誘惑は誰の落ち度


 カフェの斜め向かいの席でコーヒーを飲んでいるその人物を厳原雅巳(いずはらまさみ)が気にする理由は、少なくとも三つあった。

 第一に、若くていい男だ。年齢は二十代後半だろうか。雅巳より四、五歳下だろう。座っていてもわかるすらりとした長身。髪は真っ黒な短髪。広い額の下、切れ長の目と凛々しい眉が目立つ。「サムライ顔」だな、などと思う。

 雅巳はゲイだ。メンクイだという自覚もある。これだけの男前がすぐ近くに座っていたら、どうしても目がいってしまう。

 第二に、この男の顔には見覚えがあった。

 このカフェは雅巳の勤めるデザイン事務所のすぐ近くだ。語学学校の看板などが出ているビルの一階にあり、職場から最寄駅への通り道に当たる。

 ここの大きな窓の外の植込みの角に腰を下ろして電話をしている男を、仕事帰りに時折見かける。話の内容を立ち聞きするわけにはいかなかったが、どこか思い詰めたような憂い顔が魅力的だ、などと思っていたのだ。

 その端正な顔を、こんな風に間近で見られるとは思ってもみなかった幸運だ。

 第三に、男が今手にしている本だ。

 『恋が始まる物理学』などという恥ずかしいタイトルをよくも付けたものだと思うが、この企画は当たった。わかりやすく丁寧な語り口と身近でありながら意表をつく具体例、そして写真ではなく柔らかい印象のイラストを多用した洗練された装丁で、ターゲットに設定した「理系科目にアレルギーのある大人の女性」の心を掴んだ。理数系のエッセイとしては異例の部数を売り上げ、不況の続く出版界でも「数学ブームの次は物理ブームか」などと注目を集めている。

 この本の装丁を請け負ったのが、雅巳の所属する事務所だった。しかも編集者のご指名で、本文中の図解も含めてイラストはすべて雅巳が担当したのである。

 女性を中心に人気があるとはいえ、若い男性が読んでもまったくおかしくない内容だ。斜め前の彼がその本を手に取ってくれたのは、雅巳にとって嬉しい偶然に思えた。

 休日返上で取り組んでいた仕事の納品が終わって午後から休みをとった今日は、この後特に急ぎの用事があるわけでもない。ダメ元で連絡してみた相手にも今夜は予定があると振られたばかりだ。カフェの椅子もなかなか座り心地がいい。つまり、隣の彼より先に席を立ってしまう理由はどこにもない。自分も持参した本の内容に没頭しているふりをしながら、雅巳は横目でこっそりと彼の姿を鑑賞させてもらうことにした。

 少し顎の尖った顔を頬杖をついた左手で支え、軽く首を傾けて右手でゆっくりとページをめくる。時折、聞き慣れない言葉を確かめてみるように、その唇が小さく動く。一区切りつくと思い出したようにコーヒーを口に運ぶ。絵になる姿だ。鉛筆を取り出してスケッチしたくなる。

 そのとき、隣のテーブルの上で彼の携帯が鳴った。

 表示を確認した顔がほころぶ。凛とした雰囲気が和らいで、連絡を待っていた相手からなのだな、と微笑ましく察せられる。

「もしもし。今ちょうど、例のあんたの本読んでたとこ」

 だがその言葉に、雅巳は知らんふりするのも忘れてまともに彼の方を向いてしまった。

 あんたの本。

 こちらを見た彼と、ばっちり目が合ってしまう。

 切れ長の目が雅巳の視線を受け止める。相手をまっすぐに見返す、理知的な瞳だ。だがその目はたちまちすっと伏せられてしまった。

「来られなくなったって、いまさら」

 雅巳の反応に遠慮したのか、口元に掌を被せ、小声で話し始める。それでも話す内容は嫌でも耳に入ってくる。

「急な打ち合わせって、この前もそんなこと言ってただろ」

 眉根を寄せながら彼が口にした「急な打ち合わせ」という言葉に、雅巳の胸がひりっとした。デートの約束をすっぽかす常套句はいずこも同じということか。

 込み入った話になってきたらしく、彼は電話を耳にしたまま席を立って店の入り口の方に向かう。椅子の上に読みかけの本をぽいと置いて。

 その後ろ姿を見ながら、あんないい男との待ち合わせをドタキャンするなんてどんな相手だろう、と勝手な想像を巡らせる。

 あんたの本、というフレーズが雅巳の耳の奥で甦った。単に友人が買った本を借りているだけかもしれない。だがその一言には、もう少し強い意味が込められているような気がしてならなかった。

 この本の著者は、国内有名大学の物理学教授だ。だが、五十代前半のあの教授を、先ほどの彼が「あんた」呼ばわりするとも思いにくい。

 雅巳の脳裏に秋田慶介(あきたけいすけ)の顔が浮かぶ。

 この本の企画を立てたフリーの編集者だ。本のコンセプトを考えたのも執筆者を選定したのも彼だ。教授と一緒に個別のテーマを設定し、上がってきた原稿にも大幅に手を入れたと言っていた。装丁のデザインコンセプトまで考え、イラストレーターに雅巳を指名してきたのも慶介である。事実上、これは彼が世に送り出した本、と言っていいだろう。

 そして、先程隣の彼が口にした「急な打ち合わせ」というのは、慶介が雅巳との約束をキャンセルする際の決まり文句だった。

 ただの偶然で片づける合理的な判断を頭が下す前に、雅巳の手は自分の携帯を取り出して慶介の番号を呼び出していた。耳に押し当てると、通話中を知らせる無情な音が聞こえてくる。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 慶介の仕事柄、実際に急な打ち合わせが多いのは承知している。この本の仕事をしていたときは、雅巳自身も何度か急な連絡を受けて、まさにこのカフェのこの席でイラストの修正箇所の確認をしたりした。

 その一方で、時にそれが雅巳との約束をすっぽかすための口実に過ぎない場合があることも察していた。

 慶介は、恋愛を仕事の息抜きと位置付けている。難しいことは抜きにしてとことん楽しむ、と割り切っているし、相手も楽しませようとする。雅巳も一緒にいて不愉快な思いをしたことはない。だが一方で、慶介がそんな風にプライベートの時間を楽しむ相手が自分一人ではないことも薄々気付いていた。

 慶介は男女問わずもてる。モデルのような典型的な美形というわけではないが、持ち前のセンスの良さで、外見だけではない「いい男」の雰囲気を身にまとう。頭の回転は速いし話題も豊富だ。何より、フリーランスの仕事を成功させているという自信から来る余裕が、自然と人を惹きつけるのだろう。雅巳より三歳上の三十五歳だが雰囲気は若々しく、二十代の男と遊んでいても何の不思議もない。

 そんなことはすべて了承した上で、雅巳は彼と付き合っている。浮気性で遊び相手ならよりどりみどりの慶介が、なんだかんだと雅巳と一年半も関係を続けていることに、密かに優越感すら抱いていた。

 だから、今席を立った男と慶介が約束をしていたかもしれない、と想像しただけで、ここまで動揺するとは自分でも意外だった。

 カフェの大きな窓越しに、植え込みの脇に座って電話を続けている彼の姿が見える。少し俯き加減で話をしている横顔は、よく見かける思い詰めたような表情だ。しばらくすると、諦めたように首を振って電話を切り、踵(きびす)を返して店内へと戻ってくる。

 雅巳は彼の視線から隠すように、自分の携帯を素早く鞄の中に戻した。

 だが、彼はこちらの席まで戻ってこなかった。入り口近くのレジのところで「すみません、お会計お願いします」と言い、そのまま支払いを済ませると再び店を出て行ってしまったのだ。

 さっきまで座っていた椅子の上に『恋が始まる物理学』を置き去りにしたまま。

 一瞬、雅巳は置いてきぼりを食ったその本が自分自身であるかのように錯覚した。咄嗟に席を立ってその本を手に掴む。店員に一言声をかけると、そのまま店を走り出た。

 

 背が高くて脚が長いから歩幅も大きいのか、彼はかなり歩くのが早かった。ようやく赤信号で追いついたときには、雅巳は軽く息を切らしていた。

「あの、失礼」

 背後から控え目に声をかける。一拍間があってから、声をかけられたのが自分だと気付いたのか、彼は驚いたように振り向いた。

「俺ですか?」

「ええ。さっき、カフェに本をお忘れになったでしょう」

 そう言って、手にした単行本を差し出す。

「え……本当だ、しまった。わざわざ追いかけてきてくださったんですか?」

「隣の席だったので、椅子に置きっぱなしだったのが目に入ったんですよ」

「うわあ、ありがとうございます。恐縮です」

 頭を下げながら、雅巳から本を受け取る。だが、感謝の言葉の割にその表情はどこか浮かない。所在無げに手にした本をどうしたものかとためらっているかのようだ。

 ひょっとして、彼はわざとこの本を置いて出ていったのかもしれない、という飛躍した想像が頭をよぎった。

 電話の相手が来られないと知ったときの彼の落胆した表情を思い出す。喧嘩にでもなって、腹いせにその相手の本を置き去りにしたのだろうか。でも、本自体に罪はない。

「その本のイラストを描いたの、僕なんです」

 つい、言わなくてもいいことを言ってしまった。

 彼が不意を突かれたような顔でこちらを見る。雅巳より五センチ以上高いところにある知的な雰囲気の顔が、少しだけ幼い印象になる。

 切れ長の目が大きく見開かれ、視線が雅巳の顔と手に持った本との間を往復する。口元が何かを言いたげに開かれたと思うと、すぐにきゅっと結ばれた。

「すみません」

 絞り出すような、ほとんど悲痛なほどに響く謝罪の声に、雅巳は驚いた。

 目の前の彼が、例の思い詰めたような顔で悄然と頭を下げる。

「すみません。普段、本を粗末にするようなことはしないんですが、今日は約束をすっぽかされて腹が立って、大事なことが頭から吹っ飛んじゃったみたいです」

 そこまで言うと、本をしっかりと握りしめて顔を上げる。雅巳の顔を正面からじっと見つめる目つきは、怖いくらい真剣だ。

 その視線に、わけもなくどきりとする。

「そんな叱られたみたいな顔で謝らないでください」

 雅巳は努めて朗らかに言う。

「え」

「実際に自分の手がけた本を手に取ってくれている人を見たのは初めてだから、僕は素直に嬉しかったんです。とりわけ思い入れのある仕事だったし」

 それは本当だった。今回のこの仕事にはいつもにも増してプライドをもって臨んだ。

 慶介は仕事には私情を持ち込まない。恋愛よりも仕事を優先するだけあって、その仕事ぶりは有能だ。

 今回のプロジェクトはチームワークが鍵なので、気心の知れている事務所に頼みたかった、とは言っていたが、そもそもイラストレーターとしての雅巳の腕を買ってくれていなければ指名してこなかったはずだ。それが素直に信じられるくらいには、慶介の普段の仕事ぶりを知っている。そういう形で自分の実力を認めてもらえたことは素直に嬉しかった。

 そんな想いが、余計なひとことを付け加えさせた。

「そうやって自分の手がけた本が迷子になるのは、なんだか不憫な気がしちゃって」

 彼の頬がさっと紅潮した。

「本当に失礼しました。改めて、あなたが描いた絵を見ながら、最初からちゃんと読み返します。もう、絶対にどこかに置き忘れたりしません。ごめんなさい」

 真摯な口調でそう言って、深々と頭を下げる。その様子を見て、雅巳は根拠もないまま確信した。

 やはり、彼はこの本をわざと置いていったのだ。

 もちろん、彼の本心が奈辺にあるか窺い知れるはずもない。だが、雅巳は不思議とこういう勘が働くたちだ。

 約束をないがしろにした相手への八つ当たりだろうか。それとも、何か不愉快なことでも思い出す内容が書いてあったのだろうか。タイトルの通り、恋愛をモチーフにした例え話も多く掲載されている。

 自分のせいではないのに、なんだかやけに気が咎めてしまう。

「いや、そんな風に言われるとむしろこちらが恐縮しちゃうな。忘れ物を責めるつもりじゃなかったんです。それより、本を置き忘れてしまうほど心ここにあらずみたいだったから、大丈夫かな、って少し心配になって」

 そう言って、励ますように笑いかけた。

「ええと……ありがとうございます」

 意外なことを言われたという表情で、彼が顔を上げる。

 改めて、端正な顔だな、と思う。端正といっても女性のように線の細い美しさではない。少し角ばったような輪郭は男性的だし、まっすぐな眉も涼しげな目元も、軟弱な印象は微塵もなく、意志の強さを感じさせる。

 好きな顔だ。間近で見てもそう思う。自分が女顔だというコンプレックスの裏返しなのか、綺麗でも中性的なタイプにはあまり惹かれない。

 ふと、慶介の顔が浮かんだ。

 その瞬間、とんでもない企みが雅巳の頭に降って湧いた。不謹慎な思い付きが瞬く間に大きく育っていく。

 雅巳にも、特定の恋人は作らずに適当に遊んでいた時期があった。慶介ほど多方面にもてるわけではないが、男に不自由するようなことはなかった。少なくとも、言い寄ってくる複数の相手から自分の好みのタイプを選べる程度には。

