星晴れの島唄


〈第二章〉

星空の隔たり


 ターミナルビルの外に出て駐車場に向かう途中で、雨脚が一気に強くなった。急いで荷物を後部座席に放り込み、自分たちも前の座席に駆け込んでドアを閉める。早番の仕事を終えて田辺を迎えに空港に向かった時点では、まだ本降りになっていなかったのだが。

「まいった、すごい土砂降りだなあ」

 助手席で傘を畳みながら田辺が言う。弱ったようなことを言いながら、その声に面白がっている響きがある。

「篤志さん、雨男なんじゃない。前回も台風呼び寄せちゃって」

 鞄から手ぬぐいを取り出して田辺に渡しながら、高森もからかうような口調で返した。

「おかしいな、これまで取材ではあまり困ったことがないんだけど」

「じゃあ、俺との相性が悪いのかな」

 冬の石垣島は概ね天気がよくない。雨が降らなくてもどんよりと曇った日が続いて、時折北風が強く吹くと、上着がないとつらい気温になる。とはいえ、ここまで激しく降るのは珍しい。

「冗談でもそんなこと言わないでくれよ」

 田辺が大げさに溜息をついて、がっくりと肩を落とす。

「でも俺、悪天候が好きになりそう」

 そう言って笑うと、ふいに肩に手を置かれて、唇を素早く塞がれた。

「んっ」

 田辺はそのまま高森の肩を抱き寄せて、さらに深く唇を合わせてくる。熱くて甘い、情熱的なキス。

 一瞬で、とろけそうになる。

「もうっ…」

 ようやく解放されると、窓の外に素早く視線を走らせた。近くに人影はなく、ちょっとほっとする。十二月にもなると石垣島でも六時には日は沈むので、既に辺りは暗い。その上この土砂降りで、たとえ人が外にいても、車内の様子は見えにくいだろうが、それでも。

「透、会いたかった」

 でも、こんな優しい目で田辺に笑いかけられると、もうそんなこともどうでもいいような気になってしまう。

 メールや電話でのやり取りはしていたが、こうして実際に顔を見て相手に触れるのは、あのとき以来三カ月ぶりだ。様々な感情がこみ上げてきそうになって、高森は急いで顔をフロントグラスの方に向け直した。

「…俺だって」

 声に出さずにつぶやく。

 会いたかった。毎日、三線に触れるたびに田辺を想った。その笑顔を、手のぬくもりを、身体の熱さを思い出して、傍にいてほしいと願いながら歌った。自分の歌を聴いて泣いたという人のために。

 その人が本当に、また自分に会いに石垣島まで来てくれるなんて、なんだか都合のいい夢に騙されているみたいで、少し怖くなる。

 十二月二十二日の夜から三泊ほどこちらに来られると連絡をもらったのは、先月の半ばのことだった。それから今日までカレンダーの日付が一日進むたびに、待ちきれないような、それでいて今日になるのが怖いような気持ちで過ごしてきた。

「うちまで直行しちゃっていいかな」

「うん、よろしく」

 滞在中は自分の家に泊まってほしい、と申し出たのは高森の方だった。限られた時間を、一分でも長く一緒に過ごしたかったのだ。

 慣れた道とはいえ、左手をずっと田辺に握られながらの運転は、さすがにやりにくかった。それでも、絡めた指をほどきたくなくて、カーブでも無理やり片手でハンドルを回した。土砂降りだった雨は多少弱まったが、構わずにワイパーを最速に入れっぱなしにしていたら、田辺が手を伸ばして緩めてくれた。

「着いたよ」

「ありがとう。お邪魔します」

 スーツケースを手に玄関の戸をくぐりながら、田辺は律義に頭を下げた。ちょっと日本人離れして背が高い。手足も長く、肩幅が広く、腰は引き締まっていて、スポーツ選手のような体つきだ。ライターという職業を言ったら驚かれるのではないだろうか。実際、高森も最初に名刺をもらったときは、体育会系の容姿とのギャップを意外に思った。

「どうしたの」

 思わず見とれていると、ひょいと顔を覗きこまれた。

「なんでもない…あ、荷物、部屋まで持っていくよね」

 二階の、自分の部屋の向かいの和室に案内する。滅多にないが、人が泊まりに来たりしたときに使う予備の部屋だ。

「布団類は、ここに入っているから…」

 押し入れを開けようとしたところを、いきなり後ろから抱きすくめられた。

「透」

 耳の後ろの至近距離から田辺の声がする。深く落ち着いた、低い声。その声で名前を呼ばれるだけで、鼓動が速くなる。

「俺は、この部屋で独りで寝かされるのか?」

「えっ…と」

 考えなかったわけじゃない。でもまさか、最初から狭い自分のベッドで抱き合って寝ることを前提に、客人を案内するわけにもいかないではないか。

 火照った耳朶の裏にキスが降りてくる。くすぐったさと照れくささとが入り混じって、肌を重ねたときの記憶がよみがえる。

 この人は、本当に戻ってきてくれたのだ。そう思ったら、そわそわとしていた気持ちがすとん、と落ち着いた。

「先に、ごはん食べようよ」

「…何より『先に』?」

「莫迦」

 シャツの裾から忍び込んでこようとする手を軽くはたくと、くすくすと笑っている田辺を放っておいて、高森は足早に階下へと降りて行った。


 充分に眠ったはずなのに、目覚めはすっきりしなかった。盛大にあくびをしながら台所で湯をわかす。今日は遅番なので、ゆっくりコーヒーでも飲んでから行こう。

「あ、篤志さん起きた?」

 まだ眠たそうな顔で、田辺がのそりと台所に入ってきた。短く切った、つんつんと硬そうな髪に少し寝癖がついている。

「うん…おはよう」

「よく眠れたかな」

 ペーパーフィルターにコーヒーの粉をスプーンですくって入れ、田辺の方に向き直った。ひどくばつの悪そうな顔をしている。

「その、昨日は悪かった」

「疲れてたんだね。コーヒー淹れるからちょっと待ってて」

「透」

「朝ごはん、トーストと目玉焼きでいいかな」

 冷蔵庫に伸ばした腕を大きな手に捕まえられ、次の瞬間、田辺の広い胸の中に抱きとめられていた。

「先に寝ちゃって、ごめんな」

「…別に、謝ることじゃないだろ」

 拗ねたような口調にならないよう、苦労する。

 昨夜、高森が用意した簡単な食事を食べながらビールを飲むと、田辺は電源が落ちたみたいに、ぱたりと眠ってしまったのだ。和室まで連れて行って着替えさせるのが一苦労だった。

「ここ数日、まともに寝てなかったんだ」

 高森の癖っ毛に鼻先を擦り付けるようにしながら言う声が、まだ眠そうだ。

「そうなんだ…ありがとう」

 広い背中に両手を回す。怪訝そうな表情でこちらを見た田辺に、笑いかける。

「だって、こっちに来るために無理してくれたんでしょ」

 仕事が忙しそうだという気配は、今月に入ってからずっと、メールや電話の感じで察していた。だが、睡眠時間を削るほどだったとは。

 そこまでして仕事を調整して、年末のこの忙しい時期に石垣島まで来てくれたというのに、昨夜、なんだか裏切られたような気分で一人ベッドで寝返りを繰り返していた自分が、恥ずかしかった。

「透に会うためなら、こんなの無理でも何でもない」

 顎に指をかけられ、上を向かされる。田辺の少し赤くなっている目と視線が合う。促すように頬を撫でられて、目を閉じた。

 そのとき。

「透、いるかー」

 リビングの方から声がして、二人は飛び上がった。弾かれたように身体を離す。しまった。隣家に面した庭側の掃出し窓には普段鍵をかける習慣がないので、昨夜からついそのままにしてしまっていた。

「あ、真哉さん…おはよう。こっち来てたんだね」

 勝手知ったる様子でリビングを突っ切ってくる隣の家の三男に、そ知らぬ顔で挨拶をする。抱き合っているところは目撃されていないはずだ。

「留守電入れておいただろう」

 明るい茶色に染めて、ゆるくウェーブをかけた長い髪が顔に落ちかかるのを、面倒そうにかき上げながら真哉が言う。そういえばそうだった。二十一日か二十二日に石垣島に戻って実家に顔を出す、と一週間ほど前にメッセージが入っていたのだ。

「出勤前にお前を捕まえようと思って来たんだ。ちょっと話がある」

「真哉さん、実は、今友達が泊まりに来てて…」

 台所の奥から様子をうかがっていた田辺が、歩み寄って頭を下げる。

「どうもはじめまして、田辺篤志と申します。休みでこちらに来て、ちょっと透君の家にご厄介になってます」

「…真栄里真哉(まえざとしんや)です」

 差し出された手をおざなりに握り返しながら、真哉は眉をしかめて、田辺の頭からつま先まで胡散臭げに視線を走らせる。だが、田辺はそんな無遠慮な様子には気付いたそぶりも見せずに、穏やかな表情で首を傾げた。

「今度インタビューする相手とこんなところでお会いできるとは思いませんでした」

「え。篤志さん、そんな仕事が入ってたの?」

「うん。あ、来年二月の真栄里さんの東京でのライブを取材させていただく予定の者です。ちょうどいいや、今名刺持ってきます」

 そう言って、田辺は階段を上がっていった。

「…誰だあいつは」

 真哉はそう言うと、不機嫌そうな顔で、田辺が消えて行った階段の方を睨む。

「今名刺持ってくるって言ってただろ」

 わざと突き放すような言い方をした。

「そうじゃなくて、なんであんな奴を家に泊めてるんだ」

 一回り年少の高森に対して、頭を上から押さえつけるかのような、こういう真哉のものの言い方は昔から少しも変わらない。

「よく知りもしないのに、人の友達を『あんな奴』呼ばわりしないでよ」

「『友達』ねえ」

 苦々しい口調に込められた皮肉に、さっと頬が赤らむ。

「それより、話って何」

 わざとらしく壁の時計に視線をやりながら言う。我ながら嫌な態度だ。せっかく久しぶりに会えたのだから、本当はこんな風に喧嘩腰で話をしたりしたくはなかったのだが、気持ちがささくれてしまって、真哉の態度を上手く受け流すことができない。

