体に吸い付いてしまいそうな掌を少しずつ上にずらして、胸の感じやすい突起を指で弾く。
「は…んっ」
触れるのを待っていたかのように、腕の中で細い身体が跳ねた。田辺は、高森をというよりも、自分自身を焦らすかのように、もどかしいほどゆっくりと、そこを手と舌で愛撫していく。
「あっ…ああっ…」
狭い隙間を無理やり通り抜けてきたような声が、いつもにも増して田辺を急き立て、煽っていく。腰を左手でぐっと掴み、右手で前の昂ぶりを確認するように撫で上げた。
「ん、だめっ…」
それが制止を意味しないことくらい、もうとうにわかっている。田辺は高森の身体を少し前かがみにさせると、腰をずらして、既に硬くなっているそれを自分のものと一緒に握り込んだ。
「……それ…う、あっ」
亀頭を擦り合わせるようにしながら、二本をまとめてしごき上げる。高森の先端から、早くも濃密な液体が一筋伝う。それを指に絡めて塗り込めるようにすると、手の中のものがさらに硬さを増していく。
「んく…は…ぁっ」
「気持ちいい?」
「んんっ…いい…ぁ…」
急速に上り詰めていく高森自身を、敏感なところで直接感じる。
自分の胸の上で細かく震える身体と、荒い呼吸音の途中で跳ねる喘ぎ声とがあいまって、田辺の理性はぐずぐずに崩されていく。
だが、このまま一気に熱を解放してしまいたくはない。田辺の身体は、もっと深いところで高森と繋がりたい、と悲鳴を上げている。
向かい合った高森の腰にもう片方の手を伸ばして、後ろの割れ目に大胆に指を滑らせた。
「え…篤志さん」
戸惑ったような高森の声に構わず、田辺は枕元のローションのボトルを手に取って傾け、中身を高森の腰の低いところに垂らす。
「ひぁっ、つめ…た」
その冷たさが体温に馴染むのを待っていられない。いつもなら時間をかけてほぐす入口に、いきなり指を当てがった。
「あ、まだっ…」
高森が一瞬腰を浮かせようとするのを、しっかりと抱え込む。高森の後ろは、田辺の性急さを難なく受け止め、じんわりと指を呑み込んでいく。
「…い、やぁ」
田辺の肩を鷲掴みにした両手の指先に、ぐうっと力が込められる。
「やだ?じゃあ、やめる?」
指を抜こうとすると、高森が唇を噛んで恨めし気に田辺の顔を睨んだ。
「わかってるくせに…」
苛めたいわけではないのだが、こんな可愛い表情を見せられると、つい、笑みがこぼれてしまう。
抜きかけた指を再び沈め、高森が一際敏感に反応する箇所を探る。
「ひぁんっ」
そこを爪の先で軽く擦った途端に、高森が鋭く息を呑んだ。まだ生硬さを保っていた内側が、ほろりと崩れるようにほころんでいく。
大きく弓なりに反らされた背をもう片方の手で支えながら、中の指を二本に増やした。己のものに見立てたそれを、ゆっくりと出し入れする。
「あぁ…あっ…ぃやぁ…」
少しずつ、抜き差しを速めていくと、あえかな声を上げながら、いやいやをする。
だがその仕草とは裏腹に、奥はひくひくと震え、物足りないとでも言うように田辺の指に襞を絡みつかせてくるのだ。
「はぁ、ん…あっ…ん…」
突き出すように反らせた胸では、こちらを誘うように薄く色付いた蕾がつんと勃ち上り、下では、膨らみきった花芯が焦れたように揺れている。星明りを背景に浮かび上がるその艶めかしい姿態を見ているだけで、こっちが達してしまいそうになる。
こんなにも艶冶(えんや)に乱れる高森の姿は、金輪際自分だけのものにしておきたい。激しい独占欲に、田辺の体内の炎が荒々しく煽られていく。
「透。もう、挿れていいか」
「…う…ん……ぁ…」
「もう、我慢できない」
高森の身体をベッドの上に仰向けに押し倒し、ゴムを嵌めるのももどかしく、その両脚を肩の上に抱え上げる。
指を当てて押し開き、猛った自分のものを突き立てた。
「ひ…っ」
一瞬、高森が全身を強張らせたのがわかったが、手加減できない。きついところをこじ開けながら容赦なく中を抉ると、常になく強引な田辺の挿入に、高森が目を見開いた。
「んああっ…く、あ…」
「ああ、透…」
自分でも驚くほどの焦燥感に駆られながら、田辺は腰を大きく動かした。
