『膝の上の熱帯魚』

「顔色が優れませんね、カイル」

 外回りから戻って、小さいが一応個室になっている社長室の椅子の上に崩れるように腰を下ろすと、タイミングよくレイ・タカギが顔を出してくれた。

「いやもう……あの新人にはまいったよ」

 カイル・ギルフォードはダークブロンドの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。どんなスタイリング剤を使ってもどこかしら必ず跳ねてしまう癖っ毛なので、最近ではビジネスマンらしいかっちりとした髪型にすることはすっかり諦めている。コンタクトではなく眼鏡をかけることで、真面目な雰囲気を出そうと努めてはいるが。

「彼、また何かやらかしたんですか」

 レイが、絵筆で描いたような優美な形の眉をきっと寄せた。いかにも東洋系らしい上品で優しい顔立ちなので、険のある目つきが逆に色っぽい。

「外回りに同行させたんだが、新商品のカタログと取り違えて、スシバーのメニューを持参してやがった」

「よりにもよって」

 二人で、盛大に溜息をつく。

 カイルが経営するこの会社は、カリフォルニア州サンノゼのオフィス街で「愛玩用魚類のレンタル業」を営んでいる。色鮮やかな熱帯魚や洗練されたデザインの水槽を月単位の契約で貸し出し、その間は餌やりや水温管理、設備のメンテナンスまで引き受ける。大学在学中に半ば趣味の延長で始めたビジネスだが、この地域に掃いて捨てるほどあるIT企業をはじめ、カフェ、弁護士事務所、家具のショールーム、そしてセレブリティのセカンドハウスに至るまで、意外にも幅広く需要がある。観葉植物のレンタルやリラクゼーショングッズの販売にまで手を広げ、今では正社員十二名、パートタイムを常時二十名前後抱える会社に成長した。

 新規開拓の営業は社長のカイルが自ら行うことが多い。今日も、循環器系クリニックからサービス導入を検討していると連絡をもらって赴いた。ところが応接室のソファに腰掛け、「医療系のお客様の間で最近特に人気があるのがタツノオトシゴです」とにこやかに説明している隣で、新人が得意顔でデリバリー・スシのメニューを取り出したのである。こめかみで血管がぷちっと弾ける音が聞こえた。危うくそのままクリニックのお世話になるのかと思ったくらいだ。

「人間だからミスをするのは仕方ない。だがあの野郎、恐縮するどころか『同じ魚じゃないですか。生きてるか死んでるかの違いで』などと客の前でぬかしやがって」

 おかげで、クリニックの担当者に「そのとおりですね。ただ、我々の仕事ではそこが意外と大きな違いなんですけどね」なんて皮肉を返されてしまった。もちろん、契約が取れるはずもなかった。

 思い出して、またしくしくと胃が痛み始める。椅子の上で腹に手を当てるカイルを、レイが心配そうに見つめる。

「コーヒーでもお持ちしようかと思ったんですが、その様子ではリラックス効果のあるハーブティーの方がよさそうですね」

「いや、遠慮しとく」

 ハーブティー嫌いのカイルは、顔をしかめて首を振った。

「いっそバーボンをストレートで煽りたい気分だよ」

「まだ日が高いですよ」

「わかってる。残念ながら、今日もダウンタウンのバーまでの道のりは遠そうだ」

 片付けなくてはならない仕事は山のようにある。デスクのノートPCを立ち上げながら、カイルはネクタイを緩めた。

 この辺りのオフィスでは、大企業でもカジュアルな服装で働いている者がほとんどだ。しかしカイルは客先を訪問する際は、敢えて堅苦しいビジネススタイルを貫いている。自分だって、もし学生みたいな服装の輩がいきなり「熱帯魚いりませんか」などと売込みに来たら、「エイプリルフールにはまだ早いぜ」と門前払いを食らわすだろう。

「あの新人にはその程度の想像力も備わっちゃいねえんだからな」

 今日だって、外回りに連れて行くと前もって告げていたのに、「ドレスコードなんてクソ食らえ」と書かれたカナリアイエローのTシャツで堂々と出勤してきたのである。わざとなのかと思いきや「今日は黄色の気分だったんで」などと真顔で言うので、一気に血圧が上がった。そこを救ってくれたのがレイだった。

「そうだ、今日は助かったよ」

 レイは「こんなこともあろうかと思って買っておきました」と、引き出しから真新しいドレスシャツとネクタイを引っ張り出し、ボケ新人をどうにか表に出せる格好に着替えさせてくれたのである。