 田辺との時間を邪魔された。そんな風に考えて、むくれている自分の子供っぽさに、何より腹が立つ。

「お前、朝飯まだなんだろ。食ってる間に話す」

 一方の真哉はそんなことを言うと、高森の返答も待たずに、さっさとリビングに腰を落ち着けてしまった。

 階段を、田辺が降りてくる足音がする。高森は諦めて溜息をつくと、朝食の支度を再開した。


 真哉の話というのは思いもよらぬものだった。

「『アガスティーア』ってバンド、知ってるだろ」

 リビングのテーブルで簡単な朝食を摂る二人の前に、真哉は脚を崩して座っている。

「うん、最近人気出てきたよね」

 真栄里真哉は、ミュージシャンだ。というか、れっきとした八重山民謡の唄者である。まだ三十六だが、歌も三線も、その腕前は民謡界の重鎮がお墨付きを与えるほどの実力だ。加えて「王子系」と称される華やかなルックスで、最近では沖縄県内だけでなく内地でも人気が出てきている。特に東京や大阪などの大都市圏の沖縄ファンの間では、その知名度は群を抜いていて、何のアレンジもしていない本格的な民謡ばかり集めたCDも、かなり売れ行きがいいようだ。

 こう見えて後輩の面倒見はよく、民謡歌手だけでなく、インディーズ系の若手ミュージシャンにも慕われている。「アガスティーア」もそんなバンドのひとつだ。オルタナティブ・ロックというのだろうか、無国籍なサウンドに、どこか達観したような乾いた歌詞を乗せたスタイルは、高森も結構気に入っていた。

「うん。ただ、バンドとは別に、ギターのコウキが新しいユニットを始めたがっているんだ。それに唄三線を入れたいらしくて、俺に誰かいないかって相談してきた」

 そこまで言うと、高森が淹れたコーヒーを一口飲んで、にやりと笑った。

「で、お前を推薦しておいた」

「はあ?」

 口に運びかけたトーストを取り落しそうになる。

「民謡の基礎がしっかりしてる若手で、声も三線の腕もよくて、当然見た目もいいに越したことはない、なんて贅沢言いやがるからな、アマチュアでもいいのかって確認したら、腕さえよければ実績は問わないんだと」

「あのね真哉さん、俺バンド活動とか興味ないから」

「お前の声は、単独では弱い」

 日頃気にしていることをずばりと言われて、ぐっと反論を呑み込む。

「歌も三線も悪くない。でもインパクトが足りない。せっかくいいものを持っているんだ、それをより生かせる方向を探ってみるのも悪くないだろう」

「…師匠がいい顔しないよ」

 相手の言い分に理があるのを認めたくなくて、反撃の方向を変えた。だが、真哉は動じない。

「そっちには俺がきっちり話を通す。これも修行のうちだ」

 師匠の顔をちらりと思い浮かべた。自分が頼んでも絶対に無理だろうと思うが、真哉が正面から切り込んで談判すれば、苦虫を噛み潰したような顔で、でもおそらく最後は頷くのだろう。

「篤志さん、コーヒーおかわりいる」

 ポットを手に、黙って朝食を食べていた田辺のマグカップを覗き込む。

「ん、ああ、ありがとう」

「真哉さん、俺、もうそろそろ出ないといけないから」

「ま、それほど急ぐ話じゃないようだからゆっくり考えろ。あとこれ」

 真哉は立ち上がると、ポケットから封筒を出してテーブルの上に置いた。開けてみると、アガスティーアのライブのチケットだった。石垣市内のライブハウスで、明日の日付のものが二枚。

「断わるにせよ受けるにせよ、コウキの生演奏を一度聴いてみてからにしてやってくれ。時間があるなら楽屋にも顔を出すといい。名前は通しておく」

 そして、空になった自分のコーヒーカップを台所まで持って行きがてら、何か企んでいるような顔でこちらを振り向いた。

「クリスマスイブだし、デート代が浮くだろ」

 にやりと笑って、意味ありげにリビングの田辺の方に目をやる。

「そんな相手いないよ。知ってるくせに」

 むきになって否定すると、真哉はわざとらしく肩をすくめた。

「相変らず、適当な相手と遊んでんのか」

 つい、かっとなった。

「いい加減にしろよ。俺、仕事なんだって」

 本当は、真哉は自分のことを心配してそう言ってくれているのがわかっていた。だが、よりによって田辺の前で、そんな言い方をしなくてもいいのに。

 真哉を強引に庭の方から送り出す。窓に鍵を下ろして振り向くと、いつの間にか真後ろに田辺が立っていた。

「…朝からうるさくてごめんね」

「行っちゃったかな?」

 首を伸ばして庭の先を眺め、もう真哉の姿が見えないことを確認すると、窓に手をついて高森の顔を見下ろしてくる。

「真哉さん、普段はあんなに失礼な人じゃないんだけどさ」

 目を伏せて言い訳めいた口調で言うと、田辺は「気にしてないよ」と笑った。

「真栄里さん、いい人だな。口は悪いけど、透のことを大事に思っているのがわかるよ」

 そっと目を上げると、田辺は真剣な目つきをしている。

「でも、正直に言う。仲がよさそうで、ちょっと妬けた」

「そんなんじゃないよ」

 慌てて否定すると、心配そうだった田辺の表情が柔らかくほどけた。

「ところで、クリスマスイブにデートするような相手がいない、ってのは本当?」

 高森の顔の両側に手をついて、端正な顔をじわりと近づけてくる。

「本当だよ。去年まではね」

 いたずらっぽく言い返した唇を、優しく塞がれた。お預けになっていたキスを、しばし夢中で味わう。

「あ、やばい。俺本当に、もう行く支度しなきゃ」

 壁の時計が目に入って、慌てて身体を離す。

「篤志さんも出る?ついでに、車で中心街まで送るよ」

「うん、そうしてもらうか。あ、それから後でショップまで行くから、よろしく」

「はーい。ご購入ありがとうございます」

 慌ただしく支度をしながら、高森は、先ほどまでとげとげしく沈んでいた心を、ふわりと優しくすくい上げられたような気になっていた。


 田辺は支店に手土産を持って登場した。

「九月の時は本当に助かりました。これ、金沢の和菓子屋の、和三盆のダックワーズです。最近結構評判がいいみたいなんで買ってきました。お店の皆さんで召し上がってください」

「そんな…お気遣いいただき恐縮です」

 他の客には見えないようにしながら、和菓子とは思えないモダンでスタイリッシュなパッケージの箱を手渡された。先輩女性スタッフの歓声が今にも聞こえてきそうだ。

「では早速ですが、ご予約いただいていた新機種がこちらになります」

 窓口で機種変更の手続きを開始する。田辺が使っていたモデルはかなり古いものだったので、スマートフォンに買い替えるにあたっては、契約プランも変更しなくてはならない。田辺のこれまでの携帯電話の使用状況を確認しつつ、最適のプランを選んで説明するのに、意外に時間がかかってしまった。

「アプリのインストールなどについては、こちらに簡単に説明してありますので、ご参照ください」

 初めてスマートフォンを使う人にもわかりやすいように、情報を整理してまとめた店舗のオリジナルの小冊子を手渡す。職場で、高森が中心になって作ったものだ。

「どうもありがとう。まあ、細かい使い方については、身近に詳しい人がいるので後で聞いてみます」

 田辺がにっこりと笑う。一拍置いて、それが自分のことらしいと気付いた。思わず頬が緩む。

「では、この内容でお手続きをさせていただきます。お待たせしてしまって申し訳ありませんが、もう少々お待ちください」

 一瞬で仕事用の顔に戻って、立ち上がった。だらしなくにやけている顔を同僚に見せるわけにはいかない。

「今日の午後は、これ以外に大事な用事はないので、時間がかかっても大丈夫ですよ」

 思いがけないほど長く窓口に引き止めてしまったのに、田辺はのんびりとした口調でそんなことを言う。書類のコピーを取りながら、「大事な用事」という言葉の残響を味わう。面倒な契約変更の手続きを、わざわざこの店舗まで来てやっているのは、祝日でも仕事を休めない高森と、少しでも長く一緒に過ごせるように配慮してくれたのだろうか。

 そっと振り返って、渡した小冊子をぱらぱらとめくっている田辺の顔を盗み見た。

「お待たせしました」

 書類を手に窓口に戻る。契約内容を再度確認し、書類を封筒に入れて手渡した。

「それから、こちらもご確認ください」

 もう一つ別の封筒を出して、田辺にそっと手渡す。普段店舗で使っている封筒ではない。首を傾げる田辺を促して、中を開けさせた。

 入っていたのは、今朝真哉から渡されたライブのチケットだった。明日、夜七時半開演。

「あ…承知しました」

 チケットを見た田辺はそう言って、こっそりと高森に片目をつぶってみせた。こんな些細なやりとりにも、鈴を振られたみたいに胸が高鳴る。

「どうもありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をして田辺を送り出すと、急いで持ち場に戻った。今日は祝日なので店は忙しい。慌ただしく次の接客に移る。若い女性と、その母親らしき年配の女性の二人連れだ。

「クリスマスプレゼントに、母の携帯を新調したいんですけど」

「それは素敵ですね」

 にこやかに応対しながら、内心でぎくりとする。

 クリスマスプレゼント。そうなのだ。ここ数週間、ずっとそれで頭を悩ませていた。

 そもそも、自分が田辺に何かプレゼントをしていいのかどうかもわからなかった。恋人や家族なら、何か特別な贈り物をし合うだろう。友達同士でも、相手の気持ちの負担にならない気楽なプレゼントを交換するかもしれない。だが、自分は田辺の何に該当するのだろう。

 この三カ月、メールでやりとりをしていても、電話で声を聴いても、いつもどこかでそれを考えていた。

 自分はあれからも毎日のように田辺のことを考えていたけれど、田辺の方はどうだっただろうか。取材先で台風に遭ったのと同じような、ちょっと珍しい体験だった、くらいにしか思っていないのではないだろうか。

 客観的に見れば、相手の出張中に偶然出会って少し親しくなって、勢いで身体の関係を持った、というだけの間柄だ。田辺はゲイというわけではなさそうだし、親しい間柄の女性がいてもおかしくない。あの日高森と抱き合ったのはただの気紛れで、今後は「普通の知り合い」で通したいと思っているかもしれない。ずっと、そんなことばかり考えていた。

 だが、再会した田辺は、まるで長いこと会えずにいた恋人のように、自分に熱い視線を注ぎ、優しく触れ、キスをしてくる。不安が大きかった分、その嬉しい驚きとの落差は、高森にめまいのような気分を起こさせた。