「ひ、あぁ」
抱え上げた腰を揺するようにして奥まで貫くと、そんな田辺を責めるように強く締め付けてくる。
「あ…透……」
一瞬、すべてを吐き出させられそうになる。動きを止めて、ぐっとそれをこらえていると、高森が両脚を腰に絡ませてきた。
「あ……あつし…さん、も…っと」
すすり泣くような声でせがまれ、田辺は腰の動きを再開させた。ぎりぎりまで引き出してから再び中を突き、さらにゆっくりと掻き回すようにして、高森の感じるところに自分の先端が当たるようにする。
「ぅ…んん…あ、はっ、あぁ…」
切なげに喉を震わせながら、高森が自分のものに手を伸ばす。その細い指ごと、田辺がそこを片手で握り込んだ。高森の手に沿えるように、上下に動かす。
「…っ……んっ…」
伝い落ちた先走りで既にぬめるほどになっている上から、さらに、田辺の汗が滴る。
「とお…る」
とろけてしまいそうな顔を覗き込む。目を合わせると、中が誘うように蠢く。打ち込んだ杭を濡れた布で包んで絞るように、密着し、絡みつく。唇を噛んでその快感に耐えながら、田辺はさらに激しい抽挿を繰り返し、自分と高森の快楽を限界まで引きずり出していく。
「ん…はっ、は…あ…」
下腹がじんわりと重く、熱い。逆に頭の奥の方は、きんと凍らせたように麻痺している。
「あ、いく…いく」
弾けるような絶頂は、ほぼ同時に訪れた。高森の放ったもので手を濡らしながら、自分も、身体の輪郭が溶けて滲み出すような快感に身を委ねる。
「透っ…」
「あつし…さん」
それ以上言葉を重ねることは不要だったし不可能だった。ただ名前を呼び合って、熱く震える身体を互いに引き寄せる。
これ以上大切なものなんて、今、この世界に存在するはずがなかった。
学会二日目の午前中に予定されている沖縄の沿岸環境の保護に関するシンポジウムに顔を出すつもりだと言うと、朝の陽射しが溢れるレストランのテラス席で、高森は相変わらず若者らしい食欲で朝食を平らげながら頷いた。
「そしたら、俺は部屋で二度寝してようかなあ」
「うん、チェックアウトは午後まで延長してるから、ゆっくりするといい」
高森があくびを噛み殺す。
「まだ眠そうだな」
癖のある髪を指先で梳いてやると、口をとがらせてこちらを睨んだ。
「誰のせいだと思ってんの」
「絶倫エロオヤジを煽りまくった誰かさんのせいだな…いて」
テーブルの下で、高森に足を踏まれた。
「声が大きいって」
そう言いながら、ちょうど隣のテーブルに座ったカップルの方を窺う。田辺は構わず、にっこりと微笑んだ。
「透の声は、少しよくなったな」
まだかなりハスキーボイスではあるが、二日前の夜に空港に出迎えにやってきたときと比べると、声帯から声が出始めている。
「うん」
コーヒーを口に運びながら、高森がうつむく。
「俺だって、わかってたよ。篤志さんの顔を見れば、よくなるんだって」
伏せた目の縁が、火を灯したように赤く染まっている。一瞬、学会など放っておいて部屋で高森の二度寝の邪魔をしたい誘惑に駆られた。
もう一度、学会プログラムに目を落とす。一時間ほどの予定の公開討論会は直接の取材対象ではないが、パネリストの中にミルバンク教授の名前がある。入退場は自由なはずなので、やはり、少しだけでも顔を出そうと思った。
部屋に戻って支度を整え、再びベッドにもぐりこんだ高森に素早く(もちろん「当社比」という断り書きが付くレベルで)キスをして部屋を出た。
会議室のフロアへ降りるエレベーターの扉が、途中の階で一度開く。
「あ」
入ってきた細身の人物を見て、思わず声を上げてしまった。その人が、田辺の声に反応して伏せていた目を上げる。
黒くて柔らかそうな長い髪。とがり気味の顎。高い鼻の下の薄い唇。間違いない。
「あっ」
高森稔は田辺を見ると、ぎょっとした表情になって、手にしていた書類をエレベーターの床にばさりと取り落した。
「あ…失礼」
慌てた様子で床にしゃがみ込み、散らばった書類をかき集める。田辺も急いでそれを手伝った。田辺が手にしているのと同じ学会の資料も交じっている。やはり討論会を聞きに行く予定なのだろうか。