 艶やかな栗色の長めの髪をゆっくりと掻き上げ、少しだけ首を傾げる。内心笑ってしまうほどわざとらしい仕草だが、この程度でもころっとまいる奴が多いのも事実だ。

 目の前の彼の視線が髪先に絡み付くのを感じる。その視線をかわすように少しだけ俯く。

「約束すっぽかされた、って言ったよね」

「はい」

「じゃあ、もしかして今日は暇? よかったら、この後ちょっと二人で飲まない?」

 これまた呆れるほど定石通りの誘い文句だ。だが、少し早口ではにかんだようにそう言った後、長い睫毛を伏せると、よほど人付き合いの悪いタイプでない限り大抵のゲイは拒まない。そして雅巳にはなんとなく、目の前の青年が厳格なストレートではないのではないかという予感があった。

「え。そんな、いいんですか」

 思惑通り、彼はおずおずと返してきた。すかさず、とっておきの笑顔を作る。

「もちろん。自分のイラストを見てくれた人と直接話ができるなんて、めったにないチャンスなんだ。俺も今日は予定が空いちゃって、この後一人でどうしようかと思ってたし」

 カフェの会計をして荷物を取ってくるからちょっと待ってて、と言うと、彼は素直に頷いた。

 こんな露骨なナンパをしたのは久しぶりだ。

 もっとも、本気で彼をどうこうしようと思っていたわけではない。さっきの電話の相手が慶介かもしれないという疑いを抱えて帰りたくなかっただけだ。

 それほど警戒心の強いタイプではなさそうだ。「ドタキャンなんてひどいな。どんな奴だよ」なんて水を向ければ、あっさりと話をしてくれるかもしれない。あるいは、自分からこの本の編集者のことを話題にして反応を見るのでもいい。

 とはいえ、実際に慶介の浮気相手が目の前のこの彼だという可能性は低いだろう。彼のさっきの電話も、彼女か友達か、とにかく親しい誰かとちょっと行き違いがあったと考えるのが自然だ。

 それならそれで構わない。この感じのいい青年と一緒に飲みに行って、自分のイラストの感想を聞けたりしたら、仕事へのモチベーションもさぞ上がるだろう。「急な打ち合わせ」を口実に慶介にデートを断られた埋め合わせとしては、これ以上望めない案に思えた。

 

 彼は、雅巳がカフェから戻るまで律儀に同じ場所で待っていた。

「お待たせ、行こうか」

 その肘にさりげなく手を当てて、促すように歩き出す。

 彼のすらりと伸びた脚が繰り出す歩幅は広い。だが、ゆったりとしたペースでごく自然に雅巳の歩く速度に合わせてくる。そのせいか、初対面にありがちなぎこちなさが少しも感じられない。雅巳は弾むような期待感と肩の力の抜けるような心地よさとを同時に感じていた。

 深呼吸をするように空を仰ぐ。そろそろ夏の気配すら感じさせる五月の空は、まだ暮れ始めたばかりだ。そこに淡い色の月がうっすらと浮かんでいた。

 好き嫌いはないというので、何度か行ったことのある近くのスペインバルに向かった。表に立ち飲み席も出ている、ごくカジュアルな雰囲気の店だ。店内のモニターで海外サッカーの試合の様子を流したりしているので、話題に困ったらスポーツ観戦の話など振ってみることもできるだろうと思ったのだが、結局、そんな心配は杞憂に終わった。

 奥の二人掛けテーブルに腰を落ち着けてビールを注文すると、まずは互いに自己紹介となった。笑い合いながら、わざとかしこまった仕草で名刺交換などしてみる。

「浦河紘暉(うらかわこうき)といいます」

 手渡された名刺には、見覚えのある英会話学校の名前が刷ってある。

「あ。さっきのカフェのところ?」

 例のビルに看板が出ている学校だ。では、あそこが職場だったのか。

「英語の先生なの?」

 名刺を見ながら何気なく訊いてみたが、思いがけず重たい沈黙が返ってきた。何かまずいことを言ったかな、と心配になって顔を上げると、紘暉は遠慮がちに首を振った。

「いえ、ただの事務職です。うちの講師は全員ネイティブスピーカーなんで」

 それから、小さく肩をすくめて付け加えた。

「とはいえ、英語の教員免許は持っているんですけどね」

「そうか、じゃあやっぱり先生だ。すごいなー。俺、英語はさっぱりダメなんだよね」

 国境を越えて自由に活動できる可能性のある業界にいるのにこんなことではいけないとは思うが、どうも外国語にはコンプレックスがある。

「語学なんて、ただの道具ですよ。必要となれば誰でも身に着けられますって」

「でも、中高の頃からずっと苦手だったからなー」

「学校の成績なんて、あまり関係ないですよ」

 そんな教員らしからぬことを言うのが、逆に好感が持てる。

「浦河さんみたいな先生に習ってたら、少しは違ってたかな」

 そう言ってにこりと笑う。媚を売ったつもりはない。本心だ。

 だが、紘暉は一瞬苦い笑顔を浮かべると、さりげなく話題を変えてきた。

「それより厳原さんの方がすごいですよ。その若さで、こんなベストセラーのイラストを任されて」

 感心したようにそう言いながら、手にした本のページをめくっていく。

「いや、もうそんな若くないって。今年三十二だよ」

「え。俺より四歳も上ですか」

「あー今四歳『も上』って言ったな。そこ、四歳『しか違わない』に訂正。あと敬語も禁止ね」

 そう文句をつけると、紘暉は楽しそうな笑い声を上げた。空気が程よく和んでいくペースが心地いい。

「クレジットの名前はカタカナなんだね。これだけ見ると、女の人と間違えそう」

 紘暉は、雅巳が手渡した名刺と「イラスト 厳原マサミ」と入った本のページとを見比べている。

「うん、敢えて狙ってる。特にこういう女性をメインターゲットにした仕事の場合は、少しでも柔らかいイメージにしたいから」

 本体はこんなおっさんだから詐欺に近いけどね、と笑うと、紘暉がすかさず首を振った。

「全然詐欺じゃない。雅巳、って名前、本人の雰囲気によく合ってると思うけどな」

 その本人を目の前にして、そういうことを大真面目に言うか。茶化そうと顔を上げた雅巳は、一瞬言葉を失った。

 少し顎を引くようにしてこちらをじっと見つめる紘暉の瞳が、濡れたような光を放っている。口調も表情もあからさまに誘うようなものではないのに、そのまなざしのせいか、官能的とすらいっていいほどの熱を感じさせる。無機質な鉱物のはずなのに人の心を魅了する宝石のような。

 視線が合った瞬間に、体温が急上昇したように錯覚する。意識し過ぎだ、と内心で自分をたしなめて、雅巳はにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。俺も下の名前で呼ばれるの好きなんだ。だから苗字にさん付けはやめてね」

「えーと。じゃあ、雅巳……さん?」

 低く柔らかい紘暉の声で名前を呼ばれるのは、少しくすぐったくて、不思議なくらい雅巳の胸を高鳴らせる。

「はい、なんでしょう」

「俺のことも『浦河さん』はやめてほしいな。あんまり、その呼び方好きじゃないんだ」

「どうして?」

「『裏側』みたいでしょ」

 大げさなしかめ面をして見せるので、つい笑ってしまった。

「裏表がなさそうな人に限って、そういう名前なんだね」

 そう言うと、紘暉はふいに唇を歪めて、にやりと人の悪そうな笑みを作った。

「騙されちゃだめだよ、雅巳さん。俺、外面がいいだけだけで腹黒い面は隠してるから」

 ちょっと意外な表情だったが、これはこれで魅力的だ。

「へえ。紘暉君の裏の顔、見てみたいな」

「雅巳さん、信じてないでしょ」

 紘暉は急に真顔に戻って、笑っている雅巳にまっすぐな視線を向けてくる。

「うん、そこは信じてない」

 ああそうか、と気付く。彼の顔を美しいと思ったのは、この、温かく澄んだ瞳のせいだ。こんな綺麗な目をしながら汚い嘘をつける人間なんて、いるだろうか。

「俺ね、同性愛者なんだ」

 いきなりだった。

 不意を突かれた形で、思わずぽかんとしてしまう。

「それが、裏の顔のひとつ」

「……本当に腹黒い人間は、隠し事をあっさり初対面の相手に明かしちゃったりしないよ」

 屁理屈をこねてみると、紘暉はにっ、と口角を上げて、悪びれない笑顔になった。

「雅巳さんのこと信じてるから。言いふらさないでね」

 おや、と雅巳は思った。これは本当に意外と食えない相手かもしれない。無邪気な口調だが、「信じてるから」などと言って相手を丸め込むやり方は、慶介が追及をかわすときによく使う手だ。

「じゃあ、今日の約束をすっぽかされた相手ってのも」

 正直、慶介のことなど、店に入ってから今まですっかり忘れていたのだが。

 紘暉は、途端に憂い顔になって俯いた。

「うん、男の人だよ」

 その視線の先に、ページを開いたままになっていた本がある。

「でもね。その人、俺の他にちゃんと付き合ってる人がいるんだ」

 ぎくりとした。

 今日紘暉が会うはずだった相手は、やはり慶介なのだろうか。

 さっきのような熱っぽい視線を慶介に向ける紘暉の姿を想像してみる。いや、慶介が相手なら、もっとさらに無邪気で無防備な笑顔を見せるのかもしれない。

 そんな紘暉に、慶介は甘やかすように笑いかけて、あの少し堅そうな短い髪を優しく撫でてやったりするのだろうか。

 胸の奥が、小さく、だが鋭く痛む。その痛みを自覚して、雅巳は動揺した。

 どうして自分はこんな根拠のない想像に傷ついているのだろうか、と不思議になる。慶介とはもっとクールな付き合いだったはずだ。相手が隠したがっていることを根掘り葉掘り詮索するような間柄ではない。

「雅巳さん?」

 気遣わしげな声に、はっと我に返った。急に難しい顔をして押し黙ってしまった雅巳を、紘暉が心配そうに見ている。

「ごめんね、いきなりこんな話して。普通、引くよね」

「違う、そうじゃないんだ」

 ゲイだという紘暉の告白に鼻白んだのだと思われたらしい。慌ててそれを否定するが、それにつられて、自分もそうだから、とは、雅巳は咄嗟に口に出せなかった。

 もし、紘暉が言っているのが本当に慶介のことだとしたら、その慶介が付き合っている相手が自分だということは伏せておきたかった。紘暉にあんな哀しい顔をさせてしまう元凶が自分だということを知られたくなかった。

 頭を軽く振って、物思いに沈みそうになる自分の気持ちを、目の前の相手との会話に振り戻す。

「それにしても、紘暉君のことをそんな風に翻弄するなんて、相手はよほど」

 いい男なんだろうな、と続けるつもりだった。だがなぜか、違う言葉が口から滑り出た。

「よほど、無神経な奴なんだな」

 自分でも驚くほど尖った口調だった。言葉にしてから、自分が本気で慶介に対して腹を立てていることに気付いた。

 紘暉がビールのグラスを置いて驚いたようにこちらを見る。だが、言葉は止まらなかった。

「やめちまえよ、そんな奴。君なら、もっと大事にしてくれる相手が見つかるだろ」

 強い口調で断定する。

 一瞬、紘暉の顔に奇妙な表情が浮かんだ。まっすぐに雅巳の方を見ながら、同時にはるか遠くを見通すかのような。

「雅巳さんって」

「うん?」

「……優しいんだね」

 ほんのわずか、言い淀むような間が空いたが、それをかき消すように、紘暉は明るい笑顔を見せた。

 

 電話の向こうの慶介の声はいつもと変わらず落ち着いていた。

「家か? これから行っても構わないか」

 仕事が立て込んでいない時期の週末は、慶介が雅巳の部屋に泊まりに来ることが多い。慶介は自宅が仕事場でもあり、気分転換にならないのでデートのときは部屋の外に出たい、と言う。一方、雅巳は自分の部屋でのんびり気兼ねなく過ごすのが好きだ。

「いいよ。うちで何か飲む?」

「今日は山岳ステージだよな。中継見ながらイタリアワインでも飲むか」

「あー、今冷えてるのはないなあ」

「ワインもつまみも、俺が行きがけに買って行くから気にするな。十時には着く」

 そう言って電話が切れてから、小一時間ほどでドアホンが鳴った。時計を見ると十時二分前だ。相変らずの正確さに一人笑みを漏らしながら、オートロックの開錠ボタンを押す。

 合鍵を渡そうかとも考えるのだが、思い立って作ったきり、なんとなく渡しそびれていた。求められてもいないのに押し付けても、鬱陶しがられるだけではないかと気後れがする。相手の男に結婚を迫る女のような重たい奴だと思われるのは不本意だ。