 何か、特別な人に贈るようなプレゼントを用意してもいいのだろうか。だが、そこでまた、はたと困り果ててしまうのだ。田辺に、何を贈れば喜んでもらえるだろう。

 余計なものは持たず、服も持ち物も気に入ったものを長く使うタイプのようだ。身に着けているものはどれも、贅沢でも華美でもないが、彼によく似合っている。センスがいいのだ。高森に買えるものは、それらと比べると価格も品質もひどく幼稚なものになってしまいそうだ。

 田辺は、背伸びして遊び慣れた風を装っていた自分が滑稽に思えてくるほど、本物の大人だった。真哉の失礼な態度に腹も立てず、彼の本質的な愛情深さをすぐに察するところや、三カ月ぶりに再訪する店舗に洒落た手土産を持参する気遣いも。そんな相手に、一体どんなものを選べばいいのだ。

 考えると途方に暮れてしまう。そして、自分が彼には不釣り合いなほど子供に思えて、哀しくなってくるのだった。


 仕事を終えると、飛び出すように店を出た。田辺とは近くのハンバーガーショップで待ち合わせていた。ファストフードではなく、アメリカンスタイルの手作りのハンバーガーを出す店だ。観光客にも人気で、夜は地元の客が少ない。男二人連れでもさほど目立たないだろう。

 店に入ると、カウンター席で頬杖をついてメニューを検分している田辺の姿が目に入った。並はずれて背が高く、手足が長く、しかも男らしく精悍な顔立ちなので、どこにいても人目を引く。九月にショップに何度か来ていた頃から、スタッフの間でも「あのイケメンのお客さん」と評判になっていた。

 入口で立ち止まっている高森に気付いて、田辺が手を振った。途端に、心臓が走り出す。なるべく何でもない顔をして、ゆっくりと席に向かう。

「遅くなってごめん」

 隣に座ると、くしゃりと髪を撫でられた。そんな親しげな仕草がたまらなく嬉しいのに、カウンターの中の女性店員の視線がこちらに向くのを、過剰に意識してしまう。

「つい今しがた来たとこ。お仕事お疲れさん」

「あ、今日はありがとう」

「こちらこそ。というか、まだ色々と教えてもらわないとだ」

 スタンダードなハンバーガーと、フライドポテトと、ノンアルコールビールを頼んで、しばらく田辺の新しいスマートフォンをいじる。田辺は「こんなに色々と機能があっても、結局使いこなせないよな」などと言いながらも、高森の説明を聞いてアプリをあれこれ試していた。自分でも役に立てることがあるのが嬉しい。

 カメラアプリを調整しながら、楽しそうに料理の写真を撮っている田辺に声をかけた。

「うちに帰る前に、ちょっと寄り道しようか」

 ん?という顔でこちらを見る、田辺のこの表情が好きだと思う。眉を上げて、ちょっと首を伸ばして。そして、高森から視線を離さずに、次の一言を待ってくれる。

「空、晴れたみたいだし」

 午前中は雲が残っていたのだが、午後になって日差しが出てきた。先ほど店を出るときに見上げたら、星がよく見えた。

 車で市街地を抜けて、海沿いを北に向かう。途中で田辺も行先に気付いたようだ。

 三十分ほど走って林道に入ると、辺りにはまったく灯りがなくなる。ライトをハイビームにして慎重に登って行き、展望台に上がっていくスロープの脇で車を止めた。

「月がないから、星が綺麗だ」

 窓を開けて空を見上げながら、田辺が言う。高森は、いつも持ち歩いている三線を後部座席から引っ張り出した。

 田辺に喜んでもらえるものなんて、歌以外に思いつかない。

 スロープをゆっくりと登っていく。東屋に着くと、ベンチに腰を下ろして三線を膝に構え、調弦を始める。

「月夜じゃないけど、月の歌を歌ってもいい?」

「もちろん」

 自分から言い出したのに、少し緊張する。技術だけでなく、気力も体力も必要な難曲なのだ。高森は呼吸を整えると、闇に身を浸して、静かに歌い出した。

――つぃくぃぬ まぴろーまや

 手すりから身を乗り出して、広い空に散らばった星を眺めていた田辺が、振り向いた。

――やんさすーぬ まへり

 満月が煌々と照らす浜を思い浮かべる。そこを歩いている。恋焦がれる相手を一目見ようと浜を急ぐ。あの人にどうか会わせてくれ、と祈る。

――ゆるぬまゆなかや はいへー みやらびぬ すーとぅぎぃ はいへー

 抑えた表現をしようと思いながら、どうしても絶唱になる。何かが取り憑いたようにならないと、この歌は歌えない。だが、どこか冷静な自分も保っていないと歌にならない。ぎりぎりの綱渡りをしながら何とか歌いきって、ふう、と大きく息をついた。

「…すごいね」

 溜息のような田辺の声。

「この空に満月が高く浮かんだら、本当に真っ昼間みたいに明るくなるんだろうな。歌を聴きながら想像しただけで鳥肌が立った」

「篤志さん…どうしてわかったの」

 歌の説明は何もしなかったのに。

 田辺が得意そうな声で言う。

「『月ぬまぴろーま』だろ。三カ月間、八重山民謡聴きまくったんだぞ。真栄里真哉のアルバムにはかなりお世話になった」

 そうだったのか。

 想いを寄せる相手に会いたいと月に願をかけ、最後は「会えないなら自ら命を絶つ」と物狂いのように歌い上げるこの歌の内容も、わかって聴いてくれていたのか。

 三線を置いて立ち上がり、田辺の隣に並んで腰を下ろした。暗くて互いの顔がよく見えないことに、今は少しだけほっとする。

「この歌、篤志さんに会えない間は歌わないようにしていたんだ」

 暗闇に溶け込ませるように、慎重に言葉を紡ぎ出す。

「こういう歌を歌うときは、自分の心をありったけ、全部、注いでしまうんだ。未熟だと思うけど、そうでもしないと俺の器では歌の大きさを受け止めきれない」

 身も心もすべて捧げて、それでようやく、何とか歌になるのだ。

「でも、だから…この歌は、歌いたくなかった。なんだか、自分を持って行かれそうで」

 愛しい人に会えなければ死んでやる、なんて、怖くて歌えなかった。そのまま歌に飲み込まれて、本当に二度と田辺に会えなくなってしまいそうな気がした。

「透」

 細かく震えている手に、田辺の大きな手が重ねられる。

「歌ってくれて、ありがとう」

 田辺の囁きが、夜を、星明りを、高森の心を、震わせる。

「本当に、会いたかった。信じてもらえないかもしれないけど、あの日からずっと、俺は透に会いたくて会いたくて、おかしくなりそうだった」

 重ねられた手を強く握る。それ以上の力で握り返される。

「信じるよ」

 どんな言葉も、歌も、行為も、結局は想いの一部しか伝えられない。だからこそ、おろそかにせず、すべて注ぎ込む。自分のありったけ。


 家に戻る車の中で思い切って訊いてみると、意外な答えが返ってきた。

「プレゼント、かあ…じゃあ、透の写真を撮らせてもらえるかな」

「写真?」

「うん。三線弾いているところ」

 運転をしながら「そんなんでいいの」と確認する。

「もちろん。そうだ、今日買ったこの新しい端末で撮ってみよう」

 プロ仕様の大仰なカメラで撮影されるのでは照れくさくて困ると思っていたのだが、携帯で撮られるのならば、高森も気が楽だった。

「篤志さんなら、実物以上にかっこよく撮ってくれそうだな」

「ありのままの美形に撮るよ。それで待ち受け画面にして、知り合いに俺の想い人だって言いふらしてやる」

 タイヤが鋭い悲鳴を上げた。暗いカーブで危うくハンドルを切り損ねるところだった。慌ててブレーキを踏んで速度を落とす。交通量の少ないところで助かった。

「おいおい大丈夫か」

「あ、篤志さんが変なこと言うから!」

 想い人、って。言いふらす、って。頭の中で言葉が反響して、心臓をばくばく言わせている。

「そういうの、だめか」

「だめ」

 と反射的に言いかけて、田辺の口調が真剣だったことに気付く。高森をからかうために言っているわけではないらしい。

「…じゃ、ないけど」

 田辺は、口ごもった先は問い詰めず、黙ってぽんぽん、と高森の頭を叩いた。

 事故を起こさないように、つい助手席へと向いてしまう意識を一生懸命運転に集中させて、なんとか無事に家まで辿り着く。

 リビングの座布団に座って、田辺の求めのままに三線を構えた。ポーズをとる、というのではなく、ごく自然に話をしながら爪弾いていると、田辺は時折思い出したように、今日買ったばかりのスマートフォンを操作してシャッターを切る。