「安物ですけどね。あ、さっきオフィスでドーナツ食べようとしてたので、汚されると困ると思ってまた着替えさせました」

「ご苦労さん」

 カイルは眼鏡を外して、瞼の上から目をぐりぐりと揉みほぐした。

「カイル」

 眼鏡を戻そうとした手を、やんわりと押さえられる。

「目をあまり強く擦ってはだめですよ」

 いつの間にか傍らに立っていたレイが、至近距離からカイルの顔を覗き込む。いくら近眼でもここまで距離が近ければ、その怜悧な美貌が隅々まで見て取れる。

 バーで隣り合わせたあのときも、この濡れたような黒い瞳と、思わず触れたくなるような滑らかな肌に目を奪われた。服の趣味も良いし、酒の飲み方も綺麗だし、受け答えもウィットが効いている。隣のスツールに腰を下ろした三分後には口説いていた。

「ほら。綺麗なブルーアイズがすっかり充血して台無しだ」

「レイ」

「上を向いて。今、目薬を差しますから」

 レイの繊細な指が、すい、と顎を撫で上げていく。何かのスイッチを押されたみたいに、カイルの身体を電流が駆け抜ける。

 レイはそのまま椅子に座ったカイルの肩に片手を置き、座面のカイルの腰の脇に片膝をついた。その角度から、キスでもするかのようにこちらの顔を覗き込んでくる。

 騎乗位の角度だ。

 彼は、あの夜もこんな風にカイルの上に跨ってきた。中途半端にはだけたバスローブの隙間から淡い色の胸の突起が見え隠れするのがやけに挑発的で、普段は騎乗位ではあまり盛り上がらないカイルも、あのときばかりは自分でも驚くほど昂ぶった。

 レイの控え目な美貌は、乱れれば乱れるほど妖艶さを増していった。しなやかな肢体を快楽に揺らす姿は、水槽の中を優雅に泳ぐ、フリルのように長いヒレを持つ熱帯魚を思わせた。

(ああっ……いい、そこっ……もっと……)

 細い腰を鷲掴みにして突き上げるたびに、少しだけハスキーな、とんでもなく色っぽい声で喘ぐのがたまらなかった。仰け反らせた喉の白さと汗に濡れて額に張りついた髪の黒さが、今でも眼裏に焼きついている。

 ワン・ナイト・スタンドで終わらせるにはあまりにも惜しい相手だと思ったが、翌朝目覚めたときには、既に彼の姿はホテルの部屋から消えていた。連絡先を聞いておかなかった自分の失態を悔やんだ。

 それなのになんの僥倖か、彼の方からカイルの会社の面接を受けにやってきたのである。

 レイモンド・タカギの履歴書を見てカイルは驚いた。先月、大手IT企業に高額で買収されて話題になったドローン関連ビジネスに、設立当初から総務担当責任者として携わっていたという。

「そこを辞めて、なぜうちへ?」

「大きな組織は性に合わないんです。規模が小さくても面白そうなビジネスに関わっていたくて」

 そう答えていたずらっぽく微笑んだ顔には、確かに、奔放で淫らで抗いようもないほど魅力的だった、ベッドの上での彼の面影があった。

「カイル」

 ポケットから目薬を取り出したレイの声が、わずかにかすれた。たったそれだけで、凛とした声がひどくセクシーな響きを帯びる。

「……なんだ」

「夜まではまだ時間があると言ったばかりでしょう」

 肩から離れたレイの手が、カイルのスラックスの前立てをすっとなぞった。

「!」

 勤務時間中にあるまじき膨らみを、布地越しに掌の中に包み込まれ、痺れるような甘い感覚が走る。

「これは、その」

 申し開きのしようがない状況ではあるが、なんとか言い訳をしようと口を開く。

「しょうがない人ですね」

 その口に、レイの人差し指が押し当てられた。

「じっとしてて」

「わっ」

 右、左、と、両方の瞳に冷たい刺激が走る。反射的に目を閉じると、網膜にじわりと潤いが広がる。なんだ、目薬か、と思ってから、自分は何を期待していたのだと恥ずかしくなる。