 束縛しない。執着しない。依存しない。自分とは異なる相手の考えも尊重する。慶介と上手くやっていくためのルールだ。

「雨降ってきた」

 玄関ドアを入るなり、近くの輸入食材店の買い物袋を雅巳に手渡しながら、慶介が言う。

「え。予報より早いね」

 見ると、ネイビーの麻のニットの肩に細かい水滴がついている。傘を持っていなかったらしい。

「シャワー使うなら、タオルとか勝手に出して」

 受け取った袋から、冷えた白ワイン、オリーブ、サーモンのパテなどを取り出しつつ声をかけた。

 その腰に、背後からするりと腕が巻きつく。

「そこは『一緒に入ろう』って誘うところだろ」

 こんな風に、耳の後ろから囁かれるのに雅巳は弱い。甘い声が首から背骨を伝う。思わずぞくりとしてしまったのを見透かしたような、慶介の含み笑いが聞こえてくる。

「ついに、脳がピンク色に染まったか」

 簡単に反応してしまったのが悔しくて、冷蔵庫の扉を閉めながら冷淡に言い放つ。

「ジロの時期だからなー」

 慶介はそう言いながら、雅巳の背中から身体を離して、リビングの方を振り向いた。

 テレビに、イタリアの美しい山岳地方を走り抜ける自転車と選手たちが映っている。ジロ・ディ・イタリアというイタリア一周の自転車レースだ。規模も人気も、ツール・ド・フランスに次ぐ世界的なレースである。この「ジロ」のシンボルカラーが明るいピンク色で、総合成績トップの選手が身にまとうジャージだけでなく、レースのあらゆる場面でバラ色のモチーフが使われている。

 テレビでの自転車ロードレース観戦は、もともと慶介の趣味だったが、その影響で雅巳も今ではすっかりはまってしまった。日本時間の深夜にスポーツ専門局で放映される中継を、ワインなど飲みながら慶介と眺めるのが、週末の楽しみのひとつだ。

「俺はもう風呂は入った」

 そっけなく言うと、後ろに立った慶介の指が襟足の髪を掻き上げる。うなじに機嫌を取るようなキスが落ちる。

 付き合い始めた頃は、会うたびに貪るように身体を繋げた。雅巳の家でも、ホテルでも、ドアを閉めるのも待ちきれないように服をむしり取って、時間と体力の許す限り求め合った。

 今はさすがにそんな真似はしない。慶介がこんな風にちょっかいを出してくるのも、半分は雅巳の反応を面白がっているだけだ。

 今も、雅巳が誘いに乗ってこないと見ると大人しく引き下がる。

「俺もシャワーは後でいい。先に飲もう」

「わかった。あ、いいよ、俺が準備するから座ってろよ」

 腕まくりをする慶介を制してソファに座らせる。ワイングラスや皿やフォークをキッチンからリビングのローテーブルに運んでくると、テーブルの端に放り出してあった読みかけの本を慶介が開いていた。

 しまった、と内心舌打ちをする。本に、紘暉からもらった名刺を栞代わりに挟んでいたのだ。

 気付くなよ、と念じながらテーブルに皿を並べ、冷蔵庫の食材を取りに戻る。だが再び戻ってきたときには、慶介が珍しいものでも発見したかのように紘暉の名刺を手にしていた。

 問いかけるようにちらりとこちらを見た慶介と目が合う。

「英会話でも習い始めようかと思ってさ」

 咄嗟に、口から出まかせを言ってしまったのはなぜだろう。

 本当は、自分の方から慶介に訊いてみるつもりだった。詰問するというのではなく、あくまで世間話のように。カフェで偶然会った人が例の本を読んでいて、お前のことを知っているみたいな口調だったけど、知り合い? といった風に。

 だが、先に慶介に名刺を発見されてしまったことで、なぜか雅巳の側が悪事を暴かれたような気分になってしまう。

「英会話?」

 怪訝そうな顔で、慶介が再び名刺に目をやる。後に引けなくなってしまった。

「うん、そこ、うちの事務所の近所でさ。その名刺くれたのは事務の人なんだけど、すごく感じがよかった」

 ソファの慶介の隣に腰を下ろして、素知らぬ顔でワインのコルクを抜く。中身をグラスに注いで隣を向くと、慶介は釈然としない顔をしている。

「お前、英語は苦手だって言ってただろ」

 まるで抗議するような口調でそう言って、名刺を本のページに戻した。

「得意だったら、そもそも学校に行って習う必要もない」

 突き放すように正論を吐くと、よく冷えた白ワインを口にして、テレビの画面に視線を戻す。一刻も早くこの会話を終わらせたい。慶介が紘暉と知り合いかどうかなんて、もう確かめなくていい。むしろ、知りたくない。

 だが、慶介はそんな雅巳の内心を知ってか知らずか、オリーブとチーズをつまみながら茶化すような口調で言う。

「それにしても唐突だな。そんなに、こいつがいい男だったか」

「なんだよそれ」

 跳ね返すような口調で応じてしまったのは、図星を指されたという自覚があったからか。

 いつものように雅巳の反応を面白がる目つきで、慶介がこちらを見ている。

「急に何かを始めるなんて言い出すときは、大抵下心があるものだろ」

 お前と一緒にするな、と返そうとする。自転車ロードレースをテレビで観ていても、時折「こういう細マッチョをベッドの上で思い切りよがらせてみてえなー」などとのたまう男だ。だが、これ以上むきになっても慶介のペースにはめられていくだけだ、と思い直す。

「もしそうだったら?」

 わざとらしいほど、あっけらかんとした声と笑顔で応じる。

 だが、慶介は軽く眉を上げて見せただけだ。

「そうなのか?」

「さあね」

「ふーん。ま、止めはしない。下心でもあった方が上達も早いだろ」

 なんだそれ。なんで止めないんだ。

 思わず、きっと隣を睨んでしまう。だが慶介は、雅巳の険しい表情の理由がわからない、とでも言うように首を傾げる。

「俺に下心があっても、慶介は構わないんだ」

 拗ねたような言い方になってしまうのが、自分でも腹立たしい。

「そりゃまあ、俺が横槍入れるようなことでもないしな」

 その言葉に、雅巳は唇を歪める。

 横槍、ってなんだ。恋人の浮気を止めるのを横槍って言うのか。

 慶介が雅巳に内緒で誰かと会っていることを咎めるのも、横槍だろうか。それは大人気ない行為なのだろうか。

 慶介はそのまま何事もなかったかのようにテレビの画面に視線を戻す。静かに息を吸った雅巳の肺の底が、すうっと冷えていく。

 いつものことじゃないか、と雅巳は自分に言い聞かせる。慶介は自分が好きなように振る舞う代わり、雅巳のやることに口出ししてくることもない。

(こいつのどんな反応を期待したんだ? いい男には近づくな、って止めてほしかったのか?)

 雅巳は小さく首を振った。ばかばかしい。

 束縛を求めるのは自分に自信がないからだ。何があっても、結局相手は自分のところに戻ってくるだろう、という自信が。自分が相手にとってかけがえのない存在なのだという実感が。

 一人置き去りにされたような寂しさを、雅巳はグラスに残ったワインと共に飲み込んだ。

 

 名刺にあったアドレスにメールを送ってみると、すぐに返信があった。

 学校の見学はいつでも歓迎だという。営業時間と自分の勤務時間を丁寧に述べた律儀な文面の最後に、「先日は楽しかったです。また飲みましょう」と付け加えてあって、なんとなく安心する。

 幸い、大きなプロジェクトを終えたばかりで今は仕事が忙しくない。会社勤めとはいえ、デザイナーやイラストレーターの勤務形態はかなりフレキシブルだ。雅巳は五時過ぎに仕事を片付けて会社を出ると、徒歩五分もかからない例のカフェのビルに足を向けた。

 植え込みの薔薇の花が甘い香りを放っている。カフェの脇のビルの入り口に足を踏み入れ、エレベーターで受付と表示された三階に上がる。

 木のテーブルや椅子、カジュアルなソファなどが置かれ、花も飾られたアットホームな雰囲気の受付スペースで、紘暉がにこやかに出迎えてくれた。

「いらっしゃい、雅巳さん。早速どうもありがとうございます」

 そう言って、部屋の一角に置かれたテーブルに雅巳を案内してくれた。ちょうど授業中らしく、他に人の姿は見当たらない。

「こちらこそ、すぐに返事をもらえて助かった」

「嬉しくて、はりきって返信しちゃいましたよ」

 弾んだ声でそう言いながら、紘暉は手にしたパンフレットを机の上に並べる。雅巳はそれを真剣な面持ちで手に取った。

 嘘が慶介にばれる前に、出まかせを既成事実にしてしまおう、という小狡い思惑もあった。だが、始めるからには本気で取り組もうと思っている。コンプレックスを払しょくするいい機会だし、仕事にも決してマイナスにはならないはずだ。

「仕事の時間が不規則だから、毎週決まったクラスに通うのはちょっと難しいと思うんだ」

 率直にそう相談すると、紘暉は「大丈夫」と請け合う。

「そういう人向けに、チケット制のコースがあります。大まかなレベル分けがしてあって、空きがあればどのクラスにも自由に参加できるシステムです。クラスの定員は四名までなので密度の濃いレッスンが受けられますよ」

 他にもマンツーマンのコースもあるというが、やはり割高なので、最初はグループレッスンで試してみることにした。レベル判定のために事前に簡単な面接があるという。その日程を決めようと、スケジュールのびっしり書き込まれたノート式カレンダーを確認する紘暉の姿に、知らず、目が吸い寄せられる。

 ネクタイはしておらず、サックスブルーの地に白いストライプの入ったオックスフォードシャツを適度にラフに着こなしている。清潔感はあるが堅苦しくないスタイルだ。ボタンをひとつ外した襟元から覗く、喉仏から鎖骨の窪みにかけてのラインがセクシーだが、何も紘暉の方でことさらにそういうアピールをしているわけではなく、雅巳がつい、そういう目で相手を見てしまうからにすぎない。

(下心でもあった方が上達も早いだろ)

 先日の慶介の言葉を思い出す。急に語学の勉強など始めようとしている決意の陰で、紘暉と会う口実ができたことを喜んでいる自分がいるのは否定できない。

「明日の午後なら、どの時間帯でも問題ないですよ」

 紘暉の声に、視線を手元のスマートフォンのカレンダーアプリに戻した。しばらく急ぎの締切仕事は入っていないから、時間の融通は効く。それよりもむしろ。

「うう、英語で面接なんて、緊張するなー」

「テストじゃないですし、緊張する必要はありませんよ。現時点での実力が正確に反映されないと意味がないので、特に勉強とかしないで、気楽にお喋りするつもりで」

 そう言って笑う顔は、この前飲んだときの打ち解けた笑顔とは少し違う、仕事用の顔だ。

「こら。敬語禁止」

 真顔で言うと、戸惑った顔をされる。

「え」

「年上扱いはダメって言ったろ」

「そういうわけにいきませんよ。今日は仕事ですから」

「じゃあ、仕事抜きではいつデートしてくれる?」

 一瞬、意表を突かれたように目をしばたかせた紘暉は、すぐにさっとその目を伏せた。

「そういう訊き方されると返事に困る」

 小さく、遠慮がちな声。

「え、どして」

「俺、ゲイだって言ったよね。自意識過剰だってわかってるけど、そのことを知っている人からそんな風に誘われると、からかわれてるみたいな気になる」

 かすかに声が震えている。

 軽薄な言い方に潜む自分の底意を言い当てられたような気がして、雅巳はぎくりとした。

 自分に無関心な慶介の態度に内心腹を立てているのは自覚している。我ながら幼稚だと思う。だが、その八つ当たりのように紘暉をからかうのは、幼稚どころか最低だ。

「ごめん。そんなつもりじゃなかった」

 本当はそんなつもりだった。だが、恋人に構ってもらえないのが悔しくて腹いせに誘いをかけてみました、なんて、彼にはとても言えない。少なくともその恋人が彼の想い人だという可能性がある以上は。

「でも、紘暉君がメールに、また飲みましょうって書いてくれたの、俺は素直に嬉しかったんだ」

 彼に対して言えないこと、言いたくないことがあるのは事実だ。でもせめて、言えることくらいは率直に、きちんと伝えようと思い直した。誠実な人には、自分も精一杯誠実な態度で接したい。