「そういえばさ、九月にあの展望台で、二晩目に歌ってたのって、何だった?」

 シャッターを模した電子音も、そんな話をしながらだと気にならない。

「ああ、あれは『つぃんだら節』」

「そうか、やっぱり。強制移住で別れ別れになった幼馴染の恋人の歌だよな」

 本当に、あれから相当に民謡を聴き込んでいたらしい。自分の好きな音楽に田辺も興味を持ってくれたことが嬉しくなる。

「そう。歌の舞台が、あの展望台の近くなんだ。だから、あそこに行くと歌いたくなる。哀しい歌だけどね」

「あの展望台、よく行くの?」

「ときどき。あそこから見る星空が好きで、あそこで歌うと落ち着くんだ」

 ふいに、普段は忘れたふりをしている記憶がよみがえった。

 展望台の手すりにもたれて、身動きもせずに夜空を眺めている自分。その背後に、自分よりも少しだけ背の高い影。

 自分をこの島へ連れてきた人。この星空を教えてくれた人。そして、ここには留まらなかった人。

 ぱしゃり、と、また電子音がして、高森は我に返った。

「透は、ときどき不思議な表情をするなあ」

 撮った写真を確認しながら、田辺がそんなことを言う。

「不思議って、どんな」

 今考えていたことが顔に出ただろうかと不安になりながら、田辺の手元の画面を覗き込んだ。そこには、三線を手にぼんやりした表情をしている自分が写っている。

「…締まらない顔」

 そう言って口をとがらせると、田辺が吹き出した。

「可愛いのに」

「男が可愛いって、おかしいだろ」

 田辺が軽く腰を上げた。と、その広い胸の中に、すっぽりと背中を抱え込まれる。田辺は高森の肩に顎を乗せて、手元の端末の画面を一緒に覗き込んだ。

「俺は、透が可愛くて仕方がない」

 成人男子が、可愛いなんて言われて喜んでいる場合ではないと思うのだが、田辺のその言い方は、高森の心の弱いところを温かくくすぐってくる。

「だから本当は、写真なんかじゃなくて丸ごと連れて帰りたいんだ」

 静かな水面に滴を落とすようなつぶやきだった。

「透の色々な表情が見たい。三線を弾く音も歌う声も聴きたい。哀しい歌に心を持って行かれそうになったら、俺のところに引き止めたい」

 温かな言葉が高森の中に流れ込んでくる。傷やへこみを埋めるように、身体を、心を、くまなく満たしていく。

「ずっと、傍にいたいんだ。でも」

 背後から両腕を回されて、しっかりと抱きしめられる。

「ここから、透を引き離すわけにはいかないしな。ああ、俺はこの島に嫉妬しそうだ」

 そんなことを言って溜息をつく。高森は身体を無理矢理ねじって後ろを向いた。

「いい歳してこんな駄々をこねて、困ったおっさんだろ」

 目が合って自嘲気味に笑うので、高森は小さくかぶりを振った。

「ううん。篤志さん、可愛い」

「…おいこら。意趣返しか」

「本心だよ」

 照れているのだろうか、困ったような表情をしている田辺の頬に、自分の鼻を摺り寄せた。

 この人からなら、どんなわがままを言われても嬉しいだろう。


 誰かの心臓の鼓動をこれほど近くで聴いたことがあるだろうか、と、田辺の腕の中に包まれながら思う。

 遊び相手と戯れに身体を重ねることはあっても、こんな風に、誰かの胸の中にしっかりと抱き込まれることなんて、一度もなかった気がする。

 辛うじて記憶にあるかどうかという幼い頃に、父親の腕に抱かれたことがあるくらいだ。だが今の自分は、一方的に愛情を注がれ慈しまれるだけでなく、愛おしいと思う相手を抱きしめることができる。

 身体を起こして、投げ出されるように広げられた田辺の両脚の間に膝をつく。そして、その頭をそっと胸の中に抱え込んだ。今はこの人を独り占めしてもいいんだ、という想いが、高森の胸を甘く潤していく。

 出会ってから、一緒に過ごした時間はほんのわずかだというのに、なぜこの人といるとこんなに心が温かくなるのだろう。

「透も、俺がいなくて寂しいって思ってくれたんだな。なんか嬉しかった」

 高森が引き寄せるままにその胸に顔を埋めながら、田辺が意外なことを言う。

「え」

「正直なところ、さっき透の歌を聴くまで、透が本当に俺に会いたいと思ってくれてたかどうか、自信がなかったんだ」

 腕の中で田辺が伏せていた顔を上げる。高森は改めて、田辺の顔を上からじっと見下ろした。

 短い、黒い髪。広い額。右眉の端を横切るように古傷があるのは、子供の頃の怪我の跡だろうか。切れ長の目が、自分の撮った写真を確認するときなど、時に怖いくらい真剣になるのを高森は知っている。でも、今はあくまでも柔和な光をたたえて、高森の顔をまぶしそうに見上げている。

 鼻筋はまっすぐ通り、朝剃った髭が、頬と口の周りにうっすらと浮き始めている。それがかえって、大きめの口を官能的に見せている。

「俺が石垣に行きたい、って言っても『忙しいときに無理しなくていい』なんて、暗に遠ざけるみたいな返事だしさ」

「違うんだ、あれは」

 急いで否定しようとすると、「わかってる」と優しい笑顔を返される。

 田辺が、自分と同じように不安を感じていたなんて、高森は想像もしていなかった。

「…俺もずっと、篤志さんに会いたいって思ってたよ。本当に」

 ずっと、傍にいてほしかった。離れていることが不安で胸が押しつぶされそうになった。でも、そんなことを言ったら田辺に重荷と思われてしまいそうで怖かった。自分の想いでこの人を縛るようなことはしたくない。

 送ってもらった、田辺が書いた北海道の記事の文章は、過剰に情緒的な部分は一つもないのに、一度も訪れたことのない場所にも不思議な親しみを感じさせた。ここをなるべく離れたくないと思っている高森さえ、旅に出たいと思わせるような文章だった。こういう文章は、旅行が好きな人でなければ書けないのだろうと思った。たとえば自分の父親のような。

 高森は自らの意志でここに留まっている。だから、ここに留まらない人の意志も尊重したかった。つまらない意地かもしれないが、せめてそこは対等なつもりでいたかった。

「でも透も、俺が『また来る』なんて嘘だろうって半分くらい思ってたろ」

 見上げてくる田辺の目が笑っている。それに甘えるように、曖昧に首を傾けた。嘘だとまでは思わなかったが、がっかりするのが怖くて最初から期待しないようにしていた。

「東京から来たスケベなオヤジに騙された、くらいに思ってたんだろ」

「それはないよ」

 思わず笑ってしまう。

「いいんだ、スケベなオヤジの部分は本当だから」

 しれっとそんなことを言って、膝立ちをしている高森の腰に両手を回す。

「あ、ちょっと。どこ触ってんだって」

 元々ノンケらしい田辺が、男の尻なんて撫でて楽しいのだろうか。そんなことを思いつつ、触られている自分の方が反応している。

「こんなことをしてると、また、真栄里さんに乗り込まれるかな」

 庭の方に目をやってそんなことを言いながら、手は止めようとしない。

「真哉さんはいないんじゃないかな。もう、窓の明かりが消えてたから」

 ガレージから玄関に向かう途中で目に入った隣家の様子を思い出す。

「んじゃ、遠慮なく」

 田辺が、唇の端を歪めて人の悪い笑顔を見せる。背筋がぞくりとする。やらしいのにかっこいいなんて、反則だ。

「あ」

 背中側のジーンズと素肌の間に人差し指の先が滑り込んできた。手の動きに反応するたびに、田辺が愉しそうに目を細める。

 シャツのボタンに指がかかる。下からひとつ外されるごとに、みぞおちのあたりが不埒な熱にたわんでいく気がする。唇を噛んで、せり上がってくる波を抑え込もうとするが、上手くいかない。

 溢れ出しそうだ。

 田辺の頭を両手で掴んで上向かせ、その熱を注ぎ込むようにキスをした。唇を割って舌を入れる。自分から求めてもいいのだと思うと、止まらなかった。

「ふ…んんっ…ぅ…」

 唇を合わせたまま、シャツの隙間から腹筋を撫で上げられると、鼻にかかった甘ったるい声が漏れてしまう。

 長い長い口づけから、水面に浮上するように顔を離して息をついた。

 多分、今、ひどく淫らな顔をしている。こちらを見上げてくる田辺の目つきが、熱っぽく変わっていることからもわかる。その視線を絡め取るように見つめ返した。

「…そんな顔をされると、俺は歯止めが利かなくなるぞ」

 そんなもの利かせなくていい。

 それよりも、体内を焼き焦がすようなこの熱に、早く答えを見つけてほしかった。


 自分がそういう性向の人間だという自覚は、思春期を迎える頃から漠然とあった。同級生の女子とは普通に仲良くなれたが、彼女たちに対する恋愛感情はいつまでも芽生えなかった。高森が淡い恋心を抱くのは、決まって年上の男性ばかりだった。

 男に抱かれることを覚えたのは、那覇でIT関係の専門学校に通っていた頃だった。人恋しさもあって、かなり奔放に遊んだ。石垣に戻ってからは、狭い島で変な噂が立つのが怖いので控えめにしているが、それでも田辺と知り合うまでは、時折同類が集まるバーに行って、一晩だけ遊んでくれる相手を探したりしていた。観光客を相手にしたことも、一度や二度ではない。

 だが、これほどまでに強く激しい想いを抱いたのは初めてだ。田辺に出会う前の自分は、一体どうやって生きていたのだろうと不思議になる。

 どうして彼だけがこんなに特別なのだろう。

 元々感じやすい方だが、田辺の手がわずかでも触れると、そこから電流のような快感が走る。唇と舌が伝うところから波紋のように熱が広がって、身体ごと、心を溶かす。服を一枚脱がされるごとに、自分にも正体の知れない急かされるような感覚が、全身を衝き動かす。

「ああっ…あ……んっ」

 ベッドの上で背後から抱きかかえられ、胸の一番敏感なところを両手の指でこりこりと繰り返し刺激されて、身も世もないといったよがり声を上げてしまう。

「気持ちいい?」

 耳を舌先でくすぐられて、反射的に腰が浮く。そんな高森を見ていれば一目瞭然なのに、わざわざ訊いてこなくても、と思いながら、こくこくと小さく頷く。

「ん…いい…」

 囁くように答えると、背中に当たっている田辺のものが、ぎゅっと硬さを増すのが感じられる。

 その硬さに触れようとして手を後ろに回すが、「まだ」と阻まれた。

「今日は、俺にさせて。明日休みだろ。うんと時間をかけて、透を気持ちよくしたい」

 気持ちよく…これ以上?

「ん、んんっ」

 舌が左の肩甲骨の下の窪みを抉るように舐め上げ、そのまま右側へと移動していく。脊椎が穴の開いた笛になって、そこに息を吹き込まれているみたいに、背中がびくびくしっぱなしだ。

「やっ、あ…」

 がくんと後ろに頭を反らせると、無防備になった喉元に、田辺が熱い唇で触れてくる。獲物をしとめる肉食獣のように容赦なく、だがあくまでも傷をつけないように柔らかく、首筋に快楽の種を植え付けていく。

 もっと乱暴にしてくれてもいいのに、と思っている自分がいる。生贄のように田辺に貪られる自分を想像して、底なしの快楽の予感に、ぞくっと身を震わせる。

 そんな高森の内心を見透かしたかのように、田辺は突然身体を入れ替え、高森の腰をぐいと引いた。仰向けに倒され、シーツに肩を押し付けられる。

「あ…そんな」

 膝の間に身体を入れられ、脚を大きく開かされた。薄い毛に囲まれた陰部が丸見えになる。ベッドサイドの読書灯が点っているだけだが、その弱い光の中でも、触れられただけで自分がどれほど感じていたか、一目瞭然だ。

 そこを中心に、田辺の視線が、全身を舐めていく。

 筋肉質で引き締まった田辺の肉体と比べると、自分は手足も胸板も腰周りも貧弱だ。かといって、女の子みたいにふんわりした胸も、柔らかい曲線を描く腰もない。硬く尖った鉛筆のようなこんな身体で田辺を悦ばせられるのだろうか、と、高森は今更ながら不安になる。