「高森さん、ですよね。透君のお父さんの」
思い切って声をかけると、細い肩がびくりと震え、消え入りそうな声で返答があった。
「はい」
「その…昨夜は失礼しました」
田辺が謝罪することなのかどうかとも思ったが、向こうがここまで露骨に自分を見て動揺している以上、知らんふりもできない。
「いえ。その、こちら…こそ」
よく考えたら、随分と奇妙な会話だ。
エレベーターが指定の階に着いた。高森稔がドアを開けるボタンを押して、無言で田辺を促す。それに軽く会釈をして、ホールへと一歩踏み出した。
「透に謝っておいてください」
何の前置きもなく、突然後ろから話しかけられた。足を止めて振り向くと、エレベーターを出たところに立ち止まり、書類を腕に抱えて、こちらをひたと見据える顔と目が合う。少し重たそうな二重瞼の目は、高森の大きな丸い目とはあまり似ていないな、などと思う。
「あんな風に驚かすつもりはなかったんです。こんなところで会うとは思わなくて。ナイジェルとのことも、あんな不意打ちのような形で知らせるのではなく、私が直接透に会って、段階を踏んできちんと説明するつもりだったんです」
とても静かな話し方だった。ふと、人工の音のない静かな自然の中でなら、本来会話の声はこのくらいの大きさで十分なのだな、と脈絡もないことを考えた。少なくともこの人は、台風の風が荒れ狂う中で声を張り上げるようなことは、もう何年も経験していないのだ。
高森稔は目元に皺を寄せて、寂しそうな笑顔を作った。
「どうして私は、いつもあの子を傷つけるようなことしかできないんでしょう」
「高森さん」
「透が、私との接触をできるだけ避けているのはわかっています。無理もないんです。だから、もしご負担でなければ、貴方から伝えておいていただけますか。驚かせてすまなかった、と」
そう言って、深々と頭を下げた。
「謝りたいのは、昨夜のことだけですか」
なぜそんな失礼なことを口走ったのか、自分でもよくわからなかった。無意識のうちに、相手に対して敵愾心のようなものを感じていたのだろうか。
相手は田辺のその言葉に、はっと顔を上げた。しばらくそのまま驚いたような表情をしていたが、やがて、静かに頷く。
「貴方は、透と私とのことを、色々とご存知のようだ」
田辺は慌てて首を振った。自分はこの人たちの親子関係に口出しするような立場ではない。まして、高森稔を責めたりする資格は、自分にはない。
ただ。
「高森さん…その、もし、学会の方が緊急でなければ、もう少しゆっくりとお話をできませんか」
ただ、自分の息子に対してさえ一歩引いたような態度を取るこの人物を、このまま高森と直接会わせても、高森の気持ちが安定するとは思えなかったのだ。彼の声が再び出なくなるようなことだけは避けたかった。
ホテルのカフェに入って、奥まった席に向かい合って腰を落ち着けると、田辺は改めて、目の前の人物の物静かな佇まいをそっと観察した。
肩より長い黒い髪を後ろで一つに束ねている。顔も体も細いが、日焼けをしているせいか不健康には見えない。目尻に柔和な感じの皺が目立つが、自分より十五近くも年上とは思えない、若々しい顔つきだ。一見頼りなさげな印象なのだが、立ち居振る舞いは意外なほど機敏な印象を与える。
運ばれてきた紅茶を一口だけ飲むと、田辺は切り出した。
「『豆電球の読書灯』のあとがきは、あれは、透君に宛てた手紙ですか」
相手は一瞬、面食らったような表情になる。田辺は間を置かずに続けた。
「あのエッセイ集に出てくる本は、今も全部、透君の家の本棚にあります」
少し重たげな眼が、意外そうに大きく見開かれる。田辺は挑むようにその目に対峙した。
「あの家に、泊まらせていただいています」
高森稔は目を逸らそうとしなかった。田辺の視線をじっと受け止めたまま数秒間黙っていたが、やがて肩の力を抜くようにそっと息をついた。
「ということは、あの子はあなたに対して、ずいぶんと心を許しているんでしょう」
静かな口調に変化はない。
「あの家に十年近くもあの子を一人で放っておいて、さぞ無責任な父親だとお思いでしょうね」