「だから変な意味じゃなくて、改めて誘ってもいい? メシでも食いに行こうよ」

 こうして素直な気持ちを言葉にして正しく届けようとするのは、その場限りの遊びの相手に誘いをかけるときの、百倍も緊張した。

「……今日でも明日でも、仕事が終わってからなら空いてる。でも、時間遅いから」

 紘暉は軽く俯いたまま、ばつが悪そうに答える。

「仕事が終わるの、何時?」

「九時に最後のレッスンが終わって、片付けて戸締りをして帰るから、大体九時半くらい」

「じゃあ、明日の面接は一番遅い時間帯に入れておいて。その後、紘暉君の仕事が終わるまで待ってるからさ」

 紘暉がすかさずスケジュールノートを確認する。

「一番遅い時間だと八時からになるけど」

「うん、俺はまったく問題なし。よし、面接楽しみになってきた」

 現金な雅巳の言葉に、紘暉がほっとしたような吐息を漏らした。スマートフォンから目を上げると、少しぎこちない笑顔がある。

「雅巳さん、さっきはごめんね。俺のこと面倒な奴、って思ったでしょ」

 言いにくそうに謝ってくる。むしろ非は雅巳にあったのに。こんな自分にこんな風に丁寧に接してくれるのが、嬉しいような申し訳ないような気持ちになる。

「そういうの面倒だと思う人間には、君の友達になる資格はないだろ」

 自分は、少なくともその資格は手放したくない。

 こわばり気味だった紘暉の顔が、ふわりと温かな笑顔にほどけた。

「友達の資格、か。そんなこと言う人、初めてだ」

「そうか? じゃあ俺、正式な資格取得者第一号ってことでいい?」

 今度こそ、紘暉は心底楽しそうな笑い声を上げてくれた。

「ありがと。雅巳さん、いい人だね」

 その笑顔、そのままな、と心の中で唱えながら、わざと人の悪い笑顔を作る。

「騙されちゃだめだぞ。本当の俺は、紘暉君なんか足元にも及ばないくらい腹黒い奴なんだから」

 彼にまだ、本当のことを全部は打ち明けられない。その後ろめたさは如何ともしがたい。

 雅巳が隠し事をしていたことを知っても、彼は自分を友人だと思ってくれるだろうか。

 紘暉の想う相手が慶介でなければいいのに。彼の明るい笑顔を見ながら、雅巳は祈るようにそんなことを考えていた。

 

 学校と名の付くものに通うのがこんなに楽しいと思ったのは初めてだ。

 なるべくリラックスしてもらえる雰囲気を心がけてます、と紘暉が説明してくれた通り、講師は皆気さくで、細かい文法の間違いなどを正すよりまずは会話することを楽しもう、という方針だった。

 言葉さえ間違わなければ会話が楽しくなるとは限らない。むしろ大事なのは、伝える中身と、伝えたい、わかりたい、という熱意だ。それさえあれば、ほとんど片言に近い英語でも会話はクリエイティブなものになる。それは雅巳にとって新鮮な発見だった。

 そんな雅巳の感想を、紘暉は嬉しそうに聞いてくれる。

 紘暉とは急速に親しくなっていった。遅い時間にレッスンを入れた日はそのまま一緒に飲みに行く。学校に通う楽しみは、紘暉の存在でさらに増幅された。

 彼とは不思議と話が合った。アンテナの感度が似ているのか、この話はきっと相手が面白がるはずだ、というのが、互いになんとなくわかる。仕事も趣味も得意分野もまるで違うが、その違いがむしろ楽しい。雅巳のデザインの仕事の苦労話に紘暉は実感を込めて相槌を打ってくれるし、自転車ロードレースの話なども興味深そうに聞いてくれる。一方の雅巳も、紘暉から勧められた海外ミステリを読んでみたが、とても面白かった。

 話だけでなく食べ物の趣味も合うのが嬉しい。双方の職場のすぐ近くの、同じ居酒屋の同じメニューが気に入っていると判明してからは、その店に一緒に足を向けることが多くなった。

 この日も、雅巳は午後九時に終わるレッスンを受けた後、戸締りをそれとなく手伝ったりしながら紘暉の仕事が終わるのを待つ。だが、紘暉と連れ立ってビルのエントランスを出たところで一人の男が声をかけてきた。

「紘暉」

 そちらに視線を投げた紘暉が、ぎくりと立ち止まる。

「文緒(ふみお)。お前こんなところで、何してるんだ」

 紘暉の声が硬い。

 こちらに歩み寄ってくるスーツ姿のその男は紘暉と同年代に見えた。背格好も紘暉とよく似ている。細いメタルフレームの眼鏡のせいか少し冷たい印象は受けるが、それなりに整った顔立ちだ。

「お前を待ってたに決まってるだろ」

 そう言って肩に手を伸ばそうとしてくるのを、紘暉は邪険に振りほどいた。

「何の用だ」

「おい、その言い方はないだろ」

 文緒と呼ばれた男は神経質そうに笑う。だが、紘暉が腕を組んだまま何の返事もしないでいるのを見て、不満げに鼻を鳴らした。

「お前に話がある。立ち話じゃなんだし、この後ちょっと付き合ってもらえないか」

 そう言いながら、紘暉の隣に立つ雅巳に、眼鏡の奥からうろん気な視線を投げてくる。

 どうやら人には聞かれたくない内容のようだ。この男の態度は気に食わなかったが、ここは席を外すべきだろうかと、さりげなく一歩後ろに下がる。

 その肩を紘暉が引き止めるように掴んだ。驚いて見上げると、横顔が硬い。

「お前と話すことなんかない」

 苦々しげに言い捨てると、くるりと男に背を向ける。

「それに、今日は先約が入ってるんだ」

 肩を抱くような形で雅巳を促す。

「雅巳さん、行こう」

「ちょ、紘暉君」

 いいのか? と後ろを振り返った雅巳を、男が睨みつけてくる。うわあ、なんだか妙な場面に居合わせちまったぞ、などと考えながら、引かれるままに紘暉に付いていく。

 だが背後から、文緒というその男が言葉を投げつけてきた。

「例の校長が不祥事で辞任に追い込まれた話、聞いたか」

 紘暉は返事もせず、歩を緩めようともしないが、雅巳の肩に置いたままのその手に、きゅっ、と力がこもった。

「なあ紘暉、地元に戻る気はないか」

 振り向きもしない紘暉の態度に焦ったように、文緒が速足で追いかけてくる。

「あのときは俺も言い過ぎたよ。お前に謝りたかったんだ。頼む、話を聞いてくれ」

 追いすがるような口調だ。いや、口調だけでなく、実際に走り寄ってきて、紘暉の肘に手を伸ばしてくる。紘暉の身体に、ぴりっと電気のような緊張が走ったのがわかった。

 雅巳は仕方なく、二人の間に割って入った。

「あのさ、君。なんだか色々と事情がありそうだけど、それは今度にしてくれないかな。さっき紘暉君も言ってたけど、今日のところは先に約束をしていた俺に優先権があると思うんだ」

 他人の痴話喧嘩に口を挟むつもりはない。あくまで紘暉に助け船を出すつもりで、なるべく穏やかにそう言ったのだが、相手は邪魔をするな、と言わんばかりの敵意に満ちた目を雅巳に向けてくる。

「あんた誰? こっちは大事な話をしにわざわざ地元から出てきたんだから、邪魔しないでくれる?」

 この言いざまにはさすがに腹が立った。だが、言い返そうとした雅巳の両肩に、紘暉がそっと手を置く。

「文緒。俺の大事な人にそういう口をきく奴とは、俺は今後一切話をするつもりはない」

 な、なんだって?

 大事な人?

 両肩の上から滑り落ちた紘暉の手が胸元に回されて、背後から抱き寄せられるような格好になる。後頭部に鼻先がそっと押し当てられる。

 雅巳の心臓が声高に存在を主張し始める。背中越しに、紘暉にもその振動が伝わってしまうのではないかと思うほど。

 文緒は、愛おしそうに雅巳を胸元に抱え込んだ紘暉と、かっと頬を上気させた雅巳との間で視線を行ったり来たりさせていたが、やがて当てつけがましく溜息をついた。

「そんな女みたいな顔した奴と付き合うなんて、お前も随分、趣味が悪くなったな」

 雅巳への挑発のつもりなのかもしれないが、腹を立てようにも、話の展開に感情がついていけない。莫迦にしたような仕草で肩をそびやかし、回れ右をして立ち去っていく文緒の後ろ姿を、紘暉に抱きかかえられたまま呆然と見送るしかなかった。

 その姿が植え込みの角を曲がって消えた瞬間、紘暉がぱっと雅巳の身体を離した。

「雅巳さん、ごめん」

 先ほどまでの冷徹な口調とは打って変わって、うろたえたような声だ。雅巳は大きく息をつくと、くるりと身体を返して、紘暉の顔を見上げた。

「何がごめん、なんだよ」

「え、と」

「元カレの失礼な態度を代わりに謝ってくれたのかな? それとも、未練たらたらのそいつを撃退するために、俺を恋人に仕立て上げたこと?」

 だが、叱られた犬みたいな紘暉の表情を見て、これは笑い話にしてしまった方がいいな、と思い直す。

「しかし『大事な人』か。いやー光栄だなあ」

 さっきまで自分自身がその言葉に思い切り動揺していたことはおくびにも出さず、にやりと笑う。紘暉が耳まで真っ赤になった。

「それは本当だよ。雅巳さんは大事な友達だ。あんな言い方するのは許せない」

「うん、ああいう奴とは別れて正解だと俺も思うよ」

 あまり深刻な口調にならないように気を付けたつもりだったのに、それを聞いた紘暉の表情はたちまち曇った。

「みっともないところ、見せちゃったね」

 そう言って、唇を噛んで俯く。

「紘暉君。色恋沙汰なんて、本人たちが真剣であればあるほど、みっともないもんだろ。若いうちはよくあるさ。気にするなよ」

 そう慰めて肩をとんとん、と叩くと、紘暉は唇を歪めて泣きそうな顔になる。

「でも、変なことに巻き込んで、雅巳さんに不愉快な思いをさせちゃった」

「紘暉君の役に立てたならそれでいいんだ」

 それは本心だった。

 紘暉は何かを言いかけて、そのままどうしたものかと迷うように、辺りに視線を泳がせた。その様子に、ふと訊いてみる。

「あのさ。今からうち来る?」

 紘暉が、え? という表情で雅巳の顔を見た。

「俺でよければ愚痴聞くよ。でも、外では話しづらい話題だろ」

「うん……え、いや、悪いよそれは」

「紘暉君が嫌じゃなければ、俺は全然構わない。もちろん、俺に話したくないことを無理に訊き出そうとは思わないけどね」

「雅巳、さん」

 見るからにしおれたような紘暉を見ているのがいたたまれなくなって、雅巳は努めて明るい声で付け加えた。

「巻き込んでくれて嬉しかったよ。たまたま居合わせただけだけど、俺、紘暉君に信用されてるってことじゃん」

 そこで紘暉に変な風に引け目に感じたりしてほしくなかった。

「うん、信用してる」

 ようやく、紘暉がにこりと笑う。

 その笑顔は、いつも雅巳をほっとさせると同時に、少しだけ後ろめたくさせるのだ。

 

 自宅の最寄駅のスーパーで一緒に買い物をしてから、紘暉をマンションまで案内した。

 買ってきた惣菜や、雅巳が簡単に用意した肴などをリビングのローテーブルに並べ、ビールをグラスに注ぐ頃には、紘暉もソファの上でだいぶ寛いだ様子になっていた。

「俺、二年前まで地元の公立高校の英語の教師をしてたんだ」

 問わず語りに、そんなことをぽつりぽつりと話し始める。雅巳は紘暉の隣に座って、静かに耳を傾けていた。

 教師の仕事は大変だったが楽しかったという。だが、ようやく仕事のペースにも慣れ始めた二年目に、事件は起きた。

「一人の女子生徒に告白されたんだ。俺も莫迦だから、真正直に、俺は男しか好きになれないって断った。一週間も経たないうちに学校中の噂になった。英語の浦河はホモだって」

 すぐに校長から事態を問いただされ、学期末で自主的に退職するよう促されたという。教育委員会やPTAなどとの間で騒ぎが大きくなる前に、穏便に済ませようとしたらしい。

「なんだそれ。生徒に手を出したわけでもないのに、ゲイだってだけで教師辞めさせられんのかよ。ありえないだろ」

 思わず声を荒らげてしまう。

 もちろん、世の大多数の人間が同性愛者を好ましくない目で見ていることは承知している。雅巳だってこれまで数々の無理解と偏見に接してきた。特に教育の現場となると、反応が過敏になるのは致し方ない面もあるかもしれない。だが、それにしてもあんまりだ。

「俺も、そう思った」

 紘暉はそう言って苦しそうに笑った。

 自分に非はないのに辞めるのは納得がいかないと、紘暉は校長の打診を拒否したという。学校側が無理やり辞めさせようとするなら、あくまで戦うつもりだった。

「でも、それで当時付き合ってた奴と喧嘩になった」

「……さっきの、彼か」

 こくり、と頷く紘暉の目に、憂色が濃い。

 そうやって事を荒立てるのは賢明じゃない、と彼に諭されたそうだ。校長は政界ともパイプを持っているやり手だったし、一介の新米教師が歯向かっても簡単に潰されるだろうというのだ。