 だが、次の瞬間、そんな不安は驚愕に取って代わった。

「えっ…あ、篤志さん…なにっ」

 これまで、そこにだけは指一本触れようとしなかった田辺が、いきなり先端をぱくりと口に咥えたのだ。

 慌てて腰を引こうとするが、逃がさないとばかりにのしかかられる。下手に動かすと、むしろ自分から押し付けるような形になってしまう。

 快感が身体の軸を駆け上っていく。咄嗟に枕を抱え込んで、それを絞るようにきつく握りしめながら、自分を呑み込もうとする波に抗う。

「ふ…ぅ……あ、んんっ…」

 上から下までたっぷりと舐められ、くびれを唇でしごかれ、先を強く吸われる。溢れた滴を、溶けたクリームでも舐めるみたいに舌ですくいとられる。

 フェラチオは好きだ。するのも、されるのも。でも、田辺のそれは、今まで自分が知っていたものとは何かが違う。ゆっくりと、丁寧に、隅々まで舌で辿っていくその仕草は、単に性器に愛撫を加えているというだけでなく、心にも未知の言葉で語りかけてくるかのようだ。

 だから、身体だけで感じているときとは比べ物にならないくらい、泣きそうなくらい、気持ちいい。

「篤志さん、あ、もう…だめ…」

 ぐっと、腰の奥から噴火のような熱がせり上がってくる。

 頭の中が真っ白になりながら、枕に顔を押し当て、くぐもった悲鳴を上げる。そのまま、田辺の口の中に放ってしまった。

「あ…はぁ…ごめ…ん」

 息を整えながら謝ると、田辺が高森の顔の上の枕を取りのけた。確かめるような表情で高森の顔を覗き込んでいる。

「謝るなよ。透だって最初のときに俺にやったくせに」

「だって…」

「俺がしたかったんだ。ご馳走様」

 田辺は、自分の口元から零れた濃い液体を指でぬぐうと、高森に見せつけるように、それをぺろりと舐めた。

 達したばかりなのに、腰の奥がぞくりと疼く。

「…篤志さん、エロい」

 そう言って軽く睨むと、不本意そうな顔を返される。

「透には言われたくないなあ」

 それはそうだろう。自覚はしている。

「褒めてるんだよ」

「わかってる」

 ふ、と田辺の不敵な笑いが漏れる。

「だから言ったろ。スケベオヤジを甘く見るなよ」

 そう言って高森を見るその目が、まだ夜は長いぞ、と告げていた。


 自分で言った通り、田辺はじっくりと時間をかけて、高森の身体を高めていった。

 その言葉で、視線で、指で、舌で、絶えず快楽を注ぎ込む。高森の身体に眠る欲望はひとつ残らず暴かれて、ひとつずつ確かめられていく。

「……ねえ、もう…おね、がい…」

 何度も何度も懇願したが、そのたびに「まだ」と焦らされた。注ぎ込まれたきり出口を与えてもらえない熱で、体内が沸騰しそうだ。

「ひぁ…あ…」

 ようやく、うつ伏せにされて、後ろに硬いものを擦りつけられた。待ち焦がれた刺激に、あられもない声を上げてしまう。

「下手だったらごめん。痛かったら、ちゃんと言って」

 そんな田辺の気遣いが、もはや恨めしいくらいだ。

「そんなの…大丈夫、だから」

 先ほど、田辺の丹念な指遣いでローションをたっぷり塗り込められたばかりだ。既にとろとろに溶かされている。それを見せつけるように、四つん這いになって両肘をつき、自分から腰を高く持ち上げた。

「早く…挿れて」

「ああ、くそっ…透」

 押し殺したような声と共に、後ろの窪みにぐっと圧力が加わった。

「あ、あぁっ」

 濡れた隘路を押し分けるようにして、先端がじわりと沈められる。

「やああっ…」

 挿入の痛みよりも、待ち望んでいたものを与えられた安堵に、切なげな声が漏れてしまう。背がのけ反り、全身に細かい震えが走った。

 だが、その仕草を誤解したのか、田辺の動きがそこで止まった。

「大丈夫か…無理するな」

 ぴんと強張った高森の背中をそっと撫で、田辺は、せっかく途中まで入れたものを一旦抜こうとする。

「だめっ」

 後ろに手を伸ばして、田辺の腕を掴む。

「抜かないで」

 このまま受け入れたい。一番深いところまで。

「透っ…」

 田辺が大きく息をついた。

 硬く引き締まった芯が、そろり、と奥の方に捻じ込まれてくる。きしむような摩擦の奥からじわじわと広がってくる強い快感。その落差が、体中の感覚を狂わせる。

「は…ん…っあ…あぁ……」

 声を上げると、自分の身体が呑み込んでいるものが、さらに硬さと太さを増すのがわかった。

「その…声」

 背中越しに、田辺の体温を感じる。

「透の声が、好きだ」

「う…んっ」

「声だけじゃなくて…」

 丸めた背中の上に広い胸が覆いかぶさってきた。

「とお…る、君が、全部」

 田辺の深い声。耳に熱く吹き込まれる言葉を、のぼせたような頭で聞いている。

「好きだ」

 全身で火花がはじけたみたいになる。

 どうして、田辺に触れられると、こんなにも感じてしまうのか。その答えが、たった一言で明かされる。

「あ、あつ、し…さ…やぁあ」

 背中から田辺の胸が離れて、次の瞬間、奥まで一気に突かれた。と思うと、ずるりと引かれて、再びぐっと差し込まれる。

「ひ、やぁ…ん…あああっ…」

「透、すごい…中、吸いついてくる」

 押し殺した田辺の呻き声に、蜜のような濃厚な甘さが溶け込んでいる。

 指が高森の腰に食い込み、挑みかかるように身体を揺する。荒々しいリズムが理性を麻痺させていく。

「あ、そこっ……」

 一際感じるところに田辺の硬い先が当たって、高森は顔を跳ね上げた。

「どこ?」

 田辺の問いに、自分から腰を動かして、押し付ける。

「ここ……ん、あ、きもち…い」

 背後を振り向く。目が合うと、田辺の官能的な唇がにやりと歪められ、たまらなく色気のある表情になった。

「ここか」

 ぐりっ、と押し付けられる。

「ひあんっ」

 中で前後に動く彼の形がはっきりとわかるくらい、きつく締め付けてしまう。凹凸がなぞるようにそこを往復していくのを、身体中の感覚器が追いかける。

「………っ………」

 瞼の裏に白い炎が散る。幾度も容赦なく攻め立てられるのを、シーツを両手で固く握りしめて、持ちこたえようとする。

「透。こっちもまた、こんなになってる」

「だめぇ」

 前に手を回され、きつく勃ち上がっているものを撫でられて、全身の肌が粟立つ。

「そんなに、いいんだ」

 いいに決まってる。よすぎて、おかしくなる。

「あぁっ、あ……もう、あつし、さん…」

 これ以上このバランスを保っていられない。崖の縁でぎりぎり踏みとどまっている感覚。あと半歩で、落下する。

 いっそもう、突き落としてほしい。

「いって、いいよ」

 包み込むように大きな田辺の手が、張り詰めていた高森の糸を切る。

「…ひ、あ…ああっ」

 身体が、ばねのようにしなった。

 ようやく解放を許された欲望が、どくり、と大きく脈打って弾け、田辺の指の間から白濁がシーツの上に散る。

「ん…は…はぁ……」

 重力を失ったかのような浮遊感が高森をとらえる。絶頂の余韻に、そのまま身体を持っていかれそうだ。

 意識が遠のきそうなほどの快感の中で、必死に田辺の手を探り当てて、自分の指を絡めた。

「…とお、る……んっ…」

 手を握った瞬間、田辺がぶるっと身体を震わせた。身体の奥で、埋め込まれた田辺の熱がはぜるのがわかった。

「あつし、さん」

 今この瞬間を、この人と分かち合っている。その喜びが、行為のもたらす快楽すら凌駕して、高森の心を満たしていく。

 この人の人生を、自分はまだほんのわずかしか知らない。それでも、彼のすべてがこんなにも好きだと思うのは、傲慢だろうか。


 市内で一番大きな書店で聞いてみると、星座早見盤は学習参考書などが置いてある一角にあるということだった。

「そういえば、『アガスティーア』ってカノープスの別名じゃなかったかな」

 今夜行くライブのチケットを見て、田辺がそんなことを言ったのがきっかけだった。

「カノープス?」

「りゅうこつ座の一等星。東京だと地平線ぎりぎりだからまず観測できないけど、沖縄なら季節によっては結構よく見えるんじゃなかったかな」

 田辺は星に詳しい。星の写真は趣味でも時々撮っているらしい。前回あの展望台で撮影したという夜空の写真を見せてもらったが、北極星の周りを巡る星が描く無数の弧がくっきりと映った、見とれるほど美しい一枚だった。

「今の時期は見えるのかな?」

「どうだったかなー。さすがに細かいことは覚えてない」

 というわけで、遅い朝食の後、市内で星座早見盤を入手することになったのだ。

「ああ、あった」

 参考書や教材が並んでいる棚の一番隅に、ようやく星空が丸く切り抜かれた早見盤を見つけた。星の位置を知るだけなら、今はネットで事足りてしまうので、わざわざそんなものを買う客は少ないらしい。

「ちゃんと沖縄版なんだな」

 田辺が手にとって確かめる。

「東京で売ってるのと違うの?」

「見える星が違うんだよ。緯度だけじゃなくて経度もかなり違うから、同じ日時で見える星の位置がずれてくる。那覇とも多少ずれがあるだろうから、正確を期すなら補正表で確かめるしかないな」