伏し目がちで声も小さいが、一言ずつゆっくり、はっきりと、滑舌よく話す。
「いえ。色々と…事情がおありのようですし」
保護者の顔はしていなかった、という真哉の言葉を思い出す。確かに、目の前にいる人に父親らしいところは少しもない。だからといって、その点だけでこの人を糾弾しようとは田辺は思わなかった。
「いいえ。実際にあまりにも無責任だったと思っています。ただ、こんなことを言っても言い訳にしか聞こえないでしょうが、私はあの子から離れるしかなかったんです。もっと無責任なことになる前に」
今の言葉を田辺が咀嚼するのを待つように、高森稔は少し言葉を切った。田辺は紅茶のカップを機械的に口に運び、続きを待つ。
「戸籍上は実の親子ですが、私は透の本当の父親ではないんです」
小さな、でも語尾まではっきりと聴き取れる声だった。
「透の母親は、私の幼馴染です。私と入籍したとき既に透を身ごもっていましたが、それは私の子ではなく、同じく幼い頃から知っている私の親友の子でした。私も彼女も互いにそのことを承知で結婚しました」
「…なぜ奥様は、透君の本当のお父さんと結婚しなかったんですか」
「そいつの家が地元の名家でね。若い人はくだらないと思われるかもしれませんが、ああいう家は、こと結婚に関しては本当にやかましいんです。そいつは別の女性と結婚することが既に決まっていた」
口を挟まずにただ頷いた。
「私の親友を愛するのとは少し違う意味だったかもしれないけど、彼女と私の間にも愛情はありました。短い間でしたが、透も含めて、私たちは確かに家族だった。本当に、あまりにも短すぎたのだけど」
そう言った高森稔の乾いた声が、一瞬、過去の影に怯えたかのように震えた。
高森稔の妻と親友は、ある日、交通事故で命を落とした。二人が同乗していた車が、居眠り運転のトラックと正面衝突したのだ。二人が密かに会っていたことは、周囲は誰も知らなかったのだという。高森稔自身も含めて。
「地元では結構大きなスキャンダルになりました。私は、葬儀が終わるとすぐに、まだ二歳だった透を連れて町を離れました。下世話な噂話から距離を置きたかったし、あの子の耳に変な雑音を入れたくなかった。もちろん、透が本当は誰の子か、少なくともあいつの実家に知らせてやるつもりはなかった」
田辺は「わかります」と相槌を打った。その手の話から身を遠ざけたいという気持ちは、痛いほどわかる。
田辺の実家は金沢の和菓子屋だが、祖父が死んだときに隠し子だと名乗る人物が登場して、相続問題が泥沼化したことがある。そのときのごたごたがもとで、一部の親戚とは縁を切るまでに至った。家族にとっては一種のトラウマになっている。田辺は、自分は金沢に戻るつもりはないから、跡継ぎも含めて自由にやってくれ、と常々兄に言ってある。
「あの子を誰にも取られたくなかった。時々、あいつの両親が透を引き取りにやってくるひどくリアルな夢を見て、そのたびに逃げるように引越しを繰り返した」
単なる放浪癖ではなく、そういう事情もあったのか。
「妻と親友に裏切られた気がして、私も少しおかしくなっていたのかもしれません。でも、もう私には透しかいなかった。あの子がいなければ生きていけないと思った。でもある日、それが父親としての愛情ではないことに気付いてしまった。だから、逃げたんです。透をここに置いて」
田辺はそっと息をついた。
「透君は、自分が稔さんの実子ではないことは知らないんですよね」
彼の父親と呼ばれていた男が、小さく頷く。
「差し出がましいことを言うつもりはありませんが、そのことだけでも、透君には明かすべきだと私は思います。きっと、その方が透君自身も楽になると思うんです」
かすれ声で、自分を汚いと思わないのか、と訊いた高森。ずっと一人で過ごしながら、どれだけ自分を責め続けてきたのだろう。
「私の口からではなく、それは直接、本人に話してあげてください」
何か言いたそうなその表情を封じるように、田辺は背筋を伸ばして、正面に座った華奢な人物を見下ろした。この人も同じように、ずっと苦しんできたのだ。おそらく、ミルバンク氏と出会うまで。