「それに、あいつは当時俺と付き合っていることはもちろん、自分がゲイであることも家族にまで隠してた。騒ぎが大きくなって、自分のことまであれこれ暴かれるのは避けたかったんだと思う」

「うん、それもわからなくもない」

「でも、俺はすっかり頭にきててさ、自分は何も悪くないのにどうしてそんな風に逃げ回る必要があるんだ、って言っちゃったんだ」

 挙句、文緒との仲はどんどん険悪になっていったという。

「『自分の正義感ばかり振りかざすような面倒な奴とはやっていけない』って言われて、愕然とした」

 あ、と気付く。以前、紘暉を誘う雅巳の口調を咎めた後、「面倒な奴、と思ったでしょ」と言っていたのは、それだったのか。

「なんかもう、色々と莫迦らしくなってさ。あいつとの関係だって世間から後ろ指差されたりするものじゃない、って頑張ってたつもりだったのに、それを『面倒』の一言で片づけられちゃった」

「うん……」

 紘暉の自嘲気味の笑顔に、胸が詰まった。

 おそらく、文緒の方も紘暉を傷つけるつもりはなかったのだろう。自分の性的指向を世間から隠しておきたかった彼は、むしろ自分の方こそ追い詰められた被害者のように感じていたかもしれない。

 だが、大事なもののために戦おうとしたのに、大事だと思っていた当人からそれを否定された紘暉の気持ちを思うと、やりきれない。

 結局、紘暉はすべて諦めたという。教師を辞め、地元を離れ、知り合いのつてを頼って今の仕事を得た。文緒とも別れた。

「その頃はもう、職場や恋人の嫌な面ばかりが見えるようになっちゃってたし、疲れて、全部放り出して逃げてきたんだ」

「……紘暉君」

 俯く紘暉に、雅巳はそっと声をかけた。

 雅巳は、ゲイであるというだけでそこまできつい局面に追い込まれたことはない。単に運が良かっただけかもしれないし、紘暉ほど真剣にそういった問題と向き合ってこなかったということかもしれない。

「紘暉君は悪くないよ」

 そんな自分に偉そうなことは言えない。でも、自分には言葉をかけるくらいしかできない。

「話を聞いただけだけど、俺は、紘暉君は何ひとつ間違ってなかったと思うよ。頑張ったことも、諦めたことも」

 言いながら、紘暉のグラスにビールを注ぎ足す。

「何も間違ってないのにどうしても上手くいかないことって、あるんだよな。そういうのが一番つらいのに、乗り越えてきた紘暉君はすごいと、俺は思う」

「乗り越えてないよ、全然」

 紘暉は力なく首を振ったが、雅巳の視線に気付いて、重たい荷物を下ろすようにふっと息を吐いた。

「でも、雅巳さんにそう言ってもらえて、救われた」

 吹っ切れたように明るい笑顔になる。それだけで、雅巳の方が救われたような気持ちになる。

「この話、地元を離れてからは誰にも言ってなかったんだ。でも本当は誰かに聞いてもらって、大変だったな、頑張ったな、って言ってもらいたかったのかもしれない」

「頑張ったな。偉いよ」

 ソファの隣に座る紘暉の頭をぐりぐりと撫でてやると、くすぐったそうに笑う。

「俺、雅巳さんに慰めてもらってばかりだな」

「そうか?」

「そうだよ。最初に飲みに行ったときからずっと」

 記憶を辿る。確かにあのとき、約束をドタキャンされた紘暉の肩を持つような言い方をした。だがそれは彼を励ますためというより、慶介に浮気されたかもしれないという自分の不安をぶつけただけだった。

 自分の身勝手さを顧みて、いつもの罪悪感が胸を抉る。

「雅巳さんが何か落ち込んだりしたら、俺でよければ愚痴を聞くからいつでも言ってね」

「おー。頼む」

「でも雅巳さん、そういうの、黙って自分の中に溜め込みそうだな」

 思いもよらない指摘に驚いて横を向くと、紘暉が真剣な目を雅巳の顔に向けている。じっとこちらを見つめる紘暉の視線に、心の裏側まで見通されているような気になる。

「へえ。俺って、何か溜め込んでるように見える?」

 落ち着かなさをごまかすように、へらっ、と笑った。

「見えない。見えないから、きっとそうなんだと思った」

「え」

 ソファの背に沿って紘暉の腕が伸ばされる。その動きがあたかも肩を抱き寄せる予兆のように思えて、心臓が跳ねる。

「雅巳さんはいつも明るいし、聞き上手で励まし上手だよね。でもそういう人は、自分が落ち込んで励ましてもらいたくなったとき、どうするんだろう」

 ソファの背もたれを滑ってくる腕と共に、紘暉の顔が近づいてくる。まだ全然、不自然な距離じゃない。必死で自分にそう言い聞かせる。

「俺、能天気だから。悩んだり落ち込んだりしないんだ」

「相手を気遣う優しい人ほど、迷惑かけちゃいけないって思って、弱音を吐くの我慢するよね」

 端正な顔が、目の前でふわりと笑う。その笑顔に心を持っていかれそうになる。

「雅巳さん、ときどきすごく寂しそうな顔してるよ。自分で気付いてないでしょ」

 ソファの背に所在無げに置かれていた紘暉の手が、そろりと持ち上げられる。人差し指と中指が、雅巳の襟足の長い髪を軽くはさんで引っ張った。

 くい、と顎が上を向く。目の前に緩やかな曲線を描く綺麗な唇がある。

「だからときどき、思い切り甘やかしてあげたくなる」

 囁きに近い低い声で優しい言葉を紡ぐ、その形のいい唇からどうしても目が離せない。

 さっき、文緒に見せつけるように抱き寄せられたときの感覚が、背中にくっきりと甦る。

「俺、紘暉君になら、甘やかされたいかも」

 思わずつぶやいてしまってから、はっとする。

 どうして彼はいつも、こうして雅巳自身も気付いていなかった感情を、言葉にして引き出してしまうのだろう。

「雅巳さん」

 襟足の髪に絡ませていた紘暉の指が、すっと移動する。耳の下から頬をゆっくりと辿っていく。促されるように雅巳は睫毛を伏せた。

 そのとき。

 ドアホンが咎めるような高い音で鳴った。

 

 弾かれたようにソファから立ち上がって、壁のモニターに駆け寄る。そこに映っていたのは。

「雅巳。急に悪い、部屋に入れてくれ」

 耳に当てたインターホンの受話器のスピーカーから聞こえてくる、慶介の声。

 雅巳は反射的にソファの方を振り返った。半ば腰を浮かせた姿勢で、紘暉がこちらを凝視している。

「今は、ちょっと……」

 ためらっていると、いつになく切迫した調子で慶介が畳みかける。

「頼む、すぐ済むから。明日打ち合わせで使う資料が見当たらないんだ。お前の部屋に置き忘れたらしい」

「どこに置いた? 探してやるからそこで待ってろ」

 紘暉と慶介を、ここで鉢合わせさせるわけにいかない。そんなことをしたら、ばれてしまう。

 そこまで考えたところで、心臓がぎゅっと縮んだ。

 ばれる? 何が? 誰に?

 自分は、誰から、何を隠したいのだろう。紘暉と会っていたことを慶介に知られたくないのか。慶介と付き合っていることを紘暉に隠しておきたいのか。それとも、慶介という恋人がいながら紘暉の優しさに惹かれた自分の心の動きを自覚したくなかったのか。

「入ってもらって、構わないよ」

 いつの間にか背後に紘暉が立っていて、肩ごしにモニターの画像を見ていた。

 あ、と思う間もなく、固まった雅巳の手からインターホンの受話器をするりと抜き取ってしまう。

「……慶介さん?」

 その紘暉の呼びかけに、慶介の動きが止まったのがモニター越しにわかった。

「俺だよ、紘暉。ちょっと遊びに来てた。ちょうどよかった、俺もあんたに話がある」

 あんた、というその言い方に聞き覚えがある。やはり、そうだったのか。

 下のエントランスの開錠ボタンを押して、のろのろと玄関へと向かう。これで終わったな、と思う。

 慶介との関係が終わることを想像しても、不思議と痛みは感じなかった。寂しさはあるが未練はない。彼との関係は常に、こういう終わり方の予感を孕んでいた。いつでも切り離せるような距離感に、雅巳はずっと慣らされてきた。

 だが、これで紘暉との友情にも終止符が打たれてしまうのかと思うと、心がずしんと重く沈んでいく。

(信用してる)

 あのまっすぐな笑顔を、自分は裏切ってしまった。

 玄関ドアを開けると、慶介が広い肩をすくめるように入ってきた。無言のまますぐに寝室へと向かおうとするのを制する。

「待てよ」

 何か自分に対して言うことはないのか。そんな思いで前に立ちはだかろうとするが、ぐい、と身体を押しのけられる。

「多分、ベッドの脇に置きっぱなしだ。それだけ取ったらすぐに帰る。そこに誰が寝てようと、俺は気にしない」

「誰が寝てるって?」

 冷たい声が飛んできた。

 廊下からリビングに通じる戸口に肩を預けるように、紘暉が腕を組んで立っていた。

 慶介はその姿を、頭からつま先までたっぷり数秒は見つめると、にやりと唇を歪めた。

「そうか、まだだったか。それは悪かったな。すぐに退散するから、遠慮なく続きをやってくれ」

「慶介っ」

 雅巳の頬が怒りでかっと熱くなる。

「俺と紘暉君はそんなんじゃない。軽く飲んで、話をしてただけだ」

「ふうん?」

 雅巳の顔を覗き込む慶介の目の奥に、物騒な光がある。この目は知っている。貪るように自分を抱いていた頃の慶介は、こういう底光りするような視線で、雅巳の身体を視姦するように舐めていくのが常だった。

 不覚にも、その視線に気圧された。身体を寄せられ、廊下の壁際に追い詰められる。

「顔が赤いぜ。そんなエロい顔して、どんな話をしてたんだかな」

 顎を掴まれ、顔を仰向かされるが、その手をはたくように振り払った。

「慶介。本当に、お前が想像してるようなことは何もないんだ」

 確かに危うい雰囲気にはなった。だが考えてみたら、慶介のことを好きな紘暉が本気で雅巳のことを口説いたりするはずがない。

 過去の苦い思い出を打ち明けて、紘暉も人恋しいような気分になっていたのだろう。その雰囲気に、自分も紘暉も流されただけだ。

 だが、ふん、と小莫迦にしたように笑う慶介は、憎らしいほど余裕綽々(しゃくしゃく)だ。

「別に、言い訳する必要はないだろ。お前が誰に口説かれようと誰と寝てようと、俺は口うるさく言ったりしないから安心しろ」

 その言葉に、雅巳は反射的に顔を伏せ、自分の心臓を庇うように背を丸めた。

「……そうかよ」

 自分には、引き止めたいと思わせるほどの価値もないのだ。

 薄々悟ってはいた。だが、ここまではっきりと言われるとさすがにきつい。

 呼吸が苦しい。うずくまるように後ろの壁にもたれる。

 そのとき、下を向いた雅巳の視界の隅を、廊下の端から駆け寄ってくる紘暉の長い両脚が横切った。はっと顔を上げたときにはもう、紘暉は慶介に跳びかかっていた。

「どうして……どうして、そんなことが言えるんだよ!」

 上背は紘暉の方が少しある。だが胸ぐらを掴み上げられても、慶介は無言のまま、怒りの形相の紘暉を冷ややかに見つめ返している。

「なんでそんな冷静でいられるんだよ! 付き合ってる相手が二股かけてたんだぜ? あんたは何も言うことないのか?」

 怒りに震える紘暉の声が雅巳の鼓膜をしたたかに打った。

 二股かけてた、か。紘暉の言う通りだ。

 自分は、慶介と付き合っていながら紘暉になびいた。紘暉はそんな雅巳のことを、尻軽の不実な人間だと思っているだろう。

 足から力が抜けていく。

 だが、慶介は眉一つ動かさない。

「そうやって感情的になって相手を束縛するのは、子供のすることだ」

 さらりと言ってのけると、一瞬怯んだ様子の紘暉の腕を自分の身体からもぎ離した。

「……子供で、悪かったな」

 激しい怒りを押し殺すような紘暉の声に、慶介は薄笑いで答える。

「まあ、そういうのもたまには悪くないけどな。腹いせに雅巳のことを落としてやる、なんて俺に啖呵を切ったときのお前とか、確かにちょっと可愛かった」

 その言葉は、死角から飛び出してきた刃物のように、ざくり、と雅巳の胸を切り裂いた。

 腹いせに、自分を落とす?