「そっか、俺と篤志さん、普段は違う星空を見てるのか」

 東京と石垣は、直線距離で約千九百五十キロ離れている。那覇からだって、ここは四百キロ以上あるのだ。

 時差こそ設定されていないが、日の出、日の入りの時刻だって違う。地球規模の現象で有意に差が出るくらい離れているということだ。思わず溜息をつきそうになる。

「そんな切ないこと言うなよ」

 何の罪もない早見盤を恨めしそうに眺めていると、予想外に近いところで田辺の声がした。

「わ」

 横を向くと、すぐ目の前に田辺の瞳があった。頬が触れそうなほどの距離だ。驚いて、咄嗟に跳びのく。

「あ、キスしそびれた」

「篤志さんっ」

 咎めるように低い声で言いながら、恐るおそる周囲を見回す。誰かに聞かれてやしないかと冷や汗をかく。

「冗談だよ」

 まったく人の気も知らないで、と、そ知らぬ顔の田辺を睨んでしまう。まだ動悸が治まらない。人の目があるところでのこの距離感は、心臓に悪い。

 それとも、東京ではこんなのは普通なんだろうか。男同士が昼間の書店でキスをしていても、都会では、よくある冗談で済まされたりするんだろうか。いや、まさか。

 高森は軽く首を振った。

「これ買ってくるね」

 レジの方へと移動しようとして、本棚をぐるりと回ったときだった。

「あれ、高森君」

「うわあ」

 いきなり声をかけられ、床から跳び上がりそうになった。

「そんなに驚かなくても」

 勤務先のショップの先輩女性スタッフが、呆れたような顔でこちらを見ている。

「すみません、びっくりして…あ、先輩、今日は午後からでしたっけ」

「うん。びっくりしたのはこっちの方よ。高森君、こんなとこで何してんの」

 細いフレームの眼鏡の奥から怪訝そうな目を向けられる。何してる、って。

「本屋で買い物してるように見えませんか…」

「や、ごめんごめん。いや、珍しく高森君がイヴに休みたいなんて言うからさ、今日はデートかなあ、なんて勘ぐっちゃって」

 デート、という一言に心臓がぎゅっと収縮した。背中で、田辺の気配を探る。先輩の目から彼の姿を遮ってしまいたい。でも、自分がそんな風に考えているなんて、田辺には知られたくない。

「でもさ、普段そんな気配も見せないじゃない。実は沖縄に彼女がいて、昨日の夜から会いに行ってたりして、なんて噂してたんだ」

「沖縄って…何ですかその壮大なフィクションは」

 石垣の人は、那覇を含む沖縄本島のことを指して「沖縄」という。自分たちが住んでいるこの島は、たまたま行政区分上沖縄県にくくられているが、あくまでも「八重山諸島の石垣島」だと思っている節がある。

「いやあ、だって高森君ミステリアスだからさ、つい色々と妄想しちゃって」

 悪く思わないでね、と笑いながら、先輩は奥の方の棚へと移動していった。だが、すれ違いざま田辺に小さく会釈をしたときの、ちょっと驚いたような顔つきからも、彼女が田辺の顔を覚えていることは明らかだった。

「…会計してくる」

 田辺と顔を合わせないようにしながら、なるべく平静を装ってそう声をかけた。

「うん、俺はもう少し、こっちの棚を見てるよ」

 田辺は、そんな高森の様子には気付いた風もなく、沖縄県内の出版社が出している本ばかりを集めたコーナーを興味深そうに眺めている。

「じゃ、先に車戻ってる」

 駐車場に戻りながら、まるで悪いことでもしているように、つい周囲の様子を伺ってしまう。今度は職場でどんな噂になるんだろう、と気を揉む。

 石垣島は狭い社会だ。広い空も、明るい太陽も、大らかな人々の気質も、隠し事にはとことん向かない。

 それでも、この島のそんな環境を居心地悪く感じたことはなかった。自分はプライバシーを上手く守れていると思っていた。秘密厳守で住所も電話番号も非公開にしている島のゲイバーに行くのさえ、むしろ非日常を楽しんでいる節があった。

 だがここ数日、そんな島の環境を鬱陶しく感じている自分がいる。田辺と並んで歩きたいと思いながら、他人からどう思われるかが怖くて距離を置いてしまう自分が、急にひどく不甲斐なく思えてくるのだった。


 アガスティーアのライブは盛況だった。さすがに、最近は那覇の比較的大きな会場での単独ライブを成功させるだけのことはある。

「アコースティックの曲が特によかったな」

 その田辺の意見に、高森も同感だった。真哉に相談を持ちかけたというギタリストの腕前は相当なものだった。エレキギターでのソロテクニックにも舌を巻いたが、バラード曲でのアコースティックギターは特に、クールな中にも情感を滲ませるボーカルと絶妙なバランスを保って、胸を打つ演奏だった。

 終了後、田辺に断って楽屋を訪ねた。真哉が話を通しておいてくれたらしく、名前を告げると「ああ」と納得顔で迎え入れられた。

「どうも…高森透です」

 ドアを入って頭を下げると、長髪を後ろで無造作に結んだギタリストが、立ち上がって握手の手を差し伸べてきた。

「伊波航希(いはこうき)です」

 いかにも沖縄の人らしい、くっきりとした目鼻立ち。八重歯を覗かせてにかっ、と笑う表情が悪戯っ子のようだ。年齢は高森より二、三歳は上だろうか。

 楽屋には他のメンバーもいるから、ということで、隣の使っていない控室で話をすることになった。

「せっかくだから今この場で、何か聴かせてもらうことってできますか」

 高森が手にした三線ケースに目をやりながら、伊波が言う。オーディションというほど堅苦しいものではないだろうが、やはり生で聴きたいのだろう。高森は頷いた。

「じゃあ、短めのを」

 取り出した三線を構え、調弦をして、静かに歌い出す。

――なつぃーぱぁなーぬ

 これは、石垣でも白保に縁のある人しか歌わない曲だ。

――ぴとぅむとぅ むーいたーる むみんぱぁなーよ

 白保は芸能の盛んなことで有名な集落だ。全国的に知名度の高い出身歌手も多い。だが流派としては、八重山民謡の中では決して主流ではない。それでも高森は、白保出身の師匠に弟子入りしたことを誇りに思っていたし、何より、この優しい旋律の曲がとても好きだった。

――いーらーよい まーぁぬ むみんぱぁなーよ

 続けて二番までも歌い終え、軽く頭を下げた。

「うん、いいなあ。シンさんから聞いていたとおりだ。こんな透明感のある声の八重山民謡、初めて聴いた」

 伊波の声に顔を上げた。

「『夏花(なつぱな)』だよね。俺、この曲すごく好き」

 伊波が八重歯を覗かせて人懐こい笑顔を作る。三線とのコラボレーションを考えているだけあって、民謡はよく知っているらしい。緊張がほどけて、高森もようやく笑顔を返すことができた。

 聞くと、伊波も昔少し唄三線をかじったことがあるらしい。習ったのは「安伴(あんぱん)流」という八重山では主流派の教室だったそうだが、伊波自身は何が「正統」かという話にはあまり興味はない、と言い切った。今は、白保系の若手の雄である真哉の歌う民謡が好きでよく聴いているのだと言う。

「あのさ、『椰子の実』って歌あるだろ。この『夏花』を聴くと、俺どうしてか、あの歌を思い出すんだよなあ」

 伊波がのんびりした口調でそんなことを言う。

「あ、わかる」

 思わず身を乗り出した。

 唱歌「椰子の実」は、八重山民謡の大物歌手が三線で歌ったバージョンがあるのだが、高森はその大らかな雰囲気が、この島の風景を思い起こさせるようで気に入っていた。それを口にすると、実は伊波も同じバージョンを聴いて、すごく心を惹かれたのだと言う。

 高森は再び三線を手に取った。

――名も知らぬ遠き島より

 三線一本で歌い出すと、伊波がすかさず、アコースティックギターを構える。

――流れ寄る椰子の実一つ

 高森の繊細な三線の音に、ギターの確かな音色が添えられる。付かず離れず、幼い子供の足取りを見守る年長者のように。

 そして、伊波の静かな歌い声。

――故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

 高森のキーは伊波には高すぎたのか、途中で声が少しかすれたが、それでも終始、こちらになるべく合わせようという気遣いや余裕が感じられた。誰かと共に歌うというのは、高森が想像していたよりもずっと心地よいものだった。

「おー気持ちいいな。俺、まさにこういうのやりたいって思ってたんだ」

 ギターを戻すと、伊波が楽しそうに言った。目がきらきらしている、とは、こういう表情を言うのだろう。

「高森君、また連絡していいかな」

 真剣な面持ちで言われて、自分でも意外なほど気分が高揚するのを感じる。

「はい、お願いします」

 そう言いながら、自分の演奏の音源データを焼いたCD‐Rを手渡す。今日の午後、自宅で田辺に聴いてもらいながら数曲録音したものだ。

 正直、ここに来るまではこの話は断ろうと思っていた。録音データを持ってきたのも、あくまで礼儀上の対応だった。だが「夏花」と、そして今の「椰子の実」を歌ったことで、心が百八十度変わった。

 伊波の作る音楽に、自分も加わってみたい。

 大地に根を張った大樹のように、既にしっかりと確立されて簡単には動かされないようなものに、高森はずっと惹かれ続けてきた。だが今、何か新しいものが始まるかもしれないという予感に、胸の高鳴りを覚えた。


 控室を出て戻った楽屋で、伊波と連絡先を交換する。他のメンバーにも挨拶をして、部屋を退出したときだった。

「あいつ、真哉さんのコレだろ」

 背後で閉じかけたドアの向こうから、嘲笑うような声が聴こえてきて、思わず立ち止まった。

「女みたいな顔してんのな。確かにあれなら、ホモじゃなくてもその気になるかもな」

「それにしても、自分の愛人を紹介するとか、あの人も相当いい性格してんな」

 声のボリュームを落とそうともせずにそんなやりとりをしているバンドのメンバーに対して、怒りよりも恐怖が先に立った。

 いつの間に、そんな噂になっていたのだろう。

 真哉と寝たことがあるのは事実だ。というより、高森の初めての相手が彼だった。専門学校に通い始めた頃、既に那覇に拠点を移していた真哉にあれこれ面倒を見てもらっているうちに、そんな関係になった。とはいえ、愛人なんてものになった覚えはない。真哉と自分との間に恋愛感情が生まれたことは一度もなかった。

 バイセクシャルの真哉にとって、男遊びはつまみ食いのようなものだ。最初に関係を持ったときからそう言われていた。高森の方も、真哉のことは遊びの手ほどきの相手と割り切っていたし、高森が石垣に戻ってからは、真哉も一切そのような誘いをかけてくることはなくなった。

 それなのに、一体どこからそんな噂が漏れたのか。

「…そんなの歌うのに関係ねえだろ。いい声してたよ」

 伊波が不機嫌そうにそう応じる。

「アレのときは、もっといい声で啼くんじゃねえの」

 楽屋の扉は閉じているが、ラッチが完全にはまっていない。その隙間から下品な笑いが漏れる。彼らは、自分が立ち聞きをしているのを承知の上で、こんな話をしているのだ。高森はきっと唇を噛んで振り向いた。ここまで露骨に喧嘩を売られて、黙って帰るわけにいかない。