この人を責めることは自分にはできない、と田辺は思った。
父親との会食を終えた高森は、夜十時過ぎに一人でタクシーで帰宅した。
高森は田辺と一緒に行きたがっていたが、まず、親子二人で話をするべきだと断ったのだ。とはいえ、一人で和室にこもって本を読んでいても、内容はなかなか頭に入らなかった。
扉が開く音に振り返る。
「おかえり」
廊下からこちらを覗き込んでいる高森に声をかけた。
「ただいま。入ってもいいかな」
「もちろん」
高森はほっとしたように笑って、室内に入ってきた。田辺の後ろに膝をつくと、背中からかじりつくようにして、肩の窪みに顔を埋めてくる。
「おい…どうした、何かあったか」
例の話はきちんとできたのだろうか。
それは、高森にとっては少なからず残酷な宣告だろうと想像していた。ただ一人の肉親だと今まで信じてきた人が実は他人で、しかも本当の父親は既に死んでいるなどといきなり聞かされて、動揺しない人間などいない。たとえそれが、罪悪感という過去の呪縛からの解放を意味する事実だったとしても。
あるいは高森自身はそんなことは知りたくはなかったかもしれない、と、田辺は不安になる。
だが、高森は田辺の首筋に小さくキスをすると、内緒話をするように、その耳に囁きかけてきた。
「俺、父親が一気に三人に増えた」
「え」
「ナイジェルさんに、プロポーズされてるんだってさ」
「そうか…ニュージーランドは同性婚が認められているんだったな」
ただしそのためには、日本国籍を捨てないといけないらしい。相談されて、高森は父親の決断を後押ししたという。
「結婚式をする予定はないみたいだけど、一度遊びに来てくれって言われた。俺、新しい義理の父親に挨拶できなかったし」
ミルバンク教授は、学会の翌日には帰国してしまったようだ。
それから高森は、ふと思い出したように付け加えた。
「俺は実の父親に似てるらしい」
「そうなのか」
田辺は身体の向きを変えて、改めて高森の顔を正面から見る。目が合うと、高森は照れたように笑った。
「一度も会ったことのない、もう死んじゃった人とそっくりな目をしてるって言われても、なんだかぴんとこないけどね」
睫毛の長い、丸くて大きな目。曇りのない綺麗な瞳。自分はこのような視線を向けられるに値するだろうか、と思わせるような。
「そうだろうな」
同じ目をしていたというその人はきっと、高森稔にとって特別な人だったのだろう、と田辺は直感した。おそらくは、同時に亡くした妻とはまた別の意味で。
「俺にとって、やっぱり父親はあの人しかいない。血が繋がってない、って聞かされて、逆に、あの人は自分の父親以外の何者でもないと思えたんだ」
「…透」
「だから、初めてあの人に、心の底からありがとう、って言えた。俺を育ててくれて。石垣に連れてきてくれて。石垣に置いていってくれて」
そこで一度言葉を切ると、膝立ちのまますっと背筋を伸ばした。田辺の肩に両手を置いて、厳粛なほど真剣な表情で、じっとその顔を見つめてくる。
「人を、好きになることを、教えてくれて」
「それは…俺もまったく同感だ」
高森の背中に腕を回した。腰の上の窪みに沿わせるようにして、そっと抱き寄せる。
「高森稔さんだけじゃない。俺を透に出逢わせてくれたすべてに、どんなに感謝してもしきれない。台風にさえ最敬礼したいくらいだ」
その言葉を聞いて、高森がいたずらっぽい笑いを漏らした。
「台風といえばさ。親父とは全然似てないけど、篤志さんだって放っておけないよ」
「なんだよ突然」
「だって、台風の前の携帯の充電なんて、基本中の基本なのに」
思い出し笑いをしているその頭を抱え込むと、猫のように首元にじゃれついてくる。ほんのり赤くなっているその耳に、わざと、脅しをかけるような低い声で囁きかける。
「俺の世話を焼くのは、面倒だぞ」
「どこが」
「透が甘えてくれないと拗ねたりする」
「見たいなあ、拗ねる篤志さん」
「そう言わないで、甘やかさせてくれよ」
そう言う自分の方が、甘えているのだ。それを承知の上で、田辺は続けた。