「でも、そんなことをしてもみっともないだけだってわかっただろ。いい加減、クレバーな大人の恋愛ってものを学べよ」

 そう言い捨てると、呆然と立ちすくむ紘暉を置いて、慶介が寝室へと入っていく。

 雅巳は、なけなしの気力をかき集めて立ち上がった。眩暈のように頭がぐらぐらする。そのまま再び床の上にうずくまってしまいたかったが、そうもいかない。

「紘暉君。悪いけど、今日はもう帰ってくれるかな」

 紘暉がはっと息を呑む音がした。だが、その顔を正面から見る勇気がない。

「俺の方こそ、みっともないところを見せちゃって、変なことに巻き込んで、悪かった」

 かすかな皮肉を込めてそう言う。紘暉が無言のまま小さく身じろぎをしたのがわかった。

 先ほどの慶介の言葉を頭の中で反芻する。

 紘暉は、雅巳が慶介と付き合っていることを最初から知っていたのだ。雅巳のことを口説こうとしたのは、相手を一人に絞ろうとしない慶介に対する当てつけだろうか。あるいは、浮気する雅巳を見て慶介が愛想を尽かすだろうとでも考えたかもしれない。

 なるほど、大した腹黒じゃないか、と雅巳は思う。それを責めることはできない。同じことを自分も紘暉にしようとしていたのだ。

 ただ、そんな紘暉の優しげな言葉にころりと騙されて、この人なら溺れるほど自分を甘やかしてくれるだろうか、などと一瞬本気で考えた自分が、哀しいほど滑稽に思えた。

 ほどなく、資料の入っているらしい大型の紙封筒を手に慶介が戻ってきた。

「慶介も、用が済んだなら帰ってくれ。もう二度とうちには来るな」

 自分を笑いたいのだが、上手く笑える自信がない。今下手に表情筋を動かしたら泣いてしまいそうな気がする。だから、無表情のままそう告げた。

「雅巳さん」

 きしむような声でつぶやく紘暉に、雅巳は首を振った。

「出てってくれ。二人とも、今すぐ」

 通告のように、人差し指で玄関ドアを指す。

 何がこんなに哀しいのか、自分でもよくわからない。だが、今泣くのなら誰かの腕の中でではなく、一人で泣きたかった。

 

 その後何の音沙汰もなかった慶介から、悪びれもせずに仕事の連絡が入ったのは二週間後のことだった。新規案件の相談ということで、例のカフェで落ち合う。

 雅巳もプロとしてのプライドがある。仕事は仕事としてきちんと割り切って対応する自信はあった。少なくとも仕事に関しては、慶介は信頼できるパートナーだ。

 いつもの通り、慶介は待ち合わせ時間に少しも遅れずに現れた。

 予想通り、売上好調の『恋が始まる物理学』の第二弾を出版社から打診されているという。だが、どうせやるなら二番煎じではなく、一作目を凌ぐ面白いものにしたいんだ、と慶介は熱意を込めて言う。こういうところはさすがだな、と素直に感心する。

「せっかくだから、今回は基礎だけじゃなく素粒子論なんかにも踏み込みたい」

「さすがにそれを、非理系の読者にわかりやすく説明するのは難しいだろ」

「そこでイラストレーター様の腕に物を言わせてほしいわけさ」

「しょうがねえなあ。またしばらく、物理学のお勉強の日々か」

 理解の助けとなるイラストを描くため、前回も雅巳は高校物理の参考書を読んだり、時には著者の教授に直々に質問したりしたのだ。

「文系科目よりは、はっきりとした解がある理系の方が好きだって言ってたろ」

「まあな」

 ふっと、会話が途切れた。

「英会話の方は、続けてるのか」

 含みを持たせた声で、慶介が訊いてくる。雅巳は半ば無意識のうちに、窓の外に目をやった。

 そろそろ梅雨明けも近いはずだが、外はけぶるような小ぬか雨だ。薔薇の花の時期も終わり、植込みには色あせたアジサイの花がいくつか並んでいる。

「このところちょっと、仕事が立て込んでて行けてないな」

 本当は紘暉と顔を合わせたくないだけだった。自分の向学心なんてその程度かと嫌になるが、紘暉のことを考えると、どうしても足が向かないのだ。

 あんなことがあった後も、慶介とならばこうして普通に会話ができる。それは、慶介と恋人としてやり直したいという気持ちがないからだ。だから、すっぱりと諦めがつく。

 だが、紘暉とはそうはいかない。

 あんな手ひどい仕打ちを受けても、雅巳はどうしても紘暉のことを恨むことができなかった。

 彼と、もっと長く一緒の時間を過ごしたい。あの一途な優しさを自分だけに向けてほしい。そんな自分の想いを自覚してしまった。

 でも、紘暉の本物の優しさが雅巳に向けられることはないだろう。彼に会ってその事実を突きつけられるのが怖かった。

 自分は、慶介にとっても紘暉にとっても、かけがえのない存在にはなれなかった。それは当然だ。慶介という存在がいながら紘暉に惹かれた。それなのに、相手には自分だけを見てほしい、なんて虫がよすぎる。

 霧雨の降る窓辺から、視線をテーブルの上に戻す。なんとなく所在なくて、慶介が持参した『恋が始まる物理学』を手に取る。

「なあ……秋田」

 下の名前はもう呼べなかった。慶介は片方の眉を軽く持ち上げただけで、それについては何もコメントしない。

「紘暉君のことは、大事にしてやれよ」

「なんだ、唐突に」

 面食らった顔をする慶介は新鮮だ。

「俺と違って彼は根が真面目だからさ、浮気されたら本気で傷つくと思うんだ」

 面倒な奴でしょ、と言ったときの、紘暉の無理したような笑顔を思い出す。もうあんな顔はさせたくない。

「だから、紘暉君と付き合うなら、他の奴とは手を切って彼だけを大事にしてあげてほしい」

 慶介は小さく笑った。

「全く同じことを、あいつに言われた」

「そうだろう? だから」

 勢い込んで続けようとした雅巳を、慶介は手で制する。

「そうじゃない。もっと雅巳のことを大切にしてやれ、って言われたんだ」

「……え?」

「実際はそんな穏やかなもんじゃなくて、ふざけんな、って殴られたんだけどな。恋人を粗末にするな、って」

 呆れた。

 あんな芝居まで打って自分を騙そうとしたくせに、どういうつもりだろう。

 あのとき慶介に食ってかかった紘暉の様子が思い出される。

(付き合ってる相手が二股かけてたんだぜ? あんたは何も言うことないのか?)

 はっとした。

 あのとき彼に「二股をかけている」という怒りを向けられていたのは、雅巳ではなく慶介だったのだろうか。

 紘暉はあのときも、恋人に浮気された自分のために怒ってくれていたのだろうか。

 鼓動が速くなる。雅巳は慌てて、用もないのに手にした本のページをめくる。

「お前のことを粗末に扱っているつもりはなかった。自分ができないことを相手に求めるのはフェアじゃないと思ってただけだ。でも、結果的にそれがお前を傷つけてたなら、それについては謝る」

 慶介にこんな神妙な口調で謝られるなんて初めてのことで、内心驚く。この不遜な男にこんなことを言わせたのは、紘暉のまっすぐで純粋な熱意だったのだろうか。そう思うと、雅巳はようやく笑顔になれた。

「謝る必要はないよ。最初からそういう関係だった。その反省は紘暉君との関係に生かせ」

 だが、慶介は呆れたように頭を振る。

「……お前ら、莫迦だろ」

「引き続き、とことん失礼な奴だな」

「事実を指摘してるんだ。俺はまったく同じ理屈で紘暉にも振られたんだよ。反省したなら自分なんかとはとっとと手を切って、雅巳のことを幸せにしてやれ、って昭和の水商売の女みたいなこと言いやがって」

「はあ?」

 目を白黒させる雅巳に、慶介はからかうような視線を送る。

「言っとくけど、俺はお前や紘暉を傷つけたことは反省してるけど、今後も自分の素行を改めるつもりはないからな」

 いつもの慶介だ。そのことに少しだけほっとして、いつものように憎まれ口を叩く。

「ということはその反省は、付き合う相手を間違えた、って意味なわけだな、この野郎」

「その通り。でもそれを言うなら、相手を間違えたのはお前らも同罪だろ」

「え」

 慶介のその言葉の意味を考えて、雅巳は無言になる。

「いい加減気付け。お前らどっちも、誰のために俺に腹を立てたり忠告したりしてんだよ」

「でも……紘暉君が俺を落とす、って決めたのは、秋田への当てつけのためだったんだろ」

 自分が相手を想うほどは、相手は自分を想ってくれない。その不均衡に気付いてしまったら誰だってつらくなる。雅巳は、自分の想いも相手と同程度まで抑えることで不釣合いをないことにしようとした。でも紘暉は、相手にも自分と同じくらい本気になってほしい、と素直に願ったのだろう。それで、慶介を揺さぶるつもりで自分を口説こうとしたのではないか。

「だからお前は莫迦だって言うんだ。当てつけたい相手と、幸せになってほしいと願う相手と、本当に惚れた相手はどっちだ」

 不意打ちだった。

 顔を伏せて、手元の本に視線を落とす。「イラスト 厳原マサミ」というクレジットを目にして、最初に飲みに行ったときの紘暉の言葉が耳に甦る。

(雅巳、って名前、本人の雰囲気によく合ってると思うけどな)

 不覚にも頬が火照った。言われたときはさらりと流せたのに、今思い出すとひどくきまりが悪い。

 自分は紘暉が言ってくれたような人間じゃない。腹黒くて狡くて、そのくせして自分が騙されたとわかると傷つくような甘ったれだ。面倒な奴なのは自分の方だ。

 でもそんな自分を、紘暉にならば全部知られてもいい、と思う。雅巳も、紘暉のことならば丸ごと知りたかった。彼が今は誰のことを想っているのかも含めて。

「やれやれ、見ているこっちの方が恥ずかしくなるような顔しやがって」

「うるさい」

 溜息混じりの慶介の声に耳まで熱くなりながらも、密かに決意する。

 会いに行こう。話をしよう。不純な目的で近付いて、本心を隠して友達付き合いを続けていたことを謝ろう。そして、今の自分の本心を知ってもらおう。

「秋田」

「なんだ」

「そう言うお前が本当に惚れた相手は、誰なんだ」

「俺はお前らと違って心が広いんだ。惚れてなくても、相手には幸せになってほしいと思ってる」

 しれっと言ってのける。案外本音かもしれない。いずれにせよ、憎たらしいことに変わりはない。

 そして多分、憎たらしい、と思わせてくれるのが慶介の最大の優しさでもあるのだ。

 

 最後のレッスンが終わる夜九時を目がけて、英会話学校に足を運ぶ。予約もせずに現れた雅巳を見て紘暉は受付の椅子から腰を浮かせたが、ちょうどそのとき、レッスンを終えた生徒や講師ががやがやと部屋に入ってきた。

 紘暉が彼らに応対している間、雅巳は脇のテーブルのところに座って待つ。白黒のギンガムの半袖シャツを涼しげに着こなすその横顔を見ながら、無意識のうちに、両手を顔の前で祈るように合わせていた。

 ようやく人の波が引いたところで、雅巳はゆっくりと立ち上がった。受付のデスクに歩み寄って静かに息を吐くが、鼓動は全然落ち着いてくれない。

「間が空いちゃったけど、次回のレッスンの予約を入れにきた。ってのは口実で、紘暉君に会いにきた」

 そう告げると、紘暉はぎこちない笑顔を作る。

「雅巳さん、この前はごめん。俺……」

「ストップ。俺も、君に謝りたいことは山のようにあるんだけど、その前に大事なことを言わせて」

 雅巳は受付のデスクの前にしゃがみ込んだ。机の端に交差させて置いた両腕の上に顎を乗せて、椅子に座った紘暉に向けて、顔を軽く仰向ける。この角度から見上げるのが不思議なほどしっくりきた。

 戸惑ったような眼差しが、紘暉の涼しげな目元を少し幼く見せている。すっと通った鼻筋の下で、唇が何か言いたげに軽く結ばれている。

 初めて見かけたときから気になって仕方なかったその顔は、見つめれば見つめるほど目が離せなくなる。どうして気付かなかったんだ、と雅巳は自分に呆れる。あれは一目惚れだったんだ、ってことに。

「俺、紘暉君が好きだ」

 その目をまっすぐ見つめながら告げる。

 紘暉は軽く目を見開いたが、何も言わない。雅巳は静かに言葉を続けた。

「俺は最初から、秋田が君と浮気してるかもしれない、って疑ってたんだ。なのに、君といるのはいつも楽しくて仕方なかった。君が好きな相手があいつじゃなくて俺ならいいのに、って、いつの間にかそんなことを考えるようになってた」

「雅巳、さん」

「秋田とは別れたよ。でもあいつには感謝してる。あいつがいなかったら、君と出逢えなかったから」

 慶介の名前を聞いて、紘暉が軽く前かがみになる。

「俺、雅巳さんにちゃんと謝らなきゃ」

「何をだよ」

「慶介さんとのことを、雅巳さんに黙ってたこと」

「それはお互い様だ」

「違うんだ、俺」

「紘暉君」

 何かを言いかけようとする紘暉を無理やり遮る。

「俺さあ、こんなに決死の思いで告白したの初めてなんだ。緊張で心臓がいかれちゃう前に、返事を聞かせてもらってもいい?」

 そう言いながら、祈るように腕の上に顔を伏せた。胸郭の中で心臓が痛いくらいに強く拍動している。まったく、自分はいつからこんな、初心で手に負えない高校生のようになってしまったのだ。