 だが、その肩をぐい、と後ろから引っ張られて、思わず声を上げそうになった。

「お前はフロアに戻ってろ」

「真哉、さん…」

「彼氏が待ちぼうけ食ってるぞ」

 いつからそこに立っていたのだろう。真哉は高森の身体を押しのけるようにして、わざとらしく明るい声をかけながら、楽屋のドアを押し開けた。

「よう、顔を見に来てやったぜ。アンコールでクリスマスソングとか、あざとい盛り上げ方覚えやがって」

「うわ。し、真哉さん」

 うろたえたような声と、伊波の勝ち誇ったような笑い声が中から響いてくる。

 ここで自分がもう一度顔を出したら、事態がこじれそうだ。高森は釈然としない思いを抱えたまま、諦めてライブハウスのフロアに戻った。

 薄暗い照明の中でも、出口近くのバーカウンターのところに所在無げに寄りかかっている田辺の姿はすぐに見つけられる。高森に気付くと、長身を起こして軽く手を挙げた。石のように硬くなっていた心臓が、ようやくまともに動き出す。

 だが、一刻も早くそちらに駆け寄りたい気持ちと裏腹に、足が動かない。先ほどの楽屋から聞こえた嘲笑が、耳の奥でこだまする。

 田辺とのことも、あんな風に噂にされてしまったら、どうすればいいのだろう。

 都会と違い、ここの人たちは隣人の振る舞いに無関心ではない。いい意味でも、悪い意味でも。もしあいつらのような人間に、自分が田辺と一緒にいるところを見られたら、田辺までもが嘲弄の対象になるのだろうか。

 高森はその想像に、小さく首を振った。

 そんな心配は無用だ。田辺はこの島にはとどまらない。短い滞在の後は、東京へ帰っていく人だ。

 自分とは、住む世界が違う人なのだ。

「どうだった」

 立ち止まったままの高森の方に、田辺から歩み寄ってきてくれた。かすかに心配そうな表情で、高森の顔を覗き込んでくる。

 高森は、無理に笑顔を作った。

「うん、音源を渡して、一曲歌ってきた。待たせちゃってごめん」

「大して待ってないさ。ビールを飲んでたしな」

 そう言って、手の中のグラスを空にすると、カウンターに戻しに行く。今度は高森も、その後ろに続いて自然と足が動いた。

 そのままライブハウスの出口へと歩いていく。

「タクシー、拾う?」

 ワンドリンク付きのライブチケットだったので、今日は車は自宅に置いてきたのだ。

「ここから歩くと、家までどのくらい」

「十五分か二十分くらいだと思うよ」

「じゃあ、歩いてもいいかな」

 高森も少し歩きたい気分だった。三線ケースを肩に担ぎ直して、田辺の一歩前に出る。

「雨、降ってこないといいけど」

 どんよりと曇った夜空を見上げると、斜め後ろで田辺も空をふり仰いだ。

「今夜は、星は見えないな」

 早見盤で調べたら、カノープスは春の星だった。この時期ではかなり遅い時間でないと空に昇らない。来年の三月にもなれば、宵のうちから見られるようになるだろう。

 東南の空、低いところに明るく輝くというその星を、あの展望台から田辺と一緒に見たいと思った。星の話や音楽の話や、他にも思いつく限りの話をしながら。時折三線を弾いて歌いながら。田辺の腕に抱かれながら。

 だが、恐らくそんな日は訪れないだろう。

 自分はこの島からは出ていけない。でも、田辺をここへ引き止めることもできない。高森と田辺との間に横たわる、星の位置がずれるほどの距離は、埋めることができない。

 手を繋ぎたいと思った。あの温かくて大きな手を自分の両手で包み込んで、引き寄せて、その指にキスをしたい。そうしたらきっと、今心を覆っているこの分厚い雲も、一度に晴らすことができるだろう。

 だが、ここはまだ人通りのある市内の中心街だ。高森は泣き言を握りつぶすように拳を固くして、少し速足で歩きだした。


 帰宅すると、三線をケースから出して、リビングのスタンドに立てる。

 明日の朝は、高森が出勤するときに田辺も一緒に家を出る予定だった。

「ごめんね、また見送り行けなくて」

 立ち上がって振り向いたところを抱き寄せられた。

「透。俺の方こそ、悪かった」

 静かに沈み込むような声で、いきなり謝られる。

「実は、東京からこっちに引っ越してこようなんてことを本気で考えたんだ。そうしたら、ずっと透と一緒にいられるから」

 腕の中に抱え込まれたままで、田辺の顔が見えない。表情がわからない。ただ、心臓の鼓動が感じられる。自分のよりもはっきりと。

「でも、さっきライブハウスで真栄里さんに叱られたよ。俺がこの調子でずっと一緒にいたら、透は色々と気まずい思いをするんだな。君には君の生活があるのに、そんなことにも気付かなかった俺はどうかしてる。こんなの、ただの自己満足だ」

 田辺の腕の中で高森は首を振った。小さい子供が駄々をこねるように。

「自己満足だなんて…俺、そんな風に言ってもらえて嬉しいよ」

 悪いのは自分だ。傍にいたいのならば、ここに留まりながら田辺とも一緒にいたいなどと贅沢な望みを抱くのではなく、高森の方がこの島を出ればいいのだ。でも。

「でも、俺はここを出ていけない」

 田辺のために島を離れるには、自分はあまりにも非力だと高森は思った。根拠のない下品な噂を自力で跳ね除けることさえできない。こんな状況でここを離れても、きっと田辺に依存するだけになってしまう。都会の喧騒の中では、自分の歌声など簡単にかき消されてしまうだろう。

「わかってる。透には、ここにいなきゃいけない理由があるだろ」

 田辺がすっと身体を離した。そして、着ていた上着のポケットから何かを取り出して、高森に手渡す。

「…本?」

 文庫本だ。今日の昼間に寄った書店のブックカバーが掛かっている。

 表紙を開くと、『豆電球の読書灯』というタイトルの下の「高森稔」という著者名が目に飛び込んできた。

 不意打ちだった。顔が強張るのが、自分でもわかる。

「高森稔さんは、きっとこの島に、君のところに、戻ってくる」

「篤志さん、俺は」

「君の本棚に高森稔の著作は一冊もないけど、でも、やっぱりここで親父さんを待っているんだろう?」

「違う」

 即答した。あの人を待ってなんかいない。

「篤志さんは、誤解してる。俺が親父に捨てられたんだと思ってる」

 視界が赤く染まるような錯覚を起こして、きつく目を閉じた。今、田辺の顔を見たくない。

「違うんだ。俺が、親父を捨てたんだ。ここを出て行くなら、もう二度とこの島に、俺のところに、戻ってくるなって言ったんだ」

 だめだ、と頭の中で警報が鳴る。だが、口が意思に反して動く。

「そんなこと言いたくなかった。でもそうしないと」

 この先は後戻りできない。わかっているのに、一度穴の開いた器からは、とめどなく言葉が流れ出ていってしまう。

「そうしないと、俺は親父のことを好きになってしまいそうだったんだ」

 田辺は身じろぎもしない。そこに叩きつけるように、高森は言葉を吐きだした。

「そうだよ。俺は、実の父親を、恋愛対象として見ていたんだ」

 それは、高森自身もずっと認めたくなくて、向き合うことをためらい続けていた感情だった。だが、こうして言葉にして改めて、自分の歪んだ恋情に気付く。

 昔から、年上の男性ばかり好きになった。自覚もないまま、そんな相手とばかり身体を重ねた。真哉も、田辺も。あるいは、互いに本名を伏せて一夜限りの関係を楽しむ相手さえ。

「家族なんて、とっくの昔に失ってる。だから、もう誰も待つ必要なんてない」

 それでもここから動かなかったのは、眠らせたはずの気持ちを再び覚ますのが恐ろしかったからだ。もし自分も放浪を始めたら、そのまま父親の後を追ってしまうのではないかと、無意識のうちに身がすくんでいた。

「誰かと一緒にいたいなんて言う資格は、俺にはないんだ」

 自分は、とことん穢らわしい生き物だ。あんな風に蔑まれて当然の人間なのだ。

「透」

 強く腕を引かれて、反射的に目を開いた。見下ろしてくる田辺の顔とまともに目が合う。恐れていた軽蔑や拒絶の色はなかった。ただ、いつもの穏やかな表情の中で、その目だけがひどく哀しそうだった。

 田辺はそのまま、黙って透の手を引いていく。リビングを出て廊下へ。そして、階段を上がって二階へ。

「あつし…さん」

 その足取りは、迷わず一番奥の部屋を目指していた。それに気付いて後ずさりをしようとするが、田辺はそんな高森を引きずるようにして、主寝室の扉を開けた。

 閉め切っていた部屋に特有の、どんよりと鈍い空気。

「透」

 その空気にひびを入れるように、田辺が高森の名を呼ぶ。その声が、どうしてこの部屋だと、こんなに哀しく響くのだろう。

 のしかかるように、マットレスがむき出しになっているベッドの上に組み敷かれた。

「やだっ」

 逃れようとする努力が無駄なのはわかっていた。それでも必死に腕を突っ張ろうとするが、あっさりとマットに押し付けられる。田辺の濃密な存在感が高森を圧倒しようとする。

「透…」

 無理やり払いのけるには、田辺の声は優しすぎた。額の前髪を払う指先も、そこへ捺(お)される約束のようなキスも、拒めるはずがなかった。

「透、今だけでいい。今は、俺だけを見てくれ」

 高森はきつく目を閉じた。心が二つに割れていく音が聞こえる。

 この人のことは諦めなければいけない。

 でも、そんなことできるわけがない。

 今だけだ、という田辺の言葉にすがりつくように、高森は温かな抱擁に身を委ねた。せめて、去っていってしまう人のことを隅々まで覚えていたかった。


 翌朝目を覚ますと、田辺の姿はなかった。高森は、マットレスの上で身を起こす。自分の寝室の布団が上から掛けられていた。夜中、田辺がわざわざ持ってきてくれたのだろう。

 服を着て、階下へ降りる。予感が裏切られることを心のどこかで期待していたが、やはり田辺は家の中のどこにもいなかった。荷物もすべて消えていて、メモのひとつもなかった。リビングのテーブルの上に昨夜の文庫本がぽつんと残されており、その上に重しのように、本と同じくらいの大きさの箱が置いてあった。濃い緑の包装紙の上に赤いリボンがかけられている。

 思わずカレンダーに目をやった。二十五日。枕元のプレゼントに、弾けるような歓声を上げた子供の頃を思い出す。

 だが今の高森は、歓声を上げて箱を開けるには程遠い気分だった。彼が用があるのは、プレゼントの箱ではなく贈り主の方なのだが、残念ながら、既に立ち去ったサンタクロースを呼び戻す方法はいまだに世界のどこでも発見されていない。

 朝食を摂る気も起きないまま、改めて自分の寝室のベッドにもぐりこんだ。その枕元に、リボンもほどいていない小箱をお守りのように置いて、ショップに電話をする。昨日書店で出くわした先輩が出た。体調がすぐれないので今日は午後まで休ませてほしい、と遠慮がちに言うと、心配そうな声が返ってくる。

「休んじゃいなよ。今日は意外と暇そうだし、無理しないで」

 確かに、クリスマスとはいえ平日だ。店舗が多少混み合うとしても、夕方からだろう。

「それに、昨日も休みなのに、プライベートでお客さんの案内してたでしょ。高森君、頑張りすぎだよ」

 そんな風に思われていたのか。

 別の日にシフト替わります、と言って、後ろめたさと共に電話を切る。ぶるっと身体が震えるが、寒気も吐き気も、体ではなく心が冷え込んでいるからだとわかっていた。

 昨夜の田辺は優しかった。優しくない田辺など想像もできないが、それでもいつもにも増して、丁寧に、慎重に、高森を抱いた。決して傷つけまいと、ほとんど意地になっているかのようだった。

(透。どうしてほしい?)