「頼り甲斐がないのは自覚してる。でも、苦しいことは全部一人で引き受けようとしないで、俺にも少しわけてくれないか」
こんなことを言うのは卑怯かもしれない。自分にできることなんてたかが知れているし、そもそもいつも一緒にいられるわけじゃない。だが、この細い身体にあんな風にすべて呑み込んで、ひたすら自分を責めている高森を見るのは、たまらなかった。
「俺も透の強さを見習って、頼られてもいいくらい強くなるから」
「…篤志さんて、たまに、びっくりするくらい見当違いなことを言うよね」
「へ?」
呆れたような声に、慌てて顔を上げる。高森が、田辺の驚いたような表情を見て、可笑しそうに笑った。困惑したままの田辺をなだめるように、肩にふわりと両腕を置く。
「そもそも、苦しいことを引き受ける強さなんて、俺は欠片も持ってなかった。ずっと、目を背けて小さい世界に逃げ込んでた。この家や島から出ないで、そういうものを見なくて済むようにしてた。多分、音楽も俺にとっては逃避だったんだ」
何か言おうとする田辺の唇に指を当てて、続ける。
「向き合う勇気が出たのは、篤志さんと出逢ったからだ」
そのまま、田辺の耳元に口を寄せてくる。囁きが、まだ少しだけかすれている。
「篤志さんがいなかったら、強くなりたい、なんてことすら思わなかった。あなたに見合う人間になりたい、って、ずっと思ってるんだ」
「透」
首の後ろに両腕を回して、ぎゅっ、と力をこめる。
「透…それは、俺も同じだ」
これほど真剣に、自分のためではなく誰かのために生きたい、と思ったことは初めてだった。流され、漂い続けてきた自分の人生に、高森が居場所を与えてくれた。
一生、守っていくべき場所を。
ライブハウスは既にかなりの人だったが、PALMの前のバンドの演奏が終わったタイミングで彼らのファンが移動した。ステージの正面にスペースを確保し、三脚を立てる。今日のライブの写真を頼まれていたのだが、こういう照明の下での撮影はあまり経験がないので、どれだけ雰囲気を忠実に再現できるか、ちょっと自信がない。
後ろのテーブルでは、若い女性の二人連れが早口の高い声でお喋りをしている。会話を立ち聞きするつもりはなかったが、どうもアガスティーアのファンらしく、しきりと「コウキ」と言っている。時折そこに「トオル」という名前が挟まって、そのたびに田辺は、落ち着かないような気持ちになる。
客席後方に見覚えのある細身で長髪の人影を見つけた。目が合うと、高森稔はにこりと笑って会釈を返してきた。
日本滞在の日程を調整して、この日は石垣島のホテルに宿泊することにしたのだという。「そこまでしなくていいのに」と言いながら、そのことを報告してきた高森の声は嬉しそうだった。
「よう。義理の父親とは友好的にやっているみたいだな」
突然、背後から凄味のある声をかけられて、不覚にもびくりとする。田辺の肩ごしに手を伸ばして、真哉がステージの端にビールのグラスを置いた。
「あなたと違って、俺は結構世渡りが上手い人間なんです」
「本当に世渡りの上手い人間はそんなこと言わねえだろ」
高森稔のいる方向に一瞬鋭い視線を投げてから、真哉はまるで共犯者のような含み笑いを田辺に向けてきた。
少なくとも自分は、高森の家族を自認する人々から敵視されてはいないらしい。喜ぶべきことなのだろう。
背後の女の子たちが真哉に気付いたらしく、しきりとこちらに視線をやってくる。有名人と知り合いになると、こういう居心地の悪さを我慢しなくてはならないようだ。その点、メディアへの露出を控えている高森稔は上手くやっている。ふと、PALMも今のアガスティーアのように人気が出たら、高森と一緒に出歩くのは難しくなるだろうか、などと想像する。
そんなことをとりとめもなく考えていると、真哉が耳打ちをしてきた。
「彼氏ばかりじゃなくて他の二人も撮ってやれよ。俺のことはいいけど」
「なんで真栄里さんを撮らなきゃいけないんですか」
すると真哉は、長い脚をひらりと跳ね上げて、ステージに腰を下ろした。