「あのさ、雅巳さん……俺まだ、ちょっと混乱してるんだけど、俺の片想いじゃなかった、ってことで合ってる?」

 ためらいがちの紘暉の声に、信じられない思いでさっと顔を上げる。

「片想い?」

「うん。俺ずっと、一方的に雅巳さんに憧れてた」

「ずっと、って」

「でも、雅巳さんが慶介さんと付き合ってたことはその前から知ってた。だから、最初から片想いだって諦めてたんだ」

「どうしてそうなるんだ。紘暉君は、秋田のことが」

 好きだったんじゃないのか、という言葉を、紘暉の照れたような笑いを見て呑み込む。二週間あんなに焦がれていた、まっすぐで優しい瞳が自分だけに向けられている。

「だから、それ、ちゃんと謝って説明しなきゃと思って」

 紘暉の手がそっとこちらに伸びてきた。この前と同じように、耳の後ろの髪を一房、その長い指に絡めとられる。

「でもそれは、返事の後でもいい?」

「ん?」

 紘暉が椅子から腰を浮かした、と思うと。

「雅巳さん」

 髪の毛を弄んでいた手が、雅巳の後頭部をぐっと掴む。少し上向いた角度のまま固定された雅巳の顔に覆いかぶさるように、紘暉の顔が近づいてくる。

「俺も、雅巳さんが、好き」

 その囁きは、触れそうなほど近くで吐息に変わり、雅巳の唇を撫でていく。

 最後の一センチを手繰り寄せるように、雅巳は睫毛を伏せた。

 唇の表面が軽く触れ合う。そんなぎこちないキスが、今まで色々な相手としてきたどんな行為よりも、雅巳の心を揺さぶった。

 

 仕事を終えた紘暉と二人でマンションに戻ると、ドアを閉めるのさえ待てないように、雅巳は紘暉の身体を引き寄せた。

 人目をはばかる必要のない空間で、貪るようにキスを交わす。唇を縫い合わせるように重ね、熱い舌を絡め合う。技巧よりも情熱が勝った、こんな激しいキスをするのは本当に久しぶりだ。

 しばし無言で、ただ荒い息をくぐもらせ、溢れ出す熱情を注ぎ合う。雅巳は靴を脱いだばかりの両足を爪先立ちにして、紘暉の首にかじりついた。それに応えるように紘暉の手が背中に回される。だが、一瞬ぎゅっと強く抱き寄せられた後、はっと弾かれたように身体が離れた。

「紘暉君?」

「あ、雅巳さん……ごめん……」

 がっつきすぎて引かれただろうか、と不安になって見上げると、紘暉は顔を真っ赤にして俯いた。その視線の先を追うと、彼の脚の間で欲望が起き上がっているのが、チャコールグレーのコットンパンツの上からでもはっきりと見てとれた。

「なんで謝るんだよ」

 拗ねたように小さく鼻を鳴らして、脚を絡めるような体勢で再び身体を寄せた。さっきのキスで、雅巳の方もとっくに萌(きざ)している。

「いや、その……こういうの久しぶりで、つい動揺して」

「久しぶり、って」

 そんなわけないだろう、と言いかけて口をつぐむ。あの慶介がプラトニックな関係で満足していたとは思えないが、さすがにあからさまにそれを問いただすのははばかられる。

「俺、慶介さんとは、やってないよ」

 だが、考えていたことが顔に出たのか、紘暉は雅巳の疑問を先回りして答える。

「な」

「正確に言うと、できなかったんだ。俺が勃たなかった」

「え……?」

 雅巳はつい、もう一度紘暉の下半身に目をやってしまった。目の錯覚じゃない。

 顔を上げると、紘暉はばつの悪そうな表情で目をしばたく。

「慶介さんと知り合った頃、俺は自分にはまともな恋愛なんてできないんだと思ってた。でも慶介さんは、互いの価値観を押し付け合うようなことをしてるから上手くいかなくなるだけだ、って言ってくれて。それで、あの人に大人の恋愛のやり方を教えてもらうことにしたんだ。この先、誰かのことを好きになるのを諦めたりしなくていいんだ、って思いたかった」

「……ずいぶんとたちの悪い相手を指南役に選んだもんだな」

 雅巳は危うく白目をむきそうになった。紘暉の真面目さがいっそ気の毒なくらいだ。

「慶介さんは……優しかったよ」

 それは雅巳も知っている。一緒にいるときの慶介はいつだって優しかった。ただ、それは誰に対しても同じ優しさだった。自分だけが独占できるものではなかった。

「でも、慶介さんに今付き合っている相手がいる、って聞かされたら、もうダメだった。自分だったら彼氏が他の誰かと寝てたりしたらショックだな、って思ったら萎えた」

 紘暉は苛立ったように自分の短い髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。

「そんなんで萎える奴初めてだ、って慶介さんには面白がられるし。お前と絶対にヤってやる、タチネコどっちでもいい、なんてむきになられちゃって……何度試しても無駄だったけど」

「何度も……試したんだ」

 よせよ、と雅巳は唇を噛む。紘暉と慶介が逢瀬を重ねていたことを責める資格なんて、自分にはない。

 紘暉は小さく溜息をついた。

「相手に特定の人がいることがわかってて遊びに付き合ってたんだから、どんな言い訳も無駄だってわかってる。そんなスリリングな関係が刺激的だったのも否定できない。でも俺は何より、慶介さんから雅巳さんの話が聞きたかったんだ」

「俺の話?」

「慶介さん、俺によく雅巳さんの話をしてたんだよ。名前は教えてくれなかったけど、一緒に仕事をしてるイラストレーターなんだって。美人で気が利いて、感性が鋭くて、仕事のできる洗練された大人で、って惚気(のろけ)話を聞かされるうちに、どんな人だろうってそっちの方がどんどん気になってっちゃって」

「なんだそれ。浮気相手にそんなこと話すか普通」

 おかしくなってくすりと笑いを漏らすと、ふいに紘暉が手を伸ばして、雅巳の肩を自分の方へ引き寄せた。

「あの日、本のイラストを描いたのが自分だって雅巳さんが名乗り出てくれたとき、俺は慶介さんを通じてこの人に憧れてたんだ、って悟った。想像してたよりずっと綺麗な人で驚いたけど」

 顎に指をかけられて上を向かされる。

「雅巳さん、ごめん。俺、雅巳さんにひどいことしてた」

「紘暉君……?」

「もっと大事にしてくれる相手がいるだろう、って俺に言ったときの雅巳さんのつらそうな顔が、ずっと心に引っかかったままだった。あれはそのまま、俺が雅巳さんに言いたい言葉だったから」

 雅巳は小さく息を呑む。

 そうだったのか。紘暉はあの言葉の奥に、雅巳自身の孤独を読み取っていたのだ。

「時々すごく寂しそうにしてる雅巳さんを見て、こんなことしてちゃいけない、って気付いた。でももう会うのはやめよう、って慶介さんに言ったら、自分の恋人はそんなこと気にしない、なんて決めつけるんだ。それでつい、恋人に寂しい思いをさせるようなら俺が奪っちゃうよ、って喧嘩売っちゃって。やれるもんならやってみろ、なんてあしらわれたけどさ」

 雅巳は驚いて目を見開いた。

「じゃあ……腹いせに俺を落とす、ってのは……」

「だって、腹が立ったんだよ」

 紘暉の指が愛おしそうに雅巳の頬を撫でていく。

「俺が慶介さんの立場なら、絶対、脇目も振らずに雅巳さんだけを大事にするのに、って」

 そのまま、紘暉の腕の中に抱き込まれる。

 雅巳の胸の奥で何かがはぜた。呑み込んでいた氷が一瞬で溶けたみたいに、熱いものが喉の奥からせり上がってくる。

「紘暉、君」

 本当だ。自分はなんて莫迦なんだろう。こんな単純なことにずっと気付かないふりをしていたなんて。

 自分はずっと、寂しかったのだ。

 一度でいいから嫉妬してほしかった。好きだから、大事だから、誰の手にも渡したくない、と言ってほしかった。そのくらい想われているのだと実感したかった。

 でも、そんなことを考えている自分を認めたくなかった。慶介にも紘暉にもそんな姿は見せたくなくて、ずっと強がっていた。

「俺、あいつが君に言ってたようなカッコいい人間じゃないよ」

 強がった挙句、結局こんな風に誰かの腕の中であっけなく泣いている、他愛もない人間だ。

「うん。こんなに可愛い人なんだって、今ようやくわかった」

 目尻から溢れた滴を、紘暉の親指が拭う。

「ああもう……どうして、君は」

 こんな言葉を、ゲームとしての恋愛を楽しむための道具としてではなく、百パーセント大真面目に言ってくるなんて。

「紘暉。君が欲しい」

「雅巳さん……」

「君があいつとやろうとしてできなかったこと、全部、しよう」

 指を絡めた手を自分の下半身へと回させる。

「そんなことしたくないよ」

 細い腰を紘暉の手がぎゅっと掴んだ。

「こう、き」

「遊びの恋愛なんてもうしない。雅巳さんのこと、ぞんざいに扱いたくない。俺はね、もっと、ずっと……」

 その続きは、先ほどよりもさらに甘いキスに溶けていった。

 

 ベッドに腰を下ろしてシャツのボタンを外しながら、雅巳はいきなり現実に引き戻された。

「あのさ……」

 快楽主義者を自認していた慶介は、バイなだけでなく男とやるときもどちらでも気にしないタイプだった。一方雅巳は抱かれる側一択だ。紘暉はどちらを試したのだろう、と、下世話だが切実な疑問が頭をよぎる。

「俺が、される側、でいいのかな」

 まったく、と自身の台詞に内心呆れる。自分がこんなにも無粋でみっともない人間に思えたことはない。カジュアルでスタイリッシュな恋愛が信条の遊び人は一体どこへ行ってしまったのだろう。

 これまで遊びの相手はもちろん、慶介とでさえ、言葉や身体での駆け引きを楽しむ余裕があった。相手の言動に一喜一憂して振り回されるのなんてダメ男の証拠だと思っていた。恋愛は人生のデザートみたいなもの。とりどりのメニューの中から自分のお気に入りを選んで、堪能する。それが自分のスタイルなのだと思い込んでいた。

 それがまったくの勘違いであったことを、雅巳は思い知らされる。

 目の前で切れ長の目を軽く見開くようにして、自分を見つめているこの青年のせいだ。

 彼になら、自分の中身をさらけ出しても構わないと思っていた。それでもいざ間近でこの視線に晒されると、彼のまっすぐな情熱に自分は何一つ値しないような気がして怖くなる。

「うん」

 だが、紘暉はそんな雅巳の言葉に小さく頷くと、すっと目を細めた。

 脱ぎかけのシャツのボタンにかけたままの手をそっと握られる。

「させて」

 照れくさそうな小さな声とは裏腹に、紘暉の瞳の奥には透明な焔のような熱が揺らめいている。そこに宿る純度の高い熱は、静かに燃えている分、容易には消えない強さを感じさせる。

「紘暉……」

 熱情が、雅巳の身体の奥に燃え移る。

 軽く握られたままの手を引いて、シャツをはだけた自分の胸元に押し当てる。心臓が痛いくらい強く脈打っているのが、紘暉にも感じられるだろうか。

「雅巳さん」

 熱っぽさを増した声と共に、掌が素肌の上を滑っていく。雅巳は思わず息を呑んだ。なぜ彼の手の感触はこんなにも甘美なのだろう。

 唇を重ねながら、ゆっくりと服を脱がされていく。ペールブルーのボタニカルプリントのシャツ。ネイビーのインナー。ベージュの麻のパンツ。まだちゃんと触れられてもいないうちから、雅巳の身体は紘暉の指先の動きに跳ねるように反応してしまう。