 何度も何度もそう訊ねられ、執拗なほど、何がいいか、どこが感じるかを高森自身の口から言わされた。そのたびに、高森は呪文を唱えるように田辺の名前を呼んで、その身体にしがみついた。

(篤志さん)

 あなたが欲しい、と。

 その求めは、何度でも叶えられた。疲れ果てた高森が眠りにつくまでは。

 どうして眠ってしまったのだ、と、高森は自分を責めた。その苦い後悔は、自分の体温で温まった布団の中でも、一向に薄れていく気配がなかった。

 昼過ぎに携帯に着信があった。画面を確認すると、昨日連絡先を交換した伊波からだ。

「はい高森です」

「今大丈夫?」

 電話の向こうから明るい声が聞こえてくる。高森はそろりとベッドの上に起き上がった。

「大丈夫です」

「音源聴かせてもらった。早速だけど、今度スタジオで軽くセッションしてみないか?」

 一拍ほどためらってから、なるべく静かな口調で問い返す。

「伊波さん、俺の噂、聞いてるんでしょう。その…真哉さんのこととか」

「ああ、それがどした」

 鼻を鳴らすような声を返される。

「そんな奴と一緒に、音楽やりたいって思うんですか」

「あのなあ、高森君」

 伊波の話し方は相変らずのんびりとしたものだ。

「俺な、アガスのメンバー全員が聖人君子だなんて思ってない。友達だったら許せんこと言ったりする奴もいる。でもな、あいつらとやってると、時々自分でも、うわーって鳥肌立つような音楽が作れることがある」

「はい」

 言いたいことはわかる。人格と才能は無関係だ。どれほど性格が破たんしていても、楽器を手にしたり歌ったりすれば、星の光のように美しい音楽を奏でることのできる人間は存在する。

「君とも、同じようにいい音楽が作れる予感がした。それ以上でも以下でもない」

「でも、音楽活動って、音楽だけじゃなくて人間関係ですよね。相手のことをよく知るうちに、やっぱりこいつとはやっていけない、って思うようになることもあるでしょう」

「そんときはそんとき。今自分がどうしたいかの判断は、今の俺にしかできないでしょ。そのために、直接会って君の歌を聴いたんだから」

 今、自分が、どうしたいか。

「で、今の俺の結論は、高森君とやってみたい、ということ。高森君は?」

「やってみたいです」

 釣り込まれるように返事をすると、「よし」と朗らかな笑い声が返ってきた。

 ひとまず来週一度会う約束をした。切った電話を枕元に置こうとして、放っておいたプレゼントの箱が目に入った。

 時限爆弾でも扱うみたいに、そろりとそれを持ち上げた。ゆっくりとリボンと包み紙をほどく。

「あ」

 中身は、コンパクトなデジタルカメラだった。

 いつだったか電話で田辺の写真の話になって、高森がカメラを持っていないと言ったら驚いていたのを思い出した。

(透にも写真を撮ってほしいな。携帯のカメラでもいいから)

 そんな言い方だった。どうして、と聞くと、照れくさそうに笑って言った。

(俺がいない間に透がどんな景色を見ているのか、教えてもらいたいな、と思ってさ)

 その夜、部屋の窓から見えた十三夜の月を携帯で撮影してメールしたら、ぼやけたその写真でさえすごく喜んでくれた。

 自分の経験を誰かと共有するために写真を撮るなんて、それまでは考えたこともなかった。

 昔からずっと、高森は自分の想いを誰かにわかってほしいという欲求が希薄だった。本音をあえて出すよりも、相手と衝突しないように、その場をそつなく乗り切る方が楽だった。

 それで十分だったのだ。自分の気持ちをどうしても知ってほしい相手なんていなかった頃は。

(透。どうしてほしいか、言って)

 昨夜耳元で繰り返された田辺の言葉が、くっきりと甦る。

 高森は、弾かれたようにベッドを跳び出した。


 アクセルを踏み込み、空港へと車を走らせていく。

 運転しながら自問する。自分は、父親の代わりを田辺に求めていたのだろうか、と。違うと断言はできなかった。だが、今の高森にとって、田辺の存在は父親とは比べものにならないほど大きくなっている。

 田辺と共に過ごす時間以上に大切なものなど存在しない。過去や未来はひとまずおいて、今この瞬間の自分が、何よりも求めていること。それは、田辺の隣にいることだった。

 それをこそ、言葉にして伝えなくてはいけなかったのだ。田辺の包容力に甘えて、自分の弱さを言い訳にして、全部わかってもらえたような気になっていた。でも、本当は自分からは何も伝えていなかったのではないか。

 彼はもう二度とこの島に戻って来ないかもしれない。それでも、いや、それならばなおさら、自分の気持ちを知っておいてほしい。

 空港の駐車場に車を停める。雨がぽつぽつと落ちてきているが、傘も差さずに飛び出して、ターミナルビルへと走る。出発まで約二十五分。もう、手荷物検査を通ってしまっただろうか。

 出発ロビーに駆け込んで、急いで辺りを見渡す。背の高い人影が、中ほどの通路に立って案内板を眺めているのが見えた。

「篤志さんっ」

 人影がびくりとして、それからゆっくりと振り向いた。信じられないものを見たような顔でこちらを凝視しながら、口を開く。

 と、お、る。と、唇が動くのが見えた。

 ほっとして、膝から力が抜けそうになった。しばし息を整え、それから大股で決然と歩き出す。殺気立った気配でも発しているのか、通路の向こうの空港職員が驚いたような顔でこちらを見ている。

 呆然とした表情で立っている田辺の正面で、ぴたりと足を止めた。

「…嘘だろ」

 田辺の声が、かすかに上擦っている。

 その胸に、迷うことなく抱きついた。広い背中に両手を回して引き寄せ、肩に額を押し付ける。

「おい、人が見るぞ」

「構うもんか」

 人の目なんかを気にしていた自分が、今は莫迦みたいに思えた。この人の笑顔が見られなくなることに比べたら、そんなの何だというのだ。

「俺、ちゃんと言ってなかった」

 その耳に唇を寄せる。いつでも触れられるくらい近く。

「篤志さん、あなたが好きだ」

 一言ずつ、確かめるように発音する。田辺のように揺るぎなく深い声ではなく、震えるような小声なのは大目に見てほしい。

「好きだ。大事なんだ。他の誰でもなくて、篤志さん、俺はあなたと一緒にいたいんだ」

 背中に回した両腕に力を込める。温もりを繋ぎとめるように。

「俺、あなたのことをほとんど何も知らないかもしれない。それでも、いつも一緒にいられなくても、ここにいないときの篤志さんも含めて…丸ごと好きだ」

 こんな風に誰かのことを想うことができるなんて知らなかった。

「誰のことも待たないつもりだった。でも今は一人だけ、待っていたい人がいるんだ」

 この島で、ずっと一人で生きていけると思っていたのに。まして、遠くに行ってしまう人を好きになるつもりなんてなかったのに。

 田辺の両手も、ゆっくりと、高森の背中に回される。ためらうような指先と細かく震える声が、いつもの田辺らしくない。

「俺は…またここに、透に会いに来て、いいんだろうか」

 ああやっぱり、と、目を閉じる。気付いてよかった。間に合ってよかった。

 それから急に不安になる。

「俺が待ってても、篤志さん、迷惑じゃない?」

「何言ってるんだ」

「でも俺、弱いし、子供だし、いつも甘えてばっかりで何も返せないし、篤志さんに愛想尽かされても仕方ないって」

 田辺は、かじりつくようにしていた高森の身体を優しく離した。そして、正面からその顔を見つめてくる。

「透。それ以上言うと衆人環視の中でキスするぞ」

 されるのを待ってなんかいなかった。田辺の顔を引き寄せて、その唇に自分のを押し当てる。

 熱くて甘い、ちゃんとした恋人同士のキス。最初に田辺にもらったキスを返すみたいに。

 顔を離すと、田辺が呆気にとられた顔で自分を見ている。高森は思わずくすりと笑うと、振り向いて、先ほど目が合った職員ににこやかに声をかけた。

「すみません。シャッター押していただいてもいいですか」

「え…あ、はい」

 箱から出したばかりのデジタルカメラの電源を入れて、異星人と遭遇したような表情のその職員に手渡す。そして、田辺の腕を取ってそちらの方を向き、二人の写真を撮ってもらった。

「透…いいのか、こんなことして」

 カメラを取り戻した高森に、田辺が面食らったような声で問いかける。

「いいんだ。大事なことだから」

 自分が頑なに守ろうとしてきた小さな世界よりも、ずっと大事なものが、今、目の前にある。

「一緒に写っている写真が一枚もないから、このカメラで最初に撮りたかったんだ」

 ようやく、田辺の表情が緩んで、柔らかい笑顔へと変わった。

 どんなプレゼントよりも、一番欲しかったものだ。それにレンズを向けて、高森はシャッターを切った。

 

第三章に続く】