「今日はあいつらの助っ人なんだ。透がどうしても返しを入れてくれって言うから、ちょっとだけな」
返し、というと、民謡の合いの手のようなあれか。演奏の曲目は聞かされていなかったが、高森は民謡を歌うつもりのようだ。
ステージにメンバーが登場して、客席部分のライトが暗くなる。会場の拍手の中、スポットライトに照らされた高森は、少し緊張した面持ちで、三線の胴をそっと撫でた。
伊波の合図で演奏が始まる。軽快なギターと切り結ぶように、意外なほどに切れ味のいい三線の音が絡む。パーカッションがそこに絶妙の遊びを入れる。一曲目はインストゥルメンタルだったが、思いがけない迫力で客席を呑み込んだ。
続いての曲は伊波と高森が交互にボーカルを取り、サビの部分ではパーカッションの上原も加わって、綺麗なハーモニーを聴かせる。真哉が評したとおり、ちょっとこれまでに耳にしたことのない、面白いバランスだ。高森の喉はすっかり治っていて、その声は以前よりも厚みを増したようにさえ思える。
そうしてオリジナル曲を四曲ほど演奏した後、伊波が「そろそろ、民謡も一曲やりたいと思います」と言って、高森の方を向いた。
高森がぺこりと頭を下げて、マイクに向かう。
「『とぅばらーま』を、聴いてください。返しは、特別出演の真栄里真哉さんに入れていただきます」
客席が小さくどよめく。いつの間にか、ステージの隅に真哉がすっくと立ち上がっていた。
三線の音色を聴いた瞬間、田辺は時間が七か月逆戻りをして、あの展望台への夜道を辿っているような錯覚に陥った。
伊波のアコースティックギターの音が、三線の邪魔をしないように寄り添い、上原のウィンドチャイムが星が流れるような雰囲気を演出する。
――仲道路(なかどうみち)から七回(ななけら)通け
高森の澄んだ歌声が響く。真哉がマイクもなしに、高く力強い声で、ステージの後ろから「つんだーさーよー、つんだーさー」と返しを入れた。
――仲筋かぬしゃま相談ぬならぬ
仲道の十字路から七回も通ったのに、仲筋のあの美女を口説き落とすことはできなかった。
あの夜、呑み込まれそうな深い闇の中で響いてきたこの声に、自分は導かれてきたのだ、と田辺は思った。あれからずっと、この声が自分の心に光を投げかけていたのだ。南の空に光る一等星のように。
――思(うむ)てぃ通ゆらば千里(しんり)ん一里
――会わん戻らば元(むとぅ)ぬ千里(しんり)
愛しい人を思って通うのならば、千里も一里のように感じるが、会うことが叶わず戻るときは、元通り遠い千里の道に戻ってしまう。胸を締めつけるような切ない声で高森が歌う。
――月とぅ太陽(てぃだ)とぅやゆぬ道通りょうる
――かぬしゃま心(くくる)ん一道(ぴぃとぅみつぃ)ありたぼり
月と太陽がいつも同じ道をたどるように、愛しいあなたの心も変わらずにあってほしい。
その三通りの歌詞を歌い終わると、高森はマイクの前で、卒業式の高校生のような丁寧な礼をした。
最後の曲は「椰子の実」だった。客席からも口ずさむ声が聞こえてくる。
ステージ上の高森は、結局一度もカメラの方に視線をやることはなかったが、田辺はいい写真が撮れたと確信していた。
西の空に、シリウスが驚くほどのまばゆい輝きを放っている。煌々と明るい満月が、手を繋ぎ合った二人の影を、アスファルトの上に昼間のようにくっきりと描き出す。
「いい演奏だった」
そう言うと、田辺の手を引くように歩いていた高森が振り返った。
「泣いた?」
「今回は我慢した。シャッター開きっぱなしというわけにいかなかったからな」
そう言って、二人で笑い合う。
この日の午後に石垣島に到着した田辺は、明日の午前中の便で東京へとんぼ返りする。それを惜しむかのごとく、高森はライブの打ち上げ会場から家まで二十分ほど歩く間、片時も田辺の手を離したがらなかった。
はや田辺にとっても自宅のように馴染んだ感のあるリビングに腰を落ち着けると、高森が唐突に切り出した。
「俺、本格的に音楽をやろうかと思って。民謡も続けたいし、PALMの活動も、片手間じゃなくてちゃんと本腰入れたいんだ」
田辺は黙って頷いて、続きを促した。