「雅巳さん、可愛い」

「こら」

「それだけじゃなくて、怖いくらい綺麗で」

「んっ……」

「……我慢できないくらい、色っぽい」

 首元を味見するみたいにするんと舐め上げられた。

「っ……」

 紘暉の唇が、首筋から鎖骨の間を伝い下りていく。その行く先を、全身の神経細胞が追いかけていく気がする。

「あ!」

 紘暉の唇が淡く色づいた胸の印をかすめて、雅巳は高い声を放ってしまった。

「あ、ここ好きなんだ」

 もう片方の突起を指の間に挟んで、きゅ、とつまみ上げられる。

「ちがっ……」

 雅巳はふるふると小さく首を振る。これまでここで感じたことはあまりなかった。それなのに今、ふ、と笑う紘暉の息がそこにかかるだけで、むずむずするような感覚が走る。

 指で軽く引っ張られると、素直にぷつんと起き上がる。そこを指先でくりくりと揉み込まれ、舌先で舐め転がされる。

「あぁんっ」

「雅巳さん……声、可愛い」

 ぼっ、と体内で炎が燃え上がるのがわかった。

 紘暉の丁寧な愛撫に応えて、両乳首は紅く、硬くしこり、ますます敏感になっていく。そこにわずかでも触れられるだけで、鋭い快感が一気に下半身まで突き抜ける。

「ん……や……ぁ……」

「こっちも反応してる」

「あ、やめっ……」

 下へ伸ばされた紘暉の手に、屹立を探り当てられた。さすられると、先端に小さな液滴がぷつっと盛り上がる。 

 紘暉の顔がふいと胸元を離れた。

「え……っ」

 背をたわませて雅巳の上に屈み込んだ紘暉は、躊躇なく屹立を口に含んでしまった。

「や、それっ」

 ただでさえ全身がひどく感じやすくなっている。そこへ、一番わかりやすく快感を感じる部分を熱い口腔内に包み込まれ、雅巳の官能は一気に高みへと追い上げられていく。

 硬く尖らせた舌先が先端の小さな隙間をこじ開ける。たちまち滲み出た潤みを、ちゅる、と吸われる。

「だめ、紘暉っ……」

 こんな鼻にかかったような静止の声など、紘暉はものともしない。すぼめた唇が何度も何度も軸を上下する。大きな掌が根本をやわやわと揉みしだく。

「ひ、ぁっ……」

 眼底で白い火花が弾けた。焦燥感にも似た昂りを覚えながら、必死で紘暉の顔を股間から引きはがして腰を引く。

 その口が離れた瞬間、栓を抜かれるような解放感が襲ってきた。

「んく……ああぁっ」

 腰が小刻みに痙攣し、熱いものがほとばしる。びゅる、と勢いよく放たれた白濁は、紘暉の顔にまで達した。

「わ」

「は、あ……あ……ご、めん……」

 雅巳は慌てて紘暉の鼻先と頬に飛んだ自分のものを手で拭った。その手を、紘暉が自分の口元へと導く。

 べたつく指先を紘暉の舌に舐め上げられ、指を吸われる。腰の奥がずくり、と不穏に疼いた。

「よかった?」

 そう言いながら上目使いに雅巳に向けられた目の色が、これまでと明らかに違う。あからさまな欲望をもはや隠そうともしない、焦がれるような目つき。

 その視線の焦点に据えられただけで、雅巳の全身が再び火照っていく。かわそうと身じろぎをしても、まっすぐに追いかけてきて逃れられない。

「ん……よかった、よ」

 観念して、素直に白状した。

 実際、口でされただけで、しかもこんな早くに達してしまうなんて初めてだ。

「じゃあ、もっとよくさせて?」

「ずるいぞ……俺ばっかり」

 自分だけが鑑賞の対象になっていることを咎めるように、そのギンガムチェックのシャツの胸ポケットを引っ張った。紘暉はくすぐったそうな笑い声を上げると、逆らわずに自分もシャツと白いTシャツを脱ぐ。コットンパンツとボクサーショーツから長い両脚を抜き取り、ベッドの下に落とす。

 細く引き締まった、磨かれた木材のような堅牢さとしなやかさを感じさせる美しい身体。その中央で、彼の欲望も目覚めたままだ。そのことに雅巳は密かに安堵する。

「え、雅巳さん?」

 背中を丸めて紘暉の膝下にうずくまる。そのまま口に咥えようとしたときだった。

「しなくていいよ」

 両肩を抱えられて、ひょい、と身体を起こされてしまった。

「え、なんで。フェラされんの嫌い?」

「ううん。嫌いじゃないけど、今日はもう必要ないから」

 確かに、紘暉のものはもうすっかり臨戦態勢に入っているが。

「でも、紘暉は俺にしてくれたから、今度は俺がする番」

 そう言って再び屈み込もうとするところを制される。

「いいんだってば」

 なぜか紘暉は少し不機嫌そうだ。

「どうして?」

 何か怒らせるようなことを言っただろうか。

「さっきのは、俺がしたかったの。雅巳さんのことを気持ちよくしたかったから。だからさ、それを順番とか貸し借りみたいには思わないで」

 拗ねたような口調で言われ、雅巳はちょっと意表を突かれた。

 これまで雅巳はいつも、してもらった行為がよかった場合は特に、それを相手に返すものと思っていた。意識して努めていたわけではないが、そうすることで相手と対等でいたいとどこかで思っていたのかもしれない。

 紘暉の腕が、雅巳をふわりと抱き寄せる。

「今日は、俺に雅巳さんを思いきり甘やかさせて」

 襟足の髪を指でくすぐりながら紡がれる、あの日の続きの言葉。あれは遊びでも罠でもなく、あの瞬間の紘暉の本心だったのだろうか。

「でも……俺も、紘暉のこと、気持ちよくしたいって思うんだけど」

 これは義務感でも駆け引きでもない。純粋に、自分との行為で紘暉にも歓びを感じてほしい。

「うん。雅巳さんが満足してくれるのが、俺には一番気持ちいい」

 耳の後ろから囁かれる柔らかな声が、雅巳の身体の芯を甘く溶かしていく。

「どうしてほしいか、言って?」

 目を一度きゅっと閉じて、それからゆっくりと開いた。

 目の前の端正な顔をまっすぐに見つめる。短い黒髪。広い額。切れ長の双眸。きりっとした眉。この先見飽きるほど何度でも、この顔をこんな風に見つめたい。見つめられたい。

「俺のこと、独占してほしい」

 これまで誰に対しても口にしたことのない願いごとだった。

「……雅巳さん」

 紘暉が雅巳の肩口に顔を埋めてくる。

「俺だけのものに、なってくれるの」

「うん」

「俺、こんなに誰かのこと欲しいって思ったの初めてだよ」

「……気が合うな。俺もだ」

 紘暉が欲しい。

 紘暉しか欲しくない。

 心も身体も、すべて支配されてしまいたい。

 その想いの激しさに自分でも驚きながらも、雅巳は今は奔流に身を任せることにした。

 

 自分の身体はこんなに感じやすかっただろうか、と、さっきから雅巳は戸惑いっぱなしだ。

 紘暉の触れ方は丁寧だが必ずしも技巧的ではない。もっと刺激的で濃厚な愛戯も過去に雅巳は経験してきた。それなのに、紘暉が自分に触れていると思うだけで、経験の浅かった二十代前半の頃よりも素直に身体が反応してしまう。

「雅巳さんって、どうしてこんなに、全身どこもかしこも綺麗なのかな」

 ベッドの上に仰向けに押し倒した雅巳の裸身を紘暉がつくづくと見つめる。そのうっとりしたような声に、頬が上気する。

「……恥ずかしいこと、言うな」

「だって本当だもん」

 膝頭を掴まれ、脚を大きく割られた。

「あ……!」

「こんなところまで、綺麗なんだ」

 雅巳の薄い茂みは、先ほど放ったばかりのものにまだ濡れている。紘暉の指がそこを丁寧に梳いて、粘液を拭い取っていく。

「そんな、こと、しなくて……」

 阻もうとした雅巳の手をかわした紘暉の指が、道を踏み分けていくように下へと向かう。

「ここも、見せて」

 濡れた指先が会陰をなぞる。敏感な感覚器が一斉に悲鳴を上げ、雅巳は喉を大きくのけぞらせた。

「ひっ、やぁ……」

 性器と後ろの窄まりの間を、紘暉の指が何度も往復していく。最初は羽毛が触れるような淡い愛撫だったのが、少しずつ強さを増していく。かと思うと、再びもどかしいほど控えめな触れ方になる。

「ぁ……ああ……っ」

 快感を焦らされて、雅巳の身体はどんどん煽られていく。

「……もう……紘暉っ」

 腰がよじれるようなもどかしさに耐えかね、ねだる声が唇の隙間からこぼれ落ちる。

「もう?」

 稚気を含んだ目に顔を覗きこまれる。恨めしげにそれを睨み返すと、雅巳は身体を捻ってベッドサイドの小さな抽斗を開け、中を探った。

 こまごましたものの間からコンドームの箱とローションのボトルを引っ張り出して、紘暉の手に押し付ける。

「……早く」

 濡れた目で紘暉の顔を見上げて懇願すると、尖らせた唇を、ちゅ、とついばまれた。

「三十秒、待ってね」

 あやすような声で言われ、くしゃり、と髪をかき混ぜられて、雅巳は子供のようにこくりと頷いた。

「雅巳さん……可愛い」

 紘暉の声が嬉しそうだ。

 普段の自分とまったく違うこんな子供っぽい言い方や仕草を受け容れてもらえるのが、たまらなく心地よかった。

「っ……ん……」

 内腿を掌で撫で上げられて、腰が跳ねる。

 紘暉の手に両脚をすくい上げられたと思うと、濡れた指で入り口をほぐすのもそこそこに、紘暉が中に入ってきた。

「あーーーっ」

 快感を捻じ込まれ、足の指まで反り返る。待ちわびた感覚を全身で受け止める。

「雅巳、さん」

「あぁ……うん、紘暉……もっと、奥までっ……」

 誘いをかけて待つような余裕はもはや微塵もなく、ただ直截的に、不器用に、訴える。じわり、と分け入ってくる紘暉を出迎えるように、雅巳も自分の腰を押し付けた。

「んくぅっ……」

「あ、雅巳さん……中、すごい……」

 型取りでもするかと思うほど、自分の内側がぴっちりと紘暉のものを包み込むのが感じられた。少しでも彼が腰を揺すると、痺れるような刺激が全身を駆け巡る。

「ひぅ……ん、あ……ぁあ」

「う……これ、雅巳さん……気持ち、いい……?」

 よすぎて苦しいくらいだ。喘ぎ声が言葉にならなくて、雅巳はシーツを握り締めながらがくがくと頷く。

 強すぎる快感が、出口を求めて体内でのたうつ。

「紘暉……こうきっ……もう、いく……いっちゃう……」

 奥深くを穿たれたと思うと、引かれたはずみに、一番感じる箇所を一際強く擦り上げられた。

「あああああっ」

 ぴんと張った糸を切られるように、解放が訪れる。

「ああっ……雅巳さん、俺、もっ……」

 雅巳が欲望を解き放った直後、紘暉も一際激しく全身を震わせると、大きな吐息と共に身体を弛緩させた。

「はあっ……あ……ふぅ……」

 折り重なるように横たわったまま、二人でしばし荒い息をつく。喘ぎすぎて声がかすれてしまっている。

「雅巳さん」

 目を開けると、紘暉がしげしげとこちらの顔を見つめていた。

「……何?」

 問いかけると、紘暉がはーっと溜息をつく。

「あーもう、こんな壮絶に色っぽい顔をあの人にも見せてたのかー。悔しいなー」

「おい」

「これからは、絶対に他の人に見せちゃだめだよ」

 駄々をこねるように鼻先をぐりぐりと頭に押し付けられて、雅巳は思わず苦笑した。

「莫迦」

 莫迦は、こんなことを言われて舞い上がっている自分の方かもしれない。

「なあ……紘暉」

 シーツの上をずり上がって、開けっぱなしになっている先ほどの抽斗の中を探る。

「今まで誰にも頼んだことないこと、お願いしていいかな」

「いいよ。もちろん」

 虚を突かれたような紘暉の手を取って、その掌の上に、作ったきりしまい込んでいた合鍵を乗せた。

「これ、持ってて」

 きょとんとしていた紘暉の目が、その意味を悟って大きく見開かれる。

「いいの?」

「うん。いつでも来てくれて構わない。仕事が遅い日は待たせちゃうかもしれないけど」

「何時でも待ってるよ」

 仕事で疲れて帰ってきたこの部屋に紘暉が待っていてくれるところを想像しただけで、雅巳の心が日向のような温もりに包まれる。

「俺が早い日は、メシ作って待ってるよ」

 紘暉の首に両腕を巻きつけて引き寄せる。

「家飲みして、テレビ見たり音楽聴いたりしようぜ。一緒に休める日は映画でも観に行って、あのカフェでコーヒー飲んで」

 言いながら、その内容のあまりのほほえましさに自分で笑ってしまう。

「何笑ってんの」

「や、莫迦みたいだろ。でも俺、そんな莫迦みたいに些細なことで、でも紘暉と一緒にしたいことが山のようにある」

「うん」

 紘暉がくすぐったそうに笑う。汗で濡れた雅巳の髪を、その長い指がそっと掻き上げる。

「俺もだよ。でも、その前に」

「ん?」

 額に優しいキスが落ちてくる。

「……もいっかい、しない?」

 腰を引き寄せられて、甘えるように言われる。

「うん。どうやらそれが最優先事項だな」

 今度こそ雅巳は心の底から笑うと、自分のただ一人の恋人の顔を引き寄せて、唇を重ねた。

 

 

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