「そのまま、少しだけ目を閉じててくださいね」

「レイ。いくら俺だって、目薬くらいは自分で差せる」

「口も閉じててください」

「……え?」

 再び、今度は両肩に手が乗せられた。そこにわずかに体重がかかったと思うと、唇にしっとりと柔らかなものが触れた。

 そうだった、と思い出す。あの夜は結局、キスはさせてもらえなかったのだ。行きずりの相手とは、身体は重ねても唇は重ねない主義なんだ、と言われて。

 カイルはしばし陶然となる。熟れ始めた果実のようにほんのりと色づいたあの唇は、こんな感触だったのか。

「ふ……」

 吐息を零しながら唇が離れていく。それを引きとめ、レイの小ぶりな顔を両手の間に挟み込んで、今度は自分から押し当てた。

「レイ……レイ」

「ぁ……ん、カイル……」

 重ね直すたびに息が荒くなる。

 頬に添えていた両手を、レイの肩へ、背中へ、と徐々に滑らせていく。華奢な腰を掴んでぐっと引き、自分の膝の上に座らせた。

「だめ……カイル」

 まっすぐ締められたレイのネクタイのノットに指を差し込んで引いたところで、やんわりと制止されてしまった。

「そろそろ、あちらへ戻らないと」

 そう言って、レイはデスクの上に放り出してあった眼鏡を手に取ると、それをカイルの顔に戻す。

「レイ」

 未練がましく伸ばしたカイルの指をかわしてネクタイを直すと、レイはカイルの膝の上からひらりと立ち上がってしまう。水槽の中で身を翻す熱帯魚を思わせる仕草で。

「新人君がまた何かやらかしているとまずいので」

「ああ……そうだな」

 くそう、とカイルは頭を掻きむしる。あの使えない新人め。こんなときまで邪魔をしやがって。

 だがそもそも、彼がいなかったらレイとも出逢えなかったのだ。

 あの日いつもと違うバーに足を運んだのは、仕事で嫌なことがあって、知り合いのいない店で少し羽目を外したかったからだ。

 新人とはいえあまりの使えなさっぷりに、カイルは既に何度か堪忍袋の緒を切らせていた。挙句の果てに、なぜあんなのを採用したんだ、と人事担当の女性をかなりきつい口調で責め、泣かせてしまった。彼女は彼女で、責任を感じて常日頃から新人の世話を焼いていたのだが、そのせいで相当なストレスを溜め込んでいたらしい。

「今だって口内炎が三つもできてるんです。こんなところで働いていたら身体がもちません。辞めさせていただきます」とまくし立てられ、カイルとしては引き止めることはできなかった。

 ただでさえお荷物を抱えているところに、有能なスタッフが一人辞めてしまったわけだ。当然ながら人手が足りなくなり、急遽、総務部門の即戦力を募集することになった。

 そこへ応募してきたのが、酒の勢いで一夜を過ごしたきり忘れられなかった相手だったというわけだ。過ちを二度と繰り返すまいと、今回はカイル自身が面接を行ったのも幸いした。

 人生、何があるかわからないものだ。

 もちろん、だからといって「ドレスコードなんてクソ食らえ」の新人に手心を加えてやるつもりはさらさらない。

 カイルは、レイの後を追うように椅子から立ち上がった。

「あいつのことをあまり構ってやる必要はないぞ。試用期間が終わってもまだあの調子なら解雇するまでだ」

 そう言いながら、部屋の隅に置いてある大きな水槽の傍らに歩み寄る。エンゼルフィッシュが細いヒレを揺らして泳いでいる。

 レイが、社長室の戸口のところで立ち止まった。

「そういえば、私もまだ試用期間中の身分でした」

「君のことを手放す気はない」

 カイルは傍らのプラスチック容器を手に取って、優美な姿のエンゼルフィッシュに餌をやる。

「カイル」

「なんだ」

「一段落したら、先に上がらせていただきますね」

「ああ、もちろん構わない。今日はもう、君のサポートが必要な仕事は残っていないから」

「本当に?」

「……仕事は、な」

 レイが戸口で振り向いて、艶然と微笑む。

「ダウンタウンのあのバーで飲んでますから、お手伝いできることがあればいつでも声をかけてください」

 カイルも、水槽に背を向けて戸口の方を向き直った。

「俺が行くまで、隣に誰も座らせるなよ」

「それは、店の混み具合によりますね」

 レイは肩をすくめると、ジャケットの裾を翻して戸口を出て行ってしまう。

 水槽ではなく、珊瑚礁の広がる南の海を気ままに泳ぎ回る熱帯魚。

 あれを捕まえるために、今日はこれから倍速で仕事を片付けなくてはならないだろう。

 

 

 

 

 

 

(Photo by timJ on Unsplash)