「コウキは、アガスティーアを抜けて、こっち一本に絞ろうか、って悩んでる。ジュンはいくつかユニット掛け持ちしてるけど、この活動のためなら、いくらでも時間を割くって言ってる」
「透は?」
促すと、うん、と、確かめるように頷く。
「歌うのも、三線を弾くのも、好きだなあって思って」
「それは、知ってるよ」
大真面目に言うと、高森は小さく笑った。
「でも俺、なんか今日初めてそのことに気付いたみたいな気がしてる」
照れたように耳を掻く。
「今日のステージでは、自分が演奏してるという感じがしなかった。今まで地下を流れていた歌が、たまたま俺のところで地表に浮上して、皆に聞こえる音になったような、そんな感じがしたんだ。すごく、気持ちよかった。歌に選んでもらったんだと思ったら嬉しくて。なんだか体が軽くなって、自由になれた気がした」
そして、星空から降ってくる音楽を受け止めるように、仰向いて天井を見た。
「歌の方からやってきてくれるなら、ここにいなくても、この島の歌を歌い続けることはできるよね」
四月の石垣島の夜は既に夏の気配だ。網戸越しに、庭の草木が放つ大地の生命力の匂いが室内に漂ってくる。
「俺、そういう風に音楽をやりたいんだと思った。どこにいても、ちゃんと歌に選んでもらえるような歌い手になりたい」
仰向けていた顔をゆっくりと戻して、まっすぐに田辺の方を見る。
「そんな風になれれば、篤志さんとも一緒にいられる」
「透…」
どうして彼は、いつもこんな風に、田辺に言葉を失わせるのだろう。
多分、人を好きになる心の一番大切な部分は、言葉にできないからだ。
「この家、売ることにした」
「売る?」
思わず、座布団から腰を浮かす。
「うん。親父とも話した。俺にはもう、この家は必要ないから」
田辺は居心地のいいリビングを見回した。それから、二階の様子を脳裏に描く。小さなベッドルームと、少年時代の本棚がある和室と、そして使われていない主寝室と。
「真哉さんが、PALMを真哉さんの個人事務所の所属にしたらどうかって誘ってくれてる。いずれ活動拠点も那覇に移すことになりそうだ。そうしたら、俺も今の仕事を辞めてこの島を出るよ」
「透」
「一度ここを出たら、もうどこにでも行けるような気がするんだ。篤志さんが来いっていうなら、東京にだって行く」
「俺は、透がいいって言うなら、那覇だろうが石垣だろうが、今すぐにだって引っ越せるぞ」
最近は、仕事をするときも常にそのことを意識してきた。
自分の、殺風景な東京の部屋を思い出す。歩いて五分のところにある馴染みの飲み屋や、調べもので一日こもることもある図書館。学生の頃から髪を切ってもらっている床屋。打ち合わせにいつも利用しているナポリタンの美味い喫茶店。セールのたびに律儀に案内のハガキを送ってくる革小物の店。自分があの街で張った根っこなんて、せいぜいそのくらいだ。高森がここで築いてきたものに比べたら、根とさえ呼べない。そんなもの、いつでも引き抜いて次のところへ移動できる。
星空の南だろうが、海の彼方だろうが。
高森さえいるなら。
「それとも、いっそニュージーランドにでも行くか」
こんな風に、ついまぜっかえしてしまうのが自分の悪いところだ。だが、高森は愉快そうに笑った。
「英語勉強しておかなきゃ」
田辺は高森の手を取って、三線で美しい旋律を奏でる指に、そっと唇で触れた。その手をそのまま引き寄せると、自然と、高森のまっすぐな視線と目があった。
澄んだ声を聴かせてくれるその唇にも、誓いのようなキスをする。
闇の中に響く歌声が脳裏によみがえる。どこにでもある歌を特別なものに変えてしまう、かけがえのない存在がこの世界にはある。
「もう一度、透の『とぅばらーま』を聴かせてほしいな」
この島を離れる前に、もう一度聴きたかった。ありふれた恋の歌を、普遍的な愛の歌を、特別な声で。
「何度でも」
高森はそう言って、傍らに置いていたケースから三線を取り出すと、静かに膝の上に構えた。
